自分のための祈り

祈り、それは神様と通じる方法です。

祈ることで、神様に導かれ、祝福され、生きる喜びを与えられます。

神様に祈ってみたい…、しかし、どの様に祈ればいいのか?

決まりのようなものはあるのか?

神様に祈りを聞いてもらえるなら、もちろん一生懸命祈りたいですよね。

人それぞれ、祈りについて気になるところがあるかもしれません。

今回は、どのように祈ることがベストなのか、祈りの方法についてご紹介します。

まずは、こちらの記事をお読みください。

一人一人が悪魔の誘惑に打ち勝つことが、この世界を変えることになります。先ずは自分のためにお祈りしてみてください。

「聖書」についてかなり具体的に解説してきましたが、悪魔からの攻撃もかなり激しくなっています。悪魔どもはとにかく「聖書」がこの世に広められることを嫌がりますからね。

もっとも、バチカンの傘下にある教会が「聖書」を広めていく分には、悪魔にとっては何の問題もありません。

彼らは最初だけ「聖書」の教えをきちんと説いて、「聖書」の言葉を信じさせますが、信者たちがいざ「聖書」の言葉に心酔しきったところで、ローマ法王やらインチキ牧師やらを神の代理人だと思わせ、「聖書」の言葉よりも彼らの言葉に耳を傾けるようにさせます。

そうすると、その人はもう二度と神様に近付くことができず、悪魔の餌食となるのみ。救われたはずが、むしろ人生を台無しにしてしまいます。

この世の中にはそういう苦い経験をするクリスチャンが多いので、今やどの教会も信者の数がどんどん減っています。また、悪魔どもは自分たちの傘下にないまともな教会が大きくなると、必ず「異端」だと言って迫害を始めます。

イエス・キリストもまさにそのような運命を辿りました。悪魔どもはさんざんバッシングして、最終的に殺してしまいました。もし迫害して駄目なら、そのときには悪の道へと誘惑します。聖書の中でも、悪魔はのっけから「アダム」と「エバ」を悪の道へと誘惑し、堕落させてしまいました。

このアダムとエバのことを、多くのクリスチャンたちが人類の祖先であるかのように思い込んでいますが、まあ、それは先ずあり得ません。一般にアダムとエバは6000年前頃の人物と言われていますが、6000年前にはもう既に人類はたくさんこの地球上にいました。

アダムとエバは、イエス・キリストと同じように宗教的に選ばれた人間だと考えた方がいいと思います。つまり、当時の救世主です。

実際、聖書の中にはイエス・キリストのことを「第二のアダム」であると書かれてありますので、「第一のアダム」である「アダム」も当時の救世主だったと言えるでしょう。

聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。 最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。 第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。 (コリント人への第一の手紙15章45〜47節)

ところが、救世主となるべき「第一のアダム」が、あろうことか悪魔に騙されてしまった。そのシーンが以下になります。

旧約聖書

創世記 蛇の誘惑3ー1

主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

女は蛇に答えた。

「わたしたちは園の木の果実を食べても良いのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

蛇は女に言った。

「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ。」

女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。

「どこにいるのか。」

彼は答えた。

「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」

神は言われた。

「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」

アダムは答えた。

「あなたがわたしと共にいるようにいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」

主なる神は女に向かって言われた。

「何ということをしたのか。」

女は答えた。

「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

主なる神は、蛇に向かって言われた。

「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」

こうして「アダム」は救世主となる道を閉ざされ、この世を救うという志も頓挫してしまったわけです。

ちなみに、ここに登場する「へび」はもちろん本物の「へび」ではなく、「悪魔」のことです。といっても、「悪魔」が人間であるエバと直接こうして対話できるわけがないので、恐らくこの「悪魔」も悪魔崇拝者なのでしょう。

それと同じく、ここに登場する「園の中央にある木の実」もまた何かの喩えだと思います。

もっとも、クリスチャンの多くはこの「木の実」のことを本当に「木の実」だと思っていますが、「木の実」を食べたからといって神様がそんなに怒るわけがありませんよね。

それはともかく、ここにはアダムが騙される前に、先ず最初にエバが騙されたと書かれてあります。そのエバが悪魔から聞いた話をそのままアダムに伝えて、アダムまで騙してしまいました。

