秦氏とロスチャイルドと生贄儀式、イルミナティ13血流について
皆さんは、お祭りが好きですか。
日本のお祭りには、感謝や祈り、厄祓いや鎮魂などの意味合いがほとんどですよね。お供え物を捧げたり、神輿を担いだり、踊ったりして地域ごとに盛り上がることでしょう。
昔、日本のお祭りでは信じられないことに人を捧げていました。
そして今回、聖徳太子についてrapt 氏が紐解いています。謎多き人物ですが、本当は何者なのでしょうか。
まずは、こちらの記事をお読みください。
「聖徳太子」も「平清盛」もゾロアスター教徒であり、ロスチャイルドの先祖です。
私は「聖徳太子」が「秦河勝」という名の「秦氏」であるとの記事を書きました。その記事が以下になります。
青いバラを作ったサントリーは出雲族。彼らは「秦氏=ロスチャイルド」の作った「君が代」を忌み嫌っているようです。
日本史の中で「聖徳太子」ぐらい謎に包まれた人物はいません。それこそ「卑弥呼」の次に謎に満ちた人物と言ってもいいのではないでしょうか。
「卑弥呼」も「聖徳太子」も、どちらも実在しているのかどうかも怪しいとまで言われ、仮に実在していたとしても、その正体がよく分からない。
「卑弥呼」の場合は、統治していた邪馬台国すらどこにあったのか分からないわけですから、その正体が謎に包まれるのもある意味、仕方がないとは思います。
しかし、「聖徳太子」はどこで生まれてどこで暮らし、何をしたのかまでかなり詳しく記録に残されています。
にもかかわらず、「聖徳太子」の存在自体が嘘ではないかと疑われ、その正体について多くの歴史家がああでもないこうでもないと議論を繰り返しています。
はっきり言って、これはいくら何でもおかしな話です。
一体どうしてこんなことになっているのか。今の今まで、私にもその理由がよく分かりませんでしたが、あれこれと調べていくうちに、やはりこの世には「聖徳太子」の正体を隠したがっている人がいる、ということが分かってきました。
しかし、それを隠しておきたいからと言って実際に隠しておける人物というのは、この日本にそんなに大勢いるわけではない。
もしいるとしたら、それこそ「田布施システム」の存在を隠してきた「天皇家」と「ロスチャイルド家」ぐらいでしょう。
なので、この「聖徳太子」の正体を隠してきた犯人は、やはりこれまた「天皇家」と「ロスチャイルド家」と考えて先ず間違いありません。
ということは、この「聖徳太子」は「天皇家」や「ロスチャイルド家」と縁の深い人物だったと考えられるわけですが、これまでは「聖徳太子」の正体は「蘇我入鹿」であるか、または「秦河勝」である、というのが最も有力な説とされてきました。
人によっては「蘇我入鹿」と「秦河勝」は同一人物であると言ったり、彼ら二人が敵対関係にあったと言ったりしています。
かの有名陰謀論者である飛鳥○○に至っては、「聖徳太子」と「秦河勝」と「蘇我入鹿」と「小野妹子」が同一人物であるとまで言っているようですが、相変わらず我々庶民を煙に巻いてバカにしていますね。
では、私自身がこれらの説をどう捉えているのかというと、「聖徳太子」はやはり「秦河勝」であり、「秦氏」と「蘇我氏」は対立関係にあった、と考えるのが最も筋が通っていると思っています。
さらに言うなら、これまで何度も話してきました通り、「秦氏」はロスチャイルドの先祖。
一方の「蘇我氏」は出雲族であろうと考えています。
というのも、後に「大和族」が編纂した記紀には、「聖徳太子」が偉人として描かれ、「蘇我氏」が悪者として描かれているからです。(ロスチャイルドと「大和族」は仲良しですから。詳しくはこちら)
さらに記紀には、「蘇我入鹿」と「蘇我馬子」なる人物が登場しますが、この二人の名前の文字を入れ替えると「馬鹿」と「入子」になります。
「馬鹿」は「馬鹿」ですね。で、「入子」には以下のような意味があるようです。(出典はこちら)
・同様の形状の大きさの異なる容器などを順に中に入れたもの。重箱や杯などの入れ子細工。よく知られたものとしてロシアのマトリョーシカ人形がある。
・プログラミングにおけるネスティング(入れ子構造)のこと。
・劇中劇などのように、物語の中で別の物語が展開する構造のこと。 ⇒ 枠物語
・額縁の部品の一つ。油彩額などに使われる、絵とガラスとを密着させないための枠。
・死亡した実子に代りに養子を迎えること、またはその養子のこと。
・手こぎの船で櫓杭(ろぐい)を差し込むために櫓にあけた穴。
なので、記紀を書いた人物は、「蘇我入鹿」と「蘇我馬子」は「バカなマトリョーシカ人形」とでも言いたかったのではないでしょうか。
〈マトリョーシカ人形〉
とにかく、記紀を書いた人物が「蘇我氏」を馬鹿にしていたことは明らかです。
しかも、「蘇我入鹿」と「蘇我馬子」の間には「蘇我蝦夷」という人物がいました。「蘇我蝦夷」にとって「蘇我馬子」は父親、「蘇我入鹿」は子供という関係になります。
「蝦夷」というのは「大和族」から見た「出雲族」の蔑称です。
なので、どこからどう考えても「蘇我氏」は出雲族と考えられるわけです。
したがって、「秦河勝」と「蘇我入鹿」が同一人物だったというよりは、敵対関係にあったと考えた方がよさそうです。
さらに言うなら、彼らが敵対関係にあったがために、「聖徳太子=秦河勝」は「蘇我氏」によって暗殺されてしまった……とも考えられます。
まさかと思う人もいるかも知れませんが、これについて、以下のような記事を見付けました。
(以下、こちらから転載)
いきなり、聖徳太子が暗殺されている!と言うと、「本当か?嘘だろう?」と疑う人が多いと思います^^;
でも、暗殺されている可能性が高いのは、事実です。
管理人が、聖徳太子が暗殺されたと言うのは、次の三つの根拠があるからです。
【①聖徳太子は妻との死亡時期が一日違いであること】
Wikipediaにはこう書いてあります。
「推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった。」
聖徳太子と妻の死亡時期が、わずか1日違いなんです。しかも、聖徳太子の母もその2ヶ月前に死亡しています。
・・・これ、不自然だとは思いませんか。
このように、立て続けに、死亡するのは、ほとんどあり得ないことで、これは、聖徳太子と妻とが一緒に殺されたと言う事を、表しているのです。
次に二つ目の根拠です。
【②聖徳太子の鎮魂式が全くなされていないこと】
飛鳥時代の当時、天皇関係者などが亡くなると、一定の期間、「殯(モガリ)」と呼ばれる、鎮魂式というか鎮魂儀礼が催されるのが一般的でした。
推古天皇や欽明天皇にも、さらには、聖徳太子の弟(来目皇子)が亡くなった時でさえ、「殯(モガリ)」が為された形跡があります。
でも、聖徳太子の死には、そのモガリの記録が一切ありません。そして、モガリを行わずに、すぐに埋葬されてしまっているのです。。。
推古天皇の摂政だった人物ですから、モガリをして然るべき人物のはずなのに、されていないのは、当時の常識からすれば、不自然極まりないことなんです。
ちなみに、聖徳太子以外で、このモガリが無かった天皇として、「崇峻天皇」が居ます。
実は、この「崇峻天皇」も、592年10月4日に「暗殺」されています。(犯人は蘇我馬子とも言われています)
Wikipediaにも「崇峻天皇」の項目でこう書いてありますよね^^;
〜〜〜〜
物部氏の没落によって欽明天皇以来の崇仏廃仏論争に決着が付き、法興寺(飛鳥寺)や四天王寺などの、造寺事業を積極的に行った。
しかし、即位したあとでも政治の実権は常に馬子が握っており、次第に不満を感じるようになった。
592年10月4日に、猪を献上する者があった。
天皇は笄刀を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。
そのことを聞きつけた馬子が「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。
そして東国の調を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢駒に暗殺をさせた。
臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である。
死亡した当日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは、他に例が無い。
〜〜〜〜
いかがでしょうか?
