曼珠沙華と仏教の真実ー2

皆さん、こんにちは。

前回の続きの記事となります。

「輪廻転生はない」という真実を知ると、因果応報だのカルマなどの余計なものはなかったのだと、身軽な気持ちになりませんか?

今ある人生を永遠に謳歌するためには、どうしたらいいのか。

人生のガイドとして、このブログが役に立っていれば幸いです。

余談になりますが、これから日本の少子化対策として、「輪廻転生の思想」がベースとなっている「ヒンズー教の国・インド」から、5万人を受け入れるという政策があります。

こちらの記事をご覧ください。

インターナショナルスクールまで計画していますが、そうなればスクールの周辺住民は、多くのインド人と生活することを余儀なくされるでしょう。

最近、騒ぎになった、墓を荒らすオーストラリア人、福島で避難地域の住宅に不法侵入したウクライナ人、電車内で日本人を突き飛ばしたスペイン人・・。

迷惑系外国人たちの、倫理観のない度を越した行為にびっくりしました。

すでにウクライナ人は逮捕され、オーストラリア人は大使館が注意喚起しており、銀行員だと職業まで暴かれています。

暴力を振るったスペイン人は、被害に遭われた男性が警察沙汰にすると電車が遅れてしまう、と言って断られたそうです。

迷惑行為をすることが目的なら、二度と来ないでください。

もし、これからインド人が5万人増えるとしたら、日本でヒンズー教徒が5万人増えるということになります・・。

一旦、このあたりで、曼珠沙華と仏教のお話しに戻りたいと思います。

前回とは別の日に、棚田と曼珠沙華を撮影してみたいと思い、急遽出発。やや渋滞に巻き込まれましたが、無事に到着。

農家さんたちが稲刈りの作業をされている傍ら、多くのカメラマンがお邪魔にならないように撮影。

たわわに実った稲穂は、丁寧に手作業で刈り取られていました。

今回は、こちらの記事をおすすめします。

ーーーーーーー(転載します)

「前世」も「輪廻転生」もないという客観的、かつ確固たる証拠を皆さんにご提示しました。

「前世」はない。「輪廻転生」もない。その確固たる証拠。

つまり、「前世」や「輪廻転生」が何の根拠もないデタラメ話であることがはっきりと分かったわけです。

要するに、江原啓之とか美輪明宏といったような人物は「前世」ブームを作って、「前世」利権を生み出し、「前世」でボロ儲けする人たちのために活動していたということです。

彼らもまた詐欺師だったということですね。

口先ではあれこれと良いことを言って善人ぶり、聖人ぶっていましたが、結局のところ「あなたの前世はこうこう」と嘘をつくわけですから、これほど悪質な詐欺師はいません。

そもそも、美輪明宏のように「同性愛者」という既に人としての道を踏み外したような人が、人の道を説くということ自体、とてもおかしな話です。

「同性愛者」から人生について学んでいけば、学んだ人もいずれ「同性愛者」になってしまう可能性があります。

その一方、「聖人」から人生について学べば「聖人」になりますし、少なくともその可能性が高くなります。

ですから、私ならもちろん「聖人」から学ぶことを選びます。「同性愛者」なんかには絶対に学びたくもありません。「詐欺師」にもなりたくありませんので、「詐欺師」からも人生を学ぶつもりはありません。

しかし、ここで問題になってくるのは、果たしてこの世で「聖人」と呼ばれている人たちは皆、本当に「聖人」なのかということです。

特に、ここ数日、問題になっている「釈迦」は本当に「聖人」なのかということです。

釈迦の説いた「輪廻転生」が嘘だったということがはっきりと分かりました。

となると、彼は世紀の大嘘つきということになります。彼のせいでどれほど多くの人たちが「輪廻転生」を信じてきたか分かりませんから。

そして、嘘つきは決して「聖人」とは呼べません。むしろ「悪魔」と呼ぶべきです。

しかも、「釈迦」が生きていた当時、釈迦の生まれたインドではバラモン教(ヒンズー教)が流行していて、そのヒンズー教から「輪廻転生」の要素を仏教に取り入れたと言われています。

で、ヒンズー教は言わずと知れた悪魔教です。詳しくは以下のリンクをご覧ください。

この世の神はとかく悪魔だらけ。ヨガ、アセンション、アガルタ関連の話には要注意です。

その悪魔教の要素を自らの教えの中に取り入れたということは、「釈迦」もまた悪魔崇拝者だったのではないかという疑いが出てきてしまいます。

しかも、「仏教」と「偶像崇拝」は切っても切れない関係にあり、この「偶像崇拝」もまた悪魔崇拝そのものと言っても過言ではない行為です。これについてはこのブログで何度も書いてきましたね。

「聖書」でははっきりと「偶像礼拝」が禁じられているのに、バチカンでは正々堂々とイエスやマリアの偶像が飾られ、それを拝むようになっています。

これがなぜかといえば、バチカンにいるキリスト教徒たちは本物のクリスチャンではなく、悪魔崇拝者だからです。

このように悪魔崇拝者は、神様の禁じた「偶像崇拝」をわざと一般のクリスチャンに行わせることで、神様を冒涜するように仕向けてきたわけです。

で、このような悪魔教的な要素の強い「偶像崇拝」が「仏教」では当然のように行われているわけですから、この時点でもう既に「仏教」は悪魔教であると考えていいかも知れません。

その上、さらに「釈迦」の唱えていた「輪廻転生」まで嘘だったと分かったわけですから、もはや「釈迦」が悪魔崇拝者であったという疑いは強くなるばかりです。

ということで、今日は「釈迦」が悪魔崇拝者であると疑わざるを得ない理由を箇条書きにまとめることにしました。
 

1. 仏教は「偶像崇拝」を前提としている。


これについては、もう説明は不要でしょう。
 

2. 仏教には「釈迦」の書いた教典が存在しない。

 
「釈迦」は自分でも仏典を書き残さず、弟子たちにも書き残すことを許しませんでした。現在、残されている仏典はすべて、「釈迦」の死後、弟子たちが勝手に編纂したものです。

