悪魔崇拝者たちとピラミッド

おぞましい悪魔崇拝が、陰ながらこの日本でも行われていました。

世間を騒がせた不可解な事件の裏には、悪魔崇拝との関わりがあったのです。日本の重要な役割を持った人々も、悪に染まっていました。

今回は、悪魔崇拝者たちが起こした事件の数々を、掘り下げて調べられた内容となっています。真実は、地位と名誉を手に入れられるならなんでもするような、人間サタンの仕業でした。

そして、新たに古代エジプト時代と日本の繋がりが見てとれる証拠の数々が紹介されています。

ピラミッドと日本の建造物の繋がりが詳しくわかるので、社会の教科書に載せてもいいのではないかと思うくらいです。

まずは、こちらの記事をお読みください。

魔術のいけにえで5歳男児を斬首したインドの事件は、我々日本人と全く縁のない事件ではありませんでした。

今の今まで、私は世界の支配者たちが陰でこそこそと悪魔崇拝を行っているというお話をしてきましたが、それは何も支配者層だけに限られた話ではないということをはっきりと示すような事件が起こりました。
 
それが以下の事件です。
 
(以下、こちらから転載)
 
【5月30日 AFP】インド北東部アッサム(Assam)州のソニトプル(Sonitpur)地区で、5歳男児が魔術を信仰するとされる男にいけにえとして首を斬られて殺害された。地元警察などが29日、明らかにした。男は怒った村人たちによる私刑で殺されたという。
 
殺された男児の父親は地元テレビに対し、男はチョコレートをあげると言って男児を自宅へ誘い、ヒンズー教の女神カリ(Kali)へのいけにえとして簡素な祭壇の前で男児の首を斬って殺害したと話した。

地元警察によると28日夜、血まみれになった男児の遺体が見つかり、男は激怒した村人たちに殺された。警察では事件が魔術信仰によるものか、それとも背景にもめ事があったのか捜査しているという。

(転載ここまで)

この事件はたまたま表沙汰になったというだけで、我々の知らないところでこういったことが日常的に行われている可能性があります。
 
しかも、この犯人が男児を捧げようとした神様は、その名を「女神カリ」というそうですが、この「女神カリ」は決して我々日本人と縁の遠いものではありません。実は、我々日本人ととても縁の近いものです。今日はそのお話をしたいと思います。
 
先ず、この「女神カリ」は、ヒンズー教のシヴァ神と呼ばれる神の一つです。
 
(以下、ウィキペディアより転載)
 
カーリーは、インド神話の女神。その名は「黒き者」の意。血と殺戮を好む戦いの女神。シヴァの妻の一柱であり、カーリー・マー(黒い母)とも呼ばれ、シヴァの神妃パールヴァティーの憤怒相とされる。仏教名(漢訳名)は迦利、迦哩。
 
(転載ここまで)
 
さらに詳しい解説が以下になります。
 
(以下、こちらから転載)
 
インドには恐ろしい神様が少なくない。とくにいわゆるシヴァファミリーと呼ばれる一団は普通ではない。神様というより悪鬼の集団だ。親分格のシヴァからして、すごいものがある。
 
インドでよく見かけるポスターを見れば、その姿は、青い体に虎の皮で作った衣装、あるいはふんどし、無造作に巻き上げた長髪、首にはコブラ、手には三叉の槍、そして弁弁太鼓…。
 
何も知らない人が見れば、これは性質(たち)のよくない何かの宗教と考えるかもしれない。事実、シヴァ信仰というのは、インドにおける異端宗教であった時代もあった。
 
インドのおもしろいのは、結局、こうした異端の神々がメジャーとなってヒンドゥー世界を牛耳っているところだ。

そして、異端の神々の魅力というのは、人間の本音の部分がより強く表現されているところである。インドにももちろん建前があるが、それを超えるほどの本音が神々によって語られていることは非常に興味深い。
 
さて、本題に入ろう。カーリー女神である。インドでもっとも恐ろしく、そして醜悪でもあり、それでいながら、人気もあり信者数も多いメジャーな神様である。特にベンガル地方で人気がある。
 
その姿を描写してみると、…がりがりに痩せた真っ黒(または青)な体、上半身は裸で、時にはしおれた乳房をむき出しにしている。首には、生首、あるいは髑髏を数珠繋ぎにして作られた首飾り、時には腰にもいくつもの生首が揺れている。
 
顔も異様だ。目は血に飢えて血走り、まるで蛇のようにちろちろと舌を出す。そして、たいていはシヴァを踏みつける形をとる。まさに鬼婆、いや、そんな生易しいものではない。
 
ベンガルの首都カルカッタ(コルカタ)には有名なカーリー寺院があり、多くの信者で賑わっているが、この地を訪れれば、カーリーがどんな神様であるのかを、少し理解できるかもしれない。
 
場所は中心街のやや南、ガンジス川の支流、フーグリー川のそのまた支流のどぶ川が淀んだ場所に、カーリーガートという薄汚い沐浴場がある。
 
寺院はこのガートより5分内陸に歩いた場所にある。この界隈には、あのマザーテレサの施設もあるが、その目の前の路地は完全に売春地帯と化している。
 
通り沿いに、濃い化粧の女たちがうろうろしているので、すぐにそれと分かるほどだ。カーリー寺院はまさにその一角にあるといってもいいのだ。
 
寺院はそれほど大きくないが、いつも多くの信者たちで賑わっている。ちょっとした行事があるたびに、寺院前に長蛇の列が作られる。カーリー寺院の見ものは山羊の首切りである。これはもちろん、カーリー女神へささげられるものだ。
 
次々と殺される山羊の血がなんとも生臭い。ベジタリアンも多く、平和思想が強いインドにあって、カーリー寺院界隈はかなり特殊な場所だといってよい。

何かの本で、カーリー自身はそれほど古い神様ではない、と書かれていたが、これは単なる勘違いだろう。確かに、カーリーの存在は、古い文献には載っていないのかもしれない。
 
しかし、それは単にカーリー女神がなかなかヒンドゥー主流派に認められなかったためであり、ある一部の人々に熱狂的に信仰されていたことは間違いない。
 
現在のデカン高原を中心に、タッグあるいはサギーという殺し屋集団がいたことは有名な話だ。彼らが500年以上にわたって殺しまくった人の数は何と百万人以上にも及ぶという。
 
英国統治時代に一応滅んだとされているが、広いインドのことだから分からない。それはともかく、彼ら殺し屋たちによって殺された死体は、やはりカーリーにささげられていたというのだ。
 
カーリーの姿を眺めていて感じるのは、その信仰の原点にあるのは人食いの風習であるのでは、ということだ。
 
人食いの風習は、インド、ミャンマー国境付近のナガ高地では、つい最近まで普通に行われていたが、インド中央部でもあるいは似たようなことはあったと想像される。古い神話にも、それを想起させる記述もある。
 
先日この地域を旅したときも、数十年前まで人食いをやっていた村があるんだが、とガイドに誘われたことがある。その時は時間がとれず断ったが、気分は微妙である。おまけに、その道中は虎が出るということで、時間がなくてよかった、と胸をなでおろしたものだ。
 
あるサドゥー(修行者)からも奇妙な話を聞いたことがある。彼は数十年前に裸の部族民につかまり、あと一歩で食べられるところを、何とか許してもらって開放されたという。やはり、デカン高原奥地の、ジャングルでの話である。
 
カーリー信仰がヒンドゥーの世界でなかなか承認されなかった理由は、その初期の信者たちが、普通のインド人とは一線を画した部族民であったためではないだろうか。

サンタル族という部族民のための紙芝居を見たときも、カーリーそっくりの絵があった(彼らはカーリーではない、と言い張った…)。サンタル族はベンガルからデカン高原東部一帯に住む巨大な部族集団だが、こうしたいくつもの部族に伝えられた鬼女の伝説が、いつかカーリーへと進化したのかもしれない。

そんな怪しげな神様が人々から広く信仰され、愛されるというのがまた、インドの不思議なところでもあり、心惹かれるところでもある。
 
(追記)
カーリーの語源はカーラからきている。カーラは黒、そして時間を意味する。そういえば、シヴァもまたマハーカーラという別名を持つ。マハーは「偉大なる」の意味だ。日本では大黒天の名前で知られる。いずれにしろ、カーラというのは最高の尊称であることは間違いない。
 
(転載ここまで)
 
と、このように「女神カリ」が殺人儀式や人食いとかなり関係が深いことが分かります。そして、このような神様がインドでは未だに広く信仰されているというのですから、なんとも恐ろしい話です。
 
そのため、この事件が報道された直後、「インドはなんて時代遅れな国なのだ」「なんて野蛮な国なのだ」といった書き込みが「2ちゃんねる」などで数多く見られたわけですが、何もこの神様が崇められているのはインドだけではありません。
 
上の転載記事にもある通り、実はこの「カリ」は日本でも有名なあの「大黒天」と同じ神様なのです。
 
そう言われても、いまいちピンと来ないという方もいらっしゃるでしょうから、なぜこの「女神カリ」が「大黒天」と同じだと言えるのか、その理由を簡単にご説明しましょう。
 
先ほども言いました通り、この「女神カリ」はシヴァ神の一種です。
 
シヴァ – Wikipedia
 
このウィキペディアの「シヴァ」についての記事を見てみると、以下のような記述があります。
 
(以下、ウィキペディアより転載)
 
シヴァは教学上は破壊神であるが、民間信仰ではそれにとどまらない様々な性格を持ち、それに従って様々な異名を持つ。
 
マハーカーラ(大いなる暗黒)とも呼ばれ、世界を破壊するときに恐ろしい黒い姿で現れるという。
 
マハーカーラは漢訳仏典では「大黒天」と意訳される。
 
日本では神道の大国主の「大国」が「ダイコク」とも読める事から同一視され、七福神の1人として、シヴァの名前を使っていないが日本ではなじみ深い神である。 
 
(転載ここまで)

出ましたね。「大国主」と「大黒天」。「大国主」とは「スサノオ」の息子のことです。で、「スサノオ」とは古代メソポタミア地方で信仰された「バアル」という神様のことでしたよね。
 
空海も最澄も日蓮聖人も出口王仁三郎も深見東州も池田大作も同じ悪魔「サナト・クマーラ」を崇める妙見信仰者でした。
 
この「バアル」を拝んでいるのが創価学会であり、密教であり、チベット仏教であり、大本教であり、ワールドメイトであり、というわけですが、これ以外にも「大黒天」や「大国主」「スサノオ」を祀った神社仏閣や宗教団体は、どれも「女神カリ」を祀っている、と言えるわけです。
 
なので、「女神カリ」に子供の命を捧げようとしたインド人のことを、時代遅れだとか野蛮だとか非難する権利など我々日本人にはありません。我々日本人も、インド人と同じ神様をずっと昔から拝んできたわけですから……。
 
しかも、このインドの「シヴァ神」は、もとを辿ると「性器崇拝」にその根源があるそうです。というのも、インドでは「男性器」をかたどった彫像が「シヴァ神」の象徴として崇拝されているからです。
 
(以下、ウィキペディアより転載)
 
特にインドでは男性器をかたどった彫像は、シヴァ神や、シヴァ神の持つエネルギーの象徴と考えられ人々に崇拝されている。
 
リンガ像の原型は、インダス文明の遺跡から出土されているが、当時から性器崇拝が存在したか否かは判然とはしないものの、リンガ像の原型になったという考え方は正しいと考えられている。
 
「マハーバーラタ」には、豊穣多産のシンボルとしてのリンガの崇拝が記録されているが、後世にシヴァ信仰の広まりとともにより鮮明になり、大小さまざまなリンガ像が彫像され、多くのヒンズー教寺院に祀られるようになった。
 
通常、リンガの下にはヨーニ(女陰)が現され、人々はこの2つを祀り、白いミルクで2つの性器を清め、シヴァの精液とパールヴァティーの愛液として崇める習慣がある。
 
シヴァの主要な性格は、サマディで、これは日本語の「三昧」に相当する。日本では、「博打三昧」「ゴルフ三昧」というような、悪習慣の意味で使われることが多いが、本来はシヴァ神の本質を意味するものであり、シヴァ神とは極度の偏執的な凝り性を表している。

このために、性交であれ瞑想であれ、シヴァは何億年もの時をかけてひとつのことに没頭するのである。
 
《RAPT註:こんな性格をもったものを神様として崇めたくはないですね。》
 
さらにそのような姿がリンガに例えられ、尽きることなく生命を生み、さらに破壊するという原理や現世の本質をあらわしている。すなわちシヴァは、この世の万物を生み出し続ける性器そのものという位置づけがなされる。
 
シヴァは多数の別名を有するが、その一つが「マハーカーラ」で「時間を超越する者」、「時間を創出する者」という意味を持ち、すなわち「永遠」を意味する。人知を超えた存在に対する恐れの感情がと、自然のメカニズムを具現化したものがシヴァである。
 
《RAPT註:単に「性器」を崇めるだけだと変人と思われるので、「永遠」とか「超越」とか「創出」とか、そういった観念的な言葉を使ってその本質をぼやかせるわけですね。》
 
日本でもかつて性器崇拝が見られた。(神戸市西区・裸石神社)中国の陰陽思想もタントラ思想の影響下にある。
 
《RAPT註:陰陽道もやはり結局のところは「性器崇拝」ということですかね。》
 
また、かつて日本にも道祖神という形で男根崇拝の時代があったが、インドにおいてはそれをさらに発展させ、性魔術であるタントラ思想に至った。
 
《RAPT註:道祖神も「性器崇拝」であるということです。》
 
今でもインド北部のカジュラホーには、ミトゥナという男女の性交場面を現した彫刻があるが、これはタントラ思想を具現化したものと言われる。
 
タントラ思想は仏教との融合から密教が派生し、現在でもチベットや日本に今なお強く息づいている。
 
新宗教であり、後にテロ集団となったオウム真理教もタントラ思想をその基盤に置いていた。

日本ではタントラの流れをひく密教の聖地として比叡山、高野山などが有名だが、全国の身近にある稲荷もタントラの影響から発生したものである。

《RAPT註:比叡山は「天台宗」で、高野山は「真言宗」。どちらも密教ですね。密教とはつまりは「性器崇拝」だということです。詳しくはこちら。しかも、「女神カリ」と空海のつくった最古の仏像も似ていますね。その仏像はこちら。》
 
(転載ここまで)
 
カジュラホーにある男女の性交場面を表した彫刻については、以下のリンクをご参照ください。果たしてこんなものが神様だと言えるんでしょうかね。少なくとも、私はこんな神様は拝みたくないですね。
 
【世界遺産】インドのエロティックな彫刻”ミトゥナ像”がスゴイ【カジュラーホー寺院】 – NAVER まとめ
 
いずれにせよ、インドで崇められている神様は、実は名前を変えて日本にも入ってきていて、これまで多くの日本人から当たり前のように崇められてきたというわけです。もしかしたら、古代の日本でもこれらの神様の前で、子供たちの命が生贄として捧げられていたかも知れません。
 
いいえ、もしかしたら現代でも……。何しろ、一年に数千人という子供たちが日本でも行方不明になっているわけですから。(詳しくはこちら。)
 
しかしながら、我々日本人は自分たちがどんな神様を拝んでいるのか分からないまま(知らされないまま)、その神様の前で手を合わせ、ときに巨額のお賽銭を投じながら、色々なお願い事をしているわけです。本当に「無知」とは恐ろしいものです……。
 
しかも、その願い事がたまたま叶ったりすると、人はますますその神様に入り浸り、場合によっては帰依してしまうわけですね。

転載ここまで

アンジェリーナ・ジョリー監督映画「アンブロークン」は人肉食信仰「クロ宗」を隠蔽するために上映中止にされた可能性大。

ハリウッド女優アンジェリーナ・ジョリーが映画監督として製作した映画「アンブロークン」が日本で公開中止となったという事件がありました。
 
私個人としては、特にここ最近は映画もほとんど観ていないし、例え「アンブロークン」が公開されたとしても観に行かなかったとは思いますが、それでも一つの映画が世論の動きによって公開中止になったというのは余り褒められたものではないと思い、そこに至るまでの経緯についてざっと簡単に調べてみました。
 
そうすると、やはりこの映画が公開中止となったのは、何の言われもない言いがかりによるものであり、この映画が公開されては困る人たちによって無理やり上映中止にされた可能性が高いということが分かりました。

(以下、こちらから転載)
 
「これは反日的な映画ではない。」
 
アンジェリーナ・ジョリーが自身監督の映画『アンブロークン』(原題)をめぐって、読売新聞のインタビューに登場し、こんな弁明をした。
 
アメリカで封切られたばかりの映画『アンブロークン』は、太平洋戦争で日本軍の捕虜となった元オリンピック陸上選手ルイス・ザンペリーニ氏の半生を描いたものなのだが、劇中には日本兵による虐待シーンがあり、さらに原作に「日本兵による食人」の記述があることから、ネトウヨ、保守主義者の間で「これから上映のアンジェリーナの映画は、日本兵が外国人捕虜を虐待して殺害して食べたという捏造映画だ」という批判が高まった。
 
「アンジェリーナの反日食人映画を許すな」
「ウソも甚だしい!アンジーは反日プロパガンダをやめろ!」
  
配給元にはこんな抗議の声が殺到し、日本での公開ができない状況に追い込まれた。そこで、アンジーがわざわざ日本のメディアに登場して「反日ではない」と否定したというわけだ。
 
だが、彼女のインタビューを待つまでもなく、この映画は「反日映画」などではまったくない。映画のなかには「食人」に関する描写はワンカットもなく、ただひとつのセリフのなかでも触れられてはいないのだ。「『アンブロークン』は日本軍による食人映画」というのは “完全なるデマ”だったのである。
 
実はこれについては、在米の映画評論家・町山智浩氏が今年1月の段階で「完全に間違った情報によって叩かれている」と指摘していた。ラジオ番組『たまむすび』(TBS系)のなかで『アンブロークン』を取り上げた町山氏は、こう解説している。
 
「『アンブロークン』っていうタイトルは、『不屈』『くじけない』という意味なんです」
 
「ザンペリーニさんは、日本軍から開放された後、アメリカに帰国するのですが、長い間拷問されていたので、憎しみが渦巻いて、もう悪夢の中で何度も何度も拷問した軍曹を殺す夢を見るんです。でも、その憎しみから解放されるには、結局、相手を赦すしかない。敵を赦すしかないんだ、という結論に彼は達した」

「映画では最後、ザンペリーニさんが、日本の人たちに拍手されながら、長野オリンピックで、聖火ランナーとして走る映像が出てきます。だから、これは別に日本が悪いという映画でもなんでもない。本当に強い男は敵を赦す。そういう話なんです」
 
もちろん、アンジー自身も読売のインタビューで、こう答えている。
 
「ルイスは日本を愛していた。長野冬季五輪の聖火を運んだことを人生で最も誇れる瞬間の一つだと語った。映画を見る機会があれば、そう判断できるだろう」
 
反日どころか、テーマは逆。それがなぜ、未公開の日本で「反日映画」という話になったのか。
 
調べてみると、たしかに昨年春頃から、ネトウヨの個人ブログなどで「アンジェリーナ・ジョリーが反日映画の監督をしている」などという話題が広がっており、制作中止・配信撤回を意図する署名活動などを拡散する動きがあった。
 
