羊太夫伝説を訪ねて2

前回は、多胡碑周辺を巡りましたが、今回は、羊太夫伝説にまつわる秩父地域へ。

羊太夫の伝説をめぐって

多胡碑のある吉井町の町誌によると、多胡碑は、土地の人達からは「羊様」と称され、神様として祀られ、又、羊太夫の伝説で大層親しまれてきたという。これは、秩父地方でも言えることで、随分いろいろなところに羊太夫にまつわる話が残っている。小鹿野町の「16地区」には羊太夫が住んで写経をしたという伝説が残り、「お塚」と呼ばれる古墳は羊太夫の墓だとする言い伝えもある。この「お塚(古墳)」は小鹿野町指定史跡になっている。文化財解説によると「お塚」とよばれるこの古墳は、長留川左岸の段丘に位置し、高さ3米、直径15米の円墳である。墳項部には「お塚権現」と称する小祠が祀られている。古墳時代後期、7世紀ごろのものと推定される。地元では「お塚」を羊太夫の墓とする言い伝えがある。羊太夫とは群馬県吉井町にある多胡碑にまつわる伝説上の人物であると思われ、当地域の伝説との関連が注目される。」とある。そして、俗に「お舟観音」と呼ばれる札所32番法性寺には羊太夫が納めた大般若経があったという。さらには、札所1番の四萬部寺の経塚は、羊太夫が納経したとも言われている。このように広く分布している羊太夫のお話は、各種各様で、歴史的事実もちりばめられていて、仲々1つに絞って紹介しにくいものがあるが、共通的な大筋を童話風にまとめてみるとこんな風になろう。

「羊太夫は、奈良まで(和銅を持って)毎日、天皇の御機嫌伺いに100余里の道を往復した。太夫の乗った馬に小脛(こはぎ)という若者がついて行くと、馬は矢のように走った。ある日、都への途中、木の下で昼寝をしている小脛の両脇の下に羽が生えているのを羊太夫は見てしまった。普段から「私の寝姿は絶対に見ないで下さい。」と言われていたので、かえって好奇心が湧いたのだった。そっと羊太夫は小脛の羽を抜いてしまった。そこからは今までの速さでは走れなくなり、天皇の怒りをかった羊太夫は討伐されてしまった。」ということになる。

今でも、吉井町には羊太夫が乗って天から降りて来た「舟石」という石があり、「城山」は羊太夫の居城跡だと言われている。馬庭内出の神馬橋は羊太夫の白馬が倒れた所で、傍に竜馬観音世音を祭り、堂内に八束小脛(やつかのこはぎ)の像もあるという。藤岡市の七輿山(ななこしやま)に羊太夫一族は葬られているとも伝えられている。

このように、各地各所に残る羊太夫の伝説のなかの寓話的な事実を重ね合わせてみると、実にこの話は大きく膨らんでくるようである。一例ではあるが、羊太夫が都へ日参したというのは、多胡郡から黒谷付近に鋳銭司(奈良朝廷の出張所のようなものか、鋳造所)が置かれていて、その間を往復したとなれば丁度1日の行程になると推論する人もある。

いずれにしても、文字資料としては「羊太夫一代記」その他、吉井町周辺に残されたものだけであって、それも江戸末期のものである。しかし、それらの記述が、秩父地方の各所に残っている伝承とかなり一致する部分があることが、何とも興味を惹くところである。さらには、秩父の伝承の場合は、渡来人の採銅・製銅技術と和銅献上とが羊太夫と深く結び付いて語られていることが大きな特色である。

(転載ここまで)