ーーーーーーー(以下、ウィキペディアより転載)

仏教の経典は、釈迦時代は釈迦が文書化を許さなかったため暗記によって保持されたと伝えられる。

この時代のインドでは、文字はすでに普及していたが、その使用は商用や法規の公布などに限られ、世俗の用件に用いるものではなかった。

ことに、書くことで自分を離れるから、聖典に対する敬虔さを失うと考えられて、文字に記すのではなく、体で覚えたわけである。

仏典が組織的に編まれたのは、釈迦の入滅後間もない時期である。

釈迦の入滅時に一人の比丘が「もう師からとやかくいわれることもなくなった」と放言したことがきっかけで、これを聞いた摩訶迦葉が、釈迦の教説(法と律)を正しく記録することの大切さを仲間の比丘たちに訴え、聖典を編纂した。

ーーーーーーー(転載ここまで)

本当に尊い教えを説き、その教えによって人々を救うことができると考えていたなら、「釈迦」もきちんと自分の教えを記録するなり、人に記録させるなりして、それを後世に残そうと考えるのが普通ではないでしょうか。

なのに、それをしなかったばかりか、それを禁じたわけです。しかも、「書くことで自分を離れるから、聖典に対する敬虔さを失う」というのも、「聖人」らしからぬ客観性、理論性に欠けた妄言にしか思えません。

皆さんも日頃から重要な情報はネットで拡散しようとされていると思います。

重要な情報は広めなければならない、多くの人々に知らしめなければならないと考えているからです。そして、そう考えるのが普通です。

ーーーーーーー(中略)

ところが、「釈迦」が自分の教えを広めようとするどころか、それを隠そうとしたわけです。私はここに疑問符を打たざるを得ません。

これはもはや世界最大の悪魔教である「ミトラ教」と同じです。「ミトラ教」にも正式な教典というものが存在していません。

いえ。もしかしたら本当はその「教典」がどこかに存在しているのかも知れませんが、少なくとも公には公表されていません。

恐らく「悪魔崇拝」の秘儀(淫乱邪悪な秘儀)がこれでもかと言わんばかりに書かれてあるので、とても我々庶民の目に触れさせるわけにはいかないのでしょう。(ミトラ教についての詳細は以下のリンクをご覧ください。)

キリスト教がミトラ教から誕生したという大嘘。ミトラ教は悪魔教であり、悪魔崇拝者たちが悪魔教の要素をキリスト教に混入していったのです。
 
で、釈迦も自分の教えをきちんと書き残そうとしなかったのは、釈迦の教えの中に、人に知られてはマズイようなことがあったからではないかと疑わざるを得ないのです。

もしや「釈迦」も、「密教」を説いた空海と同じく、表向きは良い教えを説いていながら、陰では「余りにも奥深い」淫乱邪悪な教えを説いて実践していたため、その証拠を残さないように、弟子たちに自分の教えを文書化することを禁じていたのではないでしょうか。(密教についての詳細は以下のリンクをご覧ください。)

〈閲覧注意〉日本の密教もまた悪魔崇拝そのものです。

で、「釈迦」のその裏の顔を知らない弟子たちが、「釈迦」の説いた良い教えを教典としてまとめた……ということかも知れません。

しかし、その弟子たちは「偶像崇拝」がまさか悪魔の教えであるとは分からなかったので、「偶像崇拝」の教えも正々堂々と書いて残してしまったというわけです。

まあ、あり得なくもない話ですね。
 

3.「釈迦」の説いた「輪廻転生」は嘘だった。

 
「釈迦」の説いた「輪廻転生」は嘘でした。となると、「釈迦」は大嘘つきだったということになり、それだけで「聖人」としては失格です。

「聖人」は「嘘」をついてはいけません。「嘘」をついたら「聖人」とは言えません。

あるいは「釈迦」は、「輪廻転生」があるのかないのかよく分からず、単にあるかも知れないと思って適当に「輪廻転生」を説いたのでしょうか。

だとしたら、それもそれで「聖人」としては失格ですね。

「聖人」とは、人に生きる道を説く人のことを言います。適当に人の生きる道を教えて、人を道に迷わせるようなことをしてはいけません。それでは、その辺のカルトと全く同じです。

もっとも、一部の僧侶や学者たちの間では、「釈迦」は「輪廻転生」を説いていなかったとの見解を述べている人もいるようです。

ーーーーーーー(以下、ウィキペディアより転載)

一方、現代の仏教者、僧侶、仏教研究者の中には、「釈迦は輪廻説を前提としておらず、インドに古代から信じられて半ば常識化していた輪廻を直接的に否定することをせず、方便として是認したに過ぎない」と主張する者も少なくない。

輪廻転生を理論的基盤として取り込んだインド社会のカースト差別に反発してインドにおける仏教復興を主導したビームラーオ・アンベードカルは、独自のパーリ仏典研究の結果、「ブッダは輪廻転生を否定した」という見解を得た。

この解釈はアンベードカルの死後、インド新仏教の指導者となった佐々井秀嶺にも受け継がれている[11]。 このように輪廻否定を積極的に主張する仏教徒グループを、断見派と呼ぶ。

ーーーーーーー(転載ここまで)