もちろん、エバにはアダムを騙そうという意図はなかったと思います。しかし、悪魔から聞いた話をそのままアダムに伝えて、アダムにその話を信じ込ませてしまったわけですから、結果的には騙したことと同じです。

このように悪魔というのは、直接、アダムを騙すことが無理だと分かると、アダムに近い人を先に騙して、その人を通して騙します。

アダムはついつい心揺さぶられてエバの話を受け入れ、神様からやってはいけないと言われていたことをやってしまったわけです。

そして、取り返しのつかないことになってしまった。

彼らのこの過ちによって、人類はそれから4000年ほどの間(つまり旧約聖書の時代)、苦痛の道を歩かなければならなくなってしまいました。

つまり人類は、神様から堕落したと見なされ、神様の前に進み出るためには、わざわざ動物やら何やら色んな捧げ物をしなければならなくなり、様々な厳しい戒律に従わなければならなくなってしまいました。

囚人が牢獄に入れられて、厳しい規則に従わざるを得なくなったのと同じようなことです。

4000年という長い歳月を経た後、イエス・キリストが現れて人類を救ったため、人間はようやく神様からまともな人間と見なされるようになり、神様の前に進み出る際にも、動物などを捧げる必要がなくなりました。

しかし、悪魔どもはこのイエス・キリストが憎くて憎くてたまらなかった。なので、彼をさんざん迫害した上、最終的には死刑にしてしまいました。

イエス・キリストのみならず、イエス・キリストの弟子たちもほとんど全員、牢獄に閉じ込めたり殺したりしてしまいました。

しかしながら、その弟子たちをどんなに殺しても、キリスト教が物凄いスピードで世界中に広まっていったので、悪魔どもはやむなくバチカンを立ち上げ、世界中のキリスト教徒たちを自分たちの傘下に置くことにしたわけです。

マルチン・ルターがこれに対抗してプロテスタントを立ち上げたわけですが、今やそのプロテスタントの教会もほとんどが悪魔どもに乗っ取られてしまいました。

そのため、カトリックもプロテスタントもその教理の内容がスカスカで、どんな牧師の話を聞いても面白くも何ともない。

なので私は、牧師たちの書いた聖書の解説書など読むのはやめた方がいいと言っているわけです。そんなものを読んでも、余計に聖書のことが分からなくなるだけですから。

もちろん、最初のうちは聖書を理解するのに少しは役立ちます(あるいは、役に立ったような気がします)が、その解説書に書かれてあることは矛盾だらけなので、後になって逆に頭の中がこんがらがってきます。

また、ネット上にあるキリスト教の解説などを見てみると、キリスト教がミトラ教や古代エジプトの宗教と似ているなどと言って、まるでキリスト教が悪魔教であるかのように解説したりもしています。

ミトラ教もエジプトの宗教も、その教典は一つも見付かっていませんが、何を根拠にキリスト教と似ていると言っているんでしょうね。

ミトラ教の信者たちはクリスチャンの振りを装っていたわけですし、古代エジプト宗教の信者たちもユダヤ教徒の振りを装っていたので、ミトラ教や古代エジプトの宗教の遺品が、聖書の記述と似ているのは当然のことなのです。

なのに、ミトラ教も古代エジプトの宗教もキリスト教もおなじ悪魔教だとか言って、我々が「聖書」を敬遠するように仕向けているわけですね。

実際に「聖書」を読めば分かりますが、「聖書」は悪魔教なんかではなく、むしろ悪魔教の対極にあるものと言っても過言ではありません。

我々がこういった悪魔の攪乱工作に騙されないようにするためには、先ず何よりも正しい知識、情報を知ることが重要ですが、それと同時に、アダムのように悪魔の誘惑に負けないようにすることもとても重要です。