そしてネトウヨたちの騒ぎに丸乗りするかたちで、大手マスコミがこの映画を取り上げたのである。
 
まず、「週刊文春」(文藝春秋)が昨年、6月26日号で、「勘違い女優が撮るトンデモ反日映画」というタイトルのワイド記事を公開。「原作が日本人の残虐性を誇張する”トンデモ本”」としてネット上で話題になっていると紹介した。
 
そして、〈何千人もの捕虜が(中略)人肉食の儀式的行為で生きたまま食べられた〉という原作の一節を引用し、「看過できない」「歴史をでっち上げるのだけはやめてほしい」と煽った。
 
さらに、昨年12月6日になって、お決まりの産経新聞が参戦して、こんな調子で書き立てた。
 
「(原作には)『捕虜たちが焼かれたり、人体実験で殺され、(日本の)古来からの人食いの風習で生きたまま食われた』などと捏造されたストーリーが史実のように描写されている」

「『映画にそうしたシーンがあれば、中韓が政治的に利用しかねない』と懸念する在米日本人もいる」
 
その在米日本人とやらは……と指摘するのは野暮なのでやめておくが、いずれにせよ、文春と産経がネトウヨに燃料を投下する商売をしたことで、批判が一気に広がり、映画が公開できない状態に追い込まれたというわけだ。
 
しかし、これらの記事もよく読むと、すべて原作をベースにして語っているだけで、映画を観たという証言はない。
 
前述の町山氏もくだんのラジオで「映画が完成したのはついこの間なので。日本では誰も見ていないのに、と思いましたけどね」と皮肉まじりに語っていたが、ようするに、ネトウヨも保守メディアも映画を見ないで喚きたてていたのである。
 
自分の理解や知識が及ばない事象や人びとを片っ端から”敵””反日”と設定するネトウヨならありうる話だが、まさかマスメディアがこんな恥ずかしいレッテル貼りに加担していたとは……。
 
それは冒頭に紹介した読売のインタビューも同様だ。読売は「食人」のシーンがないとわかってもなお、「中国での公開で反日感情が高まる懸念もあるが」「日本では映画の内容に警戒感もある」と妄想質問をぶつけている。
 
しかし実を言うと、今回の問題は、映画『アンブロークン』が「反日」でないのに「反日」と認定されたことではない。問題は、この国が「反日」映画を上映できない国になってしまったということだろう。
 
町山氏は、『アンブロークン』でザンペリーニ氏を虐待する日本人軍曹と、大島渚監督作品『戦場のメリークリスマス』で坂本龍一扮するヨノイ大尉のルックスが瓜二つであることに触れ、こう語っている。
 
「『戦場のメリークリスマス』って日本兵による捕虜虐待を描いた映画だったんですが、83年に公開された時には、別に上映中止を求める騒ぎはなかった。『反日』だと騒いでいる奴はいなかったので。時代は変わったな、と思うんです」
 
食人についても同様だ。連中は「日本兵の食人は捏造!」とがなりたてているが、第二次世界大戦中、日本兵の一部が死んだ敵人や同胞の肉を食べていたのは有名な話だ。米軍やオーストラリア軍の報告書にも大量に記載されているし、元日本兵自らの証言もある。

仮にこの映画が食人をテーマにした反日映画だったとしても、堂々と上映ができ、それに対して堂々と賛同も批判もできる。それが成熟した民主主義国家というものではないか。
 
国益に反するだの、民族のプライドを傷つけただのという理由で、映画の公開中止を強いるなんていうのは、ほとんど北朝鮮や中国と同じだろう。それとも、ネトウヨや保守メディアは日本を自分たちが大嫌いな中国のように検閲国家にしようというのだろうか。
 
西欧とイスラム社会の”憎悪の連鎖”が深まるなかで、「”憎しみ”を乗り越えるには”赦し”しかない」というもっとも本質的なメッセージを発した『アンブロークン』。
 
しかし、それとはまったく逆に、”赦し”より”憎しみ”に向かっているこの国では、そのメッセージを届けることすら叶わないということなのだろうか。
 
(転載ここまで)

このように、この映画に関する悪い噂は、すべて根も葉もないデタラメだったわけです。
 
にもかかわらず、その噂だけが一人歩きして、この映画が上映中止にまでなってしまったわけです。
 
しかし、一つの映画が上映中止になるほど大きく世論が動いたということは、その背後にそれだけ大きな勢力が働いていたということでしょう。単なる成り行きだけで、こんなことが起きるわけがないからです。
 
では、その勢力とは何なのかというと、言うまでもありません。本当に陰でコソコソと儀式的に人肉を食べているような連中でしょう。つまり、悪魔崇拝者たちのことです。
 
こんなことを言うと、本当にそんな人がいるのかと疑う人もいるかも知れませんが、実際のところ、ローマ法王やエリザベス女王が悪魔崇拝を行い、その儀式の中で子供たちの肉を食べ、血を飲んでいることが明らかになっています。
 
現ローマ法王フランシスコに幼児虐待および人身売買のかどで有罪判決。

実のところ、旧日本軍の兵士たちもこれに近いことを戦争中にやっていることが明らかになっています。
 
食べる物に事欠いて、飢えを凌ぐために人肉を食べた……というわけではありません。
 
確かに戦争中にはそのような事例が数多く起きたようですが、飢えてもいない兵士たちが、いわば戦意昂揚のために人肉を食べたという事件が実際に起きているのです。
 
(以下、ウィキペディアより転載)
 
■小笠原事件
 
小笠原事件(おがさわらじけん)は、1945年(昭和20年)に小笠原諸島父島において日本の陸海軍高級幹部が、アメリカ軍航空部隊の搭乗員である捕虜8名を処刑し、そのうち5名の人肉を嗜食した事件。父島人肉食事件とも。
 
当時の父島は住民を疎開させた上で要塞化(父島要塞)されており、陸軍の立花芳夫陸軍少将以下の混成第1旅団(3月に第109師団に改編、立花は陸軍中将に昇進し同師団長)と、海軍の森国造海軍少将以下の父島方面特別根拠地隊(5月に森は海軍中将に昇進)が駐留していた。
 
本事件はそれら立花・森両将官および、独立歩兵第308大隊長的場末男陸軍少佐・父島方面特別根拠地隊通信隊司令吉井静雄海軍大佐といった、日本陸海軍の守備部隊において高級幹部として要職にある者が主犯となり犯した戦争犯罪である。
 
大戦末期、補給が崩壊し餓死・病死者の続出する飢餓状態に陥った各南方戦線(ニューギニア戦線・ビルマ戦線・フィリピン戦線等)において、生存する為に戦死した友軍・敵軍将兵の人肉をやむを得ず食した事例は存在するものの、本件はそれらとは大きく性格が異なる事件であった。
 
舞台となった父島は空襲のみで地上戦はおきておらず、現地自活が営まれ食糧事情は極端には悪くなく補給はある程度確立されており、人肉嗜食は恵まれた立場に居る陸海軍幹部が酒宴の場にて敵愾心高揚・士気高揚を目的とし行ったものであった。
 
(転載ここまで)

実を言うと、アンジェリーナ・ジョリーが映画にした原作本にも、このようなことが書かれてありました。
 
(以下、こちらから転載)
 
「何千人もの捕虜たちが、殴られたり焼かれたり、銃剣で刺されたり、こん棒で殴られたりして殺され、銃殺され、人体実験で殺され、人食いの風習で生きたまま食われた。
 
ごくわずかしか食事が与えられず、不潔な食品や水のために、さらに何千人もの捕虜たちが餓死し、容易に予防できるはずの病気のために亡くなった」
 
(転載ここまで)
 
もしこの映画が公開されて、日本中で大ヒットということになれば、当然、この原作本もたくさん売れたことでしょう。そうすると、上の文章を読む人が沢山出てくることになります。
 
「日本に人食いの風習があった」という事実がこの日本に広まります。
 
もっとも、そんな風習があったということを真に受ける人がどれぐらいいるかは疑問ですが、それでも中には、本当にそんな事実があったのかどうか入念に調べる人も出てくるはずです。
 
私もご多分に漏れず、このことについて調べてみたのですが、実際にこの日本の一部地域では、昔から「人肉を食べる」風習をもった人たちが存在していることが分かりました。
 
(以下、こちらから転載)
 
鹿児島県の東岸から40㎞あまりの東シナ海に位置するK島列島。

《RAPT註:下甑町片野浦のこと。詳しくはこちら
 
人の住む3島を合わせて6000人あまりの人々が暮らす離島である。
 
奈良時代には、甑隼人なる人々が暮らしていたことも記録されている島で、古来より南九州の海上交通の要衝として、あるいは漁業の盛んな地として栄えてきたと伝えられている。

また、ここは時の権力争いに敗れた人々が流れ着く島でもあった。
 
島内には、源頼朝の死後、北条氏との戦いに敗れた梶原景時の息子、景季の一族のものとされる墓がある。
 
また、楠木正成の弟、楠木正行の墓も祀られている。正行は正史では兄と共に湊川の戦いで戦死したと伝えられている。
 
どうもこの島には、記録されることのなかった歴史の闇が数多く眠っているらしい。
 
そんな島のある集落に、クロ宗と呼ばれる特殊な土俗信仰が存在する。
 
今では、その信仰を続けているのは、わずかに20戸ほどの家に過ぎないとされるが、その実態は明らかではない。
 
クロ宗を信じる家は、ある地域に集まって暮らしているのだが、島の人々はその存在に固く口を閉ざす。
 
実際に、クロ宗を信仰する人々の家は塀を高くし窓すら見えないようにしているのだ。まるで、家の中を見られることを強く拒否しているとしか思えない。
 
この宗教は、数少ない研究によればキリスト教が土着化した宗教ではないかと考えられている。
 
K島には、キリスト教に関わる伝承も数多く残されている。
 
江戸時代初期には、宣教師が来航してキリスト教を広めて信者を増やしたが、やがて弾圧によって多くの信者が処刑されたと記録されている。
 
また、島内には「天上墓」と呼ばれる墓所があるが、これはザビエルの通訳者だったヤジロウの墓であると伝えられている。
 
こうした伝承をパズルのように組み合わせていくと、次第にクロ宗の実態が明らかになっていく。
 
K諸島の島々には、弾圧後も生き延びた隠れキリシタンに加えて、島原の乱後に生き残った信者たちが、幕府の目の届きにくい島へと逃れてきて、隠れ住んでいたのだ。

島に辿り着いた隠れキリシタンたちは、弾圧をかわすために様々な方策を考えた。それは、信仰を土着の宗教と同化させていくことだった。
 
現在でも、長崎県の一部にはキリスト教の信仰が源流にあると考える神社が存在する。こうした信仰に共通しているのは、カモフラージュだったものがいつしか、一つの宗教になっていること。
 
本来のキリスト教の教えは失われて、異様な信仰となっていることだ。
 
K島の場合は、特に奇妙だった。
 
彼らは、島の信仰の違う人々と同化することをせずに、土着の宗教であると見せかけながら信仰することを選んだ。
 
その結果、時代を重ねるごとに秘密結社的な性格は強まり、キリスト教にはあり得ない信仰へと変わっていったのである。

 
今でもクロ宗が、どのような宗教かを具体的に知ることはできない。
 
というのも、信者たちは信仰は命を賭しても口外しないというからだ。ゆえに彼らがどのような神を崇め、経典を持っているのかは21世紀になった今でも明らかではない。
 
しかし、何人かの研究者たちは、この信仰の実態を探ろうと試みた。
 
というのも、対岸の鹿児島県には、戦後になりいくつかの秘密宗教が現存していることが発見されたからだ。
 
旧薩摩藩では、戦国時代から明治初期まで300年あまりにわたって浄土真宗が激しく弾圧されてきた。
 
その弾圧は苛烈で、薩摩藩は信者を見つけては、激しい拷問を加えて処刑を繰り返してきた。
 
それでも浄土真宗の信者たちは、山中の洞窟に念仏洞を設けて、信仰を絶やさなかった。この信仰は「隠れ念仏」と呼ばれ、現在でも信仰として続いている。
 
さらに、この信仰が独自の発展を遂げたとされるのが「カヤカベ教」と呼ばれる秘密宗教だ。この宗教は、戦後になって存在することが発見されたという、本物の秘密宗教である。

ある日、信者のいる土地に赴任した小学校教師が、どうしても牛乳を飲まない子供の自宅を訪問したところ「うちの宗派では、生臭物を取らない日がある」と告げられたのが、きっかけであった。
 
この宗教は、鶏肉や牛肉を食べることを禁じたり、肉食をすべて禁じる日もあるなど、日本では珍しい戒律の厳しい宗教であったことが明らかになっている。
 
こうして、日本では研究者の手により秘密宗教の実態が次々と明らかになったにも関わらず、クロ宗だけはいまだに実態が明らかになっていない。それだけ、信者が秘密を頑なに守り続けているのだ。
 
そのためか、クロ宗には、様々な噂が一人歩きする。

一人の信者が死に瀕すると周囲の信者は集まり、まだ生があるうちに瀕死の宗徒の体から血を抜き取り、集まったすべての信者がその血を飲む、あるいは、生き肝を取りだし食べることもあるそうだ。
 
そして、残った遺骸をぐるぐる巻きにして運び出し埋葬するという。
 
現代的な視点から見れば、カルト宗教としか思えないが、クロ宗を信じる地域ではそれが正常なこととして信じられているのだという。

 
こうした噂が、まことしやかに伝えられるのも、秘密性の高さゆえだろう。オカルト系の書物では「K島のクロ宗」といった表現で、噂をさも真実かのように描き、毒々しさを煽っているものも数多く見られる。
 
ここまで秘密性の高さが維持されているのは、離島であるがゆえだろうが、隠れ念仏やカヤカベ教の秘密主義が緩み、戒律もおだやかになっているのと、大きく違うことだ。
 
しかし、K島も過疎が進む中で信者の数は、次第に減少しているというから、いずれクロ宗は秘密のまま消滅してしまうかも知れない。
 
(転載ここまで)

鹿児島県というのは「薩摩」のことですね。
 
人肉食事件である「小笠原事件」を起こしたのは日本の「陸軍」であり、この「陸軍」は「薩摩」から徴収された天皇直属の親兵たちから誕生しています。
 
「帝国陸軍の起源は、明治維新後の1871年(明治4年)に薩摩・長州・土佐から徴集され組織された天皇直属の御親兵である
 
と、ウィキペディアにもはっきりと書かれてあります。(元記事はこちら
 
つまり、陸軍兵士の中には「鹿児島」出身の兵士が数多くいたというわけで、彼らの中に「クロ宗」と呼ばれる信仰を持った人たちがいた可能性は高いというわけです。
 
となれば、日本の兵士たちが生きたまま人肉を食べていたという疑いはかなり濃厚になってきます。
 
例え「アンブロークン」でそのようなシーンが描かれていたとしても、根も葉もないデタラメだと決めつけることはできないわけです。

しかも、鹿児島に流れ着いたキリスト教徒というのは、「島原の乱」を起こした人たちのことであり、「島原の乱」といえば長崎県。
 
長崎県といえば、フランシスコ・ザビエルを始めとしたイエズス会師たちが宣教活動をした場所であり、イエズス会といえば悪魔崇拝者の集まりである可能性が高い組織です。
 
となると、鹿児島に残された「クロ宗」は、実は「イエズス会」が行っていた悪魔崇拝そのものではないか、その悪魔崇拝の儀式がそのまま形として残されたものなのではないか、という疑いが出てきます。
 
はっきり言って、私もそう疑わざるを得ません。
 
そして、当然のことながら、そのように疑う者が大勢出てきたはマズイと考える人たちがこの世には大勢います。
 
なので、「アンブロークン」という映画は、何が何でも公開中止にするしかなかったのでしょう。

とはいえ、このようにデタラメでないものをデタラメだと言いふらし、言論を封じ込めようという動きが起きてしまったというのは、どこからどう見ても異常としか言いようがありません。
 
しかも、ニュースや新聞ではなく、映画ですからね。多少のフィクションは許されてもいいはずのメディアです。なのに、ありもしない言いがかりをつけられて公開中止になってしまった……。
 
この日本はもう北朝鮮とほとんど変わりのない言論の自由のない国へとなり果ててしまったというわけです。本当にあり得ない話です。
 
もっとも、この日本の上層階級の人たちには朝鮮人の血が流れているわけですから、仕方がないといえば仕方のないことなのかも知れません。

それにしても、このような過去の事実をわざわざ映画にしたアンジェリーナ・ジョリーとは一体何者なのでしょう。

〈アンジェリーナ・ジョリー〉

乳がん予防のために「両乳房切除手術」を受けたり、さらには「卵巣と卵管を摘出する予防手術」を受けたりと、何かと物騒なことをやって全世界を騒がせている彼女ですが、やはり「天皇派」をいたぶるための「教皇派」のコマとして使われているのでしょうか。
 
でなければ、こんな原作本を元に映画を作ろうとは考えないような気もしますが……。
 
アンジェリーナ・ジョリー – Wikipedia

果たして真相はいかに。
 
(追記)どうやらアンジェリーナ・ジョリーは、2007年に外交問題評議会(Council on Foreign Relations-CFR)のメンバーに加入し、「大量残虐行為と大量虐殺廃止の介入」を含む多くのCFRの特別報告に対して、資金提供をしているそうです。
 
アンジェリーナ・ジョリー外交問題評議会メンバーへ|ニュース@ぴあ映画生活

外交問題評議会(CFR)というと、有名陰謀論者が敵視しているロックフェラーの傀儡組織ですね。やはり彼女は「教皇派」のコマのようです。
 
外交問題評議会 – Wikipedia
 
なぜウィキペディアの「アンジェリーナ・ジョリー」の記事にはこのことが書かれていないんでしょうかね。

転載ここまで

二代目天皇「綏靖天皇」は朝に夕に人間を7人食べていた。古事記と日本書紀から削除された怪しげな天皇家の記録。

アンジェリーナ・ジョリー監督映画「アンブロークン」が、「クロ宗」という人肉食信仰の存在を隠蔽するために上映中止になった可能性についてお話しました。

この「クロ宗」がもともと悪魔崇拝であり、その名残が「クロ宗」という名前で残されているのではないかともお話ししたわけですが、このように日本の一部地域には、悪魔崇拝と関係が深いと思われる風習や信仰がいくつも残されています。
 
そもそも、日本のトップである天皇が「悪魔崇拝」を行っているわけですから、その下の民衆たちも同じように昔から悪魔崇拝を陰でコソコソと行ってきた可能性は高いと言わざるを得ません。
 
もっとも、このブログを初めてお読みになっている方には信じにくい話かも知れませんが、例えば天皇が行う「大嘗祭」は悪魔崇拝そのものと言っても過言ではない式典です。
 
天皇が行う「大嘗祭」はまさに悪魔崇拝そのものです。
 
しかも、このリンク記事を見ればお分かりの通り、天皇はほぼ毎日のようにトランス状態になっているとの噂もありますから、この「大嘗祭」がただの風習や伝統として残され、形式的に行われているとは考えにくいです。
 