しかし、「輪廻転生」を「方便として是認したに過ぎない」というのも、それはそれで大きな問題ですね。

「聖人」が「方便」など使ってはいけません。「方便」を使うような人を「聖人」として認めてはいけません。

もっとも、この「断見派」の説はあくまで一部の例外的な考え方のようですので、「釈迦」が「輪廻転生」を唱えていなかったということはないのではないでしょうか。

ということは、やはり「釈迦」は大嘘つきだったということなり、「釈迦」は「聖人」として失格ということになります。

それに何より、この「輪廻転生」の概念は、インドのカースト制などの「差別」を生んでいるという確固たる現実があります。

これだけでも「輪廻転生」という概念が悪魔的であると考えざるを得ません。昨日、こんな記事を紹介して下さった方がいました。

ーーーーーーー(以下、こちらから転載)

私たちは、自分が気をつけていても大変なことが人生で起こってきます。それをカルマと説明されて納得できますか。

この考え方は極端にいくと、差別を生みます。

インドではこの前世についての考え方に基づいて、カースト制度が生まれました。

生まれながらに貧乏だったり、障がいを抱えている人は、「カルマ」があるからと説明して差別をするのです。徹底的に。

インドでは多くの貧しい人たちが見捨てられてきました。

世界で最も貧しい人たちが集まる場所のひとつのインドのスラム街があげられるのは、このカースト制度に基づく差別に起因しているといわれています。

前世という考え方は極論すると、世界にこのような悪影響を与えてしまうこともあるということを覚えていてください。

ーーーーーーー
 

4.「仏教」で唱える「お経」がどんな徳につながるのか理解不能。

 
これまでこのことに言及した人は余りいなかったかも知れません。

しかし、この際だからはっきりと言いますが、例え「お経」の中にどんな深い意味が込められていたとしても、それを何度も繰り返し暗唱することに何の意味があり、何の徳があるというのでしょうか。

そんなことをして、私たちに一体どんな人間的成長をもたらしてくれるというのでしょうか。

大の大人がこんなことを毎日やったところで、一体、どんな成長、発展があるというのでしょうか。

一方、「キリスト教」の場合、「お経」のようなものは一切存在しません。一応、イエスはこう「祈りなさい」とは教えました(マタイによる福音書6章9〜13節など)が、それを繰り返し暗唱しなさいと言ったわけではありません。

ですから、ある意味、どう祈るかは個人の自由です。どんな言葉で、どんな表現で、どんなことを祈るのかは基本的に自由です。

逆にそうでなければ、色々と困った問題が発生します。

なぜなら、聖書を読んで多くのことを悟れば悟るほど、自分の考えがどんどん深くなっていきますので、その祈りの内容も自ずと深くなっていきます。

それなのに、毎日同じことばかり祈るよう強要されるなら、わざと成長を止められてしまうようなものです。

また、人が一日一日生きていく中で、色々な事件や問題が起きます。ですから、我々はそれを全て神様に告げて、解決してもらわなければなりません。

それなのに、神様と対面した際、そういったことは何一つ告げることが許されず、ただいつもと同じ呪文ばかり唱えなければならないのなら、一体、その行為にどんな意味があるでしょうか。

人は自分の悩みを他人に打ち明けるだけでもすっきりとし、安心します。

まして、人が全知全能の神様に自分の問題を告げるならもっとすっきりとし、安心します。しかも、神様はその問題をいずれきちんと解決してくださいます。

ところが、仏教ではそんなことすらもできないわけですね。

要するに「祈り」とは神様との対話なのです。

対話とは、相手に気遣いつつ、相手を喜ばせたり、相手を慰めたり、自分の言うべきことを述べたり、自分の思いや気持ちを伝えたり、自分の悩みを告げたり、あるいは相手の悩みを聞いてあげたり……ということです。

神様は私たち人間にそのような対話をいつも求めています。神様は私たちのことを愛しているので、いつも私たちに話しかけてほしいと思っているのです。

ところが、仏教ではこういったことは一切なくて、ただ決まった文章を繰り返し暗唱するだけです。

はっきりと言いますが、誰かと対話するときに、どこかに書かれた文章を繰り返し暗唱するような人はいません。もしそんなことをしたら、ただの気違いだと思われてしまいます。

ところが、仏教では神様(仏様)に対して、そんな気違い沙汰をしなければならないわけです。

これではまるで神様(仏様)のことを人間以下の存在として扱うようなものです。

しかも、こんなことばかりやっていたら、人間の考える能力も低下し、いずれ思考停止状態になってしまいます。

現在、学校の勉強も単なる「詰め込み式」をやめるという方向で話が進んでいます。「詰め込み式」の勉強ばかりしていても、考える能力、発想する能力が身につかないからです。

ところが、人を「聖人」に育てるための宗教が、この詰め込み式をやらせるわけですから、私からしてみれば全くの意味不明です。

いやいや。「お経」には深い意味が隠されているのだ、その意味を噛みしめながら「お経」を唱えると、新たな悟りが生まれるのだ、と仰る方がいるかも知れません。

まあ、そう思うならご自由にそう思って「お経」を唱えていてください。あなたがそうしている間に、私は自分の言葉で神様に祈りますので。

率直に言って、人というのは知能が発達すればするほど、人に決められたことをやるより、自分で何かを発想し、構想し、表現することを楽しむようになります。

そして、そのような人は、人が決めた仕事をするということに極度の苦痛を感じるようになります。

そこには何の発展性もないし、ストレスが溜まるばかりだからです。

ところが、「仏教」はその何の発展性もない、ストレスが溜まるだけのことを要求してくるわけです。

ですから、私には「仏教」がどうしても悪魔的に見えてなりませんし、「釈迦」もまた悪魔崇拝者だったのではないかと疑わざるを得ないのです。

もっとも、「釈迦」はお経を唱えなかったという説もあるようですし、その説の方がどうやら有力なようです。もちろん、真偽の程は分かりません。

仏教に詳しい方、教えて下さい。釈迦はお経は唱えなかったんですよね?… – Yahoo!知恵袋

一応、私の見解としては、もし「釈迦」が本当に悪魔崇拝者であったならば、「お経」など全く唱えていなかったと思います。で、一般の信者たちには何の徳にもならない「お経」を唱えさせ、人々の時間とエネルギーをムダなところに投資させたということかも知れません。

