「狂人たちが築き上げた世界から抜け出す」方法
皆さん、こんにちは。
連日のように、日本全国で火災が発生、無差別殺人事件、思いも寄らないような事故など、信じられないような出来事が頻発しています。
そして、テレビ局が窮地に陥るという前代未聞の状況に、公開10時間越えの記者会見。文春がしれっと記事を訂正、フジテレビの社員が誘ったのではなく、中居本人が誘ったと。ですが、中居のやった行為は間違いないことで、元アイドルが淫らな行為で自滅し、この汚れた事情に、「中居気持ち悪い」「もう見たくない」という意見がSNSで増えています。
裏ではそんなことをしていたんですね‥とファンでなくとも興醒めです。
これまでに、どれだけのアナウンサーが献上されてきたのでしょうか‥。
日本の芸能界は、本当に気持ちの悪い世界です。
欲に塗れ、権力を乱用して、女性たちに性接待させるという。
ジャニーズでは、男の子たちが犠牲になってきました。ジャニー喜多川の性被害に遭いながら、一方では、女の子たちにキャーキャーと崇められる‥。おかしな世の中です。
おそらく、上級国民の血筋であるSMAPは被害に遭っていないでしょうね。
それから最近、アメリカのロサンゼルスで大規模な火災が発生しました。
これは放火であり、「ハリウッドの小児性愛者たちの証拠隠滅だ」とアメリカの俳優がバラしています。
実際のところ、すでにセレブたちは逃げていたとのことです。小児性愛者たち(表の顔はセレブ)のやっていることも、相当な気狂い沙汰です。
地位や権力、お金欲しさに成功したいがために、悪魔を崇めてサタンの言う通りに生きると、最終的には生贄、血を流せ、人間を苦しめろとなります。
これは、人間そのものを憎悪しているサタンの習性です。「神様」という存在が人間を愛しているので、人間は、生まれた時から「サタン」に憎まれる存在なのです。
こちらの記事をお読みください。
筆者の学生時代、ハリウッド全盛期の映画ではクリスチャンの主人公が多く、何かあるたびに「神様!」とか「主よ、助けてください!」というセリフが当たり前のように出てきました。
米国では、誰でも素直に神様に助けを求めるものなのだ‥と思っていました。クリスチャンの外国人は、困っている人がいたら助けようとする人が多いとか。
ついこの前、俳優・監督のメル・ギブソンが手掛けるイエス・キリストの映画「パッション」の続編があるとニュースになりました。
メル・ギブソン、映画『パッション』続編は「幻覚体験のよう」 2026年に撮影開始か
トランプ政権により、ハリウッド特命大使に任命されたメル・ギブソン。
2004年の映画、「パッション」が公開停止という動きがあったということを本人が明かしており、クリスチャンの多い米国が、キリスト教を迫害するという事態に陥っています。
もしかして、続編では「回復の歴史」を題材にするのでしょうかね。
それはさておき、「サタン」つまり「悪魔」が存在し、地上界で暴れてきたということは間違いのない事実です。
昨年のブログで「サタン」が映り込んでいる写真を、あえて公開しました。
別に、載せなくてもいいものです。
何故そうしたのか?人間を憎んでいる存在が、現実にいるということを伝えたかったのです。
悪魔たちは、神様を信じる義人が救われ、天国に行くことを嫌います。
神様を信じない人たちは、ただ標的にされずにサタンに放っておかれていましたが、サタンは「人間たち」を痛めつけようと、暴挙に出ています。そして、地獄に道連れにするために、罪を犯すようにするでしょう。
詳しいことは、中心者が全て「御言葉」でお伝えしています。
サタンと戦ってきた義人たちは、サタンに打ち勝つ方法を御言葉によって学び、義の条件をひたすら立て、サタン不可侵の体となれるように実践してきました。
写真を公開した後に、もう和太鼓のようなラップ音が、数秒ごとにドオンドオンと連続して鳴り響き、その度に心臓がギュウッと締め付けられました。
サタンは、霊的にも肉的にも人間を痛めつけることができます。救われるためには、神様により頼んで強い信仰を持つことです。これまでずっと、サタンと戦ってきたから言えることです。
神様は義人を愛し、たくさんの聖霊を地上に送り出し、強力に守るよう働いてくださっています。神様、天使天軍、聖霊のためブログを続けています。
「旅」をするごとに、ますます信頼は深まっていきました。御心であったら、神様は必ず守ってくださいます。その時は、全く意図が分からなくても、後から意図がわかったり、御心がわかって向かう場合もあります。
中心者は、たくさんの練達を受け、真理を悟って神様の御心を成してきました。
だからこそ、多くの人々に真理を伝えることができるのです。
こちらの記事をお読みください。
RAPT有料記事901(2025年1月27日)イルミナティとサタンが人類を滅ぼそうとしているのに、その事実を知らず、知ろうともしなかったら、どうして人類の滅びを止められるだろうか。
この世にはサタンが存在し、そのサタンを拝むイルミナティが存在しています。