何しろ、我々が少しでも何か悪いことをすると、悪魔どもは鬼の首を取ったかのように、我々を責め立て、ときにそれをネタに脅迫したりしてきますからね。

そうすると、例えその人がどんな大きな志を持っていたとしても、その道は完全に閉ざされてしまいます。

では、悪魔は一体どのような誘惑をしてくるのか。

それについても聖書にははっきりとこう書かれています。

「すなわち、不品行、汚れ、好色、 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。」(ガラテア人への手紙5章19~21節)

悪魔どもは我々にこういった行いをさせて、我々の行くべき道を閉ざそうとします。「不品行、汚れ、好色」を行えば、世間にバレれただけで恥さらしとなり、バッシングの対象になりますよね。

「偶像礼拝、まじない」を行えば、まさに悪魔に祈るのと同じようなものですから、悪魔に自分の魂を売ったも同然です。しかも、その祈りが叶えられることはありません。

いえ、仮に叶えられとしても、それは単なる偶然に過ぎません。しかし、その人はそれをありがたく思って、また偶像を拝みにいくでしょう。そうして、悪魔にさらに魂を売ることになるわけです。

「敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、 ねたみ」は、集団で何かをしようという場合、完全な障壁となりますよね。こういった感情が集団の中に満ち溢れると、それだけでその組織は混乱を招き、下手をすれば崩壊しますから。

「泥酔、宴楽」も、こんなことばかりやっていたら人間、何の進歩もありません。最悪の場合、アルコール中毒になって、人生を台無しにしてしまいます。ここには書かれていませんが、金銭、薬物などの誘惑もあります。

また、失意、絶望、落胆、不安、恐怖、といった感情に陥ると、仕事にも手が付けられなくなります。下手をすると、人生そのものを放棄してしまうことにもなりかねません。なので、我々は常に自分の心をきちんと守って、悪魔の誘惑に陥らないようにしなければなりません。

その一方で、神様は我々人間に以下のようなことを行うよう勧めています。

「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」(ガラテア人への手紙5章22~23節)

これらを行っても悪魔は何も文句はいえないし、むしろ悪魔どもは戦々恐々とします。悪魔は人が善を行うことをとても嫌がるのです。

そのため、悪魔どもは我々がこのような善を行えないように妨害し、攻撃し、悪の道へと誘惑しようとするわけです。

我々がお祈りして「聖霊」を受けて生活するならば、こんな悪魔の誘惑や攻撃にすべて打ち勝つことができます。

もちろん、全戦全勝というわけにはいかないでしょうが、それでも全敗ということはあり得ないでしょう。

そうやって悪魔と戦って勝利する人がこの世からたくさん出てくるようになれば、いずれこの世の中は自然と良い方向に変わっていくはずです。

しかも、こういう人たちが一丸となって悪魔どもに立ち向かっていくならば、悪魔どもとてそうそう簡単にその人たちを倒すことはできません。

なので、「この世の中を変えたければ、先ずは自分から変わる」ことが何よりも重要なのです。

世界の平和のために祈る、ということも重要ですが、それよりも先ずは自分の心が悪に流されず、良い方向に変わるように祈ってみて下さい。

本当に世界を変えたいのなら、先ずはそこから始めてみてください。

そもそも、この世の中が例えどんなに変わったとしても、あなた自身が変わらなければ、そこにどんな幸せがあるというのでしょうか。

それに、全世界のために祈っても、その祈りが叶えられたかどうかは分かりにくいですが、自分のために祈るなら、その祈りが叶えられたかどうかもすぐに分かります。

そして、祈りが叶ったと分かれば、神様がこの世に存在することもはっきりと分かるようになり、さらに強い確信を持って祈れるようになります。

皆さんに祝福が満ちあふれますよう、私も皆さんのために祈りつづけます。

何をどう祈ればいいのか、具体的な方法をお教えします。自分の人生も世界の運命も変える鍵がここにあります。

悪魔というのは、ある意味、我々人間よりも人間の本質を知っていて、どうすれば人間を騙し、悪に誘導できるかを我々以上に熟知しています。

だからこそ、これまで多くの人々が悪魔に倒されてきたわけですが、とりあえず私は若い頃から聖書をたくさん読んで、悪魔の攻撃する手口を熟知していたので、今の今まで騙されることなくやってくることができました。