殯(モガリ)も行わずに、まさに、すぐ葬ってしまっている事等、崇峻天皇の暗殺~埋葬までの様子は、聖徳太子のケースとほとんど同じなのです。
以上が、二つ目の根拠ですが、最後に三つ目の根拠です。
【③聖徳太子の死後643年に、太子の子孫25人全員が蘇我入鹿に殺されていること】
一説には、山背大兄王は生き延びている(?)という説もありますが、聖徳太子の子孫が殺されているというのは、事実だと思います。
下記の系図を見れば一目瞭然ですが、聖徳太子の血筋は、蘇我氏によって、根絶やしにされているのが分かるはずです。
それで、以下に述べる部分を良く考えて見て欲しいのですが・・・
聖徳太子は蘇我蝦夷(入鹿の父)とともに、仏教を導入したと言われている人物でした。
要するに、蘇我氏の大切なパートナーと言われていたのが、聖徳太子であり、その子孫を、全員殺害するというのは、幾らなんでも、恩人に対して非道な仕打ちです。
こんな事は、普通は出来ないはずなんです。
なので、この部分には、何処かに嘘が混じっていると言う事です。
実は、率直に言ってしまえば、聖徳太子は、蘇我氏のパートナーでも何でもなく、蘇我氏にとって聖徳太子は、ただの政敵に過ぎなかったというのが、真実です。
だからこそ、聖徳太子は暗殺され、子孫も皆殺しの憂き目にあったのです。
以上の3つの理由から、聖徳太子が暗殺されている可能性は高い! 管理人は、こう考えています。
ちなみに、蘇我入鹿は後年645年の乙巳の変(大化改新)で殺害されています。
なぜ、蘇我入鹿が乙巳の変で殺されたのか?と理由を問われれば、その背後関係に「聖徳太子の一族の惨殺事件」があったと言えます。
乙巳の変で首謀者の一人である「中臣鎌足」は、元々は物部氏の従者(配下)である中臣氏ですので、物部氏系の聖徳太子一族を殺された”かたき討ち”の面もあると思います。
聖徳太子の暗殺事件は、後の大化の改新にまで繋がっています。
(転載ここまで)
ということで、「聖徳太子」は「蘇我氏」によって殺され、その「蘇我氏」が大化の改新によって復讐のために殺された……。
こう考えることで、今まで複雑に見えた歴史も、一本の筋が通って見えてきます。少なくとも、私はこのように考えることで、頭の中がスッキリとしてきました。
では、なぜ記紀を書いた人物は、「聖徳太子」が暗殺されたことをはっきりと書かなかったのか。
その答えは簡単です。自分たちが神のように崇めている人物が、敵の手によって暗殺されたと国民に知られるのは、さすがに屈辱だったからでしょう。
この「聖徳太子」の肖像はこれまで日本のお札に七回も使用されています。
日本のお札は「ロスチャイルド」が作っているので、ロスチャイルドが神のように崇める「聖徳太子」を七回もお札の顔として使ったわけです。
私はこのブログの中で「平清盛」もまたロスチャイルドの先祖であると書いてきました。以下がその記事になります。
平清盛が平家をロスチャイルド家にしてしまった可能性。または「密教」と「日の丸」に隠された意味。
「平清盛」がロスチャイルドだったなんて、未だに信じられないという人も多いかも知れませんが、やはりどこからどう考えても「平清盛」はロスチャイルドです。
今日はそのさらなる証拠をお見せします。
私はこれまで何度か「聖徳太子=秦河勝」はゾロアスター教を信仰していたと書いてきました。以下がその記事になります。
「神社」と「山」と「ピラミッド」と「空海」と「秦氏」と「ゾロアスター教」との切っても切れない関係。
新国立競技場の工事を受注した「大成建設」は、やはりロスチャイルドと天皇と密接につながっていました。
実を言うと、「平清盛」も同じくゾロアスター教を信仰していた可能性が高いのです。
…………………
世界遺産・厳島神社、3000もの島が点在する瀬戸内海において、古来神が宿る島とされた厳島に建てられた壮麗な社殿。
《RAPT註:一般的には、厳島神社は「平清盛」が建造したとされています。》
〈厳島神社〉
平安時代の神殿造りの粋を集めた建築美、潮の満ち引きを計算して建てられた緻密な構造、そしてその姿は自然と調和することで、訪れる者に驚きと感動を与えている。
厳島神社は1996年に人類の創造的才能を表す傑作など4つの項目で評価され、世界遺産に登録された。
満潮になると海の上に浮かんでいるように、床の高さが計算されている。
厳島神社は、東回廊、中央部、西回廊からなり、東回廊を通り中央部から出口に至る西回廊へと進むつくりになっている。
檜皮葺の屋根は独特の曲線美を描いている。
通常神社や寺は東や南を向いているが、なぜか厳島神社は北西を向いている。
その謎は聖徳太子が握っていた・・・
火焼前(ひたさき)、正面に見えるのは高さ16mの大鳥居。
楠木の巨木で作られている。
流されないのは海底に柱が打ち込まれているのではなく、鳥居の頭を重くしているからだという。
火焼前の奥に高舞台、祓殿、拝殿、幣殿、その奥に本殿がある。
厳島神社の美しさは海と山の絶妙なバランスから成り立っている。
見る角度によって異なる姿を見せる社殿、さらに季節の移ろいを投影するかのように、いくつもの表情を秘めている。
厳島神社の美しさは、無限の広がりを見せている。
春、満開の桜が朱色の社殿を包み込む。
夏、夜空を彩る花火が、厳島神社のシルエットを幻想的に浮かび上がらせる。
まさに一期一会の美しさ。
本殿を抜け、西回廊へ。
この厳島神社に魅せられたのは平清盛だけではない。
当時の天皇や貴族も参拝に訪れている。
平家が滅んだ後もその信仰は途絶えることなく豊臣秀吉もあつく庇護したという。
いったい厳島神社に何があるというのか。
御祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の3女神。
厳島神社は平清盛が建てたのか?
今の社殿の形は清盛が建てたが、お宮としてはそれより古くからあった
593年にお宮は建てられ、推古天皇、聖徳太子の時代、もう一柱御祭神が祀られていた。
厳島神社を抜け、隣り合わせにある大願寺、神仏分離が行われた明治時代までは、厳島神社に含まれていた。
御本尊は弁財天、元々厳島神社の本殿の中に祀られていた。
弁財天は女性の仏、日本三大弁財天の1つに数えられている。
現在は秘仏とされ、見ることはできない。
そのルーツは古代ペルシャの女神アナーヒター、ゾロアスター教の海の女神。
ゾロアスター教とは、紀元前1400年~1200年頃に預言者ゾロアスターによって始められ、日本では拝火教という名で知られる。
西暦200年ごろに繁栄したサーサーン朝ペルシャでは国教となり、全盛期を迎える。
その特徴は水、火を神聖なものと崇めること。
イランに残るゾロアスター教の神殿は、必ず川海湖など、水の近くに建てられている。
厳島神社の高舞台で行われる舞楽、抜頭、厳島神社の神職に伝わる一子相伝の舞。
1年に1回、元日の日の出から、およそ3時間にわたり舞われる。
ところがその面は、異様に鼻が高く、明らかに異国の顔。
さらにそのストーリーが胡人、つまりペルシャ人が猛獣に父を噛み殺され、復讐をするというもの。
平清盛が造営した厳島神社とゾロアスター教が、同じ海の女神を祀っている。
《RAPT註:上の画像は「抜頭」の様子。》
そしてペルシャを舞台にした舞、これはいったい何を意味しているのか?
古代オリエント文明研究家・岡田明憲「平家は西のほうの人たち、すなわちペルシャ人、ササーン朝ペルシャの末裔ではないか。」
実は世界遺産、奈良の興福寺、大乗院寺社造時期に、こんな1文が残されている。(『大乗院寺社雑事記』)
外来人が営む倉が、京都三条坊門にある。
彼等は外国との貿易などをしているが、そのことごとくは平の姓を名乗っている。
謎を解くカギは舞楽にあった。
現在の社殿の形になった時に、平清盛が大阪の四天王寺の舞楽を伝えたといわれている。
四天王寺は厳島神社と同じ、西暦593年に建立された。
〈四天王寺〉
この寺の地下には竜が住んでいるという伝説がある。
《RAPT註:地下で悪魔崇拝を行って、悪魔を呼んでいたからでしょうか。》
30000坪の敷地、昔はその10倍あったという。
執事・南谷惠敬「浪速は今でこそ西の方は街並みだが、元々はすぐそばまで海だった。その海はずっと瀬戸内海に続いていた。」
四天王寺も海の近くに建てられていたのだ。
厳島神社の舞楽は元は四天王寺から伝わった?
「聖霊会という法要、聖徳太子の御霊を慰めるため、聖徳太子の命日に行う法要がある。」
この寺を聖徳太子は、叔母の推古天皇が即位した西暦593年に摂政に就任、十七条憲法や冠位十二階を定め、中央集権国家を目指した。
昔の記録には、必ず抜頭だけは舞っていた。
なぜペルシャの話を舞うのかはわからないという。
秦河勝の子孫が舞楽を行っている。
秦氏は京都を本拠地にした豪族。
秦河勝は交易で得た富で、大和王朝では重要な地位につき、聖徳太子の厚い信頼を得ていた。
古代からの書物をまとめた『群書類従』によれば、秦氏は渡来人であることがわかる。
京都、秦氏が治めた太秦、太秦の秦は秦氏の秦。
木嶋坐天照御霊神社、通称「蚕の社」、秦氏が創建したといわれる。
元々は水の神をまつったことが始まりといわれる。
宮司・神服一夫「秦氏を象徴する鳥居がある。三柱鳥居、真ん中に石が組まれて御幣が立っている。本殿の主祭神が鎮座する場所。本来は周辺が池で、池の中に主祭神が鎮座する磐座が建っている。」
日本で唯一という三柱鳥居、神が鎮座するという石の山を高さ5mの鳥居が囲む。
水が涸れる前は池の中にそびえたっていた。
「常に湧水がこの辺りを一面埋め尽くしていた。ゾロアスター教の拝火神殿に合致してる。もしかしたら、秦氏はペルシャ人だったかもしれない。」
聖徳太子の側近、秦氏はペルシャ人で、だから厳島神社の舞・抜頭はペルシャの物語なのか?