そして、サタンもイルミナティもともに人類を滅ぼそうと計画し、実際にこれまでもその計画を実行してきましたし、今でもその計画を実行しようとしています。
人々が「まさかそんなわけがない」といくら言い張っても、これが厳然たる事実であり、実際に人類はサタンとイルミナティの思うままに滅亡へ向かって一直線に突き進んでいます。
コロナ禍を経て、ようやくこの世の多くの人々がこの事実になんとなく気付きつつありますが、それでも未だに多くの人々がこの事実を認識することなく、「自分が不幸なのは自分のせいだ」とばかり思い込み、不安と心配、失望と落胆の中で生きています。
そんな彼らの滅びを止めるためには、ただ彼らに真理を述べ伝える以外に方法がありません。
真理を知ることで、私たち人類はサタンやイルミナティから自分の身を守る方法をはっきりと学ぶことができるからです。
この世の多くの人々が真理を知り、自らの滅びを止めて、この世でもあの世でも幸福な人生を歩むことができますことを心から祈ります。
ーーーーーーー続きはこちらから
続いて、こちらのRAPT理論を転載します。
キリスト教最大のタブー。イエス・キリストの「肉体」が生き返ったという大嘘。
ここ最近、キリスト教に関する記事をいくつも書いてきましたので、この際ですから、今回はキリスト教最大のタブーに迫ってみたいと思います。
私のブログにはキリスト教のことが沢山書かれてありますので、もしかしたら多くのクリスチャンの方がこのブログを読みに来て下さっているかも知りません。
そして、そのクリスチャンのほとんど(というかほぼ全員)が、聖書に書かれてあるイエス・キリストの復活をそのまま信じているのではないかと思います。
つまり、イエスが死んだ後、三日後に生き返ったと信じているわけです。
さらにはそのイエスが、四十日後に天に昇っていったという話まで信じているのではないでしょうか。それを信じなければ、クリスチャンではないと言われてしまいますからね。
しかし、はっきりと言います。
死んだ肉体がどうして再び生き返ることができるでしょうか。
特にイエス・キリストは十字架に磔にされて衰弱死してしまったのです。
手のひらと足首とに大きな釘を打たれて十字架に磔にされましたので、当然、大量の出血があったことでしょう。ですから、出血多量で死んだとしてもおかしくはありません。
十字架刑というのはそのような残酷な刑なのです。
しかも、イエス・キリストは十字架に磔にされるまで、さんざん激しく鞭を打たれました。
その鞭には鉄製のカギのようなものが沢山ついていましたので、鞭打たれるたびに肉がむしり取られ、かつ大量の血が飛び散りました。
しかも、イエスの頭には茨で作った冠まで被せられましたので、頭からも大量の出血があったはずです。
詳しくはメル・ギブソン監督の「パッション」という映画をご覧になってみてください。
この映画は、イエス・キリストが鞭打たれて十字架刑によって死ぬまでの過程をかなり具体的に映像化したもので、日本では余りヒットしませんでした(というか、相手にもされませんでした)が、アメリカなどのキリスト教国では空前の大ヒットを飛ばしました。
その映画の一部映像が以下になります。
このようにイエス・キリストは普通ではない悲惨な死に方をしました。
にもかかわらず、イエス・キリストの「肉体」がどうして生き返ることがあるでしょうか。
いえ、仮に生き返ったとしても、こんなボロボロの「肉体」がまともに機能を回復したりするでしょうか。
普通に考えれば、絶対にそんなことはあり得ません。
にもかかわらず、クリスチャンの多くが、イエスの「肉体」が三日後に生き返ったと信じています。
まあ、仕方がありません。確かに「聖書」にはイエス・キリストが死んだ後、イエスが弟子たちの前に再び現れたとはっきりと書かれてありますからね。
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週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。
ところが、石が墓からころがしてあるので、 中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。
そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。
女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。
そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。
すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。
そこで女たちはその言葉を思い出し、 墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。
この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。