あるいは、「お経」には何かヘンな霊物を呼び寄せる力があって、我々に伝えられている「お経」の意味の他に、もっと別の奥深い意味が隠されているという可能性もなきにしもあらずですね。

ということで、今日は「釈迦」が悪魔崇拝者だったのではないかと疑われる理由についてざっと簡単に述べてみました。

とにかく、このブログではこうして数々の状況証拠が集まってくると、いつも必ず決定的な証拠が見付かります。今までずっとそうでした。

「天皇」のことも然り、「プーチン」のことも然り、「小沢一郎」のことも然り、「地下の秘密施設」のことも然り、「UFO」のことも然り、「北朝鮮」や「核兵器」のことも然り……。

なので、いずれ近いうちに「釈迦」が悪魔崇拝者だったという決定的な証拠が見付かるのではないかという気がしないでもありません。

というか、いつか必ずその日が来るでしょうね。少なくとも、私はそう信じています。

ちなみに、祈りについては数日前に具体的に記事にしています。この記事を参考にして、皆さんもぜひ普段からお祈りしてみてください。

それだけでも、皆さん自身の人生、ひいてはこの世の中が大きく変わると思います。

何をどう祈ればいいのか、具体的な方法をお教えします。自分の人生も世界の運命も変える鍵がここにあります。

ーーーーーーー(RAPT理論、転載ここまで)

ーーーーーーー(転載します)

昨日は「釈迦」が悪魔崇拝者だったのではないかと疑われる幾つかの理由を述べました。

で、いつか必ず「釈迦」を悪魔崇拝者と断定するだけの決定的な証拠が見付かるだろうと予測しましたが、早くもその証拠が見付かりました。

いやあ、本当に驚くべきスピードです。今回もまたある読者の方から情報を送っていただきました。本当にありがたいことです。

しかも、今回もあっけないほどその答えは単純明快なものでした。

とにかく、答えというものはいつも分かってみるととてもシンプル。ときに拍子抜けするほど単純明快です。

しかし、悪魔は我々にそのシンプルな答え(真実)を教えたくないので、わざと複雑で難解な話をして我々をずっと惑わしつづけてきたわけです。

この「釈迦」に関しても全く同じです。何しろ、仏教というのは、キリスト教と違ってこれといった正式な教典がない。

宗派によって別々の教典を使っているし、しかもその教典は「釈迦」本人が書いたものではなく、「釈迦」の弟子たちが書いたものなので、その教典がおかしいからといって「釈迦」までおかしいと断定することができませんでした。

例えば「密教」の教典は明らかに悪魔教そのものだということが分かりました(詳しくはこちら)が、それはあくまで「密教」を広めた「空海」や「最澄」がおかしいのであって、「釈迦」がおかしいわけではないという言い逃れの口実を作ることができました。

悪魔というのはそのようにして「情報」をいくつも分散して、これが間違っていても、あっちは正しいと言いながら、我々が常に誤った情報に振り回されるように仕向けてきたわけです。

しかしながら、仏教の創始者である「釈迦」が悪魔崇拝者だったとなれば、もう何も言い逃れはできません。仏教のどの宗派も間違いなく悪魔に毒されていると考えるべでしょう。

ですから、今まで仏教を信じていた人は、今日から即刻、仏壇を拝むのはやめた方がいいです。

ましてお経を唱えていた人は、絶対にもう二度とお経は唱えない方がいいでしょう。お経を唱えれば、間違いなく悪魔がやってきます。その理由はまた次回、詳しくご説明しようと思います。

以前、私はこのブログの中で「サナト・クマーラ」という悪魔についてのお話をしたことがあります。その記事が以下になります。

地底都市アガルタ (シャンバラ) が真の地獄であるという幾つもの証拠。

この記事を見ればすぐに分かりますが、「サナト・クマーラ」は紛れもない悪魔です。

で、この記事の中で私は「サナト・クマーラ」は悪魔の頭であるルシファーではないかという疑いさえ抱きました。

しかし、この「サナト・クマーラ」はどうやらルシファーではなさそうです。というのも、この「サナト・クマーラ」は悪魔のトップではなさそうだからです。彼の上にはさらに別の悪魔が存在していたのです。

では、それが何者なのかというと、「ブラフマー」と呼ばれる悪魔だそうです。

ーーーーーーー(以下、ウィキペディアより転載)

サナット・クマラ、サナト・クマラ(Sanat Kumāra)は、ヒンドゥー教の神話・説話に登場する賢人にして、ブラフマーの精神から生まれた四人のクマーラ(チャトゥルサナ)の一人である。

ーーーーーーー(転載ここまで)

ブラフマー01

〈ブラフマー〉

見ての通り、「サナト・クマーラ」は「ブラフマー」から生まれたとのこと。ですから、「ブラフマー」の方が「サナト・クマーラ」よりも格上ということになります。

では、この「ブラフマー」とはどんな存在なのか。ウィキペディアから見てみましょう。

ーーーーーーー(以下、ウィキペディアより転載)

ブラフマー(Brahmā, 梵: ब्रह्मा )は、インド神話、ヒンドゥー教の神。仏教名「梵天」。

三神一体論(トリムルティ)では、三最高神の一人で、世界の創造と次の破壊の後の再創造を担当している。 ヒンドゥー教の教典にのっとって苦行を行ったものにはブラフマーが恩恵を与える。