そして秦氏が疫病を鎮めるために始めたというのが、2009年に世界無形文化遺産に認定された祇園祭。
祇園祭山鉾連合会元理事長・深見茂「今のペルシャ・イランのみならずその近辺一帯の文化が日本に流入して祇園祭の根底にある思想を形成したのではないか。」
確かに山鉾にはペルシャを思わせる絵柄が・・・
月山、羽黒山、湯殿山からなる出羽三山。
多くの修験者が訪れる。
ここを開いたのが聖徳太子の従兄弟・蜂子皇子と伝えられているのだが、その顔がなんと、肌は黒く、鼻が高く、大きな目、まさに異国の風貌。
〈蜂子皇子〉
従兄弟である聖徳太子の肖像画とは似ても似つかない。
よく知られている聖徳太子の顔、最近の学説では、中国の敦煌にある壁画を真似て描かれたといわれている。
つまり聖徳太子の本当の顔は謎に包まれているのだ。
《RAPT註:要するに、「聖徳太子」も「蜂子皇子」と似たような顔だったし、その顔を皆に知られるのはマズイと思ったので、偽物の顔を使うしかなかったということでしょう。》
太子最古の記録『上宮聖徳法王帝説』によると、太子の母親の名前は穴穂部間人(あなほべのはしひと)とある。
大阪外国語大学名誉教授・井本英一「『はし』というのはどういう経緯で入ってきたかというと、『は』というのは5・6世紀の漢音『パル』。『し』は『シーグ』。ペルシャ人のことを『パルシーグ』、『はし』は外来語でペルシャ人に間違いない。」
穴穂部間人の間人とは、ペルシャ人のこと。
「祇園祭の『ぎおん』はペルシャ語の魂を表す『ギヤーン』。『ヤーン』という音は『ヨン』になって『ギヨン』になって『ギオン』になる、これは間違いない。」
祇園祭の語源もペルシャ語。
聖徳太子の側近、そして母親までもペルシャ人だったのだ。
聖徳太子はペルシャ人だったという可能性がある。
そして太子が政治を行った現在の奈良県高市郡、飛鳥宮水落遺跡。
6世紀終わりに初めて都が飛鳥へ移ってきた。
推古天皇が宮を置く、これが飛鳥時代の始まり。
推古天皇が即位した593年から遷都されるまでおよそ100年間日本の都だった飛鳥宮。
聖徳太子が政治を行ったこの都の最大の特徴が、縦横に張り巡らした水道管から豊富な水を供給し、池や噴水を多く備えた水の都だった。
ゾロアスター教の国サーサーン朝ペルシャの首都ペルセポリスと同じだった。
さらにペルセポリスの特徴が、都市全体が北西に傾いていること。
古代オリエント文明研究家・岡田明憲「北西方向は神聖な方位の1つ、冬至の太陽は南東方向に出る。南東方向にでる冬至の日の出を正面から見るためには北西に自分が位置しなければならない。」
ゾロアスター教では、冬至の太陽は春にむけて復活するという意味を持つ。
厳島神社も北西に向いているので、冬至の太陽が神社の真後ろに昇る。
水、舞楽、北西の方向、そして京都奈良で導き出されたのは、聖徳太子、そして平家の人々がペルシャ人だった可能性。
平清盛が厳島神社を造営したのは、同族である聖徳太子の繁栄にあやかるためだったのかもしれない。
…………………
このように、「聖徳太子」と「秦河勝」と「平清盛」が、「ゾロアスター教」というキーワードによって一気につながってしまいました。
一見、全く何の関係もなさそうに見えるこれらのものが、なぜこうして一つにつながってしまうのか。普通に考えれば、さっぱり訳が分からないと思います。
しかし、「聖徳太子」も「秦氏」も「平清盛」もみんな「ロスチャイルド」の先祖であり、「ロスチャイルド」はゾロアスター教という「悪魔教」を信じる悪魔崇拝一族……。
だから、彼らはみんな見事に一つにつながってしまうわけです。
この世ではそんなに簡単に偶然など起きません。何かと何かがぴたりと一つにつながったときには、必ずそこに何らかの意味が隠されています。そして、その意味が何なのかを深く追求していけば、必ず何らかの答えが見えてくるのです。
〈聖徳太子御火焚祭〉
ちなみに、ゾロアスター教は「火」を拝む「拝火教」ですが、「聖徳太子」を祀った広隆寺でも、毎年この「火」を燃やす「聖徳太子御火焚祭(しょうとくたいしおひたきさい)」が行われているようです。
ここまで来ると、もう絶対に偶然とは言えませんね。
転載ここまで
スサノオのヤマタノオロチ退治と、蘇我氏による聖徳太子暗殺と、東京オリンピックにまつわる今回の騒動は、全く同じ構図のようです。
「聖徳太子」も「平清盛」も同じゾロアスター教徒であり、ロスチャイルドの先祖であるというお話をしました。
結局のところ、現在の「日本史」の教科書はすべて「天皇家」と「ロスチャイルド」の検閲がかかっているので、彼らにとって都合の悪い歴史はすべて削除され、彼らが崇めている人物は偉人として描かれる。
特にロスチャイルドは、「聖徳太子」のことを神のように崇めていたらしく、「聖徳太子」のイメージを悪くするような事実はすべて歴史から削除し、「聖徳太子」がこの上もなく素晴らしい業績を残したという部分だけを切り取って我々に教え込んできました。
しかし、彼らがそうやって作りあげた歴史が余りにもインチキだらけだったので、多くの歴史学者たちが「聖徳太子」の存在すら疑うようになり、実は「聖徳太子」とは「蘇我入鹿」だったのではないか、「秦河勝」だったのではないか、「小野妹子」だったのではないかと、ありとあらゆる説をこねくり回してきたわけです。
そのため、日本史はややこしくて訳の分からない複雑なものとなってしまったわけですね。
結局のところ「聖徳太子」の正体は、その補佐役であった「秦河勝」であった……ということが分かってきたわけですが、この「秦河勝」はその名の通り「秦氏」です。
この「秦氏」は、古代の日本に「農耕」「土木技術」「製鉄」「養蚕」「機織」「紙すき」などの先進文化をもたらし、この日本の発展に大きな役割を果たしてきました。そして、それは確かな事実なのだろうと私も思います。
(以下、こちらから転載)
日本列島に植民した秦氏は、主として北九州から発して近畿を拠点とし、東へ東へと植民、殖産活動を強めていった。
灌漑技術、土木技術、建築技術、冶金技術、農業技術、統治能力、蓄財能力、交易能力、職工能力をもった秦氏は、千年以上も植民活動を繰り返してきた殖産勢力でもあった。
その中で大きな比重を占めていたのは養蚕・機織の技術であり、秦氏の富の源泉の一つでもあり、秦氏のハタは機織のハタからくるという説もあるほどである。
秦氏の日本最大の根拠地である京都の太秦には蚕の社である木島神社がある。秦氏こそ「絹の道」の支配者であった。
彼らは商人として、技師として、職人として、役人として、神官として、妃嬪(ヒヒン)として、官女として、シルクロードの諸国でもそうであったように、天皇、豪族を操り、大和朝廷そのものを動かしてきたのである。
したがって、秦氏はその財力、知力、権謀術数にまかせて、ある時は百済勢力、ある時は高句麗勢力をバックアップし、常に権力に近い位置を占めていたのである。
対する2つの勢力のバックにいて、どちらが勝っても権力者の勢力につくことができた。
(転載ここまで)
では、なぜ「秦氏」はそれほどまで優れた技術や能力を持っていたのか。
実は西暦一万二千年前まで、この地球には現在よりも遙かに高度な文明が栄えていて、彼ら「秦氏」がそれらの技術を一手に受け継いでいたからだと考えられます。
世界の支配層たちが古代から高度な科学技術を密かに独占してきたという幾つもの証拠。
当時の日本で、このような優れた技術を持っていれば、当然、誰からも敬われ、誰からも重宝されたに違いありません。
だからこそ「秦河勝」ならぬ「聖徳太子」は、権力の中枢にのし上がり、当時の人たちから神のように崇められていたわけでしょう。
この「秦氏」のことを嫉妬したのかも知れません。「蘇我氏」一族はこの「秦氏」を皆殺しにしようと画策し、「聖徳太子=秦河勝」の一族がほとんど根絶やしにされてしまいました。
そのため、「秦氏」は「出雲族」に怒り狂い、激しい憎しみを抱くようになり、その後はひたすら「大和族」に与し、「大和系」の天皇がトップに就くように取り計らってきたわけでしょう。
つまり、「秦氏」は最初から「大和族」だったわけではなく、もともと「蘇我氏」とも仲良く親戚関係を結んでいた以上、「蘇我氏」と同じく「出雲族」だったと考えられるわけです。
実際、ネットを調べてみると、以下のような記事が幾つも見付かります。
(以下、こちらから転載)
秦氏は弓月君にひきつられて百済から帰化した中国系住民で、各地に住んで機織りなどの技術で多大の貢献をすることになり、平安期の資料(新撰姓氏録)によれば、一族は一万八千七百六十人の多くに上っているそうです。
しかし、秦氏についていろいろ調べていくと、「百済系」という『日本書紀』の記述には疑問が生じ、むしろ「新羅系」ではないかと思えてきます。
実際、秦氏は「新羅系」とする説が有力なようです。
その根拠としては、秦氏が多く住んでいたとされる地域から発掘された瓦は「新羅系」の瓦が殆どであったり、また秦氏の氏寺として知られる「広隆寺」にある国宝第一号として有名な「弥勒菩薩半迦思惟像」も、朝鮮半島の新羅地区で出土した弥勒菩薩半迦思惟像(現在、韓国国立中央博物館所蔵)と材質以外はうりふたつであり、しかも広隆寺の仏像の材料である赤松は、新羅領域の赤松であることが判明していることなどがあげられるようです。
私も、秦氏は新羅系の帰化人であることは間違いないのではないかと思います。
(転載ここまで)
世間一般の定説では、「百済」は「南朝」であり、「新羅」は「北朝」ということになっています。
さらに言うなら、「南朝」は「大和族」、「北朝」は「出雲族」と考えられますので、以下のようなことが言えます。
■南朝 = 百済 = 大和族
■北朝 = 新羅 = 出雲族
このように「秦氏」はもともと「新羅」の出身であり、「出雲族」だった。
しかし、同じ「出雲族」から皆殺しにされそうになったため、「出雲系」を敵視し、「大和系」の天皇をトップに擁立するようになった。
ですから、「百済系」である藤原鎌足が「大化の改新」を起こしたのも、藤原不比等が記紀を編纂して「大和系」こそ正統であると決定したのも、その背後には全て「秦氏」が関わっていたと考えられるわけですね。
しかも、「古事記」や「日本書紀」を編纂する際に、「秦氏」は自分たちのことを「新羅系」とはせず「百済系」と書かせることにした。
そのため、「日本史」はややこしく訳の分からないものとなり、誰も彼もが日本史を学ぶ度に頭が混乱するようになってしまったわけです。
このように「秦氏」の動きを見ていると、これまた「ヤマタノオロチ」の話が私の頭に浮かんできます。
「ヤマタノオロチ」はロスチャイルドで、「ヤマタノオロチ」は「スサノオ」という出雲族の神に退治されましたよね。(ヤマタノオロチがロスチャイルドであるという証拠はこちら)
これと同じく、「聖徳太子」もロスチャイルドで、「聖徳太子」も「蘇我氏」という出雲族に暗殺されました。
なので、記紀に書かれた「ヤマタノオロチ」と「スサノオ」の話は、「聖徳太子」と「蘇我氏」との間に起きた事件を暗示しているのではないかとも考えられるわけです。
もちろん、「スサノオ」と「ヤマタノオロチ」の話と、「蘇我氏」と「聖徳太子」の話は全くの別物だろうとは思いますが、こうして似たような事件が次々と起きたということは、それだけ「秦氏=ロスチャイルド」が同族である「出雲族」から忌み嫌われてきたという証拠でしょう。
ちなみに、「秦氏」は「灌漑技術、土木技術、建築技術、冶金技術、職工能力」に長けていて、その能力を使って時の権力に擦り寄ってきたとのことですが、現在のロスチャイルドについても全く同じことが言えます。
彼らは今でもゼネコン業界を取り仕切り、政府とつるんで必要もない「ハコモノ」を作ったり、「原発」を作ったり、「国際ハイウェイ」を作ったりしていますから。
現在でも「出雲族」がこのロスチャイルドの汚いやり方に怒り狂い、安倍晋三にザハ・ハディドのデザインを白紙撤回させたりして、その利権がロスチャイルドばかりに回らないように阻止しているわけでしょう。
実際、新国立競技場の工事を受注していたのが、ロスチャイルドとつながりの深い「大成建設」でしたからね。
「大成建設」は2500億円という法外な工事費を独り占めしようとしていました。なので、「出雲族」が怒り狂い、あれこれとイチャモンをつけてこの工事の契約を白紙撤回させたわけです。
さらに、今回、佐野研二郎氏のデザインしたエンブレムにも物言いがつきましたが、この騒動もまた同じカラクリなのではないかと考えられます。
というのも、今回、佐野氏がパクったとされるベルギーの「リエージュ劇場」のホームページを見てみると、トップにこんな写真が載っていたからです。
Accueil – Théâtre de Liège
中央の男の子がかぶっているのは、「出雲族」の神である「バアル=牛頭神」の角ではないでしょうか。あるいは、「教皇派」の神である「バフォメット」とも考えられます。
いずれにせよ「出雲族」と「教皇派」は大の仲良しですから、やはり今回の騒ぎも「出雲族」(と「教皇派」のタッグ)による「ロスチャイルド」攻撃である可能性が高いと考えられます。(「出雲族」と「教皇派」が大の仲良しという証拠はこちら)
さらに付け加えておくと、今回、ザハ・ハディドのデザインが選考されたのが、単なる「出来レース」に過ぎなかったことがもう既に分かっています。
どこまでも怪しいザハ・ハディドと安藤忠雄と新国立競技場。今回の騒ぎもやはり「大和族」と「出雲族」との争いが原因か。
ザハ・ハディドのデザインを選んだ「安藤忠雄」は創価学会員で、ザハ・ハディドも創価関係者。なので、何らかの根回しがあって、ザハのデザインが選ばれた可能性が高いと考えられます。
佐野研二郎氏のデザインが選ばれたのも、これまた同じく「出来レース」であった可能性が高いということが分かってきました。
2020年東京五輪エンブレムも「韓の法則」発動だった!
