ちょっと寄り道 〜東京・広尾〜

皆さん、こんにちは。
今回は、広尾の美術館に行くことになり、ちょっと余談的なお話しとさせていただきます。
この日は、自民党の総裁選の日でした。
第二の安倍と言われている高市早苗が総裁になりましたね。
石破政権のだらし内閣を見させられているよりかは、ビジュアル的にはまともになりましたが。
しかし、第二の安倍という以上は、改憲やら何やらが隠れているはずです。
ここ最近、時事通信の記者がぶっ叩かれ、マスコミが偏向報道をしていることにようやく気づき始めたという人が増えています。
マスコミが嘘をついたり、ねつ造報道していることが陰謀論だと思っていた人たちが、陰謀ではなかったと認識しはじめている。
もしかしたら、高市早苗を貶める動きを封じる策だったのかも知れませんが、一部の人々の目を覚ます起爆剤となったわけです。
ここにきて、ようやくアメリカやらヨーロッパ並みの「陰謀論という真実」が拡散されるようになるのでしょうか。
日本は、長いこと無関心という病気にかかった情報弱者の国だったのです。常識が崩れ、変化が起きはじめています。
それでは、このあたりで本題に戻りましょう。
恵比寿から「日本画聖地巡礼」という特別展へと向かう途中、一輪のピンク色の薔薇の花を持った男性が歩いていました。
少し照れくさそうにしながら、頬を赤らめています。
待ち合わせの場所に女性が到着し、喜んでお花を受け取っている様子を見て、なんだか、こちらまでほんわかとしてしまいました。
また少し歩いていくと、今度は結婚式のパーティーの最中です。
不思議と立て続けに、愛を感じる一日となりました。

〈弓ヶ浜で咲いていた花、広尾でも咲いていた〉
こちらの美術館では、日本画の展示だけではなく、画家が訪れた場所のモティーフ写真と、その作品を制作する際の画家の一言やエピソードが一緒に展示されており、思いがけない発見がありました。
というのも、70年から100年前に描かれた作品の時代背景、カメラのない時代に描くということは、記憶、頭の中がとても重要になってくるわけです。
そこがぼんやりとしてしまうと、制作が困難になってしまうこともあるというわけです。
現代では、パソコンやスマートフォンを見ながら絵を描いたり、写真を撮って見ながら描くことが日常となっています。
現地に出向かなくても気軽に検索できるし、モティーフを探すことが簡単にできてしまいます。
海外を題材にした作品も展示されていたのですが、奇遇にも、前回の記事で取り上げた「アシュタロト」にまつわる作品、イシュタルの門を描いた「バビロン王城」(平山郁夫・1972年)がありました。

話しが少し逸れますが、日本の80年代に人気があったイラストレーターが、無断で人の写真を模写していると騒ぎになっています。
最近のアーティストが模写したらダメで、江口寿史が模写するのはいい、という企業のあり方では、そりゃあ苦情が出ますよね。(江口を崇拝する世代がえこひいきしているというようなことになる)
個人的には、この方の生々しい絵が好きではなかったし、エロさが売りなところも、ちょっと。(単に写真のなぞり絵だったことに驚き、そして納得)
問題は、個人的に撮影した写真を無断商用された一般人、これはどうなるのでしょうか?
トレースについての詳しい記事がありました。
江口寿史のトレパク疑惑をわかりやすく解説!過去のトレース元画像まとめ
【比較画像】古塔つみトレパク疑惑作品18つ!酷似しすぎて大炎上‥賠償金やYOASOBIとの契約はどうなる?
どうやら、SNSを見ているとブーメラン案件のようですね。
作家は、魂込めてなんぼのもんでしょうよ。

山種美術館では、重要文化財となっている屏風がありました。散り行く椿をモティーフにした「名樹散椿」(速水御舟・1929年)は、椿の美しさを丹念に描いています。
筆者の自宅に、毎年大輪の花を咲かせる山茶花があるのですが、蕾が可愛らしくて、とても美しいのです。
速水御舟は、花の蕾の美しい様子を克明に描いています。

〈こちらの作品のみ撮影可〉
ガラス張りで反射してしまいましたが、とても細かい描写でした。
この展覧会には誘われて行ったのですが、どの作品も思いのほか予想外に見応えがありました。(時代背景と画家の思いなど)
創造性と美と技術力。
神様がお作りになった被造物は、全てが美しい。それらを通して、どのようにクリエイティブに表現できるのか、構想を練っています。
さて、帰りがけに美味しそうなスイーツのお店を発見。
実を言うと、この日の前日、バスクチーズケーキの情報が目に入っていて、食べたいな・・と考えていた矢先。
このお店は、とても美味しいバスクチーズケーキの専門店だったのです!
最近、考えたことがすぐに叶うということが多発しています。
朝、思ったことが、もう夜には叶ったり、答えを求めると翌日には与えられたり、幾つもの祝福がひっきりなしにあるのです。