むしろ天皇が、確信犯的に悪魔を拝んでいる可能性はとても高いとさえ言えます。
 
しかし、それは何も近代の天皇だけに限った話ではありません。実は「古事記」「日本書紀」に登場する古代の天皇さえも、悪魔崇拝を行っていた可能性が高いと言えるのです。
 
もっとも、「古事記」「日本書紀」からはその記録はほとんど削除されてしまったようですが……。
 
実は「古事記」と「日本書紀」には、「欠史八代」と言って、第二次大戦後、何者かによって記録が削除された「八人の天皇」がいます。
 
欠史八代 – Wikipedia

ウィキペディアによると、「欠史八代(けっしはちだい、かつては闕史八代または缺史八代とも書いた)とは、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のこと、あるいはその時代を指す」と説明されていますが、これはもともと記されていなかったわけではなく、何者かによって人為的に記録が削除されてしまったのです。
 
では、なぜ「八人の天皇」の記述が削除されてしまったのか。これについては「アンサイクロペディア」に分かりやすく説明が書かれてありました。
 
(以下、アンサイクロペディアより転載)
 
■欠史八代抹殺事件
 
実在していた天皇を実在しないかのように見せかけるため、謎の黒幕が、2代目綏靖天皇から9代目開化天皇までの事績の記録を古事記および日本書紀から消してしまった。消えたが上に欠史であるが故、この欠史八代という呼称は事後的なものであるといわざるを得ない。
 
いかにして消し去ったのかは現在でもわかっておらず、現在は記録の復興作業中である。
 
それまでは欠史八代の実在は常識であったが、黒幕(GHQという説が最も有力)がその部分の事績を消去し、系譜だけにしてしまったため、あたかも創作された天皇のごとく情報操作されてしまったのである。
 
ちなみに、抹殺したときに、日本人の記憶まで操作したらしい。もしかしたら犯人は長門と言う名前の人かもしれない。
 
なお、この黒幕は継体天皇以前と血がつながってないとの情報操作をした人物と同一犯と見られているが、両事件とも残念ながら時効を迎えてしまった。
 
現在でも、この事件の影響は深く、万世一系というたかが単なる歴史的事実を否定してしまう人が学者にまで存在しているという状況である。
 
(転載ここまで)

このように「古事記」「日本書紀」から彼らの記録が削除されたため、「2〜8代目の天皇」は実在しておらず、単なる創作に過ぎないという説さえ囁かれるようになってしまいました。
 
しかしながら、「2〜8代目の天皇」の系譜や陵墓はきちんと残されている上、皇后の名前さえもきちんと記録に残されています。なので、彼らの存在をそう易々と否定するわけにはいきません。
 
例えば、二代目天皇である「綏靖天皇(すいぜいてんのう)」の陵墓は最上の画像になります。
 
もし彼が実在していなかったのであれば、こんな墓がわざわざ作られ、残されている理由がよく分かりません。実在していない天皇のために誰がわざわざ墓なんか作るのか、という話になってしまいますから。
 
しかも、「綏靖天皇」に関する逸話もかなり詳しく残されています。
 
(以下、アンサイクロペディアより転載)
 
■綏靖天皇
 
紀元前631-紀元前549。
 
抹殺事件による抹殺被害が最も少ない天皇。神武天皇崩御後、異母兄と権力争いを演じる、神武天皇の東征にも参加していたとされ、異母兄は神武天皇の皇后をめとり、その後綏靖天皇と同母兄を殺そうとしたが、それを阻止し、逆に討ち取る。
 
さて、同母兄は臆病だったため、弟である綏靖天皇に皇位を譲ることになる。
 
よく、古事記や日本書紀は、天皇の権威を高めるためのものという説があるが、こんなこと(近親相姦と近親殺戮)を書く必要はないだろう。なぜ書いたかって?そりゃあ、歴史を正しく伝えるためだよ。君。
 
別の資料集によれば食人の趣味があったことでも知られている。なんか、食べられそうになって逃げ出したとかワーワー騒いでたらしいねこれが。
 
83年の生涯であったとされているが、45歳で崩じたとの説もある。何でこんなに寿命の説が違うのかは不明。
 
(転載ここまで)

〈綏靖天皇〉

この逸話を見てみると、これだけでこの天皇が悪魔崇拝と何かしら関わりがあったのではないかと疑いたくなりますね。
 
例えば「親近相姦」はまさに悪魔教の一つである「ゾロアスター教」で美徳とされ、推奨されている教えです。
 
さらに、この「綏靖天皇」には食人の趣味があったとまで書かれてあります。もしこれが本当だとしたら、彼が悪魔崇拝者であった可能性は俄然高くなります。
 
悪魔崇拝では、人肉を食べる決まりになっているようですからね。
 
現ローマ法王フランシスコに幼児虐待および人身売買のかどで有罪判決。
 
しかも、「綏靖天皇」が人を食べたという話はネットを検索すればいくらでも出てきます。例えば以下の記事など。

(以下、こちらから転載)
 
これはいずれの帝の御時であったかというと人皇第二代の綏靖(すいぜい)天皇の御時である。
 
綏靖天皇と申す帝は、朝に夕に人を7人食らいなさったので臣下の嘆きはこれにつきた。「誰と誰が生き残れるだろう」
 
悲しいことに、それは誰にもわからない。この帝は長生きをしたので、多くの人民がその間に滅びてしまいはせぬか、と心配してある臣下がこの暴君を滅ぼそうと提議した。
 
「この帝を戴いていたら、国土は乱れ、人民の嘆きは絶えない。祖父の鵜羽葺不合尊(ウガヤフキアワセズノミコト。あるいは、ウガヤフキアエズノミコト)は836412年を治めなさった。
 
人皇の代となってから、世も末になったのは悲しいことですが、それでも神武天皇は120年を治められました。この帝も100年、200年、300年と御在世なさると思うが、その間、多くの人の命が失われるだろう。
 
『何月何日に火の雨が降る』と偽りの発表をして、諸国に使いを廻らしなさい。いま命の惜しいものは、岩屋を作ってその中に籠り、難を避けよ」と告げられた。
 
人々はみな心を迷わして、各々に岩屋を作り構えた。諸国に塚が多くあるのはこのときの岩屋である。都では、その日を定め、内裏の岩屋を作った。
 
「国王もその日が過ぎるまで、お入りになってください」と、公卿3人、殿上人2人、女房2人を付け参らせて、摩利の柱(未詳)を立て、下から人が上がろうのも上がれないようにしてその中に収めた。その後はどうなったともわからない。悪王と善王とを引き換えてしまったのである。 
 
(「熊野権現の事」『神道集』より)
 
(転載ここまで)

この記事を見てみると、「綏靖天皇」は朝と夕に毎日7人の人間を食べていたとのことです。
 
これだけを読むと、一人の人間がそんなにたくさんの人肉を食べられるわけがないと思ってしまいますが、別に七人の体の肉を全て平らげたと書かれてあるわけではありません。
 
毎日朝と夕に七人ずつ人を殺して、その一部の肉を食べていただけかも知れません。それこそ、どこか特定の部位の味をことさら気に入って、その部分だけを食べていたのかも知れません。
 
こんなことを言うと、それこそ私の妄想だと思われそうですが、実際に人肉を食べてその味に惚れ込み、人肉を貪り食べるようになった日本人がこの世には実際に存在しています。
 
最近では「佐川政一」なんかが有名ですね。
 
「パリで人肉を食った男」佐川一政【閲覧注意】 – NAVER まとめ
 
彼以外にも、人肉を食べたという日本人はたくさんいます。気味が悪いので、心臓の弱い方は閲覧は控えた方がいいかと思いますが、一応、証拠を示すためにリンクを貼っておきます。
 
日本で起きたカニバリズム(食人)事件まとめ – NAVER まとめ
 
また、ウィキペディアにはこんなことが書かれてありました。
 
(以下、ウィキペディアより転載)

随筆『新著聞集』では、江戸時代の元禄年間に増上寺の僧が、葬儀にあたって死者の剃髪をした際、誤って頭皮をわずかに削り、過ちを隠すためにそれを自分の口に含んだところ、非常に美味に感じられ、以来、頻繁に墓地に出かけては墓を掘り起こして死肉を貪り食ったという話がある。
 
(転載ここまで)

「増上寺」とはもともと「真言宗」のお寺です。要するに、「密教」のお寺ですね。
 
この密教から「チベット仏教」が作られたわけですが、「チベット仏教」では秘密の儀式の中で「人肉」を食べる決まりになっています。
 
〈閲覧注意〉チベットは悪魔崇拝の聖地です。
 
ということは、「密教」のお坊さんもまた秘密の儀式の中で「人肉」を食べていた(食べている)可能性がとても高いわけで、その儀式を繰り返し行っているうちに、人肉の味に惚れ込み、墓を掘り起こしてまで死肉を貪り食うようになった可能性はなきにしもあらずです。
 
しかし、表向きはお坊さんが儀式の中で人肉を食べているわけがない、ということになっていますので、「葬儀にあたって死者の剃髪をした際、誤って頭皮をわずかに削り、過ちを隠すためにそれを自分の口に含んだ」などと、後から苦し紛れの言い訳をこじつけたのではないでしょうか。
 
このように、日本の過去にはこのような事例が幾つもあります。なので、人肉の味に取り憑かれ、貪り食べるようになった人がいたとしてもおかしくはないのです。
 
ですから、「綏靖天皇」が人肉を毎日のように貪り食べていたという可能性もあながち否定できません。
 
もしかしたら彼もまた普段から悪魔崇拝を行い、「人肉」を繰り返し食べているうちに、特定の部位の味に惚れ込み、毎日朝と夕に七人ずつの人間を殺して食べなければ気が済まなくなったのかも知れません。
 
そもそも、悪魔崇拝でも行っていない限り、どうして天皇のような「権力者」が人肉を食べるようになったのか、全く説明がつけられません。
 
一体、他にどんな理由があって、人肉を食べるようになったというのでしょうか。古代の人たちは当たり前のように人肉を食べていたとでもいうのでしょうか。
 
まさかのまさか。食べる物に事欠いて、飢えを凌ぐために人肉を食べたというのならまだ分かりますが、天皇のような「権力者」が食べ物に事欠くはずもなく、禁忌とされている人肉を何の理由もなく食べるわけがありません。

どこからどう考えても、悪魔崇拝を行っているうちに人肉に取り憑かれるようになったとしか考えようがありません。それ以外に何か思いあたる理由があるでしょうか。

ですから、GHQが「欠史八代」の記録を消したというのも実は真っ赤な嘘なのかも知れません。実際のところは、天皇家が自ら消してしまったのかも知れません。
 
二代目の天皇が人肉を食べていたなどという話が世間に広く知れ渡ったら、それこそ天皇家としてはかなり分が悪いですからね。
 
「欠史八代」は存在していなかった、などという説まで世間に流して、「綏靖天皇」にまつわる逸話さえも全てデタラメだと我々に思わせようとしているのではないでしょうか。
 
ということで、今日は天皇と悪魔崇拝の関係について、「人肉食」の観点から考察してみました。
 
気味の悪い話で大変失礼いたしました。
 
ちなみに、「古事記」「日本書紀」がどれほど原型を留めておらず、どれほど多くの箇所が削除されてしまっているのかについては、以下のリンクに詳しく書かれてあります。
 
古事記・日本書紀の謎-その5-

転載ここまで

イエズス会と真言密教と浄土真宗と人肉食信仰「クロ宗」の奇妙な接点。フランシスコ・ザビエルを日本に招いた「ヤジロウ」から分かる悪魔教の現実。

鹿児島の一部地域で密かに信じられている人肉食信仰「クロ宗」についてのお話をしましたが、その後、ある読者の方から「クロ宗」に関する詳しい資料を紹介していただきました。
 
その資料を読むうちに、悪魔崇拝の実態というものが見えてきましたので、ここで皆さんに簡単にご紹介しておきたいと思います。

なお、読者の方からご紹介いただいた資料は以下のリンクから読むことができます。
 
隠れキリシタンと隠れ念仏
 
この資料を見ると、先ず「ヤジロウ」という人物が登場しますが、彼はイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルを日本に招いたとされる人物です。
 
一応、世間一般の認識では、この「ヤジロウ」という人物のお陰で日本にキリスト教が伝播されることになったという話になっています。

実際、彼がいなければ、フランシスコ・ザビエルが来日することはなかったかも知れないわけですから、この認識はある意味では正しいと言えるかも知れません。
 
しかしながら、この「ヤジロウ」のキリストに対する信仰心は、やがておかしな形にねじ曲がっていき、土着の信仰を混ぜ合わせた「クロ宗」という人肉食信仰を作り上げるようになります。しかも、その奇妙な信仰を村人たちにまで伝授するようになります。
 
一応、世間一般の認識では「クロ宗」がこのような形で始まったとされているようです。
 
しかし、正直なところ、私はこの話をすんなりと信じることはできませんでした。
 
この世には実に数多くのクリスチャンがいます。そして、そのクリスチャンの中には確かに色々な人たちが存在しています。本当に敬虔なクリスチャンもいれば、クリスチャンとは思えないような性格の悪いクリスチャンもいます。

しかし、果たしてそのクリスチャンのうち、その信仰心がおかしな形にねじ曲がって、人肉を食べるような奇妙な信仰心を作り出すような人がどれぐらいいるものでしょうか。
 
しかも、日本に初めてキリスト教を伝えるきっかけとなったクリスチャンが、そのような奇妙な信仰心を持つようになったというのです。いくら何でも、普通に考えれば、そんなことが起こり得るわけがありません。
 
私には「ヤジロウ」という人物が最初からキリスト教など信じておらず、最初から「クロ宗」に近い、あるいはほぼ同等の信仰を持っていたのではないか、としか考えられませんでした。
 
その証拠となるのが、以下の文章になります。これは上の資料の123ページに書かれてあります。
 
(転載ここから)
 
ヤジロウは神を「大日」と通訳した。真言密教の大日如来の「大日」である。
 
これには日本人の方がその誤ちを指摘してくるほどである。
 
そこでザビエルはその訳はかえって神を冒漬する置換である事に気付き、以後はすべて「デウス」という言葉を使うようになる。
 
同時にザビエルはキリスト教の特殊な用語に関しては日本語としての仏教用語に置換える事をやめ、ラテン語あるいはポルトガル語をそのまま使うようにしたという。
 
(転載ここまで)

はっきりと言いますが、神は神です。なのに、なぜ「ヤジロウ」はその神を真言密教の「大日如来」にわざわざ置き換えたのでしょうか。
 
「ヤジロウ」がもともと真言宗の信者だったという記録はどこからも出てきません。なのに、なぜ彼は神を「大日如来」に置き換えようと考えたのでしょうか。

一応、仏教用語に置き換えた方が日本人からの受けがよかったから、などと誠しやかに説明している人もいるようですが、あくまでキリスト教はキリスト教、仏教は仏教です。
 
ですから、私はこの文章を読んで、こう考えざるを得ませんでした。ヤジロウが信じた神は、実はキリスト教の神ではなく、最初から「大日如来」だったのではないか、と。
 
「大日如来」とは「天照大神」のことです。神道の「天照大神」を、仏教では「大日如来」と呼ぶわけです。これは「ウィキペディア」にも書かれています。
 
この「天照大神」はいわゆる「太陽神」であり、イエズス会もまた自らのシンボルマークとして太陽のマークを使っています。以下がそのマークです。

これは単なる偶然ではありません。
 
イエズス会が信じている神は、キリスト教の神ヤハウェでもなく、神の子イエス・キリストでもなく、実は悪魔教の神である「太陽神」なのです。だからこそ、彼らは自分たちのシンボルマークとしてこのような「太陽」のマークを使っているのです。
 
しかも、真言密教といえば「大日経」を最高の経典としており、「大日如来」を神としている宗派ですが、その教理の内容はまさしく悪魔教そのものです。詳しくは以下のリンクを御覧下さい。
 
〈閲覧注意〉日本の密教もまた悪魔崇拝そのものです。
 
これだけでも、「イエズス会 = 真言密教 = 悪魔教」と断言してもいいと私は思いますが、これだけでは納得ができないという方のために、さらに話を続けます。
 
(転載ここから)
 
扨、そのヤジロウはその後どうなったか。
 
一九五〇年以後、神の恩寵と布教のもとにあったはずの彼の行方はようとして知れない。彼は鹿児島を追われ中国へ渡りそこで死んだという。
 
ルイス・フロイスが書いている。
 
「信仰を棄ててしまったのか、あるいは、キリシタンであることをやあてしまったのか…… 」、彼は富を求めて海賊になり「シナへ渡りシナで殺されたという」
 
「しかし、それは確かなことでもなく、また彼の最期についてこれと違ったことを知るよしもない」と。
  
フーベルト・チースリクは書いている。
 
「ロドリゲスの『日本教会史』のなかにもヤジロウがシナへ渡り、そこで海賊の手で殺されたと。だが、ロドリゲスはメンデス・ピントの『遍歴記』の報告を採り入れたものであり、ピントの書は半分以上作り話であり真馮性は疑わしい」と。
 
これらの文脈を浚っていくと、ヤジロウはシナへ渡って殺されたのではなく、日本の何処かに姿を隠し、あるいは匿まわれたのではないかと思えてくる。
 
イエズス会という組織の歴とした修道士・宣教師であり、サビエルを日本に連れて来た記念碑的人物が、その三年後には行方不明、まして死の記録が教会側に一切ないというのはどう考えても不自然
である。
 
ところが日本側(鹿児島本土)の基暦にはヤジローの死を伝える言い伝えが残っていた。ヤジローは甑島に身を隠しそこで死んだと。
 
しかも下甑島の片野浦という山深い集落に、ヤジローの墓があり(通称ヤジロウ墓)、ある秘密集団によってひそかに護り続けられているという。
 
(転載ここまで)

〈下甑島の片野浦。この集落はこのように高い塀に囲まれた家が多いとのこと〉

宣教師「ヤジロウ」のことを善良なクリスチャンだったと考えている人たちは、決してこの部分には触れようとしません。彼がどんな風に生涯を閉じたのか、そこを深く探ろうとはしません。
 
なぜなら、そこを探りはじめると、このように「イエズス会」にとって不都合な結論に到達するしかないからです。
 
つまり、「ヤジロウ」が最後の最後にキリスト教を捨ててしまったか、あるいは海賊になったか、あるいは「秘密集団」を作っておかしな新興宗教を始めたか……という結論に到達するしかないのです。
 
これは「イエズス会」にとってみれば実に都合の悪い事実です。彼らがこの部分に触れたがらないのは当然のことです。
 
だからこそ、フランシスコ・ザビエルの名前はこの世に広く知られているのに、「ヤジロウ」の名はこの世に広く知られていないわけでしょう。
 
私はこの事実にさらに一歩深く踏み込んで、敢えてこう言いたいと思います。
 
普通に考えて、一度、キリスト教に改宗した人が海賊になったり、「秘密集団」を作っておかしな新興宗教を始めたりする可能性は、極めてゼロに近いと。
 
しかも、「ヤジロウ」が師事したのは天下のフランシスコ・ザビエルです。このフランシスコ・ザビエルは、一応、表向きには日本で最初にキリスト教を布教したクリスチャンと言われている人物です。
 