〈佐野研二郎氏〉
この上のリンク記事を見てみると、今回の東京オリンピックエンブレム選考委員の中には、なんと「佐野研二郎」の元部下がいて、その名も「長嶋りかこ」。若干34歳。
〈長嶋りかこ氏〉
しかも、この「長嶋りかこ」は2014年、「毎日デザイン賞」という賞を受賞しているらしいのですが、このときの選考委員の一人が「佐野研二郎」。これは完全にゴマの擦り合いですね。
とはいえ、今回の佐野氏に対するバッシングは異様なまでに過激化しています。正直、端から見ていると、無理やり佐野氏を貶めているようにしか見えません。
第一、「出雲族」は「出雲族」で陰で悪いことばかりやってきたわけですし、今さらロスチャイルドを責める筋合いはない。(まあ、責めてもらった方が我々庶民にとってはありがたいのですが。)
日刊ゲンダイ|五輪エンブレム 佐野氏を悩ませる「盗用常習」の不名誉な称号
そもそも、世界中を探し回れば、いくらでも似たようなロゴマークはあります。例えばこちら。
〈ココ・シャネルのロゴ(左)と千葉県茂原市の市章(右)〉
〈ヒュンダイのロゴ(左)とホンダのロゴ(右)〉
〈歌手のCOCCOのロゴ(左)とパナウェーブのロゴ(右)〉
しかし、これらのロゴマークが似ているからといって、これまで一度も大きな騒動が起きたということはありません。
にもかかわらず、今回はやたらと佐野氏のデザインがバッシングされています。
しかも、この騒動に乗じて、佐野氏がこれまで何度も他の作品をパクってきたとか、在日疑惑があるとか言って、必要以上に叩かれまくっています。
【驚愕】オリンピックロゴで炎上した佐野研二郎氏の過去の作品を調べた結果 | netgeek
さらには、選考委員の「長嶋りかこ」までパクリ疑惑を指摘されています。
はっきり言って、佐野氏が在日かどうかなど何の問題にもなりません。第一、ザハ・ハディドも日本人ではなくイラク人だったわけですし、日本人でなければエンブレムのデザインをしてはいけないという法律もありません。
なのに、こうして佐野氏が過剰なまでに叩かれているのは、やはり全ての騒動の原因が「出雲族」と「ロスチャイルド」との戦い、もしくは「出雲族」と「大和族」との戦いだからなのでしょう。
もちろん、佐野氏自身、そんなことが自分の背後でひそかに起きているとは全く分かってはいないのでしょう。だからこそ、あんな風にあたふたと混乱しまくっているわけです。
転載ここまで
京都の「祇園祭」はもともと牛頭神バアルに幼子を生贄として捧げる悪魔崇拝儀式でした。
日本の建国に大きく関わったとされる「秦氏」についての記事を書いてきました。
ざっと簡単に要約すると、「秦氏」はもともと新羅から「蘇我氏」とともに日本にやってきた「出雲族」でした。
そして、その「秦氏」が建築や冶金や織物など、ありとあらゆる能力に長けていたため、その一族の中から「聖徳太子」という優秀な人物が現れ、日本の権力をすべて一手に握ることになった。
「蘇我氏」はそんな「聖徳太子」のことを嫉妬し、「聖徳太子」の一族を皆殺しにしてしまった。
「秦氏」一族はこの暴挙に怒り狂い、百済系の「藤原氏」と手を組んで「蘇我氏」に復讐。
それが「大化の改新」であり、その後さらに藤原不比等などと組んで、百済系の「大和族」の天皇こそが正統であるとする「記紀」を編纂。
日本の歴史を完全に塗り替えてしまいました。
その後次々と「大和族」の天皇が輩出されることになったわけですが、それから僅か数十年後に「桓武天皇」が現れ、「大和族」から離脱。
「平城京」を離れて、「出雲族」のために「平安京」という新たな都を作りました。(「古事記」の編纂が712年。「日本書紀」が720年。「平安京」への遷都が794年。)
このことについては過去に詳しく説明しています。以下がその記事になります。
「平安京」が出雲族のために作られた都であるという確固たる証拠。大阪都構想を巡る「大和族」と「出雲族」の黒い思惑。
この「桓武天皇」が「平安京」に都を移したときにも、実は「秦氏」が全面的にバックアップしたとされています。
もしそれが本当なら、「秦氏」と「大和族」の間に何らかのトラブルがあったということなのかも知れません。
そのため、「秦氏」は自らの信念を曲げて「大和族」と決別し、「出雲族」の天皇のために「平安京」を作ってあげた。
その見返りとして自分たちも巨万の富と権力とを手に入れた、というわけでしょう。
もっとも、「秦氏」はもともと「出雲族」だったわけですから、ある意味、彼らが本来行くべき道を行くようになったとも言えるわけですが……。
それから「南北朝時代」が到来するまで、「京都」は日本の首都として大きく栄えつづけました。
「南北朝時代」に「大和族」と「出雲族」の権力争いが激化し、日本の首都が「京都」と「吉野」の二つに分かれてしまったわけですが、「南北朝時代」が終わった後も、結局は「京都」が日本の首都でありつづけました。
要するに、「大和族」の力が強くなったのは、「記紀」が編纂されてから「平安京」に遷都されるまでの僅かな期間だけで、それ以外はずっと「出雲族」がこの日本を牛耳っていたというわけですね。
そんな状態に腹を据えかねた「大和族」が、「織田信長」などの戦国武将を次々と輩出し、「出雲族」から権力を奪い返そうとしたわけです。詳しくは以下のリンクをご覧ください。
織田信長と豊臣秀吉が日本を「大和族」の天下にし、徳川家康が「出雲族」の天下へとひっくり返しました。
このように考えると、一見、複雑に見える日本史も一本の筋が通って見えてきます。
要するに日本の歴史は、ほとんど全て「大和族」と「出雲族」の戦いの上に成り立ってきたということですね。
しかしながら、「秦氏」の末裔である「ロスチャイルド」は、この日本の歴史が自分たちのドロドロの権力闘争の上に成り立っているということを我々国民に知られたくはない。
なので、日本の歴史が全て人々の善意の上に成り立っているかのように我々日本人に教え込んできたわけです。
そのため、我々庶民はいくら日本史を学んでも、さっぱり意味不明という状態にずっと悩まされつづけてきたわけですね。
ある意味、我々は嘘を洗脳されて、マトリックスの世界の中で生きてきたようなものなのです。
しかし、これからはそうはいきません。
このブログが日本史の闇を徹底的にあぶり出し、「秦氏=ロスチャイルド」「大和族」「出雲族」「月派」の行った全ての悪行をことごとく暴き出していきますから。
ということで、今日もまた「秦氏」の悪行を暴き出します。
皆さんは京都で行われている「祇園祭(ぎおんまつり)」をご存知でしょうか。どんな祭りなのかは知らなくても、名前ぐらいは聞いたことがあると思います。
祇園祭 – Wikipedia
というか、名前は聞いたことがあるけれども、どんな祭りなのかは知らないという人が大半でしょう。
実はこの「祇園祭」。もともとは幼子たちを悪魔に生贄として捧げる「悪魔崇拝儀式」に他なりませんでした。
私もこのことはこれまで全く知りませんでしたが、つい先日、ある読者の方がこの情報を寄せてくださったので、私も「本当だろうか」と思って、ざっと簡単に調べてみました。
その結果、この情報が紛れもない事実であることがすぐに分かりました。
(以下、こちらから転載)
祇園祭のそもそもの由来は平安時代に疫病が流行し、それを鎮めるために行われたのが始まりです。
当時は上下水道が完備されておらず、また京都は盆地であり内陸のため、湿度が高く、マラリアや天然痘、インフルエンザ等の疫病が流行り、大変な問題になっていたそうです。
《RAPT註:当時は、これらの災厄が「皇族」などの利権争いによって殺された者たちによる祟りだと考えられていました。》
当初は朝廷の命により執り行われましたが、室町時代になってからは、商工業者(町衆)の自治組織が中心となり行うようになり、今日まで続いています。
また特徴としては稚児を長刀鉾にのせ、神への生贄にして、稚児を長刀何人も殺して、疫病を鎮めようとしたことが分かっていいます。
現在山鉾の生身の稚児は1つのみで、他は人形ですが、当時はすべて生身の本物であったと考えられています。そう考えると本当は祇園祭というのは怖いですね。
《RAPT註:怖いどころじゃありません。》
当初はコンチキチンという祇園囃子はなく、江戸時代からついたそうです。祭りに参加する人はそのような事はまず知らないで参加していると思われます。
《RAPT註:知っていたら、誰もこんなお祭りに参加しないのではないでしょうか。》
(転載ここまで)
要するに、マヤやインカ、アステカで行われていた人心供養と全く同じことが行われていたわけです。
日本が世界最古の悪魔崇拝の聖地であるという幾つもの証拠。
この「祇園祭」を始めたのが実は「秦氏」なのです。
(以下、こちらから転載)
平安遷都のために必要な巨額の資金も、秦 島麻呂が出しました。
つまり、平安京は京都盆地にエルサレムの街を再現すると同時に、秦氏が朝廷中枢に入り込み権力を掌握するための巨大な公共事業でもあったのです。
よく指摘されている、「平安京」という名は、イスラエルのエルサレムと同じ意味です。エル・サレムはヘブル語で「平安の都」という意味であり、平安京ということなのです。
この平安京には、秦氏のエルサレムへの憧憬の想いが込められています。それは平安京が造られた後に始まった「祇園祭」に現れています。
今も全国の各地で夏に行われている祇園祭の中心であり本場は京都の祇園祭です。
京都の祇園祭における最も盛大な行事、山鉾巡業は、毎年7月17日に行われています。
この日は、聖書の「創世記」にある、ノアの箱舟がアララト山に漂着したとされている日と同じです。
祇園祭は、元々は伝染病が起こらないようにと願いから始められました。
一方、旧約聖書によれば、古代イスラエルのソロモン王は、やはり伝染病が起こらないようにとの願いを込めて、ノアの箱舟がアララト山に漂着したとされている日とちょうど同じ時期に盛大な祭りを行いました。
京都の祇園祭は、7月1日と7月10日にも重要な催しがあります。
これらの日は古代イスラエルの人々にとっても、重要な催しのある日でした(ラッパの祭り及び大贖罪日)このように、平安京には聖書から由来されていると思われる事柄が多くあることがわかります。