ふと、今までの人との出会いの中で、とてつもなくヘヴィな悩みを打ち明けられる、ということが数多くあったことを思い出しました。
その時の自分には、到底受け止めきれないような重い内容ばかりでしたので、その都度、励ますか聞いてあげることしかできませんでした。
まず、自分が受け止めてあげられるだけの「器」ができていなかったし、答えを出すのは当人で、そもそも「真理」がないので救えなかった・・。
そんな過去のことを思い返していたら、御言葉で「器」のお話しが。
御言葉ーーーーーーー
2025年10月7日(火)
私たち信仰者は、いわば料理を載せる食器のようなものだ。食器は盛られた料理を引き立ててこそ値打ちがあると見なされるが、私たちも他人の人生を引き立ててこそ値打ちがあると神様から見なされる。だから、多くの人々を愛で伝導し、救っていかなければならない。
聖書の中で、イエス様は、隣人を愛しなさいと説いています。
そのように人類を愛するなんて、自分には絶対に無理だ。隣人を愛するなんて、いくら何でも難しすぎる・・とはじめて聖書を読んだとき、そう思いました。(隣人の意味もよくわかっておらず)と、同時に、イエス様は何という愛のある方なのだろうかと思いました。
しかし、神様の存在を知り、いざ御言葉を学んで実践して行くと、神様の愛を深く感じられるようになり、さらに練達を乗り越えてサタンの支配下から抜け出ると、もっと神様の祝福が凄い。凄いのです。
現実に、不足するということが本当になくなっていきました。不思議なんですが、そうできたし、そうなっていきました。
だからこそ、「救われるべき人を神様のもとに連れて行く」という思いが心から湧いてくるようになったのです。
そうして、また撮影に行こうと思ったり、祈りの旅に出かけるのです。
また御言葉で、自然法則のお話しに納得しました。
御言葉ーーーーーーー
2025年10月10日(金)
人間の肉体も幼いときは大人から与えてもらわないと苦しいが、やがては子供を生んで与える側に回らないと苦しくなる。これは人間の霊魂も同じで、幼いときは神様から真理と愛を与えてもらわないと苦しいが、やがては伝道して真理と愛を与える側にならないと苦しくなる。(あなたが神のように真理と愛の発信体となりなさい。)
ちょうど銀木犀が咲きはじめ、いい香りが漂っています。
撮影をはじめると、何だかいつもより太陽の光が強く輝いていました。






本当に、幸せの香りです。(毎年、楽しみで)
部屋に入って、天窓の光が強かったのでカメラを向けると・・。




なんと、家の中で虹が現れました。
余談ですが、聖書のように神様を何よりも愛するということが、はじめからできたわけではありません。たくさんの色々な出来事を通して、好きになったり嫌いになったりとありながら、騙してくる悪魔に勝利し続けながら・・変化していったわけです。
そうして、揺るぎない強靭なものに近づいている。
RAPT有料記事52 (2016年3月21日)悪がはびこる世の中で自分を守る生き方。
ーーーーーーー(転載します)
つい先日、神道の世界では「神(キリスト)」と「悪魔」の両方を神として拝んでいるということが分かりました。
しかし、先日もお話しましたように、「善」と「悪」がごちゃ混ぜになれば、「善」は自然消滅しますので、「悪」が勝利し、「神様」ではなく、「悪魔」がこの世を治めるようになってしまいます。
そして当然、「悪魔」は自らが神となってこの世界を治めたいと思っているので、「悪魔」を拝む者たちに力を貸し、助けます。
そのため、「悪魔」を拝んでいた人々は、やはり「悪魔」には凄い力があると思って、ますます「悪魔」を信じ、拝むようになります。
スピリチャル系の世界はそのようにして今日まで成り立ってきたと言えるでしょう。
そんな有様を見て、「神様」を信じる人たちや「善良」な人たちは、神様がこの世に存在しているなら、どうして神様は早く悪魔を滅ぼし、悪人を裁いてくださらないのだろうと思って、やきもきすることもあるでしょう。
ときに絶望しそうになることもあるはずです。
しかし、この世にどんなに悪がはびこり、どんなに数多くの人たちが「悪魔」に惑わされ、「悪魔」の後についていったとしても、自分自身がきちんと「神様」だけを見て、「神様」に祈り、「神様」の言葉に従って「善」を行って生きていくなら、「悪魔」に惑わされ、「悪人」たちと一緒に滅亡の道を行くことはありません。
自分自身がどう生きるかで、自分を守ることも滅ぼすこともできるのです。
誰が何と言おうと、「神様」の方が「悪魔」よりも圧倒的に強いからです。
それは行った人だけが分かる奥義中の奥義とも言えるでしょう。
RAPT有料記事54 (2016年3月28日)一人でいてもうまくできる人になる。
ーーーーーーー(転載します)
この世の中には団体戦には強いけれども、個人プレーは弱いという人が大勢います。
しかし、個人プレーがよくできてこそ、団体戦でも勝利できるというのが世の常です。
他人任せの選手ばかりのいるチームが、どうして試合で勝利することができるでしょうか。
しかしながら、個人プレーに強くなるためには、かなりの努力が必要です。一筋縄でできるものではありません。
だからこそ、個人プレーに弱い人が多いわけですが、これは信仰の世界においても、その他のどんな分野においても同じことが言えます。
しかし、自分一人の力でどんなこともできる人が、この世でも大きく成功し、サタンや悪人にも勝利することができます。
そして、最後には何にも変えられない喜びを享受できるようになるのです。
皆さんも、美しい「器」を作る旅に出てみませんか?
