祈り
誰しも、心の中で神様に助けを求めたり、神様にお願いをしたことがあると思います。祈り求めたら願いが叶った、という経験もあるでしょう。
しかし、祈ることの本当の目的は、神様に願いを叶えて貰うことだけではありません。祈ることで、神様はその人を守ってくださいます。神様は、神様を愛した人だけを救ってくださるのです。神様を愛さない人は、神様は放っておかれます。
人々は欲にまみれ、自分の好き放題に生きてきました。何の罪も犯していない人などいません。ですから神様は、容赦なく人類を裁かれます。
これは、もう決まってしまったことです。
ただし、心と思いと精神を尽くして神様を愛したら、神様はその人を救ってくださいます。このことを、信じて実践した人は幸いだ、とrapt氏は伝えています。
祈りの方法について、ご紹介します。
この世のカラクリがある程度分かってきたので、今後はこの世をどう変えていけばいいのか具体的に考えていきたいと思います。
私はただひたすら「祈り」と「真実の追究」のみで悪魔どもに対峙してきたわけですが、しかし、ここで問題になってくるのは、我々の敵は悪魔崇拝者だけではないということです。
我々の本当の敵は、彼らの背後にいる「悪魔」なのです。
そして、厄介なことに、この「悪魔」は霊的な存在であり、目に見えない存在です。
この世の中をどう変えていくかについて考える際、この「悪魔」を抜きにして語ることはできません。
「悪魔」というものはただ単に政治や経済を破壊するだけでなく、我々一人一人の心を破壊しようと目論んでいます。
「悪魔」は人間のことを激しく憎んでいるので、我々一人一人の人生を破壊したくてしたくてたまらないのです。それが彼らの何よりの楽しみなのです。
人の心さえ破壊してしまえば、その人の人生も自ずと破壊していきます。
「悪魔」どもが宗教を破壊してきたのも、結局のところ、人の心を破壊することが目的なのです。
なので、私はこれまで度々、このブログの中で自分の心を大切にするように訴えてきたわけです。
はっきり言って、自分の心が破壊されたら、政治や経済や国際情勢についてもいくら論じても意味がありません。
しかし、ここのところをきちんと理解できずに、多くの人たちが政治や経済や国際情勢のことばかりを論じているから、いつまで経っても本当の真実が見いだせないのです。
かつてのユダヤ人は、救世主が現れることをひたすら待ち望んでいました。
旧約聖書の中に「いずれ神があなたたちの中に現れて、あなたたちを救ってくれる」という預言が書かれてあったからです。
当時のユダヤ人は、イスラエルという小さな国の中で暮らしていて、常にアッシリア、バビロン、ローマといった大国から、政治的にも経済的にも軍事的にも大きな圧力を受けながら苦しい毎日を送っていました。
そのためユダヤ人たちは、救世主が現れれば、周辺の大国をすべて武力で打ち倒して、政治・経済を改善してくれるだろうと信じていました。
ところが、実際に現れた救世主は、イエスという貧しい青年で、武力で周りの大国を倒してくれるどころか、むしろ敵と戦うことを禁じ、さらには敵を憎むことすら禁じて、ただひたすら神様を愛し、隣人を愛して、自分の心を善良に作りなさいと説きました。
「イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」 (マタイによる福音書22章37〜39節)
イエス・キリストは、この世を良くしようとするより、先に自分の心を善良に作りなさい、そうすれば自分の心が天国になるし、それこそが救いだと言ったのです。
この教えを聞いたユダヤ人たちは激しく失望しました。その上、イエスは救世主などではない、偽メシアだと言って迫害し、最終的には十字架刑に処してしまいました。
しかし、このイエス・キリストの教えには普遍的な真理が詰まっています。
なぜなら、この世の中、いつの時代でも政治的、経済的な問題は起こり得ますし、それらの問題を自分一人の力で解決することはできません。
ならば、例え周りで政治的、経済的な問題が起きたとしても、自分の心をきちんと守り、自分の心を天国に作る方法さえ身に付けていれば、その人はこの世でも幸せに生きられるし、あの世でも天国に行くことができます。
私もこれこそがまさに真理だと思い、大学時代に聖書にはまって、聖書ばかり読んでいました。
しかし、いざ心を善良に生きようと思っても、この世の中が余りにも邪悪なので、いつも壁にぶつかってばかりでした。
何しろ、この世でいくら善良で生きたところで誰にも認められないし、むしろ偽善的に生きる人の方が認められたりしますからね。