ペテロは立って墓へ走って行き、かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った。
(ルカによる福音書24章1〜12節)
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しかも、イエスが生き返った後、四十日後にイエスが昇天したとまで聖書には書かれてあります。
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こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。
イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて 言った、
「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。
(使徒行伝1章9〜11節)
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しかし、果たして人間の「肉体」が空高くへと飛んでいくことができるでしょうか。絶対にできませんよね。
では、「聖書」には嘘が書かれてあるのでしょうか。
まあ、そう思う人もいるでしょう。
しかし、聖書をすべてきちんと読んだ人は、聖書に書かれてあることが全て嘘だとは到底思えないはずです。
では、イエスは本当に生き返って、天に昇っていったのでしょうか。
この際ですので、はっきりと言いましょう。
イエスが死んでから三日後に蘇り、さらに四十日後に昇天したということは、つまりイエスの「肉体」が復活したのではなく、イエスの「霊体」が復活したということではないでしょうか。
そう考えると、全てがすんなりと理解でき、納得できるのではありませんか。(もっとも、この世のクリスチャンはこんな話をする私のことを「異端」と呼ぶでしょうが。)
しかし、この世のクリスチャンたちは、人間に「霊」と「肉」があることを知らないので、このイエスの復活を無理やり「肉体」の復活だと思い込み、信じ込んでいるわけです。
今まで何度も言ってきましたが、聖書にはっきりとこう書かれてあります。
「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。」(テサロニケ人への第一の手紙5章23〜24節)
このように聖書には、人間には「肉」と「心」と「霊」があるとはっきり書かれてあります。
なので、もしクリスチャンたち全員がこの聖書の言葉をちゃんと理解して、人間に「霊」と「肉」があると分かっていれば、イエス・キリストの復活を「肉体」の復活とは考えず、「霊体」の復活だと考えていたのではないでしょうか。
そもそも聖書には、イエスの復活が「霊体」の復活であることを仄めかすような記述もあります。
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八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。
戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
(ヨハネによる福音書20章26節)
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このようにイエスはドアから入らず、いきなり部屋の中に現れたのです。これは明らかにイエスの「肉体」ではなく「霊体」が現れたということではありませんか。
とはいえ、イエスの「霊体」は「肉体」と同じぐらいはっきりと見えたのでしょう。少なくとも、聖書の記述を見ると、どの弟子たちもイエスの「肉体」が蘇ったと勘違いしているかのように見受けられます。
そして、そう勘違いしたまま「聖書」を記述したような箇所も見受けられます。例えば以下のように……。
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そこでイエスが言われた、
「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。
わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。
こう言って、手と足とをお見せになった。
彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。
彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、 イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。
(ルカによる福音書24章38〜43節)
