祈りの旅 〜長野・開田高原、木曽馬の里〜

皆さん、こんにちは。
この日は、御嶽山の裾野にある開田高原に行ってきました。
出かける前の朝日がとてもきれいでした。
とはいえ、漂う緊張感。まだまだ気を抜けない状況でしたが、少しずつ波長が良くなってきました。




朝日の光が、窓際のサンキャッチャーに当たって、7色に光っていました。


向かう途中、山百合が咲いていました!
ちょうど見頃で、立ち止まって撮影しました。




百合のいい香り。10本近く咲いています。よく見ると、百合のつぼみに蝉の抜け殻がありました。

しかし、拡大してみたら、まだいる!?
蝉、まだ抜けてない!?
それはそれで、貴重ですね!(驚きつつ書く)


さて、開田高原のお話しになりますが、約5万年前に御嶽山の大規模な山体崩壊によってできたという地域になります。広々とした、雄大な土地。

〈看板が見えてきました〉

〈午後から雷の予報、雲が出ています〉

〈木曽馬がたくさんいます!〉
車を停めて、近くに寄ってみました。
数頭の仔馬がいて、母馬が「ふん!ふん!」と荒い息づかいで草を食べていました。


蓼科牧場にいたお馬さんより小型で、なんとも愛らしい木曽馬たちでした。
ーーーーーーー
案内板から
木曽馬は古くからこの地域で飼育されている日本在来馬で、体高約130センチの中型馬。
山間高冷地の厳しい自然環境で長年飼育された木曽馬は、極めて強健で粗食に耐え、腕は硬く、蹄鉄を打つ必要がなく、昭和35年ごろまではどの農家でも一般的に飼育されていた。人と同じ屋根の下で、一番日当たりのよい南東向きのうまやで女性の手により大切に育てられたため、大人しい性格の馬が現在でも残っている。
西暦530年ごろから木曽地域には牧場が設けられ、飼育されていたとされているが、広く飼われ始めたのは、西暦1100年代とされる。木曽義仲の挙兵時には優れた馬として名声を高めたといわれている。以降、江戸時代を通して年貢米の代わりとして馬を育て、代官に収めるなど馬の生産地域として各地に馬を送り出してきた。
明治に入り軍用馬改良のために外国種の種馬が導入されることにより純系馬は淘決されたといわれているが、昭和23年に御神馬として奉納されていた純系雄馬を元に復元され、昭和25年には現在の木曽馬の根幹となる第3春山号が誕生した。以来、昭和44年には木曽馬保存会が結成され、一時的には30頭まで減った木曽馬も、現在は約150頭が日本国内で飼育されるようになった。
木曽馬の里では、生きた文化財である木曽馬を保護育成・活用し、木曽馬の保存だけでなく、木曽馬にまつわる木曽の文化の保全を行っている。
木曽町より
ーーーーーーー
小学生くらいの子どもたちが、乗馬を楽しんでいました。馬に乗って体感するセラピーなども開催されているようです。
だいぶ遠くにいたのですが、徐々に食べながら近づいてきてくれました。






一頭の仔馬が、こちらに駆け寄ってきました。

〈ダッ・・!〉

〈♬〜♩〜♫〉

〈来たよ〜!〉

〈スッ・・!〉

〈植木、食べちゃえっと〉
なんとも可愛い。
優しい目をした木曽馬たちでした。
仔馬が数頭寄ってきて、撫でさせてくれました。

〈スッ・・〉

〈もぐもぐ〉

〈じっ・・〉

〈美味しいよ〜〉

〈へへっ〉

〈いい子だね〜!と撫でつつ〉

〈また食べる〉

〈愛らしい目〉

〈もぐもぐ〉

〈耳毛がたくさん生えています〉

〈母馬がきました、気になったのかな?〉

〈様子を伺っている〉

〈硬いお耳〉

〈懐っこいです〉

〈んじっ〉

〈そして食べる〉

〈もぐもぐ〉

〈また別の仔馬が〉
この仔馬が来ると、左の仔馬が体毛に噛みついて、「イターっ」と後ろ脚を蹴り上げました。
(当たってはいない)
この二頭の戯れ合いが、とても可愛くて面白かったです。数回、繰り返されたイタズラごっこ。