4つのヴェーダを象徴する4つの顔と4本の腕を持ち、水鳥ハンサに乗った赤い肌の男性(多くの場合老人)の姿で表される。手にはそれぞれ「数珠」、「聖典ヴェーダ」、「小壷」、「笏(しゃく)」を持つ。 配偶神は知恵と学問の女神サラスヴァティー(弁才天)である。

ーーーーーーー(転載ここまで)

いまいちよく分かりませんが、「4つの顔と4本の腕を持ち、水鳥ハンサに乗った赤い肌の男性」というのですから、言ってみれば、化け物みたいなものですね。悪魔らしい奇怪な姿をしているとも言えます。

しかも、この「サナト・クマーラ」には仏教名までちゃんとあるそうで、その名も「梵天」。

bonten

〈梵天〉

ヒンズー教の神様なのに、仏教の神様でもある……ここからしてもう既に怪しいですね。悪魔の匂いがプンプンしますね。

しかし、問題はこの後です。このウィキペディアの記事には、その後、このようなことも書かれてありました。

ーーーーーーー(以下、ウィキペディアより転載)

経典の説くところでは、釈迦牟尼仏が悟りを開いた時に、その悟りを人々に語るように説得したのが梵天であり、この事を梵天勧請と呼ぶ。

後に梵天は釈迦牟尼に帰依し仏法の守護神となる。

ーーーーーーー(転載ここまで)

なんと。悪魔であるはずの「梵天」が「釈迦」に自らの悟りを人々に伝えるように説得したとのこと。しかも、この「梵天」がなぜか「釈迦」に帰依して、仏教の「守護神」となったそうです。

「悪魔」が仏教の「守護神」になってしまったというのです。これはちょっとマズイですね。

まさかそんなはずがない。もしかしたらこの話は、一部の仏教徒の間でのみ広まっている話ではないか。

私も思わずそう疑ってしまったのですが、どうもこの話、仏教徒の間ではしごく一般的に広まっている説話のようです。以下のような記事がありました。

ーーーーーーー(以下、こちらから転載)

ゴータマ・ブッダの<初転法輪>(最初の説法)には梵天(ブラフマー神)が関わったと伝えられている。 

ブッダが最初に説法をしたのは開悟して実に5週間後であった。 彼はその間菩提樹などの樹下にいたのである。

開悟の後最初の一週間彼は菩提樹下で解脱の喜びと楽しみをかみしめながら座禅していた。

第2週目にはアジャパーラ榕樹(バンヤン)の下に移り7日間を過ごした。

第3週目にはムチャリンダ樹の下で7日間を過ごした。その時大雲が起こり7日間雨が降り寒風が吹いた。

第4週目には ラージャヤータナ樹の下で7日間を過ごした。

第5週目には アジャパーラ榕樹の下に移った。 この時<梵天勧請>という現象(奇跡)が起こったと伝えられる。

即ち梵天(ブラフマー神)が出てきてこのまま静観したまま死のうとするブッダに三度も生きて説法をしてくれるよう懇願したというのである。

梵天(ブラフマー神)の三度にわたる熱心な懇願によって、ブッダはようやく説法を始める気になったというのである。

梵天(ブラフマー神)とは宇宙の創造神であり、ヴェーダ時代のインドの最高神である。 <梵天勧請>説話を記した原始仏典もある(「説法の要請」相応部経典6・1・1)。

この物語は大乗仏教でブッダが神格化される前に既にブッダを神格化しようとする動きがあったことを示唆している。

その経典にはブッダの悟りと説法躊躇の理由が簡潔に述べられているので興味深い。 経典の述べていることを見よう。

「わたしの悟り得たこの法は深遠で、理解しがたく、さとりがたい。 静寂であり、卓越していて思考の領域を越える。 微妙であって、ただ賢者のみよくそれを知ることができる。

ところが、世の人々は五つの感覚器官の対象を楽しみとし、それらを悦び、それらに気持ちを高ぶらせている。

それらを楽しみとし、それらを悦び、それらに気持ちを高ぶらせている人々にとって、実にこの道理、即ちこれを条件としてかれがあるという縁起の道理は理解しがたい。

また、すべての存在の静まること、すべての執着を捨てること、渇欲をなくすこと、欲情を離れること、煩悩の消滅すること、それが即ち涅槃であるというこの道理も理解しがたい。

もしわたしが法を説いたとしても、他の人々がわたしを理解してくれなかったらそれはわたしにとって疲労であるだけだ。 それはわたしにとって苦悩であるだけだ、と。

・・・ わたしが苦労して悟り得たものを、いま人に説いて何の得るところがあろうか。

貪欲と憎悪とにうち負かされた人々にとって、この法をさとるのは容易ではない。

常識の流れに逆らい、精妙で、深遠で、理解しがたい。微妙なこの法を、貪欲に汚され、幾重にも無知の闇におおわれている人々はみることがない。」

ブッダはこのように考え、人々に説法はしないでそのまま涅槃に入る(死ぬ)か、このまま静観しようとした。

その時宇宙の最高神である梵天(ブラフマー神)が現れブッダにあなたがこのまま説法をしないでいると世界は闇になる。

世の中には優れた能力を持った人もいるからどうか説法を開始して下さいと懇願する。

ブッダはこの梵天の熱心な懇願を三度も受けて説法を開始する気になった、と言うのが梵天勧請説話である。

このドラマチックな梵天勧請説話は仏教徒に一般的に信じられている。

しかし、「三明経」という原始仏典ではブッダは梵天(ブラフマー神)の存在と信仰を明快に否定している。 この方がその後のブッダの一貫した思想と矛盾しない。

ーーーーーーー(転載ここまで)

