祈りの旅 〜長野・野辺山高原〜

皆さん、こんにちは。
前回の旅の続きとなります。八千穂高原から佐久穂町に戻って、元気が出る公園に立ち寄ってみました。
(ネーミング通り、見晴らしがとてもいいです)


ここから南下して、野辺山に向かいます。
森は金色になりつつあり、樹々の変わりゆく美しい葉の色に目を奪われてしまいます。街に降りて行くと、八ヶ岳の全貌がよく見えてきました。



八千穂高原は、不思議な安心感のある高原でした。
撮影しているとき、手の平がヒヤっとして目を向けてみると、3センチほどの縞模様の花蜂が吸い付いていました。自然素材のものを手に塗っており、花だと勘違いして香りに寄ってきたもよう。笑
それから、森が気になって戻ったときに、神様がまた同じ道を通るように言われたのですが、そのようにすると白樺の林にちょうど夕陽が差し込み、ベストタイミングで撮影することができました。(前回の記事)
神様の助言と、とても理想的な一日に感謝が溢れ、ますます神様を好きになるような出来事ばかりでした。




ヤツレンで工場直売の物産を購入し、ホテルに向かいました。
(滝沢牧場がすぐ近くにあるので、乳製品が美味)
ホテルに到着し、チェックインしてしばらくすると、きのうのような夕焼けが!?急いでホテルの庭へ出ました。