しかも、善良に生きようとすると、かえって損をしたり、害を受けたりすることもあります。だから、善良に生きることが嫌になってしまうことも度々でした。
だからといって、心を卑屈にして、悪の道にはまり込んでいくなら、それはそれでさらなる苦痛の道です。
悪人と仲間になって、悪人に取り囲まれながら、悪を行って私腹を肥やしていく、というのは人によっては楽な道なのかも知れませんが、私にとってはただの苦痛の道でした。
多分、このブログの読者の方もそういう方が大半だろうと思います。
ならば、善と悪の中間あたりの道を進んでいけばいいのではないかとも思うわけですが、実はそういう中途半端な生き方こそ最も辛い生き方です。
なので、私は聖書の言うとおり、ある時きっぱりと善良に生きようと決心しました。
すると、それだけで私の心はかなり楽になりました。そうやって決心するだけで肩の荷が下りました。
しかし、実際に善良に生きるためには、この世の中から騙されないようにしなければなりません。そのため私は、マスコミや学者の嘘を徹底的に暴き出そうと考えました。(多分、それが天から私に与えられた使命だったのでしょう。)
そして、実際にそのように努力してきて、とりあえず今こうしてこの世の裏のカラクリがほとんど全て暴き出せるようになりました。
つまり、私がこうして陰謀論みたいなものを囓ってきたのは、ある意味、自分の心を守るためだったということですね。
そういうこともあって、私は他の陰謀論者たちのように、政治家や学者や企業家を怒りや憎しみをこめてバッシングすることが嫌いなのです。
そうやって怒りや憎しみを自分のうちに溜め込んでいくなら、いずれ自分の心が破壊されて、それこそ悪魔の思うつぼだからです。
悪魔を倒すためにこの世の悪を暴いておきながら、自分の心が悪に満たされ、破壊されてしまうなら、それこそ本末転倒ですからね。
私は基本的には自分の心を守る、人の心を守る、ということを重視しながらこのブログを書いてきました。それこそが悪魔を倒すことであり、自分を救うことでもあると分かっていたからです。
そして、そのような私のスタンスに共感を覚えて下さる方も実に多かったので、私もとても嬉しく思っています。
そもそも、自分の心も守れない人が「政治を変える」「経済を変える」と言ったところで、実際に変えられるわけがありません。
そういう人がいざ政治の現場に出ていっても、自分の心を治められず、すぐに誰かと争いを起こし、もめ事を起こしてしまうに違いないからです。
あるいは、すぐに金銭的な誘惑やハニートラップに引っかかってしまうことでしょう。
そうすると、悪魔どもがそれをネタにさんざん叩いてきて、その人の行くべき道が直ちに閉ざされてしまいます。
悪魔崇拝者たちは、自分たち自身、こそこそと陰で悪を行っていながら、他人が何か一つでも悪を行うと、まるで鬼の首を取ったかのように、ここぞとばかりに激しく責め立てます。
悪魔どもはいつもそのようにして善良な志をもった人たちを叩き潰してきました。悪魔とはそういう奴らなのです。
なので、「政治を変えたい」「経済を変えたい」と志している人は、先ずは自分の心から変えることを考えなければならないと私は思います。
実際に自分の心を変えることができたなら、政治を変えることも経済を変えることも、そんなに難しいことではないはずです。
なぜなら、この世では自分の心を変えることが、他のどんなことよりも最も難しいことだからです。だらこそ、自分の心を善良にした人は「聖人」とまで呼ばれるのです。
そして、そのような人は悪魔に騙されず、悪魔を倒す方法を心得たも同然なので、政治や経済もいずれ変えていくことができるはずです。
しかも、そういう人が大勢あらわれて、一つになって行動を起こしていけば、確実にこの世は政治的にも経済的にも改善されていくことでしょう。
少なくとも私はそう信じています。
悪魔に打ち勝ち、自分の心身を守る方法。祈って聖霊を受けることが、悪魔を滅ぼす最大の鍵です。
彼らは史上最大の詐欺師たちの集団です。なので、甘く思って彼らにかかっていくと、簡単に罠にはめられ、ころりと騙されてしまいます。
はっきりと言わせてもらえば、今までこの世のカラクリをすべて完全に暴く人が一人も出てこなかったのは、ここに最大の原因があると私は思っています。
この世のカラクリを暴いて書籍やネット等でそれを発表しても、その人がすぐに何かしら悪魔の攻撃にやられてしまい、それ以上、活動できなくなるよう道を閉ざされてしまうのです。
また、何か大きな志をもった政治家や企業家が、すぐに挫折したり、道を踏み誤ったりしてしまうのも、同じくここに最大の原因があると私は考えています。