(転載ここまで)
「秦氏」がもともとユダヤ人であったということは有名な話です。彼らは以下のような経緯で、日本に渡ってきたと考えられます。
超古代日本(ムー大陸?) → ヒッタイト → 古代エジプト → ヘブライ → イスラエル → アッシリア → バクトリア → 秦 → 新羅 → 日本
このことについては、またいずれ詳しく記事にしようと思いますが、とにかく「秦氏」は見ての通り、もともとはユダヤ民族の一派でした。
このユダヤ民族は、「旧約聖書」を読むとすぐに分かるのですが、聖書の神様ヤハウェにいつも徹底的に反抗していました。
彼らは決してヤハウェに従順な民族ではなかったのです。
彼らはヤハウェから拝むなと厳しく命じられていた「バアル=牛頭神」という偶像の神様をいつも拝みつづけます。徹底的に拝み倒します。
彼らはその風習をイスラエルから離れた後も行いつづけ、日本に来てからも行いつづけました。
その挙げ句の果てに、彼らはこの「バアル=牛頭神」に祈りを捧げる目的で、「祇園祭」というお祭りを始めてしまったわけです。
(以下、こちらから転載)
残念ですが、全国の八坂神社の総本社であるところの 京都八坂神社の主祭神は素戔嗚尊、別名は牛頭天王です。
祇園祭は蘇民将来神話に基づき疫病を祓う目的があります。
ですから各鉾町では祭壇の中央に「牛頭天王」と明記した御札を祀り。
祇園祭で配布される粽には「蘇民将来子孫の者なり」 と書かれた御札が必ず付きます。
起源は大陸から渡来したユダヤ系で間違いなさそうですが、「牛頭天王」の名の通り、エロヒムではなく牛のバール神となります。
《RAPT註:エロヒムとはヤハウェのことです。「祇園祭」でヤハウェが祀られているというのは嘘で、実はバールが祭られているということですね。》
何故かユダヤの民は牛を崇めるのが大好きで、エロヒムに何度怒られても懲りずに牛信仰に傾倒しています。
かの栄華を誇ったソロモン大王は晩年、女性にそそのかされバール神を偶像崇拝して、エロヒムに見限られ王国衰退の原因となり。
また、後の南ユダ王国のマナセ王もしかり。
モーゼがシナイ山上に上がってエロヒム会見が長いといって、麓では牛の像を作って、拝みだし、またヤーウェに怒られて。
ホントに懲りません。
天災などの時にはバール神に子供を殺して火に投げ込み生贄に捧げるモロクとよばれる慣習もありました。
祇園祭でも子供を神に捧げられた御稚児として扱います。
現在では長刀鉾だけが生きてる子供を生稚児として扱いますが、昔は格鉾町が生稚児を選出していました。
(転載ここまで)
出雲族の神様は「スサノオ」とその系列の神である「国常立尊」や「大国主」などです。
これらの神々はメソポタミア地域で栄えた「バアル=牛頭神」という神様です。これについてはこのブログでも何度も書いてきました。
「天照大神」と「スサノオ」の正体。またはルシファーの正体。彼らこそが悪魔の三位一体です。
この「バアル=牛頭神」は神様ヤハウェから忌み嫌われた偶像の神様です。
そして、その「バアル」を「秦氏」が日本に持ち込んできて、我々庶民に拝ませてきたわけですが、「祇園祭」でもこの「バアル」が祀り上げられ、さらには子供の命まで生贄として捧げていたというわけです。
そんな悪い風習をわざわざ日本に持ち込まないでほしいと言いたいところです。
もちろん、現在の「祇園祭」において幼子が生贄とされるということはないようですが、それはあくまで表向きの話であって、本当のところはどうなっているのかは分かりません。……と、どうしても勘繰ってしまいます。
このように、「秦氏」というのは紛れもない悪魔崇拝者一族です。
そして、この「秦氏」の末裔である「ロスチャイルド」が今でも天皇の傍で仕えながら、「天皇」の権力にあやかっているというわけですね。
しかも、そのやり方が実に汚い。そのため、同族である「出雲族」からもずっと忌み嫌われつづけてきたというわけです。
「ロスチャイルド」と「出雲族」の戦いが今でも水面下で続いていて、その影響が我々庶民にまで及んでいるというわけです。
スサノオのヤマタノオロチ退治と、蘇我氏による聖徳太子暗殺と、東京オリンピックにまつわる今回の騒動は、全く同じ構図のようです。
ちなみに、以下が現代に行われている「祇園祭」の様子です。
以下に出てくる子供たちが、一昔前までは悪魔への生贄として捧げられていたわけですね。本当に信じられないような話です。
転載ここまで
「秦氏=ロスチャイルド」は日常的に虐殺と人身供養を行っていた「秦の始皇帝」の末裔です。
京都で毎年行われている「祇園祭」が、実はもともとバアル(悪魔)に幼子を生贄として捧げる悪魔崇拝儀式であったという記事を書きました。
「日本三大祭り」と言われている「祇園祭」が、まさか悪魔崇拝だったとは日本人のほとんどが知らないはずです。
私はこの事実を知った後、「秦氏」は他のお祭でも同じように人身供養を行っていたのではないかと思い、ざっと調べてみることにしました。
すると、やはり思った通りでした。以下のような情報を見付けました。
(以下、こちらから転載)
今から2200年ほど前、戦国の中国を統一した秦の始皇帝は、除福から東方海上に蓬莱など三つの神山があり、そこには不老不死の霊薬があると言うことを聞いた。
そこで始皇帝は、その霊薬を求めるように除福に命じ、3千人の童男童女と百工(多くの技術者)を連れ、蓬莱の島に向かわせた。
しかし、その後除福一行は二度と中国に帰らなかった。
東方の島の「宝」を求めて冒険に出るところは、マルコポーロの「ジパングの黄金の島」を求めて欧州人の大航海時代が始まり、やがて白人による世界の植民地分割競争へと繋がった契機に似てる。
しかし、いずれも日本は征服・植民地化されることはなかった。
熊野に渡来した除福一行は、やがて穂の国のこの地方に移り住み、その子孫が秦氏を名乗り、菟足神社(うたりじんじゃ)を創設した。
その為、菟足神社には、日本の他の地域の農耕民族の五穀豊穣の神事とは全く違う、生贄神事が古来より行われてきた。
神社近くの街道に、明治時代には「小田橋」と書かれていた「子だが橋」の哀しい物語もある。
菟足神社の大祭の日には、その日に最初にこの橋を渡る若い女を生贄にする風習があった。
1000年以上も前のある日、生贄を捕まえる役目の人が待っていると、やってきたのは他へ縁付いた自分の娘であった。
彼は、「子だが仕方ない」と娘を生贄にしたという。
やがて人身御供は、猪に代わった。
それでも三河の国司大江定基は、その生贄の残忍な有様を見て出家し、唐に留学、寂照法師となったと菟足神社の境内に書かれている。
(転載ここまで)
この記事では触れられていませんが、実は「秦氏」は間違いなく「秦の始皇帝」の末裔です。
「秦氏」自ら、「秦の始皇帝」の末裔であることを自慢げに語っていますし、その系図まできちんと残されています。
この系図の最初に出てくる「非子」とは、中国「秦」の始祖のことです。この「非子」から「秦氏」が誕生したというわけですね。
もちろん、この系図が本物かどうかは私には分かりません。
しかし、「秦氏」が建築などの分野の優れた技能集団であったこと、秦の始皇帝が「万里の長城(最上の画像)」など優れた建築物を残していることなどから見ても、「秦氏」と「秦の始皇帝」に密接なつながりがあったことは間違いないと考えていいでしょう。
また、以下のような記事も見付かりました。
(以下、こちらから転載)
「祭神 秦始皇帝(しんのしこうてい)」
と書かれた由緒書を見て、さすがに目をむいた。始皇帝は紀元前3世紀半ば、「シナ=チャイナ」の語源ともなった大帝国「秦」を築いた大皇帝である。
東映太秦(うずまさ)映画村から、数十メートルほど南側の住宅街にある「大酒(おおさけ)神社」の鳥居のまえで見つけた。
境内には、皇紀2600年の大きな石碑のほかは、小さな社殿がひとつ、鎮座しているだけであった。
由緒書はかすんでいるため、よく判読できない。わずかに始皇帝の14世の孫、功満(こうまん)王が「日本国の純朴なる国風を尊信」し、勧請したと読みとれた。
功満王は、中国の史書にも登場しない。だが『日本書紀』応神条には、功満王の息子の弓月君(ゆつきのきみ)が「己が国の人夫(たみ)百二十県を領(ひき)ゐて帰化(まう)く」というくだりがある。
年号的な問題があるが、5世紀ころ、「百二十県」というから、1万8千人ほどの渡来人が、おそらく新羅からやってきた。
かれらは秦氏と呼ばれた。「ハタ」は新羅語で「海」を意味する。「海の向こうからやってきた人々」といった意味と解したい。
酒造や土木、養蚕、機織り、会計学、舞楽など、さまざまな技術を持っていた。
ヤマト朝廷は、広大な荒蕪(こうぶ)の地であった山城国葛野(かどの)郡に住まわせ、「禹豆麻佐(うずまさ)」という姓を与えた。太秦の地名のはじまりである。
この一族から、聖徳太子のブレーンであった秦河勝(はたのかわかつ)が登場し、いっきに勢力を拡大した。
広隆寺を築き、太子から弥勒菩薩半跏思惟像を賜った。広隆寺は太秦寺とも呼ばれ、大酒神社も当初は境内に鎮座していた。
(転載ここまで)
この記事から見ても、やはり「秦氏」が「秦の始皇帝」の末裔であることは間違いなさそうです。
さらに、こんな記事も見付けました。
(以下、こちらから転載)
鹿児島県 東市来町(ひがしいちき)に太秦(うずまさ)神社というのがある。
この神社のお祭神は秦の始皇帝なのである。
付近一体には秦氏が住んでいたことが伝えられている。
この近くに冠岳(かんむりたけ)という霊峰があります。ここは古代仏教発祥の地であり、真言密教の開祖の地としても知られている。薬草の宝庫でもあります。
その昔、徐福が不老長寿の薬を求めてここにきたと言い伝えが残っています。
(転載ここまで)
この記事では、「秦の始皇帝」と「秦氏」と「真言密教(空海)」の関連性について触れられています。
「秦氏」は神道。「空海」は仏教。
なので、表向きはこの二人には何のつながりもないということになっていますが、実は二人とも同じゾロアスター教の信者でした。これについては、これまで何度か記事にしています。例えば、以下の記事など。
天皇もロスチャイルドも日本の歴代首相もみんな実はゾロアスター教徒です。