〈帰り際に、んじっ〉

〈可愛らしい眼差し〉
本当に可愛い木曽馬たちに癒されました。
それでは、今回は、こちらの記事をおすすめします。
RAPT有料記事308(2018年9月3日)神様と同じ頭脳になるということは、神様と同じ知識量を持つということではなく、神様と同じように物事を分析し、判断し、対処し、行動するようになるということだ。
ーーーーーーー(一部、転載します)
今や私たちは、ツイッターを使った情報拡散をし、多くの人々にラプト理論を伝えています。
それによって、多くの人たちがRAPT理論に触れて、サタンやイルミナティの洗脳から解かれるようになっています。
しかし、私たちがこうして情報拡散するにしても、より絶大な効果を発揮するためには、何よりも私たちが神様と同じ頭脳を持たなければになりません。
敵はサタンの頭脳をもって様々な悪事を行っているわけですから、私たちが人間の頭脳で抵抗したところで、彼らに勝てるわけがないからです。
では、どうすれば神様と同じ頭脳を持てるようになるのでしょうか。
その方法はとても簡単です。
皆さんがその方法をしっかりと学び、神様の頭脳を身につけて絶大な威力を発揮しながら、神様の御心をこの地に大きく成していくことを心から願います。
RAPT有料記事319(2018年10月13日)霊的に汚れて霊的に苦しむ人は自分のことが嫌になり、霊的に清めて霊的な恵みに満たされた人は自分のことが好きになり、人生を有意義なものにしていく。
ーーーーーーー(一部、転載します)
この世の多くの人々は、自分自身にも嫌気がさし、自分の人生にも嫌気がさした状態の中で生きています。
どうしてそのようになってしまうのか、人によってその理由は様々でしょうが、根本的にはこの世の誰もが神様から受けるべき恵みを受けられずに生きているので、そのために人生が辛くなり、自分の人生にも嫌気がさすようになってしまうのです。
しかし、私たちは神様を知り、神様から受けるべき恵みを受けられるようになったので、人生を喜びと感謝の中で生きられるようになりました。
しかし、サタンはこの終わりの時に私たち義人から、この恵みをすべて奪い取ろうと様々な悪巧みを仕掛けています。
特に彼らは、私たちが神様の御言葉に逆らって罪を犯すように仕向け、それによって私たちが神様から離れて、一切の恵みを受けられないようにしようとしています。
今現在、私たちは情報拡散をすることによってイルミナティを滅亡へと追い込んでいますし、実際に彼らは今にも滅亡しそうな状況の中にあります。
しかし、このままいくらイルミナティが滅亡したところで、私たち自身が神様から離れて、何の恵みも受けられなくなるなら、人生に何の喜びも感じられなくなり、自らの人生に幻滅しながら生きるしかありません。
そんなことにならないためにも、私たちは常に自らをサタンの攻撃や誘惑から守って、神様からの恵みを毎日豊かに受けて生きていかなければなりません。
そうしてこそ、いざイルミナティが滅亡した暁には、地上天国の中で喜びと感謝に満たされて、大いなる幸福の中で生きられるようになるのです。
RAPT有料記事325(2018年11月5日)神様は私たち人間の想像を遥かに超える祝福を与えてくださる方だ。
ーーーーーーー(一部、転載します)
私たち人間にとって、神様のなさること全てを知ることはとてつもなく難しいことです。
だからこそ、人間は神様が存在することにすら気付かず、例えそれに気付いたとしても、神様について正しく知ることができず、かえっておかしなカルト宗教やスピリチャル系に騙されて、人生を余計に悪化させてしまう人が数多くいます。
いえ、例え神様のことを正しく知って理解したとしても、神様のなさる全てのことを想像し、予知することは誰にもできません。
神様が遣わした使命者たちも、神様から教えられたことだけは予言することができますが、それ以上のことを想像し、予知することはできません。
そのため私たちは、将来、神様から与えられる祝福がどれほど大きなものなのか想像がつかず、自分の人生はこれからも特に何の変わり映えもなく進んでいくだろうと考えがちです。
一応、毎日のように神様から細々とした祝福は与えられているから、その細々とした祝福を一生受けて死んでいくだろう、などと神様の祝福を小さく考えてしまうのです。
人間の頭で想像できる範囲で、神様から与えられる祝福を過小評価してしまうわけです。
しかし、そんな小さな考えで生きていくなら、その人はいずれ適当に神様を信じるようになったり、完全に信じなくなって信仰から脱落してしまうことでしょう。
何の報いもないのに、主のために大きな条件を立てつづけるということは不可能だからです。
しかし実際のところは、私たちが神様の前で義を行いつづけ、神様の願いを叶えていくなら、神様は私たちの想像を遥かに超えた形でその願いを叶えてくださいます。
これがこの世の絶対不変の真理であり、実際、私自身もその祝福を受けた者の一人だからです。
RAPT有料記事493(2020年8月29日)この地上も霊界も、全く同じ世界だ。この地上で霊肉の実力を身につけて、霊肉ともに栄えた人が、死んで霊界に行っても同じように霊肉ともに栄えることができる。
ーーーーーーー(一部、転載します)
この世のクリスチャンは、この地上で生きている間は苦しみが続くけれども、死んだ後は全ての苦しみから解放されて、天国で幸せに生きられると信じて生きています。