悪魔の攻撃にも実に様々な種類があります。
例えば、最もオーソドックスなのが攪乱攻撃、脅迫、誹謗中傷などですね。そういうことをして相手のやっていることを妨害しようとするわけです。
それで駄目なら、今度はその人に何らかの誘惑を仕掛ける。例えば、金銭的な誘惑。異性的な誘惑。薬物の誘惑など……。
その人がそういった誘惑に引っかかると、直ちにそれをネタにして脅迫したりするわけです。
しかし、その誘惑にも引っかからなければ、今度は冤罪に嵌めたりもするでしょう。
とはいえ、こんなことを我々みたいな一般庶民みんなにやることは不可能なので、悪魔崇拝者たちは「呪術」という手に打って出てきます。
我々庶民にとってみれば、「呪術」などオカルトめいた怪しげなものにしか思えないでしょうし、そんなものに本当に効果があるのかどうかすら疑う人も多いでしょう。
悪魔崇拝者からしてみれば「呪術」など、三度の飯を食べるのと同じぐらい日常的なものに過ぎません。
彼らが普段から親しくいる悪魔どもに頼んで、自分が呪いたい人に取り憑いてもらい、その人に色々と悪さしてもらえばいいだけの話ですから。
その結果、漫画などの場合は、その人の周りで次々と嫌なことが起きたり、色々な問題が発生したりするわけですが、霊的な存在というものは、そうそう簡単にこの世の物質界に影響を及ぼすことはできません。
悪魔どもは何よりも先ず人々の心に働きかけます。もっと正確に言えば、その人の脳に働きかけます。
人の思考回路は、脳の中を流れる電気信号によって形成されていると言っても過言ではありません。これは現在では科学的にも立証されていることです。
「悪魔」のような霊的な存在は、霊界ではそれなりにきちんとした姿形をしていますが、この地上界では電波の固まりみたいなものなので、我々の頭脳に次から次へと悪い電波を流し込むことができます。
そうすると、その人の頭の中に、悪い雑多な考えがあれこれとたくさん浮かんできたりします。
例えば、嫌なことを思い出したり、イライラしたり、心配や不安になったり、憂鬱や疎外感、絶望を感じたり、孤独な気持ちになったりするわけです。
そうして、いつしかその人は生きる気力すら喪失したりもします。
もっとも、その影響力は、その人に取り憑いた悪魔がどれほどの力を持っているのかにもよるでしょう。
下等な悪魔であれば、人に対してさしたる影響を及ぼすことはできませんが、ルシファーのような高等な悪魔であれば、ただ誰かの傍に近付くだけで、とてつもなく強い影響を及ぼします。
ごく普通の人なら、下等な悪魔が近付いてきただけですぐに何かしら影響を受けてしまいます。
また、霊的に敏感な人も悪魔の影響をとても受けやすいです。
霊的に敏感でない人も、単に時間差があるだけで、いずれその心や体にはっきりとした影響が出てくるようになります。
私みたいに下手にこの世のカラクリを暴こうなどとすると、悪魔崇拝者たちに呪われて、悪魔に取り憑かれ、心や体に悪い影響を受けるリスクがとても高いと言えるわけです。
しかし、私はそうと分かっていても、このことをさほど恐怖に感じてはいません。なぜなら、私は彼らの「呪術」を全く無効にしてしまう方法を心得ているからです。
その方法とは何かと言えば、もちろん、言うまでもありません。神様に祈ることです。
では、なぜ神様に祈ることがそんなに強力なのか……。今日はこのことについて、いつもよりさらに具体的にお話ししましょう。
聖書を読んだ方は既にお分かりだと思いますが、聖書の中にはよく「聖霊」という言葉が出てきます。
「聖霊」とは、「神様」と「御子(イエス・キリスト)」と同じぐらい偉大な力をもった霊なのです。要するに、神様と同じような霊的な存在だと考えればいいと思います。
もっとも、この世のクリスチャンたちの多くは「聖霊」がそれほど大きな存在であるとは余り認識していないかも知れません。
クリスチャンによっては、「聖霊」について深く考えることさえしていないかも知れません。
しかし、中には「聖霊」のことばかり考えているクリスチャンもいます。多分、宗派によって考え方が全く違うのだろうと思います。
いずれにせよ、「聖霊」は我々人間にとって、実はとても重要な存在ですし、なおかつとても身近な存在です。
なぜなら、いくらお祈りしても、神様やイエス・キリストの霊が私たちに臨むことはほとんどありませんが、「聖霊」はいつでも私たちに臨み、働きかけてくれるからです。
新約聖書
ルカによる福音書 祈るときには 11ー1〜13
イエスはある所で祈っておられた。
祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、
「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
そこで、イエスは言われた。
「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
また、弟子たちに言われた。
「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。
『友よ、三つパンを貸してください。旅行中の友達がわたしのところへ立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
すると、その人は家の中から答えるにちがいない。
『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きて何かをあげるわけにはいきません。』
しかし、いっておく。
その人は、友達だからということでは起きて何か与えることはなくても、しつように頼めば、起きてきて必要なものは何でも与えるであろう。
そこで、わたしは言っておく。
求めなさい。
そうすれば、与えられる。
探しなさい。
そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。
そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。
まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
…………………
この言葉は紛れもない真実です。
しかし、ただなんとなく適当な気持ちでお祈りしても、「聖霊」を下さることはありません。
切実にすがるような思いで、しかも私利私欲のためでなく、尊い目的のために祈ったとき、神様はその人に必ず「聖霊」を与えて下さいます。
実は私も毎日のように祈りながらこの「聖霊」を受けています。普段からはっきりと「聖霊」を感じて生きています。
私はもともと霊的に敏感な方なので、「悪魔」が近付いてきてもすぐにそれと分かりますが、「聖霊」が近付いてきてもすぐにそれと分かります。
ですから、霊的に敏感な人は、祈るとすぐに「聖霊」が自分に注がれるのを感じれるはずですが、その人自身が感じようと感じまいと、切実にお祈りするなら、間違いなく「聖霊」を受けています。
そして、この「聖霊」を毎日きちんと受けつづけることができるなら、その人はまさに超人的な力を発揮するようになります。
私がこうしてこの一年、ほとんど毎日欠かさずブログの記事を更新できたのも、実はこの「聖霊」の力によるものだと自分では考えています。
神様に切実に祈ることによって「聖霊」が与えられ、その「聖霊」が私に調べる力、文章を書く力、人を説得する力、理論的に考える力、分析する力、といった力をすべて与えてくださったのです。
皆さんが信じようと信じまいと、それが確固たる事実です。私は本当に毎日たくさん祈ります。
しかし、私がこのような話をすると、人によっては私利私欲のために「聖霊」を受けようと必死で祈ったりします。
はっきり言って、そんな祈りは絶対に叶えられることはありません。
富のため、名誉のため、異性にもてるため、そういった卑しい目的のために祈っても神様は絶対に「聖霊」を与えてはくださいません。
しかし、自分を完全にするため、この世を良くするため、神様を喜ばせるため、といった尊い目的のために祈るならば、神様は無限に「聖霊」を降り注いでくださいます。
しかも、「聖霊」をたくさん受けた人は、悪魔崇拝者たちに少々呪われても、さしたる影響を受けることもありません。むしろ、逆に自分を呪う者たちを「聖霊」の力で薙ぎ倒したりもします。
はっきりと言いますが、人の悩みや不安、恐れ、心配というものは、「聖霊」を受ければほとんど全てが解消します。
こんなことを言っても信じられない人には信じられないでしょうが、やってみた人には分かります。
また、この「聖霊」を受けるためには、ただ祈るのではなく、聖書もできるだけ沢山読んだ方がいいでしょう。
聖書の言葉を頭に入れずにただ祈るのと、聖書の言葉を頭にぎっしり詰めて祈るのとでは、その祈りの効力が全く変わってくるからです。
なぜなら、聖書の言葉というのは悪魔に対抗する「武器」みたいなものだからです。
この「武器」を頭の中にぎっしりと詰めることで、悪魔の「波長」をその頭脳が受けにくくなり、お祈りするときにも神様と波長が合いやすくなります。そのため、「聖霊」も受けやすくなります。