この「秦氏」がとある神社で「秦の始皇帝」を神として祀っていた、というわけですから、「秦氏」が「秦の始皇帝」の末裔であることは間違いない事実でしょう。
「秦の始皇帝」といえば、ひどく残虐非道な皇帝だった、ということで有名ですよね。
もっとも、ここ最近は「秦氏 = ロスチャイルド」が情報操作を行っているのか、「秦の始皇帝」の残虐ぶりを描いた映画や小説などは余り見かけなくなってしまいました。
なので、若い人たちはこの事実をほとんど誰も知らないかも知れません。
しかし、いくら情報統制しようとも、「秦の始皇帝」がとても残虐な皇帝で、人を人とも思っていなかったことは明らかな事実です。
(以下、こちらから転載)
秦の始皇帝は13歳の時(紀元前246年)に秦王に即位し、陵墓の造営を開始した。
50歳で死んだときにはまだ完成しておらず、さらに2世皇帝が2年間かけて完成させた。
その大きさは東西・南北およそ350メートル、高さ53メートル(完成時の大きさは底部が485×515メートル、高さが87メートル)、一人の皇帝のために陵墓を造り始めてから完成するまで実に40年ほどかかる途方もない大工事だった。
陵墓の下には堅固な地下宮殿がつくられ、膨大な宝物が運びこまれた。
1974年に始皇帝陵から東へ1.5キロほどの場所から巨大な規模の副葬兵馬俑が発見された。
約8000体もある実物大の兵馬俑は陶器質でできており、その表情はまことに真に迫るものがあり、一つとして同じものはない。
〈兵馬俑〉
その質と量には世界がびっくりさせられた。もし始皇帝陵が破壊や盗掘にあわなければ、その宝物は質・量ともに全世界を驚嘆せしめるものであることは間違いないはずだ。
一人の皇帝の陵墓造営のために多くの犠牲者がでた。陵墓の西南約1.4kmのところにある1020平方メートルの合葬墓地には一面に人骨が厚い層をなしている。
始皇帝はとてつもない大宮殿(阿房宮)の建設にも乗り出した。阿房宮は東西690メートル、南北115メートルの木造建築で、1万人が収容できたという。これは始皇帝の生前には完成せず、秦の滅亡後、項羽によって焼かれてしまった。
阿房宮と始皇帝陵の建設に70万人が動員され、さらに万里の長城建設に30万人が動員された。
始皇帝は自分の墓の造営に70万人も動員できたし、気に入らない人物を極刑にすることも思いのままだった。
韓非の思想が気に入ると、それ以外の思想書を全部焼く命令をだし、違反者を極刑にした。
流言をとばして民をまどわす学者がいるとして、460人あまりの学者を生き埋めにした。
万里の長城の建設という途方もない大規模な工事に農民大衆を動員することができた。
このように中国では皇帝が隔絶した権威をもった。この皇帝が中国の最高権威となり、中国全土が皇帝の権威に服することによって中国の統一と秩序が保てるようになった。
なお、君主が絶対的な権威と権力をもつ体制は、始皇帝からはじまったことではない。
中国に多くの小国家が出現したときから、その小国家では、王が絶対的権威をもち、その権威のもとに国家体制がつくられてきた。
始皇帝が出現する以前でも、王の墓には、死後にも王に仕えるため、数百人が生きたままか、あるいは殺されて埋められた。
王たちは人間を副葬したばかりでなく、自分たちの先祖や神様を祭るときにも、人間を生贄にした。
始皇帝が出現する前にもこのような慣習が1000年以上もつづいており、中国で起こった小国家では、王が絶対的権威をもち、国民全体がそれに服従することによって、国家をつくっていた。
このように国家に統一と秩序をもたらす方式は、中国が始皇帝によって統一される前も後もすこしも変わらなかった。始皇帝が中国を統一して以来、皇帝を最高権威として、中国全体に秩序がもたらされた。
(転載ここまで)
「秦の始皇帝」が人を生き埋めにするのをやめて、代わりに彫像などを埋めるように改革を進めた、その結果、「兵馬俑」には無数の彫像が埋められることになった、などと言う人がいます。
しかし、古代の文献には「秦の始皇帝」が人身供養を行ったり、人を生き埋めにしたりしたとはっきりと書かれてあります。なので、いくらそんな嘘を垂れ流しても無駄です。
始皇帝の東方巡幸について―立石・刻石・祭祀に関する考察―
「秦氏」もまた、このような残虐な「秦の始皇帝」の末裔だったからこそ、幼子や女性を生贄として捧げるような恐ろしい祭事を、平気で執り行うことができたわけでしょう。
そもそも、彼ら悪魔崇拝者にとって、人身供養は欠かしてはならない重要な儀式ですし。
ちなみに、「菟足神社」の生贄儀式の際、若い女性を連れ去ったとされる「子だが橋」にはこんな案内板が掲げられているそうです。
(以下、「子だが橋」案内板より)
『子だが橋』
子断が橋ともいわれ、明治時代には「小田橋」と書いてあった。
およそ一千年前菟足神社には、人身御供があり、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする習慣があったと伝えられている。
ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を若い女性が故郷の祭礼と父母に逢う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た。
見ればわが子である。
「ああ、いかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に奉った。
それからこの橋のことを、子だが橋と呼ぶようになったということである。
現在、菟足神社では、十二羽の雀を贄に替えておこなわれている。
(転載ここまで)
しかし、今ではこの逸話も嘘だとされていて、
「菟足神社の祭りの日には、若い娘が『巫女』となって神に仕えるため社殿に籠ったのですが、元の意味が忘れられ、いつしかそれが神に捧げる生贄話に変化してしまった。」
などといった情報が、地元の広報誌などを通して拡散されているようです。その情報誌は以下になります。
豊川市 広報とよかわ(最新)
しかし、「秦氏」が悪魔崇拝者であったという事実をこちらはきちんと把握しています。なので、こんなエセ情報をいくら垂れ流しても全くの無駄です。
なお、「秦の始皇帝」の陵墓は、地下30mの深さに作られていて、350m四方の広さの巨大な「地下宮殿」になっているそうです。
一体、「秦の始皇帝」はこんな巨大な「地下宮殿」で何をやっていたのでしょうか。
まあ、考えるまでもなく、その答えはすぐに分かりますよね。ヒントは以下のリンクをご覧ください。
日本各地に悪魔崇拝のための秘密の地下施設が点在している可能性について。
しかも、この「地下宮殿」は今では発掘調査が中止されています。
表向きには、副葬品が空気に触れると劣化してしまう恐れがあるからとか、副葬品が盗まれてしまう恐れがあるからとか、「地下宮殿」には盗掘を防ぐ様々な罠が施されていて調査をするのは危険であるからとか、様々な理由があると言われています。
しかし、そんなものは全て、ただの言い訳に過ぎないでしょう。
「秦の始皇帝」が残虐な「悪魔崇拝」を行っていて、その証拠が発見されるのを恐れているから、というのが本当の理由ではないでしょうか。
こんなことを言うと、またしても工作員が「トンデモ」と言ってきそうですが、「トンデモ」と言うなら、ぜひ発掘調査を再開して、「地下宮殿」の中を隈なく公開してください。
転載ここまで
徳川家康も紛れもない悪魔崇拝者でした。古代から現代まで当然の如く行われてきた「人身御供」について。
「秦氏=ロスチャイルド」がほぼ日常的に虐殺や人身供養を行っていた「秦の始皇帝」の末裔であるということ、そしてこの「秦氏=ロスチャイルド」が日本に渡ってきてからも、幼子や女性を生贄として捧げる悪質な祭事を当たり前のように行ってきたというお話をしました。
さらに言うなら、「秦氏=ロスチャイルド」はもともとメソポタミア地方で、ゾロアスター教の祭杷を司っていた祭祀一族です。
この祭杷氏族がやがて中国へと渡り、朝鮮半島へと渡り、さらには日本にも渡ってきて幾つもの神社を建て、その神社で神道を信じる振りをしつつ、実はゾロアスター教をコソコソと信奉し、様々な悪しき祭事を司ってきたというわけですね。
このゾロアスター教は、実は「親近相姦」を美徳とし(詳しくはこちら)、幼子や女性を生贄として捧げるような悪魔教だったわけです。
しかし、この日本に広く普及している神道が、まさかこんな悪魔教であるとは誰も夢にも思っていません。なので、今でも日本人の多くが神社のお祭りに毎年のように参加して楽しんでいるわけです。(もちろん、中には仕方なく参加している人もいるとは思いますが。)
「日本三大祭」の一つとされている「祇園祭」ですら、実は「バアル=牛頭神」に幼子を生贄に捧げる悪魔崇拝儀式だったということが分かったわけですね。おぞましい話です。
今日はこの話の補足として、実はかの有名な戦国武将「徳川家康」も同じように人身御供を行っていたというお話をしたいと思います。
「徳川家康」というと、「教皇派」のエリザベス女王から大量の武器を支援してもらい、「天皇派」のNWOを阻止していた人物であったことが分かっています。詳しくは以下のリンクをご覧ください。
地下鉄丸の内線とGHQと徳川家康とエリザベス女王とイエズス会の奇妙なつながり。東京の地下には教皇派の秘密施設も眠っている。
徳川家康が行った鎖国とキリスト教禁教令の本当の意味。果たして徳川家康は悪魔崇拝者だったのか。
私はこの「徳川家康」も「出雲族」だったのだろうと見ているわけですが(詳しくはこちら)、もし彼が本当に「出雲族」であったなら、彼もまた「バアル=牛頭神」を拝み、人身御供を行っていた可能性が高いということになります。
というのも、「バアル=牛頭神」とは「出雲族」にとっての神様「スサノオ」のことだからです。詳しくは以下のリンクをご覧ください。
「天照大神」と「スサノオ」の正体。またはルシファーの正体。彼らこそが悪魔の三位一体です。
そこで、私は「徳川家康」についてあれこれと調べてみたのですが、案の定、彼もやはり江戸城を建てる際に、生贄として何人もの人たちを土中に生き埋めにしていたことが分かりました!!