そんな偉人に仕えていた人物が、後に海賊になったり、おかしな「秘教集団」を作ったりするものでしょうか。
 
まあ、可能性はゼロではないでしょうが、それでもその可能性は極めてゼロに近いとしか言いようがありません。なぜなら、他にそんな人を現実に、また史実の上で見たことがないからです。

「ヤジロウ」はもともと犯罪者であり、船に乗って逃れていた途中、フランシスコ・ザビエルに出会い、キリスト教に改宗したということになっています。しかし、彼がフランシスコ・ザビエルに会った後も、実際のところはキリスト教には改宗していなかったのではないでしょうか。
 
彼は犯罪者としての性質を持ちつづけたまま、そして、その性質のゆえに悪魔教に入信したのではないでしょうか。
 
その悪魔教を「クロ宗」という形で鹿児島の一部地域にもたらし、村人たちにも伝授していった。つまり、キリスト教徒という皮をかぶって、「クロ宗」という名の悪魔教を日本に持ち込んだわけです。少なくとも、その可能性が高いと言わざるを得ません。
 
では、彼が伝えた「クロ宗」とは具体的にはどのようなものだったのでしょうか。以下、資料の127ページです。
 
(転載ここから)
 
ではクロ宗は如何なる秘儀によって成立しているのか。その秘匿性は奈辺にあるのか。
 
それは「生き肝とり」という秘儀の故であると言われている。
 
この場合の生き肝とりとは、人間の臨終に際して、即座に胸を切り開いて生き肝(心蔵)を取り出すのだという。
 
つまり供犠の儀礼である。神に捧げる生贄として心蔵を切り取る。
 
この儀礼を村びとの死に立ち合うサカヤが執行する。この場合、カトリックという表層宗教が地上から隠れ教会から離れて基層へと埋没して行く時、基層民俗の生贄の祭儀へと帰着していったのか。
 
別の言い方をすれば、カトリックの深層に潜む供犠の宗教を帰趨としたのか。
 
いろんな要素が重層しているが、もともと、鹿児島の基層土俗には「冷えもん取い」という習俗があった事が『鹿児島の昔話』に伝えられている。

藩政時代の鹿児島では処刑された犯罪人の生き肝を取る事が公認されていた。「冷えもん」とは肝の事である。現在の鹿児島市電の二軒茶屋停留所から山に入った所に、「サカセド刑場」があった。

そこで行われるのが冷えもん取いである。打ち首によって首が刎ね落ちると、刑場をとりまく兵児たちは一斉に胴体に取りつき短刀で腹部を切り裂き肝を取り合った。
 
鹿児島には特産の秘薬「浅山丸」があるが、それが「冷えもん」で作られたという。つまり兵児たちにとってはそれが臨時収入であったのである。
 
それは同時に生贄として他人の命を救う秘薬となった。「浅山丸」は今もあるが、今日ではおそらくそれは鹿か何かの動物の肝であろう。
 
ではクロ教の場合、供犠として切り出された心蔵はどうなるのか。
 
「六神丸」になるのだと周囲の村はいう。
 
何も驚く事はない。死んだ人間の蔵器が他人の病いを癒す。これは現代、正当化され行われている蔵器移植の類型である。
 
サカヤは村を支配するほどに財産家であり資金力が豊かである。
 
それであってこそサカヤとクロ宗は存続し得たのである。その財力は生き肝にあると言われている。
 
こういう話はすべて「脱け」《RAPT註:村から追い出された人たちのこと》からの聞き取りである。そこで「脱け」以外からの、外の村の人間からの聞き取りも一つだけ挙げておく必要があるだろう。下甑村立の歴史民俗資料館の調査員氏である。
 
彼の父親は大工であったという。手打の港から片野浦へ、屡、家を建てに通ったという。作業中のある日、死人が出たので棺桶を造ってくれと頼まれ寝棺を造った。
 
見ていると入棺の儀式が何と畳を剥いで床下で行われたという。儀礼執行人が床下から這い上って来た時、何故か、全身が血痕で真っ赤に染まっていたという。
 
そして一升瓶に詰められた血を見たという。昭和二十一年の事である。
 
(転載ここまで)

ここではまるでお金のために「生き肝」つまり「心臓」を取り出しているかのように書かれてありますが、「秘儀」と呼ばれている以上、この行為に何らかの宗教的な意味が隠されていることは間違いありません。
 
そもそも、人が死んだ後で「心臓」を抜き取るのではなく、臨終の間際に、つまり人がまだ死んでいないときに「心臓」を抜き取るというのですから、これは紛れもない「人身供養」です。
 
と同時に、これは明らかに儀式殺人に他なりません。これは法的に見ても、決して許されることではありません。
 
しかし、ここでさらに問題なのは、この村の人たちが決して自分たちの信じる信仰のことを「クロ宗」とは呼ばないことです。
 
彼らはかつては「真言宗」の信者であると称し、なおかつ実際のところは隠れキリシタンであったとのこと。しかも、現在では「浄土真宗」の信徒と称しているそうです。
 
普通に考えれば、全く意味が分かりませんね。一人の人間が「真言宗」も信じ、「キリスト教」も信じ、「浄土真宗」も信じている、というのですから。
 
以下、資料の129ページです。
 
(転載ここから)
 
片野浦のクロ宗の徒は藩政時代は真言宗の檀徒であったという。
 
この真言密教の持つ呪術性、秘儀性との習合も考えられるが、彼等はあくまでも隠れキリシタンである。
 
真言宗の檀徒であったという事は寺請制度による強制でもあるがキリシタンである事を隠す擬装であったと思える。
 
ところが、片野浦のかっての天上墓のあった丘に対応する地点の平地に堂々たる浄土真宗本願寺派の本堂がそびえている。
 
たった四十八戸の村にしては立派すぎる真宗寺院である。ここで、キリシタンと真言宗と浄土真宗という三つの重層が一挙に浮かび上って来た。
 
(転載ここまで)

この資料を書いた人も、この後、「クロ宗」という異端の宗教を隠すためにこれらの宗教の皮をかぶっているに過ぎないと書いていますが、その推測に間違いはないでしょう。
 
いずれにせよ、悪魔崇拝がどのような形で人々の間に伝えられ、隠匿されたまま秘密の儀式が行われつづけているのか、その一端が「下甑島の片野浦」の人々から垣間見ることができた気がします。
 
彼らはやはり自分たちが信じている宗教の名前をそのまま呼ぶことはしないのです。あくまでこの世に一般的に出回っている宗教を信じている振りをしなければならないのです。
 
ちなみに、「クロ宗」の「クロ」とは「十字架」を意味する「クロス」から来たと一般には言われているようですが、この資料を書いた人は、「シロ」に対する「クロ」であるとはっきりと書いています。
 
要するに、「シロ」がしごく普通の「キリスト教」を表すのに対して、「クロ」はいわゆる黒魔術や黒ミサなどの「悪魔教」を表しているのでしょう。
 
このように、日本に最初に伝えられたキリスト教は、実は本物のキリスト教ではなかった可能性がとても高いと考えられます。
 
しかしながら、一般のクリスチャンたちは、「イエズス会」を快く受け入れた織田信長のことを善人として称賛し、「イエズス会」を迫害した豊臣秀吉のことを悪人として酷評しています。
 
果たしてこの認識は正しいのでしょうか。本当に手放しで織田信長を称賛し、豊臣秀吉を悪評していいものなのでしょうか。

転載ここまで

イエズス会とキリシタン大名が行った数々の悪行。彼らの信じる神は悪魔教の神「太陽神」と「八岐大蛇」でした。

日本に初めてキリスト教を布教した宣教師フランシスコ・ザビエルの弟子である「ヤジロウ」が、「クロ宗」という人肉食信仰を作り上げていくまでの過程を見ながら、悪魔崇拝の実態に迫ってみました。

一般のクリスチャンの間でも、フランシスコ・ザビエルのことは有名なのに、なぜか「ヤジロウ」のことはほとんど話題にも上らない。
 
なぜなら、「ヤジロウ」のことを一旦話題にすると、どうしても「クロ宗」の話題に触れざるを得ないからです。
 
「クロ宗」の話題になれば、当然、「ヤジロウ」を改宗させたイエズス会にも疑いの目が向けられてしまう。もしやイエズス会は悪魔教なのではないか、と誰からも疑われてしまうわけです。
 
それを避けるために、キリスト教の世界では「ヤジロウ」のことは見て見る振りをしなければならないわけでしょう。
 
よくよく見てみると、あの有名なフランシスコ・ザビエルの絵は、その手になぜか「心臓」を持っていました。これには私も改めて気付かされ、驚きました。

一体、この「心臓」は何を意味しているのでしょうか。
 
もしやこの「心臓」は「クロ宗」の秘儀によって取り出された「生き肝」を表しているのではないでしょうか。それ以外に考えられません。
 
こうして見てみると、この世には色々なところに真実を暴くための隠されたヒントがありますね。
 
また、「クロ宗」を信じている人たちが、もともとは迫害を逃れてきた隠れキリシタンだったにもかかわらず、なぜか「真言密教」の信徒であったという奇妙な事実。
 
これは一体何を意味するのか。
 
恐らく表向きの話では、彼らがキリスト教徒であるとおおっびらに名乗れなかったので、「真言密教」の信徒であると称していた、ということになっているのでしょうが、「真言密教」といえば「大日如来」を最高神としている宗派で、「大日如来」とはすなわち「天照大神」のことです。(詳しくはこちら
 
「天照大神」は太陽神ですが、イエズス会のシンボルマークも「太陽神」のマークです。

しかも、「真言密教」の信徒であった隠れキリシタンたちは、今や大きな「浄土真宗」のお寺を建てて「浄土真宗」の信徒となっている……。
 
一見するとなんとも奇妙な話ですが、実はこの話もきちんと整合性をとることができます。
 
先ず、この「浄土真宗」について調べてみたところ、これまた悪魔教の要素がたっぷりでした。
 
この「浄土真宗」では「阿弥陀仏」が唯一神として崇められているとのことですが、この「阿弥陀仏」のことを「無量光仏」「無量寿仏」とも呼ぶらしく、かのチべット仏教の「ゲルク派」では、彼らの中で二番目に偉い僧のことが「無量光仏」の化身として崇められているようです。
 
「ゲルク派」というのは、このブログでは何度もご紹介してきました通り、ダライ・ラマを教祖とする「悪魔教」です。

〈閲覧注意〉チベットは悪魔崇拝の聖地です。
 
この悪魔教である「ゲルク派」の中で二番目に偉い僧と、この「阿弥陀仏」は同一神である、というわけですね。
 
しかも、この「阿弥陀仏」は、神道においては「八幡神」という名で呼ばれているとのことです。
 
「八幡」と聞けば、もうお分かりですね。そうです。「八岐大蛇=ロスチャイルド」のことです。

秦氏の正体はロスチャイルドでした。
 
つまり、「浄土真宗」はロスチャイルドの宗教であるということです。
 
「真言密教」もまたロスチャイルドの宗教でしたので、「クロ宗」の信徒たちが「真言密教」も「浄土真宗」も信じているというのは、ある意味、きちんと整合性のとれた話なのです。

平清盛が平家をロスチャイルド家にしてしまった可能性。または「密教」と「日の丸」に隠された意味。

また、「阿弥陀如来」は「大日如来」よりも三つ下の神様のようです(チベット死者の書による)し、「八岐大蛇」もまた「大日如来」よりも地位が低いはずですから、この点においてもきちんと整合性がとれますね。(詳しくはこちら

さらに、「浄土真宗」の教義をよく見てみると、その中に「悪人生機」というのがあって、その意味するところは「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」とのこと。
 
簡単に言うと、「悪人こそ救われる」ということですね。まあ、これだけ読むと誤解を生じるからということで、ウィキペディアにはこんな言い訳がましいことがタラタラと書かれてありました。
 
(以下、ウィキペディアより転載)
 
「悪人正機」の意味を知る上で、「善人」と「悪人」をどのように解釈するかが重要である。ここでいう善悪とは、法的な問題や道徳的な問題をさしているのではない。また一般的・常識的な善悪でもない。親鸞が説いたのは仏の視点による善悪である。
 
法律や倫理・道徳を基準にすれば、この世には善人と悪人がいるが、どんな小さな悪も見逃さない仏の眼から見れば、すべての人は悪人だと浄土真宗では教える。
 
■悪人
 
衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な「悪人」であると捉える。
 
阿弥陀仏の光明に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らがまことの善は一つも出来ない悪人であると気づかされる。[3]その時に初めて気付かされる「悪人」である。
 
■善人
 
親鸞はすべての人の本当の姿は悪人だと述べているから、「善人」は、真実の姿が分からず善行を完遂できない身である事に気づくことのできていない「悪人」であるとする。
 
また自分のやった善行によって往生しようとする行為(自力作善)は、「どんな悪人でも救済する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。(#本願ぼこりも参照のこと。)
 
■因果
 
凡夫は、「因」がもたらされ、「縁」によっては、思わぬ「果」を生む。つまり、善と思い行った事(因)が、縁によっては、善をもたらす事(善果)もあれば、悪をもたらす事(悪果)もある。どのような「果」を生むか、解らないのも「悪人」である。
 
(転載ここまで)

こんなことを言われたら、いつまで経っても「善行」を行おうという気にはなれませんね。
 
あなたが「善」だと思ってやったことが、実は仏の目から見ると「悪」かも知れない……というのであれば、最初から「善行」など行わない方がいいのではないか、という気になりますから。
 
はっきり言いますが、そんなことを仰るのなら、仏様から見た「善」が何なのか、「悪」が何なのか、はっきり教えてください。それを教えてくれるのが「宗教」というものではありませんか。
 
私はこういう屁理屈が大嫌いなので、こんな宗教は最初から相手にしたくもありませんが、もしこのブログの読者の中に「浄土真宗」の信徒の方がいらっしゃるなら、本当にお気の毒です。今すぐこんな屁理屈ばかりの宗教はやめた方がいいでしょう。
 
もっとも、「浄土真宗」の信徒の方のほとんどが、自分の信じている宗教にこんな教義があることすら知らないのではないかと思いますけれども……。
 
いずれにせよ、悪魔教というものはこのように色々な屁理屈を並べて、人々が「善行」を行えないように仕向けていくわけです。
 
結局のところは、「生き肝」を取り出して、それを高額な値で売りつけてボロ儲け……というような悪事を平気ではじめるわけですね。
 
しかも、フランシスコ・ザビエル率いる「イエズス会」は、それ以外にも数々の悪行を行ってボロ儲けしていたようです。

(以下、こちらから転載)
 
鬼塚英昭氏の著「天皇のロザリオ」(P249~257)は、次のように述べている。
 
「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。

『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいばかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫び、わめくさま地獄のごとし』。
 
ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。

肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。
 
鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。
 
ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。

この事は、さまざまな文献資料によっても証明されているから事実なのですが、日本の歴史教科書でも、秀吉のキリシタン弾圧は教えても、日本女性が奴隷としてキリシタンたちが海外で売りさばいた事は教えないのはなぜか。
 
そうでなければ秀吉がなぜキリシタン弾圧に乗り出したかが分からない。
 
おそらく大河ドラマでも高山右近などのキリシタン大名が出てくるだろうが、娘たちを火薬一樽で娘50人を売った事などはドラマには出てこないだろう。

〈キリシタン大名・高山右近〉

歴史教科書などではキリスト教弾圧を単なる異教徒排斥としか教えていませんが、信長にしても秀吉にしてもキリシタンに対しては最初は好意的だった。
 
しかし秀吉に宣教師たちの植民地への野心を見抜かれて、だんだん危険視するようになり制限を設けたが、神社仏閣の破壊や日本人を奴隷として売りさばく事が、秀吉の怒りに触れて弾圧するようになったのだ。
 
これが教科書の決して教えないポルトガル宣教師達のもう一つの顔でした。
 
日本では秀吉達が何故キリシタン弾圧をしたか教えませんね。
 
むしろ、既得権益を独占し、国民が愛の教え、キリスト教に目覚める邪魔をしたような風に私の時代は教わりましたが、事実は全く違うんだなあ。
 
国民を守るために秀吉はやることをやっただけのこと。
 
ザビエルを記念した聖堂のステンドグラスにはピラミッドの目がキラリ、日本に来たのも布教と奴隷売買だけではなく、失われた契約の箱を探しに来たと言う説もあります。

〈山口ザビエル記念堂〉

〈山口ザビエル記念堂の講堂内〉

なのでヤジロウは日本初のメーソン工作員と言えるかもしれません。

その後で有名な工作員と言えば坂本龍馬などがあたります。

油断も隙もない日本の歴史なのでした。

(転載ここまで)

徳富蘇峰の『近世日本国民史』は、アマゾンなどでも買って読むことができます。

近世日本国民史織田信長 1 織田氏時代 前篇 (講談社学術文庫 515)

なお、この本についての解説はウィキペディアを御覧下さい。

近世日本国民史 – Wikipedia

とにかく、これがフランシスコ・ザビエル率いる「イエズス会」の実態なのです。なのに、このことは日本の歴史の教科書には一切出てきません。

私はかねてから「聖書」のことを推奨していますが、その「聖書」を信じていたとされる歴史上の人物のほとんどは、このようなインチキ詐欺師ばかりだと見ています。

というか、調べれば調べるほど、そのような結論に到達するしかないのです。

にもかかわらず、多くの人々が学校で学んだ歴史だけを信じて、フランシスコ・ザビエルを善人とし、イエズス会を受け入れた織田信長を善人としています。イエズス会を迫害した豊臣秀吉を悪人とするわけです。

そんな話をするから、余計に「聖書」のことが偏見の目で見られてしまうわけです。本当に正しい人だけを正しいとし、本当に悪い人だけを悪いとしなければ、誰がその人の話を信じようとするでしょうか。

もっとも、上の転載記事に書かれてあるように、本当に豊臣秀吉が日本の女性たちを守るためにイエズス会を弾圧したのかどうかについては私にも疑問です。秀吉は秀吉で、他に何か企みがあったのかも知れませんから。

とはいえ、自分の目の前で、若い女性たちがこのような形で売買されるのを見れば、おおよその人がそれを止めたくなるはずです。もしそれを止めようとしないなら、その人は悪魔としか言いようがありません。

果たして秀吉にはそのような良心があったのでしょうか。

転載ここまで

ジャンヌ・ダルクと共に戦い、悪魔崇拝のかどで処刑されたジル・ド・レ。1000人もの少年を性的嗜好と降霊のために殺害した男の記録。

続けて日本の一部地域で信仰されていた人肉食信仰「クロ宗」についてのお話をしました。

日本でこのような「悪魔崇拝」とも思われる儀式に関する話はとても珍しく、日本人にとってはやや耳慣れない話なので、驚かれた方も多かったかも知れません。
 
そもそも、日本人は「悪魔崇拝」がこの世で夜な夜な行われているということすら知らない人が大半ですからね。
 
しかし、西洋では「悪魔崇拝」というものは、割と多くの人たちに知られています。
 
この世の支配者たちが「悪魔崇拝」をしているという話には多くの人が眉に唾をつけるかも知れませんが、この世で「悪魔崇拝」を陰でコソコソと行っている人がいるということは、西洋の人なら、その多くがあり得なくもないと思っているのではないでしょうか。
 