しかし、この地上で生きている間に神様と愛を成して、神様としっかりとつながり、その上で全ての苦しみから解放されなければ、死んだ後も同じように苦しみを抱えたまま生きることになります。この地上と霊界は全く別の世界ではなく、むしろ全く同じ世界だと言っても過言ではないからです。
神様が私たち人間に100年の肉体の人生を与えてくださったのは、この100年の間に神様とつながり、神様から霊肉の祝福を豊かに受けて、苦しみから解放されるためです。
そして、肉体を持って生きている間にそのように全ての苦しみから解放されてこそ、死んだ後も同じように苦しみから解放されて、霊肉の祝福を豊かに受けながら、天国のような生を生きられるのです。
皆さん一人一人がこの深い霊界の奥義を悟って、この地上で生きている間に神様としっかりと霊的につながり、霊肉の祝福を豊かに受けて、この世でもあの世でも天国のような生を生きられる者となることを心から願います。
ーーーーーーー(一部、転載します)
イルミナティたちは、どれだけお金を稼いで、どれだけ経済を回すことができるかで、その人の価値が決まると考えています。
しかし神様は、私たち人間がどれだけ神様のために生きることができるかで、その人の価値が決まると仰っています。
私たち人間は、神様が創造され、神様のために創造されました。
だから、私たちが神様にとって有益となる働きをするなら、私たちは本来の自分の価値を取り戻したと言えますし、主が豊かに聖霊で満たしてくださり、豊かな祝福で満たしてくださいます。
お金を稼ぐ人は、単にお金を稼いで終わりですが、神様の有益のために生きる人は、神様から愛され、私たち人間が生きていく上で必要なすべてのものを豊かに与えられ、幸せに生きられるように主から導かれるようになるということです。
皆さん一人一人が、神様にとって真に価値ある生き方が何なのかを見付け出し、主から限りない祝福を受けて生きられる者となることを心から願います。
RAPT有料記事671(2022年8月1日)御言葉は脳の栄養であり、聖霊は脳を動かす電力だ。だから、神様の御言葉を学んだ上で聖霊を豊かに受けるなら、神のような高い知能を得ることができる。
ーーーーーーー(一部、転載します)
神様は、私たちに対して常に神のようになりなさいと仰っておられます。
そして、神のようになるためには、神のような思考を持たなければなりませんし、何よりも神のような高度な知能を持たなければなりません。
しかし、私がこのように言うと、人間が神のような高度な知能を持つことが本当に可能だろうかと疑問に思う人が大半でしょう。
しかし、私たちが絶えず御言葉を実践して聖霊を豊かに受けるなら、その聖霊の力によって私たちの脳の回転は確実に速くなります。
聖霊とはいわば電磁波のようなものであり、つまりは電力のようなものです。
私たち人間の知能がなかなか高くならないのは、平素からこの電力となる聖霊を受けていないからです。
どんな電化製品もきちんと電力が供給されなければ、きちんと正常に動かなくなります。
私たち人間も、平素から豊かに電力となる聖霊を受けてこそ、脳が正常に回転するようになり、神のような高度な知能を手にすることができるようになります。
皆さん一人一人が、平素から御言葉を豊かに実践し、豊かに聖霊を受けて、神に似た者へと成長しますことを心から祈ります。
ーーーーーーー(一部、転載します)
前回の有料記事で、御言葉は脳の栄養であり、聖霊は脳を回転させる電力だと話をしました。
ですから、御言葉を聞いて学び、深く祈って聖霊を豊かに受けるなら、その人はどこまでも自分の脳を活性化させ、脳の回転を速くすることができます。
そうすると、その人は最終的には神と同じレベルにまで自分の知能レベルを引き上げていくことができます。
神様は私たち人間を神にかたどって創ったと仰いました。
ですから、私たちが神様と同じレベルの知能を手にすることは可能なのです。
神様は今の時代に、使命者をこの地に送ってくださり、その使命者の立てた義の条件によって、人類が無制限に御言葉も聖霊も受けられるようにして下さいました。
皆さん一人一人が、主の与えてくださった時代の恩恵を余すことなく受けて、神のようになり、聖霊様のようになって、この世でもあの世でも天国のような生を生きられることを心から祈ります。
地上での生き方が、天国にも引き継がれていく・・。
大きな入道雲が出てきました。
奈良井宿方面に立ち寄ってから宿へ。


夕方から、塩尻方面で雷・洪水警報が出ました。
帰る途中、3匹の母猿が車を横切って行きました。
3匹とも、子猿を連れています。停車して撮影!




なかなかの珍しい光景に出会った一日でした。


宿で飼われている柴犬。
雷が光ると窓をカリカリして怖がっていました。意外と柴犬は、鋭い目をしていますね。
では、最後にこちらの御言葉をおすすめします。
御言葉ーーーーーーー
2025年7月25日(金)
神様は無限の天地を創造された方であり、その方に依り頼むなら、私たち人間はサタンにも悪人にも完全に打ち勝ち、神様の御心をこの地に壮大に成すことができる。
(神様は無限であり、サタンは一つの点に過ぎない。だから、サタンが神様に勝てるわけがないのだ。)
この旅は、次回へと続きます。