(以下、こちらから転載)
■江戸城伏見櫓(最上の画像)の人柱
《RAPT註:「人柱」とは生贄にされた人間のことを意味します。詳しくは後ほど。》
かつての江戸城伏見櫓(現在の皇居伏見櫓)は、徳川家康が伏見城の櫓を解体して移築したものと伝えられているが、1923年(大正12年)に発生した大正関東地震(関東大震災)で倒壊し、その改修工事の最中、頭の上に古銭が一枚ずつ載せられた16体の人骨が発見され、皇居から人柱かと報道されたこともあり大騒ぎになった。
伝説を信じれば、1603年~1614年の慶長期築城の時、伏見城の櫓を移築した後で人柱を埋めたことになる。
江戸城研究家たちの間では、人柱とするには余りにも粗末に扱われていることや、伏見櫓を解体修理した結果伏見からの移築物ではないことが明らかであることが分かっているため、人柱説には否定的である。
徳川家康の慶長期築城以前に、城内にあった寺院の墓地の人骨であろうとされており、『落穂集』などの史料には、慶長期築城以前には、複数の寺院が城内にあり、慶長期築城の時に全て移転させられたことが明確だからである(鈴木理生・黒田涼・井上宗和らの説)。
一説には、皇居と深い関わりにあった黒板勝美は宮内省から調査依頼を受け、実地見聞を1時間半程度行っただけで人柱否定説を打ち出してそのまま公的調査は終了したといい、その後、中央史壇などで供犠の話題で特集が組まれた。
喜田貞吉は黒板の発言の矛盾を指摘し、批判するとともに、人柱の文化的な意味について考察を広げようとしていた。1934年(昭和9年)には坂下門近くでも5人の人骨と古銭が発見されている。なお、見つかった遺骨は震災の混乱の中、芝・増上寺で手厚く供養されたという。
(転載ここまで)
先ず、「人柱(ひとばしら)」が何なのかを簡単にご説明します。
「人柱」とは、人身御供の一種で、「橋」「堤防」「城」などを建築する際、災害や敵襲によって破壊されないことを神に願うために、人間を生かしたまま土中に埋めたり水中に沈めたりする風習のことを言います。
このような風習は、「秦の始皇帝」もやっていたことですし、現代においてはダライ・ラマもやっていたことが分かっています。ダライ・ラマについては以下のリンクをご覧下さい。
「チベット仏教」なる悪魔教を国教とするブータンが世界一幸福な国であるという大嘘。
この上の転載記事に書かれてある通り、「徳川家康」もまた同じように江戸城を建設する際に「人柱」を埋めていたことが分かったわけです。
しかしながら、この事実を必死で否定しようとする学者が何人も現れたため、まさか「徳川家康」がそんなバカなことをするわけがないという話になり、結局、今では江戸城の敷地から「人柱」が発見されたという話すら完全に揉み消しにされてしまっています。
少なくとも、私はこんな事実があったことを今の今まで全く知りませんでした。
恐らく私だけではなく、多くの日本人がこの事実を知らずにいることでしょう。だからこそ、今でも多くの人たちが「徳川家康」ファンになり、「日光東照宮」にお参りに行っているわけです。まあ、見事なまでの情報コントロールですね。
しかし、はっきりと言いますが、「徳川家康」は毎日のように戦争を行い、毎日のように人を殺していたような人物なのです。
そんな人物からしてみれば、十六人の人間を生き埋めにすることぐらい訳もないことだったはずです。良心の呵責を感じることもなかったでしょう。
まして、「人柱」を埋めることで自分が栄え、江戸が栄えると信じていたなら、喜んでそのような行為に突っ走ったに違いありません。彼らの頭の構造は我々のそれとは全く異なっているのです。
実際、以下のような記事も見付けました。
(以下、こちらから転載)
各地で神事、祭りで人々が熱狂しています。
が、その元を辿ると、相当に荒々しい原型にたどり着きます。
今回は戦国時代ではありませんが、明良洪範という本の話を読んでいましたら、尾張のお祭りの話が出てきまして「え・・・。」とドン引きした話があったのでご紹介を。
《RAPT註:尾張とは、徳川御三家のうちの一つ「尾張徳川家」のこと。》
■尾張大納言光友(巻15)
尾張大納言光友卿は光義と名乗っていた時、法を厳重にして万事を先代義直の掟を守らせていた。
《RAPT註:「光義」とは尾張藩の二代目藩主の「徳川光友」のこと。詳しくはこちら》
正月25日は熱田で神事がある。
この神事は、名古屋の者と熱田の者が打ち合うもので、昔からの行事である。
昔は、鑓や薙刀で戦っていたが、やめさせて、今では刀で打ち合い、双方に少々怪我人が出ると奉行が棒を入れて双方を引き分けている。
また、正月13日は多田の神事があるが、この神事は、昔は道を歩いている人を捕らえて生贄にしていた。
今では雉肉(きじにく)を人肉に代えて行っている。
これらは皆、義直公の仁政の賜物である。(以下略)
《RAPT註:「義直」とは上に出てきた「徳川光友」の父親のこと。で、この「義直」は「徳川家康」の息子(九男)になります。》
さらっと書いてくれていますが、ものすごい怖いことを書いてます。
儺追系の神事というのは、地域にもたらされる災いである『厄』を引き受ける役に押し付けて地域から出てってもらうことで地域の厄が無くなる、という発想のもとで行われているようです。
稲沢市国府宮はだか祭りなどでは、神男に裸男達が群がり、神男に厄をなすりつけるために押し合いへしあいするという結構危険な祭りで知られています。
神男は公募制で、男を魅せるステータスにもなっていますが、裸男に引きずりおとされて揉みくちゃにされて亡くなってしまうこともあります。
こうした儺追系って元々は、運悪く儺追の時期に地域を通りがかった旅人が住民に捕獲されて、厄落としとしてぼこぼこにされて、最後、ありがとよ、という意味も少しは込められたでかい餅を背負わされて地域から放り出される、という、旅人にしてみれば、とんでもない災難な神事であったようです。
多田の神事とは、どこの神事を指しているのかよくわかりませんが、ここの神事でも道を歩いている人を捕まえる、と、ありますので、まさに該当してくると思います。
その昔、旅人と言うものは、ある意味地域社会に属していない危険因子として認識されていた部分もあるので、こうした目に遭うこともあったのでしょう。
もっとも、多田の神事では本当の意味で「生贄」にされてしまっていたようで、相当に物騒な神事だったことがわかります。
そして、これも徳川義直公によって雉(きじ)で代替するようになったとあります。
徳川義直って言えば、江戸時代の人。
そんな時代まで、結構今からみると恐ろしげな風習があちこちにあったのですね。
今の時代に産まれて良かった。
(転載ここまで)
要するに、「徳川義直」の時代まで、人を生贄とするお祭りが当たり前のように行われていたということです。
ということは、彼の父である「徳川家康」の時代には当然、そのような祭りがあちこちで行われていたに違いありませんし、「徳川家康」が江戸城を建てる際に「人柱」を埋めていたとしても何ら不思議ではありませんよね。
まして「徳川家康」がそうであるなら、彼より前の時代にはさらに日常的に「人身御供」が行われていたと考えて間違いないでしょう。
実際、以下のような記事も見付けました。
(以下、こちらから転載)
一方の日本では、舎人親王らが養老4年(720年)ころに完成させた、「日本書紀」に登場する大阪府の「茨田堤」の建設に関する記事の中に人柱に関する記載があるそうで、このほか、同時代の長野県の諏訪大社や奈良県の倭文神社などでも人身御供にまつわる話が残っているといいます。
日本では、人身御供のために犠牲となった人間のことをよく「人柱」といい、「白羽の矢が立つ」ということばは、この人柱を差し出す家に白い羽がついた矢が刺さったことに由来しています。
無論この矢は人為的に立てられたものではあるわけであり、匿名の誰かによる指名行為であった訳なのですが、この匿名者とはいうまでもなく時の権力者たちだったことでしょう。
しかし何も知らないこの当時の人々はこれが「神意」によるものだと信じ、この矢が家屋に刺さった家では、所定の年齢にある家族を人身御供に差し出さなければならないという風習になっていきました。
なぜ白い羽なのかはよくわかりませんが、「白」は古来から神聖な色であり、白羽の矢は何等かの霊的な存在が目印として矢を送ったのだ、と考えられたわけです。
近江国伊香郡(現滋賀県長浜付近)には、水神に対して美しい娘の生贄を奉るという風習がかつてあり、当地では生贄となる娘は必ず片目が選ばれたそうです。柳田國男の「日本の伝説」によれば、神が二つ目を待った者より一つ目を好んだからだそうで、一つ目の方が神と一段親しくなれたのだそうです。
生贄としては、人ではなく、動物が捧げられることもあったようですが、例えば神の贄として魚が選ばれたときには、これをわざと片目にするということなども行われていました。
実は静岡には、人身御供や人柱の伝説が多いのだそうです。その例としては、富士吉原市の三股淵、浮島沼の人身御供や磐田市の見附天神の人身御供などがあって、これらの生贄伝説は学者たちの間でも結構有名なのだとか。
《RAPT註:詳しくはこちら》
1967年に発行された富士吉原市の広報誌には、この三股淵の人身御供について触れられており、それによると、この三股淵の付近では毎年6月28日に祭りを行いますが、かつては12年に一度、通常の祭りとは別に人身御供を伴うお祭りをやっていたそうで。これは大蛇の怒りを鎮め大難を防ぐための祭りだったといいます。
この三股淵の例もそうですが、人身御供となる者の条件、人身御供の儀式についてその詳細が書かれていることはそれほど多くないようです。が、各地に残っている伝承などを総合すると、生贄となる者の条件は、だいたい15~16の少女で処女、ときには「美女」でなければならないという条件が付加されている場合もあったようです。
人身御供の方法としては、生贄に選ばれた少女が生きたまま淵に投げ込まれることもあったようですが、これではあまりにも無残なので、生贄自らが入水(じゅすい)の形を取ることが多かったといいます。
人身御供を捧げる相手は、大蛇や竜神などの特定の神である場合も多いようですが、生贄を捧げる相手はただ単に「神」であるとされる場合も多く、無論、日本における神々の多くは自然に存在する万物の「例え」であり、これらの怒りを鎮め、災害や厄災いが人々に降りかからないようにするための儀式にほかなりません。
このため、一般の女性だけではなく、神にその意思を伝える能力のある人物ということで、巫女が人身御供となったことも多かったと伝えられています。
こうした人身御供は、公共の面前で堂々と行われるというよりも、「秘事」としてこっそりと実施されることも多かったようです。
このため、ある日を境に村のある娘がいなくなるなどということはよくあり、これが人柱のためであるとうことを薄々知っている人もいたでしょうが、たいがいはこれを神隠しであるとか、神がかりであるとか言って済ませていました。