実際、西洋の歴史上の人物の中には、実際に「悪魔崇拝」を行ったとされ、今でも語り草になっている人がいます。
 
その人物とはズバリ、「ジル・ド・レ」と言います。
 
と言っても、日本人には余り聞き覚えのない名前かも知れません。しかし、この人物はかの「ジャンヌ・ダルク」と共に戦い、数々の武勲を立てた有名な人物です。

なので、フランス人からは「救国の英雄」とも呼ばれているようです。
 
しかし、この「ジル・ド・レ」もまたフランシスコ・ザビエルを日本に招いた「ヤジロウ」と同様、人生の最後に道を大きく踏み外してしまいます。
 
もっとも、「ヤジロウ」も途中で人生の道を踏み外したのではなく、最初から踏み外していた可能性が高いと私は見ているわけですが……。
 
それと同じく、この「ジル・ド・レ」もまた、表向きには人生の最後に道を踏み外した、ということになっていますが、本当のところは最初から道を踏み外していたのではないでしょうか。少なくとも私はそう疑っています。
 
どういうことなのか、詳しく見てみましょう。先ずは以下の記事を御覧ください。

(以下、こちらから転載)
 
マルキ・ド・サド《RAPT註:フランスの小説家》が敬愛した男、ジル・ド・レ。『青髭』のモデルになったことでも知られる彼は、少年たちを残虐に殺害した。犠牲者の数とその所業は多分に誇張されているとの批判もあるが、その伝説は永遠に語り継がれて行くことだろう。
 
1404年、ナント近郊のシャントセ城で生まれたジル・ド・レは、たった一人の世継ぎであり、従って輝かしい将来を約束されていた。
 
父ギイ・ド・ラヴァルは名門ラヴァル家の家長であり、母マリー・ド・クラオンもフランス王国屈指の貴族だった。両親はそれぞれブルターニュからポワトー、更にはメーヌからアンジューへと至るフランス西部一帯にまたがる広大な領地を所有していた。その世継ぎであるジルは、フランス王国で最大の勢力を誇る領主となる筈だった。
 
1415年、父ギイが死亡し、これを追うように母マリーも亡くなると、途方もない財産を相続した幼い世継ぎは、母方の祖父ジャン・ド・クラオンに引き取られた。この祖父は、悪い人ではなかったが、小児性愛の気があった。ジルが男色に目覚めたのはこの祖父のおかげである。
 
やがて、自らの意思とは関係なく従姉妹のカトリーヌ・ド・トゥワールと結婚させられたジルは、ティフォージュの城に居を構えた。しかし、幼な妻には眼もくれず、側近の少年たちと放蕩三昧の日々を送るのであった。
 
そんな自堕落なジルであったが、やがて転機が訪れる。聖少女ジャンヌ・ダルクと出会うのである。
 
1429年、シャルル7世に呼ばれたジルは、宮廷でジャンヌ・ダルクという少女に引き合わされた。そして、この聖少女の大天使のような威厳に圧倒されてしまう。もともと信仰心の厚いジルである。彼はジャンヌに忠誠を誓い、以後、彼女の良き右腕となるのであった。
 
2人は百年戦争で数々の輝かしい武勇伝を残した。ジルはこの武勲により陸軍元帥の称号を授かり、併せて家紋に王家の百合が添えられるというこの上ない名誉も頂戴した。
 
しかし、ジルの栄光はここまでだった。ジャンヌ・ダルクがイングランド軍に捕らえられ、火あぶりにされてしまうのである。盟友を失ったジルは苦悩する。そして、再び放蕩三昧の生活に舞い戻って行くのであった。

芸術と奢侈をこよなく愛したジルは、世界中の豪華な美術品を買い漁り、連日のように盛大な宴を催しては、その莫大な富を蕩尽していく。数年後にはフランス随一とまで云われた財産を使い果たしてしまう。彼が錬金術に魅せられたのはこの頃からである。
 
思うに、ジルが黒魔術に傾倒し、悪魔との契約に熱心になったのは、ジャンヌ・ダルクの命を奪い、彼の忠誠を裏切った神への背徳が主な理由であろう。
 
しかし、それは同時に彼の内なる嗜虐心をも充足した。ジルは悪魔への生贄として少年の心臓を捧げた。

《RAPT註:フランシスコ・ザビエルの肖像画が持っている心臓も、やはり悪魔に捧げる心臓と考えられます。》
 
この行為がよほど刺激的だったのだろう。やがてジルは、悪魔のためではなく、専ら己れの欲望のために少年をなぶり殺すようになる。その数は300人と云われている。

《RAPT註:最終的には1000人を超えたとも言われています。》
 
「遂に子供たちが死んで倒れると、レエ侯は彼らを抱き締める。そして、肉体を開かせ、はらわたを眺めて楽しむのだった。最後には、極限にまで興奮しようと泥酔したレエ侯はどさりと倒れる。召し使いは部屋を掃除して血を洗う。主人が眠っている間、彼らは一枚一枚焼くのにおおわらわだった。彼らが云うところによれば、『悪臭を防ぐため』だったという」(ジョルジュ・バタイユ著『エロスの涙』より)
 
これだけの数の行方不明者が出れば良からぬ噂がたつのも道理。近隣では領主の人喰いの噂で持ちきりになった。
 
これがやがて大司教の耳にも入る。内密に調査が行われ、やがてド・レ侯は確かに失踪事件に関与している旨の報告書が提出された。しかし、侯は仮にも百年戦争の功労者、フランス最大の領主である。確かな証拠があがっても、彼を処罰することができるかは疑問だった。
 
ところが、ここでジルは軽率な行動に出る。1440年、聖霊降臨祭でのこと。ジルは六十余名の軍隊を率いて或る教会に押し入った。
 
領主権を巡って抗争していた諸侯の弟にあたる聖職者を捕らえるためだったのだが、ミサを乱すことは当時は極めて重罪だった。この事件が大司教の逆鱗に触れ、ジルを陥れるためのありとあらゆる手段が講じられた。

9月13日、大司教はシャルル7世から許可を得て「異端、幼児殺戮、悪魔との契約、自然の掟に対する違反」の罪でジルを告発した。どれ一つをとっても死罪を免れない大罪だった。
 
裁判はナント城で行われた。1ケ月にも及んだこの裁判は、サド侯爵ならば大歓びすること請け合いの大残酷博覧会だった。腹心の1人、エティエンヌ・コリエはこのように証言している。
 
「自然の摂理に反して少年たちに自堕落な行為を及ぶために、ド・レ侯はまず自分の性器を握り、勃起するまで擦りました。そして、淫らな興奮に身を任せて少年の体内で摩擦し、最後にはその腹上で射精するのでした。
 
絶頂に達した後、侯は我々に命じ、少年の首を生きたまま切断させました。時にはじわじわとうなじから切ることもありました。侯は大変に興奮し、血を流しながら死んで行く少年を眺めながら自慰に耽ることもありました。
 
少年たちに悲鳴をあげさせないために、侯はまず首に縄をかけて、床から3メートルほどの高さに吊るしました。
 
そして、死ぬ直前に下ろしてやって、声を出すなと云うのでした。それから自分の性器を擦り、少年の腹に射精するのです。果てると同時に、少年の喉を掻き切り、首を切断します。時には首を並べて『どの頭が一番綺麗かね?』と訊ねることもありました」
 
なんか余りに凄いので、文献を写しながら途方に暮れている私。鬼畜のような私でさえそうなのだから、当時の人々の衝撃たるや如何許り。
 
そのあまりの惨さに大司教までが耳を塞いで、聞こえないように「アー」とか云いながら後ろを向いてしまった、と伝えられている(これはちょっと嘘)。ひとたびは悪魔に魂を売ったジル・ド・レも、裁判においては全面的に改悛の情を露にした。
 
1440年10月26日、ジルは絞首の上、屍体を焼かれる予定であったが(当時は屍体を焼却することは死者に対する冒涜を意味していた)、改悛の情が斟酌されたのだろう。焼却だけは免れた。
 
ジルの屍体の周りには人集りが出来、誰もがこの偉大なる元帥の魂の救済を願って涙したと伝えられている。
 
(転載ここまで)

この記事は「ジル・ド・レ」の生涯をかなりうまくまとめています。ただ、詳細を少し端折りすぎて、彼がどのような経緯で「悪魔崇拝」に没頭していったかが分かりにくいですね。
 
その辺の詳細をお知りになりたい方は、以下のリンク記事を参考になさって下さい。
 
不思議館~中世の血塗られた史実~ジル・ド・レの大虐殺
 
もっとも、私はこの上のリンク記事の内容はほとんどデタラメではないかと思っています。
 
このリンク記事によると、「ジル・ド・レ」にはもともと少年に対する異常な性的嗜好があり、それが高じて少年を殺害することに性的な興奮を抱くようになり、さらには「錬金術」にはまった挙げ句、「悪魔崇拝」に傾倒するようになったということになっていますが、私からすると、この話にはやや納得しかねる部分があります。
 
恐らくこの「ジル・ド・レ」の一家は、最初から「悪魔崇拝」一家だったのではないでしょうか。そう考えた方が筋が通ります。
 
何しろ、彼の祖父はバリバリの同性愛者だったとのことですし、その影響で彼まで同性愛者となったということですが、そんな異常性欲を親の影響で持つようになった、というのは少し考えにくいことだからです。
 
しかも、贅沢三昧の日々を繰り返した挙げ句、少年愛に没頭し、かつ少年を殺すことに性的な嗜好を感じはじめた、というのも余りに「物語的」であり、現実味が感じられません。
 
しかも、彼のような人間の屑とも言える男が、なぜかフランスの独立のために戦う少女ジャンヌ・ダルクの姿に感動し、彼女と共に戦う気になったというわけですから、私には全く信憑性が感じられませんでした。
 
結局のところ、ジャンヌ・ダルクの背後には「ローマ教皇」が存在していて、ジル・ド・レもまた「バチカン」のような巨大な黒幕に背中を突かれ、ジャンヌ・ダルクとともに民衆の戦意を煽る「プロパガンダ装置」として利用された、ということではないでしょうか。(百年戦争は、ある意味、ローマ教皇の威信をかけたをかけた戦いだったとも言えますから。)

現在でも、悪魔崇拝者たちは若い女の子たちをスーパースターに仕立て上げ、民衆の洗脳装置として使っています。なので、ジャンヌ・ダルクが悪魔崇拝者たちの操り人形として利用されていた可能性は大きいのではないでしょうか。
 
(さらに言うと、ジャンヌ・ダルクが本当に女だったのかどうかも疑わしいと私は思っています。彼女は男装をした女ではなく、女を装った男だったのではないでしょうか。女だと言った方が、民衆たちを感動させやすく、戦意を鼓舞しやすいからです。良い意味でも悪い意味でも、男なら「あんな若い女の子でも国のために戦っているのだから、おれも負けてはいられない」となりますからね。)
 
「ジル・ド・レ」が多くの武勲を残したという話も、もしかしたら民衆たちの戦意を昂揚させるためのデマだったのかも知れません。
 
彼のような放蕩三昧のダメ人間でも、頑張って戦えば英雄になれる、と言われると、人によっては激しく野心を駆り立てられるでしょうからね。これまた「あんな奴には負けてられない」となるでしょうから。
 
しかしながら、この「ジル・ド・レ」が終戦後、少年たちを次々と殺して「悪魔崇拝」の儀式を行っていることが周囲の人々にバレてしまった。しかも、その噂が世間に大きく広まってしまった。
 
バチカンはこの事実に慌てた。このままではバチカンの祭司たちまでもが「ジル・ド・レ」とともに数多くの少年を殺し、「悪魔崇拝」を行ってきたことが知られてしまう……。
 
そこで、バチカンの祭司たちは「ジル・ド・レ」が個人的に「悪魔崇拝」を行っていた、という話をでっち上げることにした。彼がもともと異常な性欲の持ち主で、個人的に道を踏み外して「悪魔崇拝」に没頭するようになった、という話にすり替えてしまったわけです。
 
しかも、彼がいくら「悪魔崇拝」をしても、実際に悪魔を呼び寄せることはできなかったと言って、まるで「悪魔崇拝なんてインチキ」と触れ回るオマケ付きです。
 
その作り話と思われる一部始終がこちらです。

(以下、こちらから転載)
 
もともと、彼は、錬金術にたいそう興味を持つ人間であった。城の一室には、錬金術の工房がつくられていたほどだった。
 
工房内は、蒸留するための器具類、複雑に渦を巻いたガラス管、怪し気な恰好をした器の類が所狭しと置かれていた。
 
最初、知的な好奇心から没頭していたものの、洪水のように金を使っていったがために、自分の財産が次第に先細りしてくると、彼は、この錬金術によって黄金をつくり出すことに躍起になり始めた。
 
こうした打算的な欲望は、本来の錬金術の精神から言えば、邪道であったかもしれないが、窮地に立った男爵は、ますます、その行為に没頭しのめり込んでいくのである。
 
この世は、7つの元素によって成り立つものと考えられていた。従って、組み合わせにより、どんな物質でもつくることが出来ると思われていた。
 
彼は、この部屋に、一人で朝から晩まで籠り、アラビアの文献を読みふけり、ひたすら実験をくりかえすのであった。
 
彼のつくり出そうとしていたものは「賢者の石」と呼ばれるもので、これは、屑鉄などの卑金属を光輝く黄金に変える力を持つ物質と言われるものであった。
 
材料となるものは、硫黄や水銀で、これらを燃焼、昇華、融合と化学変化を起こさせていくうちに、やがては、まばゆいばかりの黄金に変化していくのである。賢者の石は、その過程で、どうしても必要な物質とされていた。
 
男爵は、賢者の石をつくり出すために、悪魔を呼び出して、その力を借りることで賢者の石の精製方法を聞き出し、莫大な財宝をつくり出すことを考えた。
 
そのために、降魔術から占星術、呪術までまさにありとあらゆる神秘学の実験を繰り返したが、悪魔は出現せず、実験は次々と失敗して、後には疲労と挫折感だけが残された。

わけのわからない実験を繰り返し、破局の恐怖に焦っていた男爵の前に、ある日、魅力的で端正な青年が現れた。
 
男爵は、彼にたちまち魅了されてしまい、腑抜けになるほどのぼせ上がってしまった。
 
フランソワ・プレラーティと呼ばれた美貌の若者は、彼自身によれば、過去に何度も悪魔を呼び出したことがあり、降魔術と錬金術を完全に修得した天才だということであった。男爵は、この男と一緒なら実験は成功するような気がした。
 
二人は、ただちに実験にかかったが、プレラーティが言うには、悪魔を呼び出す際の触媒として、血が必要であるということであった。
 
それも、死んだ者の血では役に立たない。生き血が必要というのである。
 
生き血は、若い女のものでよかったが、子供の血であればなおさらベターということであった。悪魔は子供の生き血を好んでいたというのである。
 
その他、護符のメダルや指輪、死体の脂でつくったローソク、羊皮紙、ハシバミの小枝などのアイテム類と、少年の体の一部も必要ということであった。
 
このような材料は、日頃、少年を殺し続けている男爵にとってみればお手のものだった。
 
かくして、この後、自らの情欲のためだけに犯行を重ねていた殺人に、悪魔を呼び出すためという大義名分も加わることとなった。
 
それから、まもなくして、男爵は、少年の切断された手首と両目、取り出されたばかりの心臓、生き血を携えて彼の部屋にやって来た。
 
プレラーティは、この供え物の出処には興味を示すことなく、降魔術を始めたが、悪魔は出現しなかった。プレラーティに言わせると、男爵は、地獄の住民たちに嫌われているということであった。
 
自分一人の時なら、たちどころに悪魔は現れるはずだとも答えた。プレラ-ティは、美貌で魅力的で勤勉な男だったが、このように抜け目のないいかさま師でもあったのである。

男爵とプレラーティの降魔術の実験は、その後も続けられ、その都度、切り刻まれた少年の体の一部や生き血が捧げられ、悪魔が出ないとわかると、意味なく地中に埋められることが何回と繰り返された。
 
しかし、何事にも終わりは来るものである。邪悪非道の限りをつくした彼にも、逮捕の手が及ぼうとしていた。
 
こうした何年にもわたる殺人、血の儀式、悪魔崇拝が、誰の耳にも入らず、男爵の居城から漏れないはずはなかった。人々の噂は、口から口へと伝わって行き、やがてローマ教会にも知られることになったのだ。
 
ローマ教会は軍隊を送り、1440年9月15日の朝、ナント司教の名のもとに男爵は逮捕されてしまった。そして、彼は降魔術、殺人、性犯罪などの三つの罪で宗教裁判を受けるはめになったのである。
 
法廷は、何度となく開かれ、かのプレラーティも証人として連れて来られて訊問を受けた。
 
プレラーティが、男爵との犯罪との関わりを否定して、自己保全に夢中になっている時ですら、男爵は、この美貌の青年にうつつを抜かし見とれている様子で、彼が立ち去る寸前になっても、プレラーティを抱きしめてその別れを涙ながらに惜しむ有り様であった。
 
やがて、判決を言い渡す日が訪れた。まず、裁判が厳正であることを主張する前文が読まれた後、ナント司教が厳かに立ち上がって判決文を読み上げた。
 
子供たちの殺戮、死体の凌辱と解剖、悪魔との交信、背教行為などの罪状が淡々と朗読された。そして、その結果として男爵には破門の宣告が下され、異端者に対する罰則、つまり絞首刑の上、火刑に処せられることが決定したのであった。
 
一瞬、法廷は沈黙した。男爵は、この時最後の願いを申し出た。それは、牢獄から絞首台までの距離をせめて威厳に満ちた行列に仕立てて欲しいという要求であった。死に際しての彼の最後の虚栄心とでも言うのだろうか。しかし、この願いは叶えられた。
 
1440年10月26日の水曜日の朝、その日は雲一つなく見事な秋晴れだった。群集の待ち受けている処刑場に、男爵はすがすがしい表情で向かって行った。ジャンヌ・ダルクが火刑に処せられて9年と半年後のことであった。
 
彼は、その呪われた36年の生涯で、少なくとも1千人以上の子供を殺し、その遺体を凌辱したと言われている・・・
 
(転載ここまで)

多分、プレラーティという男が「ジル・ド・レ」に悪魔崇拝を教えたということすら嘘でしょう。彼は完全に濡れ衣を着せられてしまったわけです。
 
「ジル・ド・レ」もバチカンの秘密を漏らすことのないように脅され、早々と処刑されることになった……。
 
「牢獄から絞首台までの距離をせめて威厳に満ちた行列に仕立てて欲しい」というジル・ド・レの要求にバチカンが応えたのも、いわゆる「アメとムチ」の「アメ」の部分だったのではないでしょうか。
 