この説話は「仏教徒に一般的に信じられている。」とのこと。つまり、仏教徒の間ではこの話が定説として広く認められ、信じられているというわけです。

とはいえ、そのすぐ後に「『三明経』という原始仏典ではブッダは梵天(ブラフマー神)の存在と信仰を明快に否定している」とあります。

つまり、一部の仏教徒の間では「釈迦」と「梵天」とは無関係であると言われているわけですね。

なので、この「三明経」についてざっと調べてみたのですが、どうやらこの記事を書いた人はとんでもない勘違いをしているようです。

「三明経」においても釈迦は「梵天」の存在と信仰を明快に否定していません。むしろその逆で、「三明経」でも釈迦は「梵天」のことを神として扱っています。

以下、「三明経」のウィキペディアの記事です。

ーーーーーーー(以下、ウィキペディアより転載)

■場面設定

ある時、釈迦は500人の比丘と共にコーサラ国のマナサーカタに赴き、アチラヴァティー川に差し掛かった。

そこでは、バラモンであるポッカラサーティの弟子ヴァーセッタと、同じくバラモンであるタールッカの弟子バーラドヴァージャが、互いの師の梵行の優越性について口論していた。

決着がつかない2人は、釈迦に2人の師のどちらの梵行を行えば梵天へと至れるのか問う。

釈迦は、2人の師、ひいては「三明」(三ヴェーダ)に通じているとされる歴代のバラモン達の中で、存命中に梵天に至ったことがある者がいるのか問う。2人は否定する。

釈迦は存命中に梵天に至れない者は、死後に梵天に至ることもないと述べる。

そして梵天へと至る梵行として、十善戒、六根清浄、正念正智、三衣一鉢による満足、五蓋の除去(五禅支の生成)、四禅について述べ、これによって、色界までの有頂天である色究竟天へと至れると述べる。

2人は法悦し、三宝への帰依を誓う。

ーーーーーーー(転載ここまで)

このように「三明経」の中でも、釈迦は「梵天」のことを神として扱い、「梵天」に至ることを教え諭しています。

つまり、「釈迦」が「悪魔」と一つになるように説教したわけです。しかも、バラモン教という悪魔教を信じる信徒たちに。なんとも恐ろしいことです。(バラモン教とは古代ヒンズー教のこと。ヒンズー教が悪魔教であることは今まで何度も話してきました。例えばこちら

バラモン教 – Wikipedia

そのため仏教徒たちは、今でも仏像に向かって必死で「偶像崇拝」をして、さんざん神様を冒涜して「悪魔」を喜ばせなければならないわけでしょう。

で、この世の楽しみは全て捨てて、苦行をして、この世の中で地獄のような人生を生きて、あの世でも地獄に行け、というわけです。

これではその辺のカルトと同じですね。一見、とても良いことを説いておきながら、その実、最後に待っているのは地獄の生活と、地獄のあの世というわけですから。

やっぱり釈迦は「悪魔」の申し子だったようです。

で、私は昨日、こんな疑いも記事に書きました。

どうやらこの疑いもあながち間違いではなかったようです。その理由はまた次回、詳しくお話しします。

次回の記事を読めば、この日本に住まう神々がみんな悪魔だったということが、さらにはっきりとお分かりいただけると思います。

ーーーーーーー(RAPT理論、転載ここまで)

ーーーーーーー(転載します)

昨日は、「釈迦」が悪魔崇拝者であったという確固たる証拠を皆さんにご提示しました。

要するに、「釈迦」はブラフマー(梵天)という悪魔から指示されて悟りを伝えはじめたというわけで、しかもこのブラフマーはその後、なぜか「釈迦」の守護神にまでなったとのこと。

「悪魔」を守護神とする人物がまさか「聖人」であるわけがありません。

なので、「釈迦」は紛れもなく悪魔に遣わされた人物、つまり悪魔崇拝者であると断定せざるを得ません。

では、この「ブラフマー」とは何者なのかというと、昨日も言いましたように、「サナト・クマーラ」という悪魔の生みの親です。

で、この「サナト・クマーラ」はヒンズー教などに登場する神様です。

地底都市アガルタ (シャンバラ) が真の地獄であるという幾つもの証拠。

ヒンズー教は言わずと知れた悪魔教ですので、悪魔教の神が本物の神であるわけがなく、この「サナト・クマーラ」は間違いなく悪魔です。

で、この「サナト・クマーラ」が悪魔である以上、その生みの親である「ブラフマー」も悪魔に違いないわけですが、この「ブラフマー」に守護された「釈迦」のことを、日本人はずっと「聖人」として崇めてきたわけですね。

その一方で、私がちょっとブログに「キリスト」のことを書いたり「聖書」を推薦したりしただけで、この国では悪口やら中傷などのメールが殺到します。

しかも、日本に「聖書」が広く普及して、多くの日本人が「聖書」を読むようになれば、私のように「天皇」の権威がいかにインチキであるかを知ってしまう人がたくさん出てきてしまいます。

なので、悪魔崇拝者どもは躍起になって日本人をキリスト教以外の宗教に帰依させようとしてきたわけです。(詳しくは以下のリンクをご覧ください。)

天皇について触れたとたん、裏社会からの攪乱工作が激しくなってきました。やはりここが彼らにとって一番の急所のようです。

しかしながら、この日本でも神道はなかなか普及させにくかった。そのため、神仏習合を行い、仏教を大々的に広めてきたわけでしょう。そうすれば、日本人の多くが「聖書」には見向きもしなくなりますからね。