秩父の街を一望できる、羊山公園。こちらは、戦前に県の綿羊種畜場が設けられていたことによって羊山と言われています。

電車の方でも、散策できる距離です。

とても良い眺め。

遠くの山まで見渡せます。

資料館や美術館は休館中だったので、羊山公園はこの辺で。広い公園内をひと周りしたので、一旦休憩。

年配のご夫婦が営む喫茶店。

筆者は、もっぱらのコーヒー党。

マンデリンとお店自家製のチーズケーキ。

とても居心地の良い場所でした。

次に向かったのは、いよいよ羊太夫伝説にまつわる聖神社です。

〜和銅露天掘り跡と聖神社〜

和銅(自然銅)がここ黒谷で発見され、奈良の都へ献上されたのは、慶雲5年(708年)1月11日のことでした。このことを非常に喜ばれた元明天皇は年号をすぐに和銅と改め、国を挙げてお祝いをし、「和銅開珎」を発行しました。「和銅露天掘り跡」はこの先600メートルほど、徒歩15分で到着します。

祝典のために「祝山」に建てられたお宮を今の地に移し、聖神社と称して創建されたのが同じ年の2月13日でした。

和銅石13個をご神宝として祀り、また蜈蚣が「百足」と書かれることにちなんで、文化百官(たくさんの役人)を遣わす代わりにと朝廷から戴いた雌雄一対の蜈蚣をご神宝として併せ祀りました。

以来、里人は、黒谷の鎮守様として1300年の長い歳月「この上なく耳聡く口すべらかな」(何を言ってもそのことをよく理解してくれ、人の心に染み入る言葉をかけてくれる)神として崇拝してきました。

その間、今までに5回、社殿建て替えが記録に残っています。現在の社殿は、昭和40年1月15日秩父市有形文化財に指定されたものです。

境内には、宝物庫・和銅鉱物館があり、自然銅、和同開珎、和銅製蜈蚣、数百種の和銅関連鉱物、当時出土の蕨手刀などが見学できます。

(秩父市和銅保勝会より)

ご神宝はむかで。珍しいですね。

〜和銅と和同開珎〜

武蔵国秩父郡から「和銅」が献上されたことを祝い、西暦708年1月11日、慶雲5年が和銅元年と改元されました。国の姿や制度もととのい、大きな都の建設も始められようという時でした。既に621に唐(現在の中国)で発行された通貨「開元通貨」にならい、「和銅開珎」銀銭が5月、銅銭が8月と続いて発行され日本最初の通貨が誕生したのでした。

「和銅」奈良時代の歴史書「続日本紀」は秩父献上の和銅を「ニキアカガネ」と呼んでいます。「ニキ」は「熟」の意味で精錬を要しない純粋な銅のことで、学名では自然銅と言います。

その生成過程は、地球の地殻変動(造山活動)にともない隆起した秩父中古成層(チャート層)と第三紀層(推石砂岩層)の断層面に噴出形成された限りなく純銅に近いものなのです。

当時の面影を今もとどめているのが和銅山に残る「露天掘り跡」(地質学でいう「出牛ー黒谷断層」に含まれます)です。採取された自然銅のうち、大小二箇が聖神社のご神宝として伝えられています。

(秩父市和銅保勝会より)

聖神社の社殿。

奥には八坂神社。

天皇秩父行幸記念碑。

ここから歩いて和銅遺跡へ向かいます。

しばらくは登り坂です。

いい天気。夏日でした。

〜和銅の神の恵み〜

聖神社から美の山へ続く坂道を上がっていくと、まもなく街なかの騒がしさから離れ、棚田が広がる山里風景が目に飛び込んできます。さらに「和銅露天掘り跡」へと続く、この木々の間の道を進むと、まるで時代が昔に戻ったかのような錯覚を覚えます。

飛ぶ鳥よりも速く毎日都へ和銅を送り届けた「羊太夫の伝説」が残されていることなどもあって、さまざまな場所で当時に思いを馳せることができる場所、それが「和銅遺跡」と言えるでしょう。

神の恵みの和銅十三個をご神宝として祀り、聖神社が和銅元年(708年)2月13日に創建されてから、黒谷には「十三」にまつわる縁起が残されています。十三氏子(十三戸の氏子のこと)が住んでいる「美の山」を流れる十三谷、春秋の祭りも十三日に決まっていました。