このブログに寄せられた攪乱、批判、悪口、嫌がらせ、脅迫コメントやメールは数多(あまた)に上りますが、もし私が悪魔の手口を分かっていなかったら、絶対にここまで来ることはできなかったと思います。

さらに次元を上げて悪魔を打ち倒す方法をお話しましょう。

お祈りをすると聖霊を受け、その聖霊の力で悪魔に打ち勝つことができるというお話をしましたが、それでは一体、具体的にどんなことを祈ればいいのかとご質問される方が数多くいらっしゃいました。

なので、今日は具体的に何をどう祈ればいいのかについて、ざっと簡単にお話ししたいと思います。

自分の心が悪に流されず、より良く変わっていくための祈り。

これが何よりも神様が我々人間に求めている祈りです。心からこのような祈りをする人を神様は喜び、限りなく祝福してくださいます。

悪魔どもは人間が善を行うことを嫌がりますが、神様は人間が善を行うことを喜びます。そこが悪魔と神様の一番の大きな違いです。

また、自分の心から悪が消え去り、善で満たされるように祈ることが、自分の心を天国に作り替え、自分の人生を幸せにすることにもつながります。

一度、祈りによって心から全ての邪念や苦悩が消えた状態を体験すれば、それがいかに素晴らしく、心地よいものであるかが分かるはずです。

しかし、この世で生活していると、色々と邪念が溢れてくるので、そのときにはまた祈って心を清める、ということを毎日のように繰り返していくわけですね。

ある意味、これが宗教の本質とも言えます。

自分の健康のための祈り。

どんなに心が善良になったとしても、健康が損なわれれば、善を行うことができません。

いくらこの世を変えたいという志を持っていたとしても、健康でなければどんな目的も達成することができません。なので、常に健康でいられるように祈った方がいいでしょう。

もう既に健康を害している人、病気や怪我で苦しんでいる人は、早く回復するように祈ってみてください。

天から与えられた使命が何なのかを尋ねる祈り。

人にはそれぞれ持って生まれた天命があるはずです。

自分にしかできないこと、自分ならば他人よりも百倍うまくできることがあります。その天命が見付かるように祈ってみてください。

それが見付かるか見付からないかで、自分の人生も、自分の存在意義も大きく変わります。

神様もあなたがその天命を早く見付けることを強く願っています。

神様はあなたを何の意味もなくこの世に生み落としたわけではないからです。

何かしら大きな目的をもってあなたをこの世に生み落としたはずなのです。

それを信じて、見付かるまで祈ってみてください。人によっては何年もかかるかも知れませんが、その祈りは決して無駄にはなりません。

自分の天命が大きく成し遂げられるための祈り。

自分の天命が何なのか見付かったら、その天命を大きく成し遂げられるように祈ってみてください。

そして、そのために必要な才能、能力を最大限に神様に求めてみて下さい。

また、どうせやるなら、より大きな野望(こころざし)を持った方がいいでしょう。

政治家になりたいなら、世界一の政治家になれるよう、起業家になりたいなら、世界一の起業家になれるよう、芸術家になりたいなら、世界一の芸術家になれるよう祈ってみてください。(若い人は特に。)

自分の力ではとてもそんな大きなことは達成できないでしょうが、我々が祈る相手は、全知全能な神様なのです。全知全能である以上、神様はどんな祈りも全て叶えることができます。

例えば、蟻が100kmの道のりを歩くのは夢のまた夢ですが、人間に頼んで車に乗せてもらえば、あっという間に実現できます。

これと同じく、人間には不可能に思えることでも、神様にとってはいとも簡単だったりします。

その代わり、大きな祈りを成就するためには、それなりの代価を神様に支払わなければなりません。

平素からたくさんの善行を積み、どんな試練をも耐え忍び、打ち勝たなければなりません。(神様は人を大きく使う場合、厳しく練達します。)