その上さらに、NHKは「行く年来る年」を毎年の大晦日に放送し、国民ぐるみで「偶像崇拝」を行わせ、神様を冒涜させるよう仕向けています。

毎年のように初詣に行っても、人生に何の変化もないことなど、もうそろそろ気付いてもよさそうなものですが……。

しかし、問題は初詣だけではありません。

しかも、昨日の記事でも触れました通り、仏教で唱える「お経」は、まさに悪魔をおびき寄せるための呪文に他ならないことが分かりました。

「お経」と聞くと、私が先ず思い浮かべるのは「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげいぎょう)」です。(私の家の近所に、熱心な創価信者の方がいて、毎日のように大声でこのお経を唱えていました。)

あと、有名なのが「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」ですね。マンガなどでお経を唱えるときには、おおよそみんなこの言葉を唱和します。

では、「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」との違いは何なのでしょうか。

先ず両方に共通しているのが「南無」という言葉です。これはサンスクリット語で「~に帰依する」という意味だそうです。

で、阿弥陀仏はもちろん「阿弥陀」という「仏様」のことで、「妙法蓮華経」というのは「法華経」のことです。

法華経 – Wikipedia

なので、これらのお経の意味はそれぞれ「阿弥陀仏」と「法華経」をひたすら信じ、敬うから救ってほしい、ということになります。

ネットを調べてみると、「南無は感嘆詞と思えばいい」ともありましたので、「ああ、仏様。法華経」といってすがるような感じなのでしょう。

しかし、この「阿弥陀仏」や「法華経」が本物の神様であれば特に問題はないのですが、当然、これらは本物の神様ではありません。悪魔です。

先ず「阿弥陀」ですが、これは大乗仏教の如来の一つだそうで、「大乗仏教」といえばかの悪名高き「密教」も含まれています。つまり、「密教」の神様でもあるわけですね。

大乗仏教 – Wikipedia

「密教」は悪魔教なわけです(詳しくはこちら)し、悪魔教の神が本物の神であるわけがないので、当然、この「阿弥陀」は悪魔ということになります。

Descent_of_Amitabha_over_the_Mountain

〈絹本著色山越阿弥陀図〉

なので、「南無阿弥陀仏」と唱えると、「ああ、悪魔よ。あなたを敬います。あなたに帰依します。どうぞお救いください」と呼びかけるのと同じことになります。

果たしてあなたはこんな言葉を口にしたいですか。私としては、この言葉をここに書くだけでも気分が悪くなりました。

一方の「法華経」ですが、「法華経」には「上行菩薩」という菩薩が登場します。で、この「上行菩薩」が何者なのかというと、恐ろしいことにかの「サナト・クマーラ」なのです。ウィキペディアにこう書かれてありました。

ーーーーーーー(以下、ウィキペディアより転載)

神智学を日本に紹介した三浦関造はサナト・クマーラと法華経に登場する上行菩薩を同一視している。

ーーーーーーー(転載ここまで)

この「三浦関造」が何者なのか調べてみたところ、ウィキペディアではキリスト教の牧師となっていて、その宗派は「メソジスト派」。

三浦関造 – Wikipedia

「メソジスト派」といえば、かの悪魔崇拝者ジェイ・ロックフェラーと同じ宗派ですね。

しかも、この三浦関造の書いた著書の中には「真理の太陽 綜合ヨガ (竜王文庫 1954年)」とか「聖シャンバラ (竜王文庫 1963年)」とか「マニ光明ヨガ (3版 竜王文庫 1974年7月)」なんてものがあります。

ヨガとかシャンバラにこうもこだわるということは、この人が悪魔崇拝者である可能性大です。つまり本物のクリスチャンではないということです。

この世の神はとかく悪魔だらけ。ヨガ、アセンション、アガルタ関連の話には要注意です。

まあ、当然といえば当然ですね。この人は「神智学」を日本に紹介したということですし、この「神智学」はまさに「悪魔学」みたいなものですから。

その証拠に「神智学協会」を設立した「ヘレナ・P・ブラヴァツキー」はまさに悪魔学の大家と言っても過言ではない人物です。それは以下のウィキペディアの記事を見れば分かります。

ヘレナ・P・ブラヴァツキー – Wikipedia

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〈神智学協会の紋章〉

まあ、それはともかく、「法華経」に出てくる「上行菩薩」が「サナト・クマーラ」であり、しかもこの「法華経」ではこの「上行菩薩」を神様のように扱います。

なので、「法華経」が悪魔教の教典であることは疑いようがありません。

ということは、「南無妙法蓮華経」という言葉の意味もまた、「ああ、悪魔教の教典を敬います。これに帰依します。どうぞお救いください」ということになるわけですね。

で、この「法華経」は「創価学会」や「日蓮正宗」の教典とされているわけですから、「創価学会」や「日蓮正宗」の信者たちはこの言葉の真の意味も知らずに、悪魔を呼び寄せる呪文を毎日のように唱えているわけです。

しかも、「創価学会」や「日蓮正宗」では「釈迦」よりも「上行菩薩」のことを格上として扱っているとのこと。

上行菩薩が仏(釈迦)より偉いのは何故ですか? - Yahoo!知恵袋

つまり、彼らは「サナト・クマーラ」を神として崇めているということです。

もちろん、一般の信者の方たちはこんなことなど知る由もないでしょうが……。本当に恐ろしいことです。

はっきりと言いますが、悪魔を何度も呼べば、当然、悪魔はあなたの傍にやってきます。

昔、コックリさんなんてものが流行しましたよね。

で、本当にコックリさんが来たといって驚く人もいました。もちろん、実際に来たと感じなかった人からすれば、こいつは嘘をついているとか、頭がおかしいとか思ったかも知れません。