十三個の和銅石のうち、大小二個は現在も宝物庫に伝えられています。

十三谷のうち何本かが銅洗掘に合流し、何本が荒川や横瀬川に直接流入しているか、今となっては確認の手だてはありませんが、沢筋の数は十三本に近いようです。

なお、銅が産出される土地特有の植物と言われる「花筏」(俗称筏草)や俗称のみしか伝えられていない「一葉羊歯(ヒトハシダ)」が和銅山にだけあるいう話なども、このあたりでは伝えられています。

(秩父市和銅保勝会より)

花筏(はないかだ)とは、こういった特徴のある植物です。

季節の花写真集より

しばらく歩くと、今度は下りになります。

草が生い茂って、道が見えない…。

日本通貨発祥の地、到着。

沢の向こうが産出場所です。

何ヶ所か、堀跡が見えます。

〜和銅遺跡〜

慶雲5年(708年)今から1300年前、ここ武蔵国秩父郡から和銅(自然銅)が発見され都へ献上されました。これを喜んだ元明天皇が年号を「和銅」と改め、罪人の罪を許したり軽くしたり、高齢者・善行者の表彰、困窮者の救済、官位の昇進を行い、その上に武蔵国の税の免除がされたと「続日本紀」に書かれています。

その中に、和銅発見に関係したといわれる日下部宿禰老(くさかべのすくねおゆ)、津島朝臣堅石(つしまのあそんかたしわ)、金上元(こんじょうがん)の名前も見られます。都から遠く離れた秩父が、歴史の表舞台にあらわれ、一躍脚光を浴びました。

催鋳銭司の長官に多治比真人三宅麻呂が任命され、やがて日本最初の通貨とされる「和銅開珎」が発行されます。国家の体制が整い、都城建設を進め、通貨時代の幕開けを告げることになった献上和銅の初めての産出場所は、ここ「和銅露天掘り跡」なのです。地質学上「出牛ー黒谷断層」と言われる断層面の一部が露出した状態で、和銅山頂から、麓を流れる銅洗掘まで、幅約3メートルのくぼみとなって残されています。

(秩父市和銅保勝会より)

山奥に巨大な和銅開珎モニュメント。

露天掘り跡手前の沢。赤い所が所々見えています。

〜「和銅」を伝える地名の数々〜

黒谷には、銅の産出、献上、運搬などにちなんで残されたと思われる地名、言い伝えがたくさんあります。

『銅泉』に湧く清水の水底に自然銅の転石が光る。見上げれば『和銅山』をえぐって走る『和銅露天掘り跡』。『殿地』を役所とし、『竹(タケエ=会計)』の指示で、掘り出した和銅の泥を『銅洗掘』で洗い流し、『鋳銭房(ずぜんぼ)』で鋳造した和銅開珎を洗い清めて『押出(おんだし)』の手で都へ送り出します。

『樋の口(火の口)』は鋳造の火元で、『破風屋(破風矢)』が煽り立てて火力をつけます。残りの火の始末は『燠』が引き受け、火種は絶やさない。銅をとった残りの土砂は流れ出して『中島』を作る。精錬で抜き取る硫黄独特の臭いが立ちこめて『硫黄(ゆおう)の下まで漂う。

『祝山(いわいやま)』もいつしか銅につきものの硫黄のある山ということで『硫黄山』と呼ばれていた時代もありました。その『祝山』の神殿も早くに『岩下』に『聖神社』となって祀られ、和銅の歴史を見守り続けています。

※『 』は古い地名です。古地名道標をたどってみてください。

(秩父市和銅保勝会より)

モニュメント裏。本当に巨大。

山頂に行く時間がなかったので、今回は見送ります。

帰り道、遊歩道でカップルさんや家族連れの方々とすれ違いました。

ここはわりと、人気スポットのようです。

森林浴。

新緑が眩しいですね。

遊歩道をずっと下ると、大通りに出ます。

右に曲がって歩いてすぐ、聖神社入り口です。

日本で最初にお金ができた場所。

ひっそりと歴史を垣間見せてくれました。

秦氏と関係しているものが、いろいろありましたね。

では、また次回。

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