もっとも、バチカンが悪魔崇拝の組織であると知らなければ、多くの人たちがこの記事の内容をそのまま信じてしまうかも知れませんが、バチカンが悪魔崇拝組織であると分かっている以上、私はこの内容にはやはりどうしても眉に唾を付けたくなりますね。
 
繰り返すようですが、個人的に「少年愛」と「少年の殺害」に没頭し、さらには「錬金術」にはまり、そこに悪魔崇拝に詳しい男にたまたま出会った……というのは余りに話が出来すぎていますから。
 
現実世界において、こんなに偶然に偶然が重なるわけがありません。可能性はゼロではありませんが、限りなくゼロに近いことです。
 
いずれにせよ、フランスやイギリスなどでは、この「ジル・ド・レ」という男のせいで、「悪魔崇拝」というものが大々的に民衆の間に知れ渡ることになってしまいました。
 
今でも西洋の多くの人たちが、一部の金持ち(権力者)が、自らの道楽や快楽のために「ジル・ド・レ」のような悪業を行っているのではないかと疑いの目を向けているわけです。
 
さぞかしバチカンは、「ジル・ド・レ」を自らのプロパガンダ装置として使ったことを激しく後悔していることでしょう。
 
その疑いが確固たるものだったということが、つい最近、ローマ法王とエリザベス女王の逮捕によって明らかになってしまったわけですね。

しかも、彼らが殺した子供の数「五万」。ジル・ド・レの比ではありません。
 
〈TALK RADIO〉悪魔崇拝はあるのか? エリザベス女王とローマ法王による5万人の幼児虐殺事件について。
 
「しかし、何事にも終わりは来るものである。邪悪非道の限りをつくした彼にも、逮捕の手が及ぼうとしていた。こうした何年にもわたる殺人、血の儀式、悪魔崇拝が、誰の耳にも入らず、男爵の居城から漏れないはずはなかった。」
 
という上のジル・ド・レについての記事の言葉は、現代の悪魔崇拝者たちにもそのまま当てはまると言えるでしょう。
 
この世のすべての悪魔崇拝者たちの悪行が、一日も早く白日の下に晒されることを祈ります。

転載ここまで

少年Aの手記「絶歌」を出版させたのはロスチャイルド。ネットに広まった少年A冤罪説を火消しするための工作か。

「神戸児童連続殺傷事件」の元少年Aの書いた手記『絶歌』がネットでも話題になっていて、出版社に対する激しいバッシングがあちこちで展開されています。
 
この「太田出版」に対するバッシングは、基本的には元少年Aが本当に連続殺人事件の犯人であるという前提に基づいています。
 
凶悪な犯人が今さらこんな手記を出版するのはおかしいし、それを出版した出版社も人道に反している、というわけですね。
 
しかし、私ははっきりと言います。「神戸児童連続殺傷事件」の本当の犯人は少年Aではありません。彼は濡れ衣を着せられたに過ぎないのです。
 
ネット上で「太田出版」バッシングが長々と続けば、当然、国民の多くが「神戸連続児童殺傷事件の犯人は元少年Aだ」と思い込むようになるでしょう。

一旦、「少年Aは犯人ではなかった」と思っていた人も、「少年Aの手記を出版するのは是か非か」という議論に熱中しているうちに、「やはり少年Aが犯人かも知れない」と思い込むようになるかも知れません。
 
実際、私の周りにもそんな人がぽつぽつと出てきましたので、これはマズイと思って、今日の記事を書くことしました。
 
そもそも、「少年Aは犯人ではない」ということが分かれば、「少年Aの手記を出版するのは是か非か」などとムダな議論をしなくて済むようになりますしね。
 
一応、今回この手記を出版したのは、表向きには「太田出版」ということになっています。しかし、この出版を最初に企画したのは、実は「幻冬舎」の社長・見城徹という人物です。
 
この見城徹が何者なのかというと、どうやら「安倍晋三」のブレーンのようです。

少年Aの手記の仕掛人は幻冬舎・見城徹だった! 自社では出さず太田出版に押し付け!?|LITERA/リテラ 
 
つまり、今回のこの出版には「政治」が絡んでいる可能性が大いにあるというわけですね。
 
実際、元少年Aの父親は「川崎重工」の潜水艦の電気技師であり、彼は米国マグダネル・ダグラス社のつくった潜水艦発射型「ハープーン対艦ミサイル」を改良しました。
 
その噂を聞きつけたロスチャイルドが、ライセンス料惜しさにその機密を入手しようとしたところ、少年Aの父親に断られた。
 
そのため、ロスチャイルドは怒り狂い、「神戸連続児童殺傷事件」を起こしてその罪を少年Aになすりつけ、父親ならびにその関係者を恐喝した、というのが「神戸連続児童殺傷事件」の顛末なのです。
 
少なくとも、そのような噂があります。

(以下、こちらから転載)
 
川崎重工神戸が改良した、開発元の米国マグダネル・ダグラス社も驚く(?)潜水艦発射型ハープーン対艦ミサイル。
 
その機密を欲したロスチャイルド=イギリスがライセンス料惜しさに指示したと考えられます。
 
主犯格の男性はDIA(米軍国防情報局)または同時にCIAに所属する、マインドコントロールされた朝鮮系軍人です(米国籍:朝鮮戦争時の戦争孤児で米軍に育てられる)。
 
容疑者とされた少年の父親は川崎重工の潜水艦の電気技師だったのですが、「少年の無実を晴らしたいなら機密をよこせ」と脅すため、また川崎重工と他の社員、さらには日本政府を脅すために実行されましたが、犯人グループが防衛機密を手に入れたかどうかは不明です。
 
(中略)
 
【対艦ミサイルハープーン】
 
米国マグダネル・ダグラス社製の対艦ミサイルで、航空機、艦船、潜水艦から発射されます。射程は機密事項ですが、数百kmと言われています。
 
レーダー波が直進するのに対し、地球が丸いのを利用して海面すれすれを飛んで来るため、艦船レーダーの装備位置の高さに左右されますが、おおよそ30kmに接近するまで探知出来ず、時速970kmで飛ぶため1,8分から1,6分くらいの対応時間が無い為に、人力では迎撃不可能とされます。
 
これがイージス艦などに代表される全自動迎撃システムの登場を促しました。
 
しかし、目に見えない潜水艦から更に近い距離から発射されたなら、イージス艦でも迎撃出来るかどうかは米軍、自衛隊共にデータを公表していないのでタコにはわかりません。(>_<)   さて、自衛隊名物“魔改造”されたハープーンですが、潜水艦発射型は発射の際の機械的騒音が工場現場並に高く、的になる艦船や近くに潜んでいる敵潜水艦のソーナーに発射地点を特定され、撃沈される可能性が非常に高い状況でした。   それを、犯人にされた少年の父を含む川崎重工神戸の技術陣が改良して、無音発射システムの開発に成功。   はるしお型潜水艦の登場と相まって、ディーゼル型潜水艦としては世界最強の静粛性を海上自衛隊は手に入れたのです。

また、現代の軍艦は第二次大戦の時とは違い、装甲はペラペラの薄い紙同然と言っても良い程度でしかなく、更に、本体を狙わずに空中で爆発してレーダーやアンテナをぶっ壊せば、後からゆっくりなぶり殺しにできます。
 
更に、第二次大戦の大和型戦艦でも装甲の薄い15cm副砲の真上から突っ込ませれば、副砲弾薬庫に誘爆して、一発で撃沈可能という説もあります。ホントかどうかはわかりませんが(^_^;)
 
ちなみに第二次大戦時の駆逐艦は速度を追及したため、全くといっていいほど装甲が施されていませんでした。装甲があるのは巡洋艦からですね。
 
だからなのか日本の駆逐艦は軍艦に分類されず?船首に菊の御紋がついていません。
 
【はるしお型潜水艦】
 
平成2年(1990)から実戦配備。昭和61年度計画艦。
 
7翼ハイスキュド・プロペラを採用し、主機、電動機などの静震機構の徹底化により、西側先進国の水準を初めて超えた記念すべき潜水艦。
 
西側水準をはるかに超える高張力鋼NS110の部分採用や、高性能89式長射程魚雷の採用、前級ゆうしお型潜水艦から続く川崎重工による魚雷、対艦ミサイル発射機構の静粛化及びミサイル連続発射能力!!の付与など、通常型潜水艦としては世界一の能力を誇った時期もありました。
 
このはるしお型潜水艦とハープーン・ミサイルと神戸連続児童殺傷事件の関連性は・成りすまし日本人(?)の右翼団体の機関紙が、淳くんの遺体発見直後から指摘していました。
 
【事件の顛末】
 
二人組の事件の主犯は若い方の犯人が属するKGB経由で、ソ連、または中国、北朝鮮に技術情報を高値で売却しようと画策したため、ロスチャイルド一族の怒りをかって、新神戸駅裏手の山林で一週間の間を空けて、首吊り自殺を装って殺害されました(米国大使館員情報)。
 
なお、この首吊り自殺体に関しては、タコの知る限りでは神戸新聞と聖教新聞が報じています。
 
神戸新聞は地元ですから真犯人が任意同行で取り調べをうけ、ウソ発見器にかけられたことも知っているはずです。
 
そして、聖教新聞は朝鮮人新聞ですからね。ソン・テチャク=池田大作。

(以下、上の記事から転載)
 
少年Aの父親が開発したミサイルはかなり高性能なもので、これを「はるしお型潜水艦」に搭載すれば、まさに怖い者なし。
 
ロスチャイルドがこの機密を欲しがったけれども、少年Aの父親に断られ、怒り狂って復讐に出た、というのが「神戸連続児童殺傷事件」の真相なのです。
 
とはいえ、これだけでは本当にロスチャイルドが犯人であるとは断定できない、と仰る方もいらっしゃるかと思いますので、さらに話を続けます。
 
先ず、少年Aが犯人ではないという証拠から見てみます。
 
これは少年Aが殺害に使ったとされる凶器「金ノコ」からはっきりと言えることです。
 
しかし、これについては既に多くの人たちが詳しく記事を書いて下さっていますので、改めてここで書く必要もないでしょう。

冤罪!【神戸少年事件】の真相 – アメニモマケズ
 
私がここで問題にしたいのは、少年Aが新聞社に送ったとされる挑戦状の筆跡と、少年Aの本物の筆跡の違いです。先ず、このブログでは以前、以下のような切り抜きをご紹介したことがあります。

このように、犯行声明の筆跡と、少年Aの筆跡とは明らかに違うわけですが、さらに問題なのは、少年Aが新聞社に送った挑戦状と、かの「宮崎勤事件」の犯人の告発文が、どちらも似たような筆跡で書かれているということです。
 
(以下、こちらから転載)
 
■ 今田勇子と酒鬼薔薇聖斗の共通項
 
ところで、酒鬼薔薇聖斗の挑戦状と今田勇子の告発文とを並べてみると、文体に類似性を見出すことができる。わざとらしい癖文字なのだが、よほど慎重に書かなければこのような極端な癖文字で長文は書けないのではないか。

〈酒鬼薔薇聖斗の挑戦状〉

〈今田勇子の告発文〉

今田勇子と酒鬼薔薇聖斗は新聞社に犯行声明文を送りつけているのだが、その文面から察するに、犯行声明が正しく報じられないことに腹を立てている様が読み取れる。
 
酒鬼薔薇聖斗は被害者の口に咥えさせた犯行声明が正しく報じられていないことが神戸新聞社に犯行声明を送りつけた動機だとしている。
 
他方、今田勇子は捜査を担当する狭山警察署の署長が事実をちゃんと公表しないからと朝日新聞に告白文を送った。抗議は口実だろう。二人ともニュースが取り上げることを知った上で犯行声明文を新聞社に送っている。
 
さらに共通するのは犯行声明に欧米文化の匂いがすることだ。まず酒鬼薔薇聖斗の犯行声明だが、神戸新聞社に届いた封筒は宛名が上、住所が下に来ている。これは欧米文化の表れであり、日本では住所を上(先)に書くのが一般だ。

今田勇子の場合、犯行声明を書いた用紙がリーガルサイズというアメリカ政府の公文書に使われるサイズだったという。リーガルサイズは日本では一般的ではない。
 
もう一つ。両者に共通するのは、犯行声明文を当人が書いたのか証明出来ていない点だ。では一体誰が書いたのか。プロの犯罪集団が緻密に計算建てて作り上げたのでなかろうか。
 
今田勇子から酒鬼薔薇聖斗につながる系統は、脅威の流布を巻き起こし、良好な治安を維持する治安当局を増強させる役割をも担っている気がしてならない。
 
(転載ここまで)
 
「少年A」と「今田勇子」の筆跡をよく見てください。全く同じというわけではありませんが、特徴がよく似ています。同じような遊び方をしている、というのでしょうか。そんな感じが伝わってきます。
 
私がここでもう一つ問題にしたいのは、「狭山事件」の犯人が書いたとされる「上申書」の筆跡も、これまた非常によく似ているということです。(出典はこちら

これは「狭山事件」で犯人とされている「石川一雄」が書いた「上申書」です。
 
しかし、この「上申書」が書かれた昭和38年には、「石川一雄」はきちんと文字を書くことができませんでした。彼はもともと文字の読み書きができず、昭和42年から独学で読み書きを学ぶようになったのです。
 
はっきり言って、文字の読み書きができない人間が、上のような文字を書くことは先ずもって不可能です。ですから、この「上申書」は本人が書いたものではありません。(実際、多くの人たちがこの「上申書」を見て、読み書きの出来ない人がよくこれだけのものを書けたな、と言って驚いています。)
 
しかも、この「上申書」の筆跡を見てみると、なんとなく「少年A」や「今田勇子」の筆跡と特徴が似ています。
 
一応、他の文字に比べて字体がひどく崩れてはいますが、「石川一雄」が読み書きできないので、わざと下手な文字を書こうとしたわけでしょう。わざと下手な文字を書いた、という雰囲気が伝わってきます。
 
こんなことを言うと、筆跡鑑定をしたわけでもないのに、似ているとか似ていないとか言うな、などという人が出てきそうですが、はっきり言って、筆跡鑑定など最初から当てにはなりません。
 
警察が専門家たちを使って筆跡鑑定をしているにもかかわらず、この世では幾らでも冤罪事件が起きているからです。
 
ですから、筆跡鑑定など全く何の意味もありません。結局、最後の最後には我々のような素人が直感に頼るしかないのです。
 
それにしても、このように三つの事件の犯人がみんな同じような文字を書いたということは、一体、何を意味しているのでしょうか。
 
これらの事件に、全て同じ人間が関わっているということを意味してはいないでしょうか。
 
実際、「狭山事件」も「宮崎勤事件」も「神戸連続児童殺傷事件」もすべては冤罪のニオイがプンプンします。(「宮崎勤事件」については過去に記事を書きました。)
 
「オタクは異常」の原点となった宮崎勤事件も冤罪だった。この頃から既にマスコミと警察による事件のねつ造は始まっていた。
 
恐らく、実際にこれらの事件はすべて同一の人間、もしくは同一のグループによって引き起こされたものなのでしょう。
 
さらにもう一つ。
 
少年Aが書いたとされる挑戦状には、なぜか用紙の隅に「9」という文字が書かれてありました。

こちら」の記事によると、この少年Aの書いた「9」が、以下の世田谷で起きた事件と何かしら関係があるのではないかと指摘されています。
 
(以下、こちらから転載)
 
『9』を象徴した事件といえば世田谷「9」の字事件がある。

1988年2月に世田谷区立砧南中学校に9人の男が乱入し、警備員を監禁。
 
机447脚(椅子9脚)を校庭に数字の「9」の形に並べただけで被害者はいなかった。世田谷9の字事件である。
 
この不可解な事件は、数日後「日本帝国主義革命連合軍・別動・黒い九月一派」と名乗る声明文が砧南中学校に届く。
 
内容はジャニーズ事務所への警告とも取れるものであったが、後に逮捕された9人の実行犯と声明文は無関係であることが分かり、誰が送ったかは不明であるという。
 
校庭に並べた『9』の右下脇に椅子9脚を円状に置いている。これは『9』を『6』に見せないためのピリオドであるという。大した工夫である。
 
なぜ9の数字を象ったのか。世田谷9の字事件の主犯格Aは「1桁では最大で一番好きな数字だから」とその動機を説明する。

少年Aと全く同じことを言っているとは驚きだ。
 
この単純な動機に比べて執拗なまでの9へのこだわりはなんなのか。つまり、背後に指揮者がいたということではないか。主犯格Aはその後地上げ屋となり六本木に住みベンツを乗り回すようになったという。
 
黒い九月はミュンヘンオリンピック事件を起こし、イスラエル選手とコーチ11人を殺害した秘密テロ組織。ようは暗殺実行部隊である。1988年の世田谷9の字事件は、日本で暗殺部隊・黒い九月の別働隊が結成されたことを表しているのではないか。
 
酒鬼薔薇聖斗が犯行声明に示した9と世田谷9の字事件の9は繋がっているのではないか。今田勇子が起こした事件も、足利事件も世田谷9の字事件で犯行声明を出した黒い九月一派が起こしたのではないか。
 
(転載ここまで

私もかつて「佐世保女子高生殺人事件」がフリーメーソンによる犯罪であり、逮捕された女の子は犯人ではないという記事を書きました。
 
佐世保女子高生殺人事件は紛れもない冤罪です。悪魔崇拝者による報復殺人でした。
 
なぜそんなことが言えるかというと、「佐世保女子高生殺人事件」は、過去に起きた別の事件と幾つもの共通点があったからです。
 
それと同じく、「神戸連続児童殺傷事件」も、実は他の事件との類似性がいくつもあります。この世田谷「9」の字事件もその一つです。
 
というのも、この世田谷「9」の字事件の犯人も「神戸連続児童殺傷事件」の少年Aも、「1桁では最大で一番好きな数字だから」と、全く同じ発言をしたとのこと。そんな偶然があるわけありません。
 
「黒い九月」というのは、上の転載記事にもあります通り、「ミュンヘン・オリンピック襲撃事件」を起こした犯人グループの名前です。
 
特別暗殺チーム「黒い九月」が起こした「ミュンヘン五輪襲撃事件」
 
恐らく世田谷の「机」事件の犯人は、この事件から自分の名前をつけたのでしょう。
 
「ミュンヘン・オリンピック襲撃事件」といえば、イスラエル人のアスリート11人が殺害された事件であり、この事件を起こした「黒い九月」は「日本赤軍」のメンバーでした。「日本赤軍」といえば、まあ、「赤」ですからロスチャイルドですよね。(詳しくはこちら
 