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ここまで書かれると、確かにイエスの「肉体」が復活したのではないかと思ってしまいます。
しかし、よく考えてみてください。
「新約聖書」が書かれたのは今から二千年も前のことです。そして、二千年前には今のような科学的な知識はありませんでした。
なので、「聖書」を書いた人たちは、現代のような科学的な知識もないまま、ただ見たまま聞いたままを書いたわけです。
となると、我々現代人はきちんとそのことを念頭に置いた上で「聖書」を読み、解釈しなければなりません。
二千年前の人たちの考えていたことを、我々現代人がそのまま受け入れてはいけないのです。そうでなければ、それは「信仰」ではなく「妄想」になってしまいます。
ところが、例の如く、悪魔どもがこの教理をねじ曲げてしまいました。
イエスのこの復活は「肉体」の復活であり、イエスを信じた人も死んだ後はその「肉体」が復活するのだと、クリスチャンたちに無理やり信じ込ませてきたのです。
キリスト教国の多くが、「火葬」ではなく「土葬」を行うのも、実は死んだ人の「肉体」がいずれ復活すると信じているからです。
しかしながら、死んだ人がゾンビのように復活したという話を、今まで一度でも聞いたことがあるでしょうか。
一応、仮死状態になっていた人が棺桶の中で生き返ったという話なら聞いたことはありますが、死んでから何日も経った人が墓から生き返ったという話など一度も聞いたことがありません。
ですから、このイエスの復活は「肉体」の復活ではなく「霊体」の復活だと解釈するべきなのです。
実を言うと、私が「聖書の解説書」を読むなと言ったのも、ここに大きな理由があります。
「聖書の解説書」を書いた人たちの多くは、「聖書」が何千年も前に書かれた書物であることを考えず、「聖書」に書かれたことを全てそのまま鵜呑みにしています。
そのため、科学的知識と噛み合わないことを平気で信じて、それを我々にまで信じるように押しつけてくるのです。
科学的知識と「聖書」の記述とが噛み合わなければ、その場合は「聖書」の記述を正しいと考えろとまで言ったりもします。
しかし、そんな無茶な話をするからこそ、多くの人が「聖書」を敬遠してしまうのです。
まさに悪魔の計らいとしか言いようがありません。
わざと誰にでも分かる嘘を混ぜることによって、誰もが聖書を信じないように仕向けてきたのでしょう。
このため、私のブログを読んで試しに「聖書」を読み、「聖書」を読んでも意味が分からないと思って、「聖書の解説書」を読んだ人の中には、もう既に「聖書」はインチキだと思って読むのをやめてしまった人もいるかも知れません。
「聖書」に書かれてあることの意味を理解することも重要ですが、まずは一通り「聖書」を読み、おおよその概要を掴んでみてください。
そうすると、仄かに浮かび上がってくる「悟り」みたいなものがあるはずです。
で、さらに「聖書」を読み続けることによって、その仄かな「悟り」がいずれはっきりとした「悟り」になっていきます。
それだけでも心に深い感動が湧いてきますが、そのような「悟り」をさらに幾つも積み重ねていくことで、自分の人生に何らかの答えを見出し、心に大きな希望や喜びが湧いてくるようになるのです。
それは他のどんな本を読んでも得られない幸福な体験です。
ぜひとも私は皆さんにそのような体験をしてほしいと思います。
ーーーーーーー(RAPT理論、転載ここまで)
筆者は、RAPTブログから、聖書を読むようになりました。
最初はわからなくても、初期の有料記事で聖書の解説があり、ある程度理解を深めることができました。
誰も解き明かすことができなかったお話しです。
これからの時代、神様は、聖書にある罪のとおりに人類を裁かれるので、誰もが必要になってくる書物となるでしょう。
ですから、少しでも気になった方は読んでください。
聖書によって、ちょっとずつでも悟っていくことが大切です。
余談になりますが、少し前から気になっていた映画、「パウロ 愛と赦しの物語」を観ました。
ローマ帝国・皇帝ネロがキリスト教徒を迫害していた時代、パウロを含め、多くのキリスト教徒が放火の疑いで投獄されてしまいます。(ネロの自作自演だったという噂がある)
パウロの処刑が決定している中で、ルカと交流しながら手紙を書いていきます。
当時の迫害というのは、コロッセオで火炙りにされたり、猛獣による処刑や鞭打ち、石を投げつけられたりしました。とても残酷だったことは、見せしめに松明の灯りとしてキリスト教徒が燃やされたということです。
パウロは、もともとユダヤ教徒であり、キリスト教徒を弾圧していたのですが、イエス様の導きによって心を入れ替え、迫害されながらも伝道しました。
伝道が大変だった時代、聖人たちの流した血の報いが、今こそ晴らされるべきだと強く思いました。
ちょっと、皇帝ネロを調べてみたのですが、教科書には載っていないという、こちらの記事を転載します。
転載します
【狂気のネロ】ローマ皇帝はなぜ、世界ではじめてキリスト教の迫害を行ったのか?
