羊太夫伝説を訪ねて
さて、今回は秦氏と関係があるとされる羊太夫伝説を巡るべく、多胡碑を訪れてみました。せっかくなので、多胡碑の他に山ノ上碑、金井沢碑とあわせて上野三碑(こうずけさんぴ)がユネスコ世界の記憶に登録され、盛り上がっているようなので、それぞれ巡ってみました。
上野三碑とは−1300年前のアジアの文化交流を記す3つの石碑
多胡羊太夫(たご ひつじだゆう)は、奈良時代天武天皇の時代(672年〜686年)に活躍したとされる上野国(群馬県)の伝説上の人物(豪族)。伝承では多胡郡の郡司だったとされる。 多胡碑によれば、「和銅4年に近隣3郡から300戸を切り取り「羊」なる者に与え多胡郡とした」と記載される「羊」なる者であるとされる。なお、多胡碑の原文は漢文であり「給羊」の句があることから発想された。人名説以外に方角説時刻説などがあるが、現在学説では人名説が有力である。
名前については、多胡(藤原)羊太夫宗勝、小幡羊太夫とも表記されることがある。『羊太夫伝説』では、武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市または本庄市)で和銅(ニギアカガネ)と呼ばれる銅塊を発見し朝廷に献上した功績で、多胡郡の郡司とともに藤原氏の姓も下賜されたと伝承される。この和銅発見により、年号が慶雲から和銅に改められたとされる(続日本紀卷四。ただし、実際の発見者と羊太夫が同一であることは証明しきれない。)
上州小幡氏が多胡羊太夫の子孫と称する。現代でも群馬県高崎市及び安中市の多胡氏を羊太夫の流れを汲むとする説もある。(群馬県安中市中野谷の羊神社由来)
上野三碑(こうずけさんぴ)は、群馬県(上野国)高崎市内にある、飛鳥時代から奈良時代に建てられた、漢文が刻まれた3基の石碑、すなわち山ノ上碑(山上碑)・多胡碑・金井沢碑の総称。日本に18例しか現存しない古代の石碑(7世紀 – 11世紀)の中でも最古の石碑群である[1]。いずれも国の特別史跡に指定されており、2017年にはユネスコ世界の記憶に登録された。
上野三碑は、以下の3基で構成される。
- 山ノ上碑(山上碑) – 高崎市山名町所在。681年(天武10年)建立。高さ約1.1m。墓標。
- 多胡碑 – 高崎市吉井町所在。711年(和銅4年)建立。高さ約1.2m。多胡郡建郡に関して。
- 金井沢碑 – 高崎市山名町所在。726年(神亀3年)建立。高さ約1.1m。群馬郡高田里の三家氏が血縁者のために建立。(うち1文字は欠落により判読不能)
多胡碑は、駐車場が二ヶ所あります。住宅地から入った記念館側がより近くに車を停められますが、運動公園側の方が広いです。
公園と池。
立派な石垣が積まれています。和銅四年。
公園を入って行くと、古墳がありました。
多胡碑記念館があります。公園内は、割と広いです。
石碑のあるお堂に到着。
多胡碑の、石碑の下の方に羊の文字が見えます。
昔のお堂。神社と変わらない様子ですね。1309年も前から、地域の人々に守られつつ、現在に至るのですね。千年の歴史。ふと思ったのですが、ここの地域の雰囲気が、奈良に似た感じの空気感です。
お堂の脇入り口付近にあったもの。この上に石碑があったのだろうか。
〈碑文〉
〈解説〉
多胡碑は、栃木県にある那須国造碑、宮城県にある多賀城碑とともに日本三碑と呼ばれている古代の石碑である。また高崎市の山ノ上碑、金井沢碑とともに上野三碑とも呼ばれる。
高さは129センチで、吉井町南部に産出する硬質の牛伏砂岩(通称多胡石)で造られている。
その書体は楷書体で中国の六朝風を遺すといわれており、古くより多くの書家に愛好され、六行八十字の彫りも味わいあるものとして評価されている。
土地の人は多胡碑を「ひつじさま」と呼び信仰の対象としてまつり、今日まで守ってきた。また、文面に見える「羊」にちなんだ「羊太夫」の伝説は、古くから語り継がれて親しまれている。
地図にある通り、近くに石碑があります。
帰りがけにトカゲが出没。大きいトカゲに見送られ、山ノ上碑へ。
ラーメン屋で腹ごしらえ。チャーシュー麺と餃子のセット。
筆者は外食が好きですが、写真などは滅多に撮らない為、食べてから気付いて撮影。新型コロナウイルスの騒ぎにより、外食産業が大変な時だからこそ、食べて応援!