それによって、力が湧いてきたり、勘が鋭くなったり、インスピレーションを受けやすくなったりもします。
だからこそ、「聖霊」を受けた人は周りから見て、超人的な働きをしているように見えるのです。
それこそ一時間祈ってから何か仕事をするのと、全く祈らないで何か仕事をするのとでは、その結果に歴然とした差が出てくるでしょう。
なので、会社の仕事がうまくいかずに悩んでいる方、家庭の問題、その他様々な問題に困り果てて、途方に暮れている方。ぜひとも聖書を読みながら、切実に神様にお祈りしてみてください。
そうすると、それまで絶対に解けないと思っていた問題がすらすらと解けるようになったりもしますから。
また、聖書を読むのも、いきなり旧約聖書から読むのは難しいので、新約聖書から先に読んでみてください。
とにかく、分かりやすいところから、あるいは心に入りやすいところから読んでいけばいいのです。
そして、何よりも持続力をもって聖書を読み、お祈りすることです。一日、二日祈って、何の効果もないからといって諦めるのではなく、何日も何ヶ月も、場合によっては何年も祈りつづけるのです。
要するに、叶えられるまで諦めずに祈りつづけるということです。そうすれば、必ずあなたの祈りは叶えられます。
いえ。もし仮にその祈りが叶えられなかったとしても、神様はあなたのその切実な行いを見て、あなたが願っていたもの以上によいものを下さるでしょう。
神様はあなた以上に、あなたにとって本当に必要なものをご存知だからです。
これまで私は「悪魔」についてさんざん語ってきましたが、これからはこの「聖霊」についてもたくさん語っていこうと思います。
そうすれば、人によっては話を聞くだけで大きなパワーが漲ってくるでしょうし、祈りの力がさらに倍増し、悪魔と戦ってたやすく勝利できるようになるはずですから。
もっとも、最初のうちは「聖霊」を受けるのはやや難しいかも知れませんが、私も皆さんのために沢山の「聖霊」が臨むようお祈りしていきたいと思っています。
転載ここまで
いかがでしたでしょうか。
神様は、全ての人々の心の中を見ていらっしゃいます。自分に起きる艱難、苦難、それには必ず理由があります。
何があっても、何が起きても幸せを感じていられるように、自分を変える努力をして、神様のような完全な人になれますように。
新約聖書
ルカによる福音書
ベルゼブル論争 11ー14〜23
イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。
しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」という者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。
しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。
「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。
わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。
しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具を全て奪い取り、分捕り品を分配する。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」
汚れた霊が戻って来る 11ー24〜26
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。
それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。
そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。
そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
真の幸い 11ー27〜28
イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。
「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」
しかし、イエスは言われた。
「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」
祈りで、未来は変わっていくのです。