ある意味、神様は公平な方なので、大きな願いを叶えるためには、より大きな代価を求めるのです。そして、それを乗り越えた場合のみ、その大きな祈りは実現します。

しかし、本当に大きな野望を成し遂げたいと思うのなら、その人はどんな試練をも乗り越えていけるでしょうし、神様もあなたの祈りに応じて、それを乗り越える力を与えてくださいます。

自分の家族や身近な人のための祈り。

自分のために祈ることが習慣づいてきたら、自分の周りの人のためにも祈ってみてください。

周りで悩んでいる人、健康を壊している人、問題にぶつかっている人のためにも祈ってみてください。

他人のための祈りは、私利私欲が入り込みにくいので、かえって簡単に叶えられる場合があります。

この世のための祈り。

このブログを読んでおられる方の多くは、この世を変えたいと思っている方が大半だと思いますので、もう既この世のために祈っておられる方が多いかも知れません。

しかし、ここで問題なのは、あなたの願う通りにこの世の中が変わったとしても、本当にそれが人類にとって幸せであるとは限らないということです。

神様は我々以上に、人類にとっての最善の道を知っています。

仮に悪魔崇拝者を一夜にして滅ぼしてくださいと祈ったとしても、神様がそれを最善と思わなければ、その願いが叶えられることはありません。

この世の中がよりよく変わるように祈るならば、神様が最も最善と思われる方法でこの世を変えて下さいと祈るのがいいと思います。

聖書の中では「神様の御心が成されますように祈りなさい」とありますが、「神様の御心が成される」とはこういうことを意味します。

そして、その「神様の御心」の中には、あなたの願いもすべて含まれています。あなたの願い通りにならなかったとしても、いずれあなたの願いはもっとよい形で実現するでしょう。

悪魔が滅びるための祈り。聖霊を受けるための祈り。

この世の悪魔崇拝者も、単に「悪魔」どもに利用されている容器に過ぎないので、悪魔崇拝者たち全員が滅んだとしても、「悪魔」はまた新たな人間を使うだけです。

我々は「悪魔」そのものが滅びるように祈らなければなりません。

「悪魔」はいつでもあなたのそばに近付いてきて、あなたの心を悪い方向へ誘導することができます。

あなたの傍にやってくる「悪魔」がすべて滅び去るように祈ってください。

同時に、「聖霊」を受けられるようにも祈ってみてください。そうすると、より容易に「悪魔」を滅ぼすことができるようになります。

これだけでも、人によっては大きく心が変わったり、人生が変わったりするかも知れません。

天国に行くための祈り。

ここまで来ると、もはや敬虔なクリスチャンの域に達しますが、参考までにお話しておきます。

人は「霊」「心」「肉」の三つから成り立っているという話をずっと前にしたことがあります。聖書にもこう書かれてあります。

「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。」(テサロニケ人への第一の手紙5章23〜24節)

神様に祈って、神様を愛して、神様の言葉に聞き従う……。これらを行う究極の目的は、自分の「霊」を天国に連れて行くためだと言えます。

そもそも、このような目的がなければ、この邪悪な世の中で最後まで善良に生きていくのはとても難しいとも言えるでしょう。

自分の霊が救われて、天国に行けるようにぜひとも祈ってみてください。

もちろん、この辺の話になると、信じるか信じないかはあなた次第ということになりますが、自分の祈りがいくつも叶えられるようになれば、神様が存在していることも自然と実感できるようになるでしょうし、神様の存在が実感できるようになれば、自然と天国が存在していることも実感できるようになるはずです。

本当に天国に行きたいと願うのであれば、以上の祈りを徹底的に行うことをお奨めします。

いかがでしたでしょうか。

神様は、アダムとエバの罪を4000年間お許しになりませんでした。

それほどまでに、異性の罪を犯してはならないということです。

悪魔たちは、この罪の誘惑で人類を堕落の道へ誘い込んできました。

悪魔の誘惑に負けず、心を清めて神様を愛することです。

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