しかし、私から言わせてもらえば、霊物を呼べば、当然、その霊物はあなたの傍に寄ってきます。別にそれは不思議な現象でも何でもありません。

その一方、「キリスト教」では「神様」とか「主」とか「イエス様」とか「聖霊様」を呼びますので、そうすると、それら三位一体の神様があなたの傍に来て下さいます。

しかし、「悪魔」が臨めば、逆にあなたの心は苦悩と不安と邪念に満ちていきます。そして、確実に人生が破壊されていきます。

ーーーーーーー(中略)

あと、「仏教」には「お経」の他にも「真言」というものがあるそうですね。「真言宗」の「真言」です。

「お経」と「真言」の違いが何かというと、「お経」は仏教思想を記したり、喩え話などで例示したりしている文章だとのこと。

一方、「真言」(マントラ)は、もともとは仏教以前の古代インドで、バラモン僧が唱えた神聖なまじないの言葉だそうです。

神に呼び掛ける言葉で、唱える声そのものに力があるとされていて、それが仏教、特に密教に取り入れられとのこと。

真言 – Wikipedia

このウィキペディアの「真言」の記事を見てみると、例えばこんな風に悪魔を呼ぶそうです。

ーーーーーーー
•大日如来-オン・バサラ・ダトバン(Om vajra-dhatu vam)オーン。金剛界の主尊よ。ヴァン。

•阿弥陀如来-オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン(Om amrta-teje hara hum)オーン。甘露の威光ある尊よ。運載したまえ。フーン。

•阿閦如来-オン・アキシュビヤ・ウン(Om aksobhya hum)オーン。阿閦尊よ。フーン。

•不空成就如来-オン・アボキャシッデイ・アク (Om amoghasiddhi ah)オーン。不空成就尊よ。アハ。

•宝生如来-オン・アラタンナウサンバンバ・タラク (Om ratnasambhava trah)オーン。宝生尊よ。トゥラーハ。
ーーーーーーー

仏教に出てくる如来や仏様の名前は、すべて悪魔の固有名詞と考えて間違いないでしょう。それらを召喚するのが「お経」であり「真言」であるということです。

でなければ、こうして知らず知らずのうちに「悪魔」などを帰依し、召喚することになってしまうのです。そうして、人生が破壊されてしまうことになのです。

もっとも、「仏教」には「キリスト教」のように確固たる一つの教典がないわけですから、それももうほぼ不可能でしょう。悪魔どもが人々を惑わすために、わざと教典を作らず、教義を曖昧なものにしてしまったのです。

何度も言いますが、この世には確実に「霊界」が存在し、「神様」も「悪魔」も存在します。

で、「悪魔」を呼べば「悪魔」がやってくるし、「神様」を呼べば「神様」がやってきます。それがこの世の真実です。

あなたの友人を呼べば友人がやってきて、恋人を呼べば恋人がやってくるのと同じことです。

あなたの友人を呼んでも恋人は来ないし、恋人を呼んでも友人は来ませんよね。

果たして「神様」が来るのと「悪魔」が来るのと、どちらがいいでしょうか。

選択するのはあなた自身です。

悪魔を拝んで人生を破壊する生き方から、神様を拝んで人生を幸福にする生き方へ。

悪魔に打ち勝ち、自分の心身を守る方法。祈って聖霊を受けることが、悪魔を滅ぼす最大の鍵です。

ーーーーーーー(RAPT理論、転載ここまで)

おそらく、カルト宗教は別として、大多数の日本人は仏教について深く考えていないと思います。

仏教が必要とされるのは、身内が死亡した場合で、先祖代々〇〇宗だからとか、地元のお坊さんとの付き合いが長いから、というような理由ではないでしょうか。

そして、死人が出た時に、きちんと成仏できるようにお坊さんを呼んで、供養しなくてはいけないという「風習」になっているのです。

そのあたりのことも、不安を解消するべく真実を伝えていくしかありません。

天国に必ず入れるように、しっかりと自分を成長させておけば、何の問題もないのですから・・。

さらに仏教の真実を深掘りしたい方に、こちらの記事をおすすめします。

Clickしてください。

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それでは、棚田の様子をご覧ください。

最後に、こちらの記事をおすすめします。

ーーーーーーー(転載します)

この世の多くの人々が自分の人生を変えたいと願って生きていますが、ほとんどの人がその願いを叶えることなく、一生、何ら代わり映えのない人生を生きて終わりになります。

なぜなら、彼らの多くが自分自身を変えようと努力もしないで、ただ幸運が転がり込んでくることばかりを夢想して生きているからです。

それこそ、自分自身を成長させて、一つでも二つでも多くの実力・能力を身につけていけば、人間の人生は自ずとより良い方向へと変わっていきます。

もちろん、急に大きな変化が訪れることはないでしょうが、塵も積もれば山となるという諺の通り、そのような努力を続けているうちに、五年、十年も経てば、いつのまにか自分でも驚くほどに人生は変化しているものです。

外から幸運が転がり込んでくることを期待しても、実際にはそんなことはなかなか簡単には起きませんが、自分自身を変えていくことは、自分次第でいくらでも何とでもできます。

そして神様は、私たちがそのようにより良い人生を生きられるようにと、ときに私たちに厳しい御言葉を伝えながら、私たちを霊肉ともに成長させようとしてくださっているのです。

皆さん一人一人が、自分自身をどんどんと成長させて人生を好転させ、この世でもあの世でも天国のような幸福な生を生きられますことを心から祈ります。

皆さんは、天国と地獄のどちらで暮らしたいでしょうか?

毎日が苦しみの国、地獄に行きたいという人は、まずいませんね。

しかし、天国という国に、すんなり誰でも入れるというわけではないのです。

だからこそ、神様は中心者を地上に立てられ、「御言葉」という「天国に入る方法」を教えてくださっているのです。

〈撮影の帰り〉

〈すわ〜っと天使の梯子が〉

〈現れました〉

このお話しは、次回へと続きます。

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