神様のお造りになった地上は、本当に美しい・・。
毎回、旅する先では、感動が満ち溢れていきます。
それでは、今回はこちらの記事をおすすめします。
RAPT有料記事73(2016年6月4日)現在のものに満足せず、さらにより良いものを求めて生きなさい。
ーーーーーーー(転載します)
とにかくサタンは、一般記事が配信されることも煙たく思っているに違いありませんが、それと同様に、いえ、それ以上にこの有料記事が配信されることも煙たく思っているに違いありません。
この御言葉がこの世に広く拡散されてしまうと、悪魔の支配する世界をこの世に作ることができなくなり、むしろ神様の支配する世界が作られてしまうことになるからです。
サタンとしては、そんな事態はなんとしてでも阻止したいと思っているに違いありません。
なので、皆さんに強くお願いします。
彼らに妨害されることなく、私がこれからも続けて神様の御言葉を伝えられるようにお祈りしてください。
そして、神様の支配する世界がこの世に実現できるようにお祈りしてください。
RAPT有料記事74(2016年6月6日)体の垢を洗い落とすように、自分の罪を毎日悔い改めなさい。
ーーーーーーー(転載します)
さて、今回の有料記事は「罪」と「悔い改め」をテーマにお話します。
聖書には「罪」についてとても厳しく書かれてあります。
そして、その厳しい内容を読んで、これらの「罪」を犯さずに生きるなんて不可能だと思う人もいるに違いありませんし、実際にそのような人に私もこれまで何人も会ってきました。
特に若い人の中には、「罪」を犯すことで自分にどんな痛いしっぺ返しが帰ってくるか、その経験が余りないがために、「罪を犯さずに生きるなんて大変だ」とばかり考え、神様を信じることは自由を奪われることだと勘違いする人も多いようです。
しかし、ある程度年を重ねてきた人は、「罪」を犯した後、どんな痛い目に遭うかを経験上、分かっているので、聖書を通して「罪」を知れることをありがたく思うことでしょう。
もちろん、全ての人がそうというわけではありませんが……。
しかも神様は、私たち人間がいかに弱く、いかに簡単に「罪」を犯してしまうかを重々ご存知なので、私たち人間が「罪」を犯しても、「悔い改め」さえすれば、全ての「罪」を許してくださいます。
そして、そこに我々人間の救いがあるのです。
聖書に「罪」について詳しく書かれてあるのは、私たち人間を裁くためではなく、私たちが「罪」について知り、その「罪」を悔い改めることで、救いを得させるためです。
ひいては、この世でもあの世でも永遠に大きな祝福を受けて生きるようにするためです。
だからこそ、神様は聖書を通して「罪」について詳しく教えてくださっているのです。
しかし、悪魔どもは逆に、我々人間に「罪」について教えようとは絶対にしません。
むしろ、「罪」を「善」だと言ったり、「善」を「罪」だと言ったりして、何が「罪」であるのか分からないように撹乱します。
しかも、「罪」を犯すことが楽しく有益で、格好よくファッショナブルなことだと教えたりもします。
そうすることで、私たち人間が「罪」を悔い改めることができないようにし、神様からの許しも救いも受けられないように仕向けていくのです。
ですから、我々はそんな悪魔の企みに騙されないよう、しっかりと聖書を読んで「罪」や「悔い改め」について詳しく知らなければならないのです。
RAPT有料記事75(2016年6月11日)良い習慣を身に付け、体質化するには。
ーーーーーーー(転載します)
先月、初めての聖書通読を一ヶ月で成し遂げた人の話をした後、自分も同じように一ヶ月の聖書通読に挑戦してみたいと言ってくる方が次々と出てくるようになりました。
また、明け方の祈りをきちんとしている人が実際に祈りも叶っているし、聖書や有料記事の内容をしっかりと理解していると私が書いた後も、やはり明け方の祈りに挑戦してみたいと書いてくる方が続出するようになりました。
信仰生活を維持していく上で、聖書を読むこととお祈りすることは基本中の基本ですので、このような傾向は非常に素晴らしいことだと思います。
それにそもそも、聖書を読むこととお祈りすることをないがしろにしたら、その人の信仰はあっという間に破綻してしまいます。
例えば、神様の存在を信じられなくなったり(信じたくなくなったり)、神様の言葉に従って生きることが億劫になったり(苦痛に感じたり)、暗くネガティブな思考に取り憑かれるようになったり、果ては生きることすら苦痛に感じられるようになったりもします。
そうしておいて、最終的には神様のことを恨んだりもします。
とはいえ、聖書を読むこともお祈りをすることも時にとても大変なことなので、こんな大変な思いをするぐらいなら信仰なんか捨てて、この世の快楽と享楽に溺れて生きようと考える人も出てくるかもしれません。
この世の快楽と享楽におぼれて生きても、途方もない虚無感に襲われるだけで、何の喜びもないと分かってはいるのですが、サタンがその人の頭にそのような考えを必死で注入しようとしてくるので、その人自身、いつのまにかそのような考えを受け入れてしまうようになるのです。
そんなことにならないためにも、先ず私たちは聖書を読んだり明け方のお祈りをしたりといった良い習慣を身につけ、それを体質化していくことが必要でしょう。
人というのは、一度、よい習慣を身につけて体質化してしまえば、後はそれを自動的に行うようなりますし、それを行わなければ物足りなく感じるようになるからです。
身体によい食べ物を食べる習慣がつくと、身体に悪い食べ物を受け付けなくなり、それを食べても食べた気がしなくなるのと同じことです。
また、「罪」を犯すことが習慣になっている人も、一旦、「罪」を犯さない体質を作っておけば、その後はそう簡単に「罪」を犯さなくなりますし、例え「罪」を犯したとしても、すぐにそれと気が付いて悔い改められるようになります。