美味しかった。
お次は、山ノ上碑へ。
上野三碑は、午前中から廻れば1日で見学出来ます。
線路の近くを曲がってかなり道が狭くなります。行く途中で、鉄線が綺麗に咲いていました。こんなに綺麗に咲いているのは、とても珍しいです。年数を感じます。数十メートルの間、対向車と行き違いが不可なルートなので、急いで撮影。
上野三碑の専用巡りバスがあるので、車でない方も気軽に廻れます。
駐車場は、2カ所あります。手前の方が広いです。奥はトイレがあり便利ですが、100メートルくらいの間は車の行き違いが不可です。
駐車場から歩いてすぐに、階段が見えてきます。
角を曲がると、結構急な階段です。
休憩所には、パネルとカタログ。
スポーツウエアを着た、いかにも体力がありそうな男性が何人か駆け上がって行きましたが、トライアスロンでも参加するのでしょうか…。この階段を走っていけるとは、かなりの脚力です。歩いただけで息切れします。
登ってくる途中に、古い石仏がいくつかありました。この辺り一帯は、お墓だったのでしょう。
山ノ上碑に到着。古墳が隣にあります。
〈碑文〉
〈解説〉
山上碑は、輝石安山岩の自然石(高崎111センチ)に五十三文字を刻んだもので、天武朝の681年に立てられた日本最古の石碑である。放光寺の僧である長利が、亡き母の黒売刀自は、碑の傍らにある山上古墳に埋葬されたと考えられる。
碑文にある三家(=屯倉)とは、六世紀〜七世紀前半に各地の経済的・軍事的要地に置かれたヤマト政権の経営拠点である。佐野三家は高崎市烏川両岸(現在の佐野・山名地区一帯)にまたがって存在していたとみられ、健守命がその始祖に位置づけられている。
碑の造立者である長利は、健守命の子孫の黒売刀自が、赤城山南麓の豪族と指定される新川臣(現桐生市の新川か)の子孫の大児臣(現前橋市の大胡か)と結婚して生まれた子である。彼が勤めた放光寺は、「放光寺」の文字瓦を出土した前橋市総社町の山王廃寺だったと推定される。この寺は、東国で最古級の寺院だったことが発掘調査で判明している。当時、仏教は新来の先進思想であり、長利は相当な知識者だったと考えられる。また、山上碑の形状は、朝鮮半島の新羅の石碑に類似しており、碑の造立に際しては渡来人も深く関わったと推定される。
なお、碑に隣接する山上古墳は、精緻な切石積みの石室をもつ有力首長の墓であり、七世紀中頃の築造と考えられる。その築造時期は、山上碑(681年)よりも数十年古いため、もともと黒売刀自の父の墓として造られ、後に黒売刀自を追葬(帰葬)したものと考えられる(白石太一郎説)。
以上のようにわずか五十三文字から、ヤマト政権と地方の支配制度、豪族間の婚姻関係や家族制度、地方仏教の浸透など多くのことを読み取ることが可能であり、山上碑が一級の古代史料であることを証明しているのである。
山ノ上碑から金井沢碑まで、ハイキングできるコースがあります。天気の良い日には、歩いて行くのもいいかも知れません。
こちらも人気があるようで、次々と人がやって来ます。アカシアの花が満開だったので、巡り中いい香りが漂っていました。この日は、とても爽やかな風が吹いていました。
階段を下りていくと、野生動物が横切りました!
「あっ、あ〜!!」と、言う間にこの階段下へ潜り込んでしまいました。
結構色が白っぽいから狸ではありません。野生動物は素早いので、シャッターが全然間に合いませんでした…。
顔に黒っぽいラインが見えたのですが、調べてみるとアナグマだったようです。滅多に遭遇できませんので驚きました。
最後に金井沢碑へ。
沢を渡って、登ります。
こちらは、少し緩やかな登りです。
金井沢碑に到着。
金井沢碑は、丸い形です。
石碑の裏の石垣がとても古いものですね。苔がビッシリ。
〈碑文〉
〈解説〉
金井沢碑は、輝石安山岩製の自然石碑(高さ110センチ)で、112文字が刻まれた日本有数の古碑である。古代豪族三家氏が、奈良時代初期(726年)に先祖供養のため造立した。本碑の南西1、5キロにある特別史跡山上碑(681年)には、当地に「佐野三家」(ヤマト政権の地方支配拠点)が存在したことが記されるが、三家氏はその経営者の末裔とみられる。
本碑の冒頭には「上野国群馬郡下賛郷高田里」とあり、願主の居宅は現高崎市下佐野辺りにあったようだが、碑は烏川対岸に所在し、佐野三家の領域や三家氏の勢力圏は、広く烏川両岸に及んだらしい。碑文からは、願主で家長の三家子【 】およびその妻ー子ー孫からなる六人の直系血族(うち女性四人)と、同族男性三人からなる既存の信仰グループが結びつき、これを立碑したかとがわかる(勝浦令子説)。
同時に、大宝律令(701年)以後定まった行政制度(国郡郷里制)の施行が確認できるほか、郡郷名の好字二字への改正令(和銅六年・713年)の実施も確かめられる。以前は「上毛野国」・「車郡」であったのが、ここでは「上野国」・「群馬郡」と記されているからである。なお、本碑の「羣馬」の文字は、在地最古の「群馬」の用例となる。また、三家・他田・物部・磯部といった氏族が存在し、婚姻や仏教儀礼で結びついていたこと、女性の社会的地位のあり方、鉄器生産に従事した鍛師の存在など産業構造も本碑から知ることができる。
このように本碑は、古代東国の家族関係・氏族関係、仏教の浸透と仏教教団の成長、地方行政制度の実態などを知るうえできわめて重要な史料である。隣接する特別史跡山上碑・同多胡碑とともに日本を代表する古代金石文として特筆される文化財といえる。
上野三碑の動画になります。
今まで、海外や国内の旅行によく出掛けていたのですが、なかなか出掛けることができませんでした。
また、復活。