ローマの大火
64年7月、ローマの都市全体を襲う大火事が発生しました。
この大火の原因ははっきりとしていません。
しかし、民衆の間では、皇帝ネロが企てた自作自演の事件なのではないかと噂が立つようになりました。
その理由として、大火が消滅したあとのネロの不審な行動があげられます。
ネロは、大火が静まったあとの焼け野原に個人的な趣味で「黄金宮殿」を建設しました。
前庭には巨大なネロの立像を建て、海や野山のモチーフにした庭園には動物を放し飼いにし、部屋には金箔が張り詰められ、海水と硫黄の混じった温泉を引きました。
ローマの都市が焼け野原と化したあとに平気で黄金宮殿を建てる皇帝を見て、ローマ市民は不信感を抱かずにはいられません。
また、ネロは「新しい都市計画のためにローマに火を放ったのではないか」という噂も民衆の間で立つようになりました。
ネロはこのローマの大火で起きた噂を打ち消すため、キリスト教徒を放火犯に仕立て上げ、迫害を行いました。
ネロのキリスト教迫害
ネロは捕らえたキリスト教徒を簡単な裁判で死刑に決め、猛獣の餌食にしたり、十字架にかけたり、松明代わりに燃やしたりしました。
ローマの大火でキリスト教徒を迫害したネロの残虐さは、タキトゥスが残した『年代記』に以下のように記されています。
民衆は「ネロが大火を命じた」と信じて疑わなかった。そこでネロは、この風評をもみけそうとして、身代わりの被告をこしらえ、これに大変手のこんだ罰を加える。それは、日頃から忌まわしい行為で世人から恨み憎まれ、「クリストゥス信奉者」と呼ばれていた者たちである。そこでまず、信仰を告白していた者が審問され、ついでその者らの情報に基づき、実におびただしい人が、放火の罪というよりむしろ人類敵視の罪と結びつけられたのである。そこでまず、信仰を告白していた者が審問され、ついでその者らの情報に基づき、実におびただしい人が、放火の罪というよりむしろ人類敵視の罪と結びつけられたのである。彼らは殺されるとき、なぶりものにされた。すなわち、野獣の毛皮をかぶされ、犬に噛み裂かれて倒れる。(あるいは十字架に縛り付けられ、あるいは燃えやすく仕組まれ、)そして日が落ちてから夜の灯火代わりに燃やされたのである。ネロはこの見世物のため、カエサル家の庭園を提供し、そのうえ、戦車競技まで催して、その間中、戦車馭者のよそおいで民衆のあいだを歩きまわったり、自分でも戦車を走らせたりした。https://www.y-history.net/appendix/wh0103-075.html
またこのとき、キリスト教の最高指導者として捕らえられたペテロや、ローマで盛んにキリスト教の布教を進めたパウロもこのときローマで殉教したと言われています。
ローマ市民は、あまりにも理不尽なキリスト教徒への迫害を目の当たりにし、皇帝ネロに対する不信感を一層強めました。
ーーーーーーー(中略)
ローマ市民が「パンと見せ物」を要求すると国の財産を投げ打ってカーニバルを開催。
毎晩らんちき騒ぎが繰り広げられました。
また、ネロの興味は男性に移り、ピタゴラスという奴隷と正式な手続きを踏んで結婚までしました。
ローマの大火が起こったのは、ちょうどこの頃。
新しい都市計画を思いついたネロが自らに火をつけたという噂を打ち消すため、キリスト教徒を放火犯にしあげて大迫害を行いました。
また、陰謀の疑いがあるとしてその師であったセネカを捕らえ死に至らしめた。
このようなローマ皇帝らしからぬ行動を繰り返したネロは、完全に皇帝としての人望を無くしました。
元老院は皇帝ネロの廃位を決定。追いつめられたネロは68年、自殺しました。
ーーーーーー(一部転載、ここまで)