今回はこのように良い体質を身に付けること、習慣化していくことについてお話をしています。
RAPT有料記事76(2016年6月13日)霊と肉のバランスを保つ。
ーーーーーーー(転載します)
たまに読者の方から、「自分はこれこれのことが好きで、その道を目指して勉強しているのだけれど、その勉強に夢中になってしまって、お祈りをしているときにもその勉強のことが頭から離れず、お祈りに集中できなくなる」などと言って、どうしたらいいか質問をしてくる方がいます。
この有料記事を読んで信仰を持つようなった方は、まだ信仰を持って一年未満の方ばかりですから、そのような状況になるのは仕方のないことだと思います。
で、こんな風に祈れなくなるのなら、その勉強はやめた方がいいのではないか、これは神様の御心ではないのではないか、と考えたりもするかも知れません。
私自身、そのような経験は何度もしたことがありますので、その気持ちはよく分かります。
私としては、その勉強をやめる必要はないとは思いますが、ただし、余りにも長く祈れない状況が続くようなら、一時的にその勉強をやめて、霊的なところにのみ投資をする時間も必要ではないかと思います。
実際に私もそのようにした時期が何度もあります。会社に行っている時間以外は、肉的なことを全てやめて、祈りと聖書のみに集中しました。
そんなことをしていたら、肉的なことが全く進まなくなるではないか、と心配する必要はありません。
そうやって霊的に十分に満たされ、霊的な力を身に付けるようになると、今度は肉的なことも想像もできないぐらいのスピードで捗るようになるからです。
しかも、肉的なことを頑張っていても、肉的なことに溺れて、集中して祈れなくなるということも少なくなります。
私たち信仰を持つ者は、このように霊と肉のきちんとバランスを保ちながら、肉的に偏らないようにしなければいけません。
(ときに霊的に偏り過ぎることも禁物ですが、信仰を持って間もない人は、いくら霊的に投資しても、霊的に偏りすぎることは余りないと思います。)
特に信仰をもって間もない人は、ともすると、すぐに肉的なところに流されてしまいがちですので、ときには肉的なことを全て断ち切って、霊的なところにのみ投資をする時間も必要ではないかと思います。
しかしながら、社会人は会社に行かなければなりませんし、学生は勉強をしなければなりません。そこの部分まで切ってしまってはいけません。
あくまで空いた時間に最大限、霊的に投資するのです。
そうすると、精神状態も良好になり、頭の回転も速くなり、余計な心配や悩みも消えて、何事も集中して行えるようになりますので、生活がスムーズに回転はじめ、霊的にも肉的にも成功できるようになります。
ストレスが溜まった人、倦怠感にとらわれて何もやる気が起こらない人も、焦って肉的にばかり行おうとせず、一旦、肉的なことを全て断ち切って、霊的にのみ投資する時間を持つといいかも知れません。
今回はこの霊と肉のバランスについてお話をしています。
RAPT有料記事77(2016年6月18日)涙をもって種を撒き、自分の夢・神様の夢を成すべき時だ。
ーーーーーーー(転載します)
旧約聖書の詩篇126章に
涙をもって種まく者は、
喜びの声をもって刈り取る。
種を携え、涙を流して出て行く者は、
束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。
という聖句があります。
この世の人々の多くは、将来に対して大きな夢を描き、その夢を実現させるために努力して生きることを苦だと思い、ただその場限りの快楽・享楽だけを求めて生きています。
特に近年は、楽しようと思えばいくらでも楽に暮らせる時代になってきたため、多くの人々が何ら将来の夢を持たず、むしろ夢を持っている人たちをバカにしながら、安逸主義に陥って毎日をただ惰性だけで暮らしています。
しかし、毎日そのような暮らしをしていたところで、十年後、二十年後に自分の人生に何か良いことが訪れるでしょうか。
何もしないのに、自分がある日突然、スーパーマン、スーパーガールになって、この世で苦しむ人々を救い出すことができたりするでしょうか。
しかし、そのような安逸主義の人ですら、神社仏閣に行って頭を下げ、今年こそ何かいいことがありますように、と必死で哀願しているのですから、全くもって愚の骨頂です。
本当に自分の人生をより良いものにしたいのなら、自分の人生をより幸福にしたいのなら、実際にそれだけの苦労と努力をしなければなりません。
そうでなければ、明日になっていきなり天から幸運が降って湧いてくるようなことはありません。
とはいえ、将来に何か大きな夢を持ち、その夢を実現するために労苦し努力することは、途方もなく大変なことです。
ときに艱難・苦難の嵐が吹きすさび、その夢の実現を邪魔するようなことが起きたりもしますので、どんなに夢の実現のために努力していても、途中で挫折し、諦めて、その努力を中断する人も出てきたりします。
しかし、嵐が来たからといって、農夫が種を撒くのを怠れば、その年、その農夫は何も収穫することができず、ひもじい思いをしなければなりませんし、明日の食べるもの着るものを心配しながら生きていかなければなりません。
それと同じく、この人生全体を見たときにも、嵐が吹くからといって、あるいは嵐が吹くことを恐れて、種を撒くことを怠るならば、その人は一生ひもじい思いをし、明日の我が身を心配しながら生きていかなければなりません。
そんなことにならないためにも、我々は今から涙をもって、人生の種を撒いておかなければならないのです。
そして、そのように行う人は、いつか必ず自分の夢を成し遂げ、さらには神様の夢まで成し遂げて、一生の間、喜びと希望に溢れた人生を生きることができることでしょう。