ロスチャイルドといえば、イスラエルとはかねてから犬猿の仲です。何しろ、ロスチャイルド(天皇派)がヒトラーを使ってユダヤ人を迫害したわけですから。
 
満州国へのユダヤ人移民計画が失敗し、パレスチナにイスラエルが建国されるまで。または「河豚計画」が声を大にして語られない理由。
 
なぜユダヤ人は全世界で差別されながらも、一部では好待遇を受けているのか。「天皇派」と「教皇派」によるユダヤ人獲得競争のなれの果て。
 
この「黒い九月」の名前を使った犯行グループが、世田谷区の学校で「9」の字を書いた。

「神戸連続児童殺傷事件」の少年Aも、また犯行声明に「9」の字を書いた。
 
この少年Aは「神戸連続児童殺傷事件」の本当の犯人ではなく、ロスチャイルドこそが本当の犯人である可能性が高い……。
 
さらに言うなら、少年Aの挑戦状の文字は「赤」でしたね。
 
切り裂きジャックを真似して「赤」にした、と少年Aは供述しているとのことですが、切り裂きジャックもまた「ロスチャイルド」だったということかも知れません。
 
ということで、見事に一本の線でつながりましたね。
 
日本赤軍 = ロスチャイルド = 黒い九月 = 世田谷「机」事件 = 「9」の文字 = 少年A = 川崎重工 = ミサイル = ロスチャイルド
 
このように、悪人はいつも自分の足跡を残していくものなのです。
 
ちなみに、切り裂きジャックも実は「フリーメーソン」のメンバーで、「フリーメーソン」の犯罪についてはこんなことが言われています。

「フリーメーソンは暴力、テロ、犯罪を称賛する。ただし、巧妙に実行されることが前提条件だ。
 
ユーモアは何にもまして重要であり、多くの凶悪犯罪がユーモアのある仮面をつけて実行された。
 
(中略)
 
そこにあるのは、面自半分に残虐な犯罪を完遂しようという意図だ。
 
もし、フリーメーソンの大権が危機にさらされるようなことになっても、力を誇示することで再興すればよい。
 
暴力犯罪をもって、フリーメーソンのカがどれほど広範に及び、世界中に浸透しているかを示せばよいのだ」
 
(ステファン・ナイト『切り裂きジャックー-最後の解決』グラナダ・ブックス)

まあ、この世で起きる猟奇犯罪で、冤罪の可能性が高いものは、すべて「フリーメーソン」による犯行と思えば間違いないということです。

今や「神戸連続児童殺傷事件」の犯人は実は少年Aではない、という噂がネット上で急速に広まってしまった。
 
そのため、ロスチャイルドがこの件を火消しようと、「安倍晋三」を使って少年Aの手記を出版させることにしたわけでしょう。
 
「安倍晋三」は自らのブレーンである「幻冬舎」の見城徹に声をかけることにした……というのが、「絶歌」の出版に至る経緯だったというわけです。
 
このように、この世で起きた怪しげな出来事はすべて一本の線で結ばれていくわけですね。

転載ここまで

「平安京」が出雲族のために作られた都であるという確固たる証拠。大阪都構想を巡る「大和族」と「出雲族」の黒い思惑。

私はこれまで北朝の天皇が妙見信仰を持った「出雲族」であり、南朝の天皇がシリウス信仰を持った「大和族」である、というお話をしてきました。例えば、以下の記事などです。
 
坂本龍馬を暗殺した犯人は「三菱」関係者である可能性大。
 
今まで余り触れたことはありませんでしたが、北朝といえば「平安京」であり、南朝といえば「吉野」ですね。
 
南北朝時代 (日本) – Wikipedia
 
「平安京」といえば京都であり、「吉野」といえば奈良です。で、奈良はかつては「大和国」と呼ばれていましたので、南朝の天皇が「大和族」であるという私の理論はかなり信憑性が高いと言えます。
 
大和国 – Wikipedia
 
簡単にまとめると、こういうことが言えるわけですね。
 
■南朝 = 大和族 = 吉野 = 奈良 = シリウス信仰 = 南の星
 
■北朝 = 出雲族 = 平安京 = 京都 = 妙見(北極星)信仰 = 北の星

 
そこで、今日はもう一方の「平安京」について詳しく見てみたいと思います。今日の記事を読めば、「平安京」がどれだけ「出雲族」と深い関わりがあるのかがはっきりとお分かりいただけることと思います。
 
先ずはこちらの記事を御覧下さい。「平安京」に都を移した「桓武天皇」に関する記事です。

(以下、こちらから転載)
 
え~平安京遷都の話は既に紹介しましたが、今回は番外編として「平安京遷都のもう一つの理由」をご紹介しようと思います。
 
平安京へ遷都したもう一つの理由…それは桓武天皇に対して恨みを持った「怨霊」から逃れるためだったと言われています。
 
事実、桓武天皇は怨霊に対しての怯え方は異常で平安京の周囲に「結界(霊的なバリア)」を何重にも張り巡らせています。
 
以下にそれらを紹介したいと思います。
 
桓武天皇(山部親王)が登場してからの話の中ではチョットだけ触れていますが、この時代は様々な怨念が渦巻く時代でもあります。
 
例えば光仁天皇を呪い殺そうとしたと濡れ衣を着せられて幽閉された上殺されてしまった「他戸親王(おさべしんのう)」と母親の「井上内親王(いがみないしんのう)」。藤原種継暗殺の黒幕にされ、無実を訴えながら餓死した「早良親王(さわらしんのう)」。

これらは藤原氏などの策略により無実でありながら不幸な死を遂げてしまった人達ですが、もしかしたらこれら全ての策略の黒幕は桓武天皇自身であったかも知れません。
 
そして彼らの死後、都やその周辺に怪奇な現象が多く発生したり、桓武天皇の周りの者達が次々に謎の死を遂げたりといったことが起こり、これらはみな他戸親王・井上内親王・早良親王の怨念が原因ではないかとの噂が広まります。
 
事実(?)、桓武天皇の息子で皇太子でもある安殿親王が病気になり、その原因を占わせたら早良親王の怨霊のせいだとの結果も出ています。
 
こうなれば身に覚えがありすぎる桓武天皇はかなりビビッたことでしょう。

「次は自分の番とちゃうんか!?( ̄□ ̄;)」ってね。
 
そこで桓武天皇は怨念の渦巻く長岡京から一刻も早く脱出するため、中国に古来から伝わる占いの一種「風水」を用いて新都造営地を探させ、そして見つかったのが山背国葛野郡宇太村、つまり平安京だったと言うわけです。

この「風水」によると、「玄武(北)に 山があり、青龍(東)に河川があり、朱雀(南)に湖沼があり、白虎(西)に大道がある」場所が都を造るのに最適と言われていて、宇太村はその条件にぴったりだったんです。
 
ちなみにどうぴったりだったかと言いますと、

玄武(北の方角)…船岡山
青龍(東の方角)…鴨川
朱雀(南の方角)…巨椋池(おぐらいけ) ←現在は埋め立てられてありません。
白虎(西の方角)…山陽道
 
ね?ぴったりでしょ?(笑)
 
しかもこの4つの条件はいわゆる「結界(悪霊・怨霊から守る霊的なバリヤ)」の役目も果たしているそうで、これが理由になっているのかどうかは分かりませんが、平安京は以後1000年以上の間日本の首都となります。
 
しかし桓武天皇は「風水による結界」だけでは物足りず、平安京の周囲4カ所にあった「磐座(いわくら・古代の人々が神に祈りを捧げた巨石)」をわざわざ掘り起こし、「一切経」という悪鬼を退散させるお経をその下に埋め込み、平安京の周囲に新たに「結界」を張ったと言われています。

北…「大将軍神社」(京都市上京区西賀茂角社町)
東…「大将軍神社」(京都市東山区東山長光町)
南…「大将軍社(藤森神社)」(京都市伏見区深草鳥居崎町)
西…「大将軍八神社」(京都市上京区一条通御前西入ル)
 
ね?すごい念入りに結界を張っているでしょ?3重の結界ですもんね。(笑)
 
(転載ここまで)

この記事にはまだ続きがありますが、一旦、ここで区切ります。
 
見ての通り、「平安京」に遷都した桓武天皇は「天照大神」ではなく「スサノオ」を祀って、霊的な結界を張ったとのことです。
 

「出雲族」が「天照大神」ではなく「スサノオ」を拝んでいることは、これまで何度もお話してきましたね。例えば以下の記事などです。
 
「天照大神」と「スサノオ」の正体。またはルシファーの正体。彼らこそが悪魔の三位一体です。
 
空海も最澄も日蓮聖人も出口王仁三郎も深見東州も池田大作も同じ悪魔「サナト・クマーラ」を崇める妙見信仰者でした。
 
なので、桓武天皇が「出雲族」だったということは、ほぼ確実だと言っていいわけです。
 
では、さらに記事の続きを見てみます。

(以下、こちらから転載)
 
しかも平安京の「鬼門(古来より鬼が出入りするという悪い方角で北東のこと)」の方角に
 
「狸谷不動院」京都市左京区一乗谷狸谷

「上賀茂神社(賀茂別雷神社)」京都市北区上賀茂本山

「下賀茂神社(賀茂御祖神社)」京都市左京区下鴨泉川町

「上御霊神社」京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊堅町

「比叡山延暦寺」滋賀県大津市坂本本町

などなど、神道も仏教もごちゃ混ぜにして霊的な守りを固めます。もう効き目があれば宗教なんて何でもいいやって感じですね。(笑)
 
また桓武天皇は早良親王の島流し先の淡路島へ使いを派遣し早良親王の怨霊を鎮めるために魂鎮めを行い、「祟道天皇(すどうてんのう)」の贈り名まで与えています。(800年)
 
もちろん祟道天皇というのは贈り名ですから早良親王は実際には即位していません。
 
このように桓武天皇は怨霊に対して異常とも言える防御態勢をとっています。つまり平安京は桓武天皇を怨霊の魔の手から守るために造られた都で、怨霊を封じ込める仕掛けが幾重にも施されたいわば全体が結界になっている都であると言えるでしょう。
 
しかし呪術や怨霊から浄化されているはずの平安京の中では政権争いなどで政敵を抹殺するための「呪術」が流行し、それによって殺された人の怨霊を鎮めるための寺社を新たに建立するという「いたちごっこ」がこの後の歴史では繰り返されています。(笑)
 
(転載ここまで)

はい。ここで「狸谷不動尊」「上賀茂神社(賀茂別雷神社)」「下賀茂神社(賀茂御祖神社)」「上御霊神社」「比叡山延暦寺」が出てきました。

桓武天皇はこれらの神社仏閣を造って、さらなる霊的なガードを固めたとのことです。
 
実のところ、これらの神社仏閣はすべて「出雲族」と深く関わりのあるものばかりです。
 
先ず最初に出てくる「狸谷不動院」ですが、この本尊は「不動明王」とのこと。
 
狸谷山不動院 – Wikipedia
 
「不動明王」とは「真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されている」とウィキペディアには書かれてあります。
 
不動明王 – Wikipedia
 
ここで特に注目していただきたいのが、「日蓮宗」です。「日蓮宗」といえば「法華経」を唯一最高の経典としている宗派ですが、この「法華経」を信じる宗派は基本的にすべて「妙見信仰」と考えて間違いありません。
 
また、「真言宗」と「天台宗」はどちらも「密教」であり、「密教」もやはり「法華経」を重んじています。

特に「天台宗」では、日蓮宗と同じく「法華経」を最高の経典と見なしています。
 
天台宗 – Wikipedia
 
問題は「禅宗」ですが、これは「曹洞宗」や「臨済宗」などの宗派に分かれていて、これらの宗派はどれも「妙見信仰」です。

実際、「曹洞宗」にも「臨済宗」にも妙見菩薩を祀ったお寺があります。例えば以下など。
 
臨済宗方広寺派静岡県浜松市「正光寺」妙見菩薩霊場。
 
曹洞宗 妙見寺
 
つまり、「不動明王」が祀られた神社仏閣はすべて「妙見信仰」であると見て間違いないということです。

したがって、この「不動明王」が祀られた「狸谷不動院」もまた「妙見信仰」のお寺だというわけで、「出雲族」系のお寺であると言えるわけです。
 
さらに「上賀茂神社(賀茂別雷神社)」「下賀茂神社(賀茂御祖神社)」ですが、これらは文字通り「賀茂氏」の氏神をまつった神社です。
 
実はかの「徳川家」もこの「賀茂氏」の末裔でした。以下のウィキペディアの記事を見てみると、徳川家の本性は「賀茂氏」だとはっきりと書かれてあります。
 
徳川氏 – Wikipedia
 
「徳川家」といえば、「教皇派」のエリザベス女王と手を組んで「大和族」の勢力を押さえつけてきた「出雲族」の一大勢力でしたね。

地下鉄丸の内線とGHQと徳川家康とエリザベス女王とイエズス会の奇妙なつながり。東京の地下には教皇派の秘密施設も眠っている。
 
徳川家康が行った鎖国とキリスト教禁教令の本当の意味。果たして徳川家康は悪魔崇拝者だったのか。
 
織田信長と豊臣秀吉が日本を「大和族」の天下にし、徳川家康が「出雲族」の天下へとひっくり返しました。
 
ですから、「上賀茂神社」も「下賀茂神社」もまた、どちらも「出雲族」の神社であることは間違いないと言えるわけです。
 
さらに「上御霊神社」ですが、これもウィキペディアを見てみると、「現在の下御霊神社を下出雲寺御霊堂、当社は上出雲寺御霊堂と称した。」と書かれてありました。

これは分かりやすいですね。完全に「出雲系」の神社です。
 
上御霊神社 – Wikipedia

最後の「比叡山延暦寺」ですが、これは「天台宗」のお寺であり、「天台宗」と言えば、先ほども言いましたように「法華経」を重んじる宗派です。

「法華経」といえば「妙見信仰」で、「妙見信仰」といえば「出雲族」。

こうして見てみると、桓武天皇が建てた神社仏閣はすべて一つ残らず「出雲族」と深く関わりがあるということが分かります。もはやこれを単なる偶然と呼ぶことはできませんね。
 
しかも、かの徳川家康が居住した「江戸城」は「平安京」をモデルにして建設されたと言われています。

江戸を大都市にした天海は、何を仕掛けたのか | PHPオンライン 衆知|PHP研究所
 
先ほども言いましたように、徳川家は「出雲族」ですね。この「江戸城」を設計したのが「天海」で、彼もまた「天台宗」の僧でした。
 
天海 – Wikipedia
 
何度も言いますように、「天台宗」は「妙見信仰」です。
 
さらに、「平安京」は「風水」に基づいて厳密に設計されたと言われていますが、実は「江戸城」もそれに負けず劣らずかなり厳密に「風水」に基づいて設計されています。
 
この「風水」は「陰陽道」などにも取り入れられていて、この「陰陽道」もまた「妙見信仰」と深い関わりがあります。
 
現首相・安倍晋三のルーツが陰陽師「安倍晴明」であり、「出雲族」である可能性について。
 
このように、「平安京」に関わること全てが何から何まで「妙見信仰」と深い関わりがあるのです。つまり、「平安京」とは「出雲族」によって作られた「出雲族」のための都だったというわけです。
 
しかし、こうして「平安京 = 妙見信仰 = 出雲族」という法則が分かってくると、一つ問題になってくるのは、なぜ次期天皇である「皇太子」がこの「平安京」に移住しようとしているのか、ということです。
 
「皇太子」が次期天皇として即位すると同時に、「平安京」に移住するであろうことはもうほぼ確実なことです。
 
次期天皇の即位とともに関西への遷都が始まります。彼らは天皇を中心とした「神の国」を樹立していくつもりでしょう。

もっとも、彼は「平安京」に移住するつもりではなく、実は「吉野」に移住するつもりなのかも知れませんが、例えそうだとしても、私がもう一つ気になっているのが皇太子妃・雅子様のことです。
 
雅子様の家族は「創価学会員」であり、彼女の父親は国際司法裁判所の判事として活躍していた際、「教皇派」にとって有利な判決を下しています。
 
皇太子妃の雅子様が疎んじられ、秋篠宮家の佳子様ブームが起きている最大の理由。
 
「創価学会」といえば「法華経」だけを唯一最高の経典とする「妙見信仰」の宗教です。つまり、雅子様は完全な「出雲族」だと言えるわけです。繰り返すようですが、この「出雲族」はこれまで何度も「教皇派」と手を組んで、「大和族」の勢力を押さえつけてきました。
 
そして、雅子様の父親である小和田恒もまた、まさにそれを地で行くように「教皇派」に荷担して、国際司法裁判所の判事として「大和族=ロスチャイルド」にとって不利な判決を下してしまったわけです。
 
雅子様がこれまでずっとマスコミやネットで激しくバッシングされてきたのも、実はそのせいだったとも考えられるわけですね。
 
こうなってくると、もしや次期天皇である皇太子は「出雲族」なのではないか、という疑いが出てきます。
 
そもそも、「皇太子妃の雅子様が疎んじられ、秋篠宮家の佳子様ブームが起きている最大の理由。」の記事の中でも書きましたが、皇太子が今の天皇の血を引いているのかどうかも大いに疑問です。
 
しかも、今上天皇にしても、実はその奥様である皇后・美智子様はまぎれもない「出雲族」です。なぜなら、彼女の家族である「正家家」の工場には「白山神社(出雲族の神社)」が祀られているからです。詳しくは以下のリンクを御覧下さい。
 
安倍晋三の先祖はロスチャイルドの手先であり、麻生太郎の先祖はロスチャイルドそのものである可能性大。実は小沢一郎も……?
 