こちらの記事を読んだとき、まさしく現代においても、皇帝ネロの悪質なやり方と全く同じではないか‥と驚きました。
「新しい都市計画には、放火」
なんということでしょうか。2000年前と同じことが起きています。
悪魔の計画に太刀打ちするためには、まず真理を知ることです。
新約聖書 エフェソの信徒への手紙 6ー10〜18
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最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身につけなさい。立って、真理を帯びとして腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履きものとしなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”によって助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
ーーーーーーー
神の武具を身につけること。
続いて、こちらの記事をお読みください。
RAPT有料記事537(2021年2月15日)聖書には、一人一人に主が用意した御心と使命が封印されて書かれてある。だから、聖書を繰り返し深く読んでその封印を解き、主の用意した御心と使命を見付けなさい。
この終わりの時に、主は使命者を通して聖書の封印をすべて解いてくださり、聖書をスラスラと理解して読めるようにして下さいました。
しかし実は聖書には、使命者が解いた封印だけではなく、皆さん各自がそれぞれ解かなければならない封印が二重にも三重にも隠されています。
そして、その封印を解くことによって、皆さん一人一人に用意された主の御心と使命を見付け出すことができるようになります。
そして、その御心と使命を実際に成していけば、皆さんはこの世でもあの世でも大きく栄え、主から豊かに祝福されることでしょう。
しかし、その封印はパラパラと適当に聖書を読んでいれば簡単に解けるというものではありません。
聖書を深く悟りながら読み、しかも何度も繰り返し読んでいくうちに、じわじわと時間をかけて解かれていくものです。
この奥深い真理を深く理解して、一人一人に用意された主の御心と使命を発見し、実際にそれらを成して大きく栄え、豊かに祝福される皆さんになることを心から願います。
ーーーーーーー続きはこちらから
御言葉のおすすめです。
2025年1月24日(金)
失敗のない人生を生きたいなら、聖霊の導きを受けられるようにもがきなさい。全ての罪を悔い改め、4本の信仰の柱をしっかりと立て、かつ自分の中にある全ての余計な考えを捨てて、100%聖霊の考えだけを受けて生きられるように自分の霊肉魂を作りなさい。
2025年1月28日(火)
神様を愛して、神様を味方につけなさい。そうすれば、どんなに敵があなたを不幸に陥れようとしても、あなたが不幸になることはなく、むしろあなたの願いは全て叶えられ、霊的にも肉的にも何ら不足することのない幸福な人生を生きられるだろう。
2025年1月30日(木)
神様が私たちに御言葉を伝えてくださるのは、私たちの頭を真理で満たすためであり、私たちに聖霊を与えてくださるのは、何かの拍子にその真理が私たちの頭から抜け落ちないようにするためだ。そして、常に真理に則して思考して生きるなら、その人の霊魂は確実に天国に行くことができる。
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真理に満たされ、本当の幸福が訪れますように。