RAPT有料記事78(2016年6月20日)神様は時に従って行われるから、私たちも時に従って行わなければならない。
ーーーーーーー(転載します)
今の時代は、聖書で言うところの「終わりの時」である、と私は前々からお話をしていますが、「終わりの時」とは時代の転換期のことを言います。
つまり、古い時代が過ぎ去り、新しい時代がやってくる時のことを表しています。
そして、この「終わりの時」には、神様がこの世の中を激しくお裁きになり、善と悪を完全に裂き、善人には救いと祝福を与え、悪人には裁きを下します。
現実に私たちの周りにいる人々を見てみても、悪人はどんどん悪い人になっていくし、善い人はさらに善い人になっていくように見えます。
悪人と善人がはっきりと二極分化されているのが分かります。
このような現象が起きていること自体、既に神様の裁きが始まっているという証拠ですが、神様の裁きはそれだけでは終わりません。
悪人たちはこの世で様々な苦痛を受け、何もやってもうまくいくようでうまくいかず、結局、死んだ後には地獄に落ちます。
逆に善人は、神様のことを知るようになり、神様の愛を受け、自分自身もまた神様を愛するようになり、それによってさらに大きな祝福を受け、死んだ後も天国に行きます。
悪人にとってこのような話は受け入れたくない話なので、心を頑なにして受け入れようとはせず、結局は自分の好き勝手に生きて滅亡へと向かうことでしょう。
しかし、善人にとってこのような話は心の救いとなる話なので、喜んで素直に受け入れ、さらなる善行を積んで繁栄と祝福の道へと向かうことでしょう。
このように祝福と裁きがはっきりと分かれるこの時に、私たちはよりいっそう祝福の道を歩んでいかなければなりません。
RAPT有料記事79(2016年6月25日)サタンを完全に滅ぼし、神様から正しい啓示を受けるには。
ーーーーーーー(転載します)
今回の有料記事は、大きく分けて三つのお話をしています。
先ずは『洗礼』について。
「洗礼」は受けなければいけないのか、と多くの方からご質問を受けています。
今回はこのことについてはっきりとお答えしようと思います。
もう一つは、サタンとの戦いにどのように勝利していくべきなのか。
これについては何度もお話してきましたが、サタンとの戦いはサタンが完全に滅びるまで続きます。
そして、皆さんもお分かりの通り、サタンはまだ完全に滅んではいません。まだ活動を続けている最中です。
ですから、サタンとの戦いについては、いくら話しても、これで終わりということはありません。
しかも、私たちは絶対にサタンに負けてはいけません。
もし負けたら、その後どんな恐ろしいことが待っているかは、今さら説明するまでもないことでしょう。
ーーーーーーー
最後に、私たちが神様から正しい啓示を受けるためにはどうすればいいのか、についてお話をしています。
神様を信じて生きる我々にとっては、これもとても重要なテーマの一つです。
我々が普段の生活をしていく中で、何か重大な判断しなければならないとき、何らかの構想しなければならないときが色々と出てきます。
そのときに、私たちが神様から正しい答えを得られるかどうかで、私たちの運命も自ずと変わってしまいます。
なので、私たちはできる限り神様から正しい啓示を受けられるように努めなければなりません。
余談になりますが、この旅の明け方に、また「先生」が現れ、使い古された聖書とロザリオを両手でスッと差し出されてきました。
「えっ・・ロザリオ?」と思うとそれを引っ込められ、今度は「鍵」と聖書を一緒に手渡されたのです。
この課題の答えは、御言葉のおさらいで得たのですが、まるで答え合わせかのように、はっきりとすぐに別の情報でやってきました。
数日後の御言葉で、「十字架」と「鍵」のキーワードが出たのです。
そうだったのか、と納得することが必ずある御言葉だと思いますので、皆さんもぜひ聴いてみてください。
御言葉ーーーーーーー
2025年11月2日(日)
自分の愛する人から愛を受けて生きた後、その愛を失ったら、とてつもない喪失感に苛まれ、人生そのものが大きく変わってしまう。まして神様から愛されていた人が愛されなくなったら、どれほどの不幸が待っているだろうか。神様から愛されつづけるために、神様を愛しつづけなさい。(天国に入れるかどうかは、神様から愛されるかどうかで決まる。)
翌日は、天気が曇りということで、朝日は期待できないと思っていたのですが、何だかそわそわして落ち着かずにいました。
そしてふと、外が気になって窓を開けてみると、山が赤くなっている!?
出かけようかと迷うも、体が動かない。
ですので、そのまま撮影をはじめることにしました。



















驚きと感動ーーー!
なんて美しい光景なのでしょうか!!
天気予報を10回以上確認しても、完全に曇りだったのです!
それに、もし動いてしまったら、この光景が撮影できなかった可能性もあったのです。しかも、奇跡的に青空まで見えましたよ!?
(この間、たったの1分間)
去年の白馬岳を思い起こさせる、何とも美しい朝日の情景でした。
(神様に感謝!感激!やっぱり好きになるしかない)
御言葉ーーーーーーー
2025年10月31日(金)
信仰生活とは、男女が結婚して夫婦として一緒に生活するのと同じようなものだ。自分のやりたいことは二の次にして、ただ相手を愛することを優先して生きるなら、その関係はますます深まり、やがては愛の結晶として子供を生んで育てていく。
そして、15分後にはこの光景となってしまいました。



本当にあっという間に天気が変わっていきました。皆さんも、神様を愛して、たくさんの感動と喜びを享受してください。
この旅は、次回へと続きます。