ということは、今上天皇も「出雲族」なのかと疑ってしまいますが、まあ、これについては今のところ即断するわけにはいきません。

しかし、さらに気になるのは、「大阪都構想」をこれまでずっと主張してきた橋下徹が、なぜか今、安倍晋三とかなり猛烈な勢いで仲良しになっていることです。
 
首相、橋下氏と会談 安保法案でf協力要請か  :日本経済新聞
 
安倍晋三はもともと「出雲族」出身である可能性が非常に高い人物です。
 
なぜなら、彼は「清和会」に属して、アメリカに媚びを売るような姿勢を大々的に示してきましたし、アメリカに媚びを売るのは、いつの時代も「出雲族」と決まっていますからね。
 
自民党推薦の憲法学者全員が国会で「安保法案」を違憲と表明した裏のカラクリ。
 
しかも、もし今回の「大阪都構想」が実現していれば、アメリカからカジノ利権などを誘致する予定になっていたわけですし、明らかにこの「大阪都構想」はアメリカの「教皇派」にとっても有利となり得るような政策でした。
 
つまり、「大阪都構想」を主張し、日本の首都を東京から関西へと移そうとしていたのは、実は「出雲族」であった可能性がとても高いわけです。
 
しかしながら、この「大阪都構想」は見事に頓挫してしまった。果たしてこれは「大和族」の攻撃によるものだったのか。それとも「教皇派」の攻撃によるものだったのか。
 
アメリカの「教皇派」の中に、カジノ利権で一儲けしようとしていた勢力がいたことは確かなことですが、やはり彼ら全員が「大阪都構想」に賛同していたわけではなかった可能性はなきにしもあらずですからね。
 
ということは、やたらと福島の放射能汚染を賑やかに騒ぎ立てて、「東京は危険」と主張している人たちは、実はみんな関西に遷都したがっている「出雲族」だということなのでしょうか。
 
福島の放射能汚染など大したことがないと言って、東京を首都のままにしたがっているのが「大和族」であるとか……。その可能性はなきにしもあらずです。
 
この辺のことはさらなる調査が必要ですね。

転載ここまで

日本と古代エジプトと悪魔崇拝のつながりが一発で分かる幾つもの物的証拠。

このブログでは、これまで日本の天皇家が古代エジプトからやってきたというお話を何度もしてきました。例えば以下の記事などです。
 
古代エジプトの太陽信仰=悪魔崇拝が、現在の日本の天皇家へと流れ着き、天皇家を最大級の財閥にするまで。
 
日本が世界最古の悪魔崇拝の聖地であるという幾つもの証拠。
 
一応、これらの記事の中でも、古代エジプトに日本の天皇家の「菊花紋」があったことをお話していますし、これだけでも古代エジプトと日本の天皇家とに何らかのつながりがあることがお分かりいただけるかとは思いますが、今日はこれとは別に、古代エジプトと日本とのつながりを示すさらに多くの証拠を皆さんにご紹介したいと思います。
 
はっきり言って、このような数々の証拠がこれまで日本で余り公表されてこなかったのは、天皇家がこのことを我々国民に余り知られたくないと思っている証左ではないかと私は考えています。
 
現在、日本国内では日ユ同祖論がブームになりつつあり、日本と古代イスラエルとに深いつながりがあるということは、今ではもう誰も疑う者はないというぐらい有名な話になりつつあります。
 
では、なぜ日本国内でこのようなブームが急速に起きたのかといえば、前にも書きました通り、天皇家がユダヤ人たちのご機嫌をとって、日本とイスラエルの関係を修復しようとしているからだと考えられます。詳しくは以下のリンクを御覧下さい。
 
なぜユダヤ人は全世界で差別されながらも、一部では好待遇を受けているのか。「天皇派」と「教皇派」によるユダヤ人獲得競争のなれの果て。
 
しかしながら、つい一昔前までは、日ユ同祖論について少しでも口にしようものなら、それだけで多くの人たちから頭がおかしいと思われたものでした。
 
結局のところ、テレビや新聞が大々的に報じれば、人々の中でそれが常識となり、テレビや新聞が報じなければ、それは全てエセ情報という風に認識されてしまうということなのでしょう。
 
今のところ、古代エジプトと日本とのつながりについても、テレビや新聞がほとんど報じないので、「天皇家はもともとエジプトにいた」などと話しても、ほとんど誰も信じてはくれない状況になっています。
 
なので、今日はそんな現状を打破すべく、古代エジプトと日本につながりを示す確固たる証拠をはっきりと目に見える形でお見せしたいと思います。
 
これらの物的証拠を見れば、どこからどう見ても、日本と古代エジプトに深いつながりがあることが一発で理解できるはずです。
 
なお、今日ご紹介する画像はすべて「天皇 – スメラの秘密 天皇と大和民族、そして日本のルーツを探る」というサイトから拝借いたしました。
 
このサイトは昨年の夏に一つだけ記事を書いて以来、ずっと更新もされずに放置されたままになっています。なので、これはもったいないと思い、こちらのブログに転載させていただくことにしました。
 
先ずは、古代エジプトと「日の丸」の関連性からです。
 
古代エジプトでは「太陽神ラー」が崇められていましたが、このことは有名な話ですね。
 
ラー – Wikipedia
 
実はこの「太陽神」は古代エジプトでは「日の丸」として描かれていたのです。
 
日本人は平素から当たり前のように「日の丸」を目にしているので、太陽を描く際には丸を描き、それを赤く塗ることが常識となっているかも知れません。
 
しかし、海外の絵画を見ればお分かりになると思いますが、太陽を描く際にそれを赤く塗る人はそうはいません。普通はみんな黄色やオレンジに塗ります。赤く描くと、「夕日」になってしまうからでしょう。
 
古代エジプトで描かれた太陽はどれもすべて「赤」く描かれています。しかも、その描き方が西洋画のようではなく、まるで日本の「浮世絵」のようであることがお分かりいただけると思います。

また、以下の画像を見てみると、いわゆるフリーメーソン(悪魔崇拝組織)のマークが、エジプトのピラミッドと「日の丸」の掛け合わせであることが分かります。

なお、現在では、フリーメーソンのマークはピラミッドと「目」の掛け合わせになっていますが、この「目」ももともとは「太陽神」の目を表していたと考えられます。

ちなみに、この目のことを一般には「ホルスの目」と呼びます。
 
ホルスの目 – Wikipedia
 
いずれにせよ、フリーメーソンのマークは、ピラミッドと太陽(太陽神)から成り立っているということですね。
 
また、私はかつて日本こそが世界最古の悪魔崇拝の聖地であるというお話をしたことがありますが、この日本には古くから「山岳信仰」がありました。出雲族が信仰している「白山信仰」もその名残です。
 
彼らはこのように古代から「山」を聖なるものと考えて拝んでいたわけですが、エジプトにはもともと山がなかったので、ピラミッドを造るしかなかったのかも知れません。
 
あるいは、日本にある数々の「山」も実はもともと人工的に造られたものだったのかも知れませんね。

あと、このサイトでは、古代エジプトと日本の共通点として以下のようなものも取り上げています。アンク十字と前方後円墳が似ているというのは、知る人ぞ知る有名な話ですね。

あと、神道の儀式である「大祓」の茅くぐりが、古代エジプトの「ウロボロス」に似ているとのこと……。「ウロボロス」というのは、蛇が自分の尻尾に噛みついた図のことです。
 
大祓 – Wikipedia
 
ウロボロス – Wikipedia

あと、こちらも面白いですね。

このサイトを作った方は、この「大」という字を「星」ではないかと推測しています。確かに京都の「五山送り火」で描かれる「大」という文字は、北辰(北極星)を表しているとも言われていますので、あながち間違いではないかも知れません。
 
ただ、私がこの「大」という字を見ていて思ったのは、日本を意味する「大和」という言葉は、もしかしてここに由来があるのではないか、ということでした。
 
「大」プラス「日の丸 = 輪(日の丸は輪ですから) = 和」で「大和」となりますからね。もっとも、これは単なる私の推測に過ぎませんが、あながち間違いではないのではないかという気もします。
 
第一、「大和」と書いて「やまと」と読むことはできませんからね。
 
「やまと」というのは、古代ヘブライ語で「神の民」を意味する「ヤ・ウマト」から来ているという説がありますが、この「ヤ・ウマト」に古代エジプトの言語をこじつけたのではないかという気がしないでもありません。
 
あるいは、「大和」という言葉には、我々の知らない何か別の意味(古代エジプト人にしか分からないような意味)が隠されているのかも知れません。
 
また、他に気になるのが、一番最後の画像に描かれている男性の絵です。なぜかやたらと「男性器」が大きく描かれています。何か性的なものを感じますね。
 
古代エジプトの支配者たちが悪魔崇拝者だったという私の説が正しければ、当然、彼らが乱交パーティのようなことを普段から行っていた可能性は高いです。ですから、この絵に何かしら性的な意味合いが含まれている可能性もやはり高いと言えます。
 
しかし、古代エジプトの人たちは本当に普段からそんな淫乱な儀式を行っていたのか……。
 
これについてはまだ疑問に思われている方も多いかも知れません。

上に出てきた「大祓」の茅くぐりも、なんとなく「女性器」を表しているのではないかという気がしてきました。「神社」の造りも、実は女性の体を表していることが分かっていますし、あり得なくもない話です。

鑑定日記110905

このように日本と古代エジプトはどこからどう見ても深いつながりがあり、なおかつ悪魔教とも深い関係があります。今日のこの記事でそれがさらにはっきりと分かっていただけたのではないでしょうか。

一部転載ここまで

出雲大社とピラミッドの余りに奇妙な共通点。出雲大社は「大国主」を侮辱するために作られたものなのか。

日本と古代エジプトと悪魔崇拝とのつながりをはっきりと示す物的証拠の数々を皆さんにご紹介いたしました。
 
日本と古代エジプトと悪魔崇拝のつながりが一発で分かる幾つもの物的証拠。
 
そこで今日はもう一つ、日本と古代エジプトのつながりを示すさらなる物的証拠を皆さんにお見せしたいと思います。
 
皆さんは「出雲大社」をご存知でしょうか。
 
まあ、知らない人はいないと思います。少なくとも名前ぐらいは聞いたことがあるでしょう。
 
そもそも、このブログでは「大和族」と「出雲族」とが互いに争い合ってきたということを何度も繰り返し話してきましたので、「出雲大社」と聞けば、「出雲族」に関係のある神社なのだろうということは容易に想像できるはずです。
 
ええ、そうです。この「出雲大社」は「出雲族」の神様である「大国主」が祀られている神社です。
 
「大国主」というのはスサノオの息子のことですが、そのため、この「出雲大社」ではかつてはスサノオが主神として祀られていたこともあったそうです。
 
出雲大社 – Wikipedia
 
この「大国主」が「大和族」の神々の前で屈服して、この国の支配権を「大和族」に譲り渡したことから、「出雲の国譲り」なんて神話が作られたりもしたわけですが、それもあって、この「大国主」は今ではもうこの国の支配権を持ってはいません。
 
にもかかわらず、「大国主」を祀っている「出雲神社」は、その本殿が24メートルという日本一の高さを誇っています。(もっとも、仏閣まで含めると、奈良の東大寺大仏殿(金堂)が最も高い(48メートル)そうです。)
 
しかも、この「出雲大社」はかつてはそれ以上にもっと高かったとさえ言われているのです。
 
どれぐらい高かったのかというと、中古の時代(中世)には16丈(約48メートル)あって、さらに古い時代(上古・大化の改新より以前)には32丈(約96メートル)もあったとも言われています。

もちろん、そんな大昔にそんな高い建物を建てることが本当にできたのか、と多くの人が疑問に思っていたのですが、2000年に発掘調査をしたところ、これが事実であることを証明するような巨大な柱が発見されました。それが以下になります。

大きさはこれぐらいです。

このときの新聞記事が以下になります。

現在、この柱は誰でも見られるように展示されています。

また、もともと柱のあった場所にはきちんと印がつけられています。

これを見ればお分かりになる通り、この柱は三本の柱をセットにして一つの柱の役割を果たしていました。しかも、よくよく見てみると、この柱の断面は日本の家紋である「丸に三つ星」の形になっています。

この家紋の由来を調べてみると、

「太陽、月、星など、天体は運命を司る神として古来から信仰の拠り所。
 
星では、天にあって唯一動かない天体「北極星」、その周りを廻る「北斗七星」は古来から信仰の対象となってきた。
 
また三つ星は勝ち星といって、戦いに勝つ三つの大将を表わす。故に、オリオンの三つ星(将軍星)も信仰されていた。」
 
とありました。(出典はこちら
 
要するに、この「丸に三つ星」の家紋は、「北斗七星」でもあり「オリオン座」でもあるというわけですね。

私の調べでは「北極星(または北斗七星)」は「出雲族」の信仰の対象であり、「シリウス(またはオリオン座)」は「大和族」の信仰の対象ということになっていますので、この場合、「出雲大社」にあった柱は「北極星」を表すものであると考えられます。
 
これについては実は異論があります。ここにはもっと深い意味が隠されている可能性があるのです。
 
しかし、その話は後回しです。
 
先ずここで問題になってくるのは、古代の出雲大社の「本殿」が、古代エジプトのピラミッドの内部にある「大回廊」と全く同じ大きさ、全く同じ形をしているということです。
 
(以下、こちらから転載)
 
私は、以前、何度も島根にいっていた時期があり、出雲大社は一度しか言ったことが無いが、上古代の大社本殿の復元図を最初に見た瞬間から

『あれ?』っと思った。
 
なんかに似ている。。。みたことあるな。。。
 
そして、あるとき、その何かに気付いてしまった。

エジプト、ギザにある大ピラミッドの内部にある大回廊と、それは、とてもよく似てるのである。
 
重力拡散の間の作りが大社の本殿(屋根まである)。そして大回廊が本殿へと続く長い回廊。。。
 
調べた結果、なんと!

実は、大ピラミッドの王の間と大回廊の構造は、古代の出雲大社の神殿の大きさや高さ、それに至る回廊と、古代出雲大社の本殿の高さと、大ピラミッドの玄室及び重力拡散の間の高さが同じである!という事実。

しかも、玄室へ続く大回廊の長さと角度が、出雲大社の本殿へ続く長い階段と同じなのである。
 
これは、どう考えてもあきらかに、大ピラミッド建造にかかわった建築士が、日本まで来たか、あるいは、その逆、日本の出雲大社を作った人々が、エジプトに行ってピラミッドを作ったか。の、どちらかしかない。
 
実は、エジプトにはピラミッド建造について、古くから言い伝えが残っている。
 
それは、紀元前300年ごろ実在した神官マネトが残したとされる記録で、こんな一節があったという。
 
「不思議な方法によって、東方から訪れた高貴な人々が、エジプトにピラミッドを残して去っていった」
 
建造方法や目的が謎に包まれているギザの三大ピラミッドを建設したのは、古代エジプト人ではなく、東方からやってきた人々であるというのだ。
 
そして、スフィンクスが顔を向ける

真東の遥か延長線上に、日本がある。。。
 
古代の歴史浪漫というか、超古代には不思議な話がいっぱいあって、それはなんだか隠された真実と繋がってる気がするんだよね。
 
(転載ここまで)
 
以下は、「中古」の時代にあったとされる48メートルの高さの「出雲大社」の復元模型です。人の大きさと比べると、かなり大きなスケールの建物であることが分かります。

しかし、「上古」の時代には、この倍の96メートルもの高さがあったというのですから、もともとの「出雲大社」がいかに巨大な建築物であったかがよく分かります。
 
そして、それと全く同じ構造をしたものが、古代エジプトのピラミッドの中に「大回廊」として作られていた……。
 
となれば、上の転載記事にもありますように、日本と古代エジプトには何らかのつながりがあったとしか考えられません。つまり、両国にはかなり深い交流があったに違いないのです。
 
さらに言うなら、ピラミッドの内部にある「重力軽減の間」の構造は、漢字の「高」と同じであるとも言われています。

しかし、このような明白な事実を、なぜか「出雲大社」関係者も、また皇室関係者もほとんどおおっぴらにしません。なぜなのでしょうか。古代エジプトと日本のつながりがバレてしまうと、何かマズイことでもあるのでしょうか。
 
しかも、この「大回廊」の作られた大ピラミッド(クフ王のピラミッド)は、「オリオン座」と深い関わりがあることも分かっています。その証拠が以下の図です。

このように「クフ王」のピラミッドと、「カフラー王」のピラミッド、「メンカウラー王」のピラミッドは、三つ並べると、「オリオン座」の中央にある「三つ星ベルト」と同じ配置をしているのです。
 
さらにはこんなことも分かっています。

ピラミッドには、「王の間」と「王妃の間」と呼ばれる部屋があって、それぞれの部屋から北と南に通気孔のような孔(シャフト)が開けられています。
 
「王の間」から北に伸びるシャフトは、当時の「北極星」りゅう座を指しています。
 
その一方、南に伸びるシャフトは、当時の「オリオン座」の三ツ星の左下のζ星(クフ王のピラミッドにあたる星)を指しています。
 
つまり、エジプトのピラミッドは「北極星」も「オリオン座」もどちらも拝めるように作られていたわけです。
 
しかも、上の画像を見てもお分かりの通り、このピラミッドは「シリウス」も拝めるようになっています。
 
ということは、古代エジプトでは「大和族」と「出雲族」がお互いに仲良くやっていた可能性がとても高いということですね。

ところが彼らは、エジプトから日本に渡ってきたとたん、早々とケンカをはじめてしまった。「出雲族」が「大和族」に負けて、日本の支配権を譲り渡してしまったわけです。
 
そのため、最初に建てられた巨大な「出雲大社」が「大和族」によって破壊されてしまった。
 
「出雲族」はやむなくその後、そのおよそ半分の高さの「出雲大社」を建てることにしたのかも知れません。

その「出雲大社」も日本一の高さを誇っていたため、「大和族」の逆鱗に触れて、同じように破壊されてしまった……のかも知れません。
 
しかし、実はこれとは全く別の考え方をすることもできます。
 
というのも、一説によると、この「出雲大社」はわざと参拝者に「大国主」を拝ませないような作りになっていると言われているのです。
 
つまり、「大和族」がわざわざ「大国主」を侮辱するために、この「出雲大社」を作ったかも知れないというわけです。

出雲大社は怨霊の神社?

もちろん、これはあくまで一つの仮説に過ぎないのですが、国の支配権を失った「出雲族」が、日本で最も高い「本殿」を作るというのも、確かにおかしな話ではあります。
 
なので、この説の通り、「出雲大社」は「大国主」を怒らせるために、あるいは侮辱するために作られた可能性もなきにしもあらずなのです。
 
その事実を知った「出雲族」が怒り狂って、最初に建てられた「出雲神殿」を破壊してしまった。
 
しかし、「大和族」はそれに懲りずに、今度はその半分の高さの「出雲大社」を作った。(なぜ半分にしたかというと、古代の人たちの方がそれだけ高い技術を持っていたということなのかも知れません。)
 
これまた「出雲族」が怒り狂ってそれを破壊してしまった。
 
「大和族」は性懲りもなく今現在残されている「出雲大社」を建てることにした、ということなのかも知れません。

そうなってくると、先ほども言いましたように、「出雲大社」の柱の断面図である「丸に三つ星」は、実は「出雲族」の拝む「北極星」ではなく、「大和族」の拝む「オリオン座」を表していたとも考えられなくはありません。
 
「大和族」が本当に「大国主」を侮辱するために「出雲大社」を建てたのであれば、そういうことになりますよね。
 
それにしても、ピラミッドの専門家と呼ばれている「吉村作治」氏は、どうしてこういうことをきちんと調べて公表してくれないのでしょうか。彼は一体、ピラミッドの何を調べているというのでしょうか。

〈吉村作治氏〉

やはり彼はこういった事実を隠蔽するために配置された御用学者に過ぎないのでしょうか。
 
なんとなくそんな気がしてなりませんね……。

転載ここまで

いかがでしたでしょうか。

悪魔崇拝の成れの果てには、もう人間ではなくなってしまいますね。

悪魔に魂を売り渡し、欲望のままに生きていくのであれば、その先に待っているのは地獄です。

間違った神を崇めたら、魂は悪魔になってしまうのです。悪臭を放ち、獣のように変質していってしまいます。

そうならないように、罪を悔い改め、日々神様に祈り求めてください。

このブログで、rapt理論に辿り着いた方は幸いです。

旧約聖書

詩篇 22ー23~32

わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します。

主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。

主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。

それゆえ、わたしは大いなる集会で、あなたに賛美をささげ、神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。

貧しい人は食べて満ち足り、主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。

地の果てまで、すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。

王権は主にあり、主は国々を治められます。

命に溢れてこの地に住む者はことごとく、主にひれ伏し、塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。

わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来たるべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう。

詩篇 23ー1〜6

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。

主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。

死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。

あなたがわたしとともにいてくださる。

あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。

わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。

わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。

命ある限り、恵と慈しみはいつもわたしを追う。

主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。

神様と、共に生きていきます。

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