ところが、長い間には、どうやらこうした人身御供が「神事」として密かに行われているらしいことを土地の者が知るようになり、こうした神事は、祭日に行われることも多いことから、これを免がれんがために、祭日には娘を外出させないようにする、ということも行われたようです。
しかも、自分の土地の人間を生贄にはしたくないので、旅人を捕えて人柱にするということもやっていたようで、こうした噂が広まると、他国人の往来がなくなってしまう可能性もあることから、尾張藩などでは藩命をもってこうしたしきたりをやめさせようとした、という記録なども残っているようです。
《RAPT註:上に出てきた「徳川義直」のことを言っているのでしょう。》
ただ、ここまで書いてきたような人身御供、もしくは人柱は、あくまで「伝説」の域を出ないものも多いのは確かです。まがりなりにも人の命を軽々しく神に供するというのは、昔の人にとっても「禁忌」であり、実際に行われていたとしても、公の記録に残っているものは少ないわけです。
ただ、建築の時に人柱が埋められたという伝説が伝わる城郭はかなりあるようで、一方では「人柱のような迷信を禁じ、別の手段で代行して建築を成功させた」という名君の伝説が残っている場合などもあります。
これらの伝説の最近の実証研究の結果では、そうした専門家の一人は「城郭建築時の人柱伝説が立証されたケースは全くない。人柱に変えてなんらかの物を埋めたものが発見されることは存在する」と述べています。
ところが、城郭以外では、物証のあるものがいくつか発見されており、以下のような事例があります。ここに示した広島の吉田郡山城のように、人柱の代わりに石を埋めたという事例もありますが、これは逆にそれまでは人柱が立てられていたことを証明するものであると言われています。
■猿供養寺村の人柱(現・新潟県上越市板倉区猿供養寺)
鎌倉時代にここを訪れた遊行僧が、地すべり被害の絶えなかった土地の人々のため、自ら人柱となって災禍を止めたそうで、長らく伝説とされていたものの、1937年(昭和12年)にこの村の「正浄寺」というお寺の裏から大甕に入った推定年齢40歳前後の男性人骨が発見。
脚が太く腕は細いことから肉体労働者ではなかったと考えられ、座禅の姿勢で発見されたことから、史実であることが確認された。
■吉田郡山城の人柱代用の百万一心碑(広島県広島市、山口県山口市)
毛利元就が築城した時、石垣が度々崩れる為、巡礼の娘を人柱にする話が持ち上がった。しかし、元就が人命を尊重して人柱を止めさせ、「百万一心」の文字を石に書いて埋め、築城を成功させた。この石碑は幕末に発見され、明治時代に拓本が写しとられ、山口市内の豊栄神社に奉納されている。
《RAPT註:この記事でも江戸城の「人柱」についても触れられていますが、重複するため割愛します。》
■常紋トンネルの人柱(北海道北見市と遠軽町を結ぶ常紋峠直下)
難工事の末、1914年(大正3年)に開通した常紋トンネルは、1968年(昭和43年)の十勝沖地震で壁面が損傷したが、1970年(昭和45年)に改修工事が行われた際、立ったままの姿勢の人骨が壁から発見され、出入口付近からも大量の人骨が発見された。
それまでもタコ部屋労働者(略称:タコ)が生き埋めにされたことについて、当時のタコやその他関係者たちの証言もあったが噂にすぎないとされていたが、この遺骨群の発見によって、かねてより流布されてきた噂のうち人柱の件は事実であったことが証明された。
上記のうち、常紋トンネルの例はもっとも信憑性の高いものと言えます。この常紋トンネルの建設というのは、この当時かなりの難工事だったそうで、標高約300m、全長507mのトンネルを掘るのに3年を要したといいます。
この当時はまだ、日本政府による開拓・道路整備等が十分でなかったためであり、このため工事にあたっては凄惨過酷な「タコ部屋労働」が行われ、多くの工夫たちの犠牲をもって建設されたことでも有名です。
施工当時は、重労働と栄養不足による脚気から労働者は次々と倒れ、倒れた労働者は治療されることもなく現場近くに生き埋めにされたといいます。
このため、この当時から「常紋トンネルには人柱が埋まっており、彼らの亡霊がトンネルや信号場に出る」とい噂が鉄道員たちの間で絶えなかったといわれており、地震のおかげでこれが事実であることが確認されました。
このため、1980年(昭和55年)には、当時の留辺蘂町(現在は広域合併により北見市に編入)によって近くの金華駅西方の高台の小学校跡地に「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」が建てられたそうです。
大正3年、1914年といえば、およそ100年前のことになり、かなり古い話とはいえ、日本が西洋文明を取り入れ、近代化の道を歩むようになって以降の話であり、結構ショッキングな出来事ではあります……
(転載ここまで)
「常紋トンネル」の工事の際に「人柱」が埋められたのも、結局のところは悪魔崇拝の一環として行われたわけでしょう。
しかし、この世の一般庶民はまさかこの世で悪魔崇拝なんてものが行われているとは思わないので、「重労働と栄養不足による脚気から労働者は次々と倒れ、倒れた労働者は治療されることもなく現場近くに生き埋めにされた」などという話になっているのだろうと思います。
しかし、悪魔崇拝者からしてみれば、怪我人や病人を生贄として捧げてしまえば、わざわざ彼らの面倒を見てあげる必要もなくなるし、悪魔を喜ばせることもできるしで、まさに一石二鳥。
しかも、古代から現代に至るまで、巨大な建築物のほとんどが「秦氏 = ロスチャイルド」なる悪魔崇拝者の手にかかっているわけですから、日本で何らかの大規模な工事が行われる際、人身御供が行われてきた(いる)可能性はかなり高いと考えていいでしょう。
新国立競技場の工事を受注した「大成建設」は、やはりロスチャイルドと天皇と密接につながっていました。
もし大規模工事の際にその関係者がケガや病気で死んだということがあれば、そのほとんどが「人柱」にされてしまった可能性が高いと考えていいのかも知れません。
転載ここまで
ハロウィンももともと悪魔崇拝者たちの行う生贄儀式でした。ハロウィンとバアルと秦氏と大正天皇との奇妙なつながり。
日本ではお盆休みの真っ只中なので、多くの人たちが神社仏閣に行って偶像を拝んでいることでしょう。その偶像が、人間の生贄を要求する「悪魔」であることも知らずに。
ということで、今日もまた悪魔への「生贄」をテーマに記事を書きたいと思います。
ここ最近は、日本でも「ハロウィン」を盛大にお祝いするようになりました。特にディズニーランドでは10月31日には華やかに「ハロウィン」をお祝いするそうです。
ご存知の方もいらっしゃるかも知れませんが、「ハロウィン」とはもともと古代ケルト人の行っていたお祭りです。
そして、そのお祭りは明らかに「悪魔崇拝」でした。
京都の「祇園祭」がもともと悪魔崇拝だったという話はなかなか信じにくいかも知れませんが、「ハロウィン」が悪魔崇拝だったというなら、少しは頷けるかも知れません。何せ、「ハロウィン」では魔女とかお化けとか怪しげなものばかりが登場しますからね。
では、なぜ「ハロウィン」が悪魔崇拝儀式だったと言えるのか。今日はその理由をざっと簡単にお話したいと思います。
先ず、以下の記事をご覧下さい。
(以下、こちらから転載)
ハロウィン、あるいは、ハロウィーンとは、毎年10月31日に行われる、古代ケルト人が起源と考えられている祭りのこと。
もともとは秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事であったが、現代では特にアメリカで民間行事として定着し、祝祭本来の宗教的な意味合いはほとんどなくなっている。
カボチャの中身をくりぬいて「ジャック・オー・ランタン」を作って飾ったり、子どもたちが魔女やお化けに仮装して近くの家々を訪れてお菓子をもらったりする風習などがある。
古代ケルトのドルイドの信仰では、新年の始まりは冬の季節の始まりである11月1日のサウィン(サオィン、サワーン、サーウィンまたは、サウィーン、サーオィン、サムハイン)祭であった。
ちょうど短い日が新しい年の始まりを示していたように、日没は新しい日の始まりを意味していた。
したがって、この収穫祭は毎年現在の暦で言えば10月31日の夜に始まった。
アイルランドと英国のドルイド祭司たちは、かがり火を焚き、作物と動物の犠牲を捧げた。
(転載ここまで)
このように「ハロウィン」とは、古代ケルト人たちが行っていた「サウィン祭」、「サムハイン祭」に起源があると言われています。
この「サムハイン祭」を執り行っていたのが「ドルイド」と呼ばれる祭祀一族でした。
(以下、こちらから転載)
「サムハイン祭」とは「サウィン (Samhain) 」と書き、本来は古代ケルトで生まれた「ドルイド教」と呼ばれる宗教の暦で、新年の始まりである「冬」の季節の一日目である十一月一日を迎える祭なのです。
ちょうど短い日が新しい年の始まりを示していたように、「サムハイン」は日が長い「夏の終わり」を意味する言葉で、日没は新しい日の始まりを意味していました。
そのため、この十月三十一日は一年の終わりと共に夏の収穫を祝う意味もありました。
そうして始まる「サムハイン際」はドルイドの祭司達が、火を焚き、収穫された作物や動物などを与えてくれた神様に捧げたり、火の周りで踊って、今から太陽の季節(夏)が過ぎ去り、暗闇の季節(冬)が始まった事を示すのです。
そのため、祭典では火が大きな役割を持っていました。
村民達は牛の骨を炎の上に投げ込んで火が燃え上がると、村人達は他の全ての火を消して、各家族は厳粛に、この共通の炎から炉床に火をつけました。
アイルランドでは今でも、世俗的なハロウィンに参加するとともに、伝統的な方法で「サウェン祭」を祝って毎年ハロウィンの夜には何百もの火が点けられている所もあります。
(転載ここまで)
「火」とか「牛の骨」とか、どこかで聞いたことがあるようなキーワードがいくつも出てきましたね。
そうです。この「ドルイド教」は明らかに「ゾロアスター教」や「バアル(牛頭神)」などと共通点があります。しかし、これについてはまた後ほどお話します。
先ずはこの「ドルイド」と呼ばれる人たちが、どんな人たちだったのかを見てみましょう。
(以下、こちらから転載)
本日はそのケルトで祭事を始めとして、多くの役割を担っていた「ドルイド」について紹介したいと思います。
スピリチュアルな世界では、ドルイドというと祭祀(さいし)を行ったり、呪術を使ったりしている人…というイメージが強いのですが、実はドルイドの仕事というのはかなり幅広く、天文学や医学、さらには政治的な指導をしたり、争いごとの調停までしていたと言われているのです。
現在の仕事にするとヒーラー兼占い師兼天文学者兼医者兼政治家兼裁判官兼弁護士といった感じでしょうか?
ドルイドという名前は「Daru-vid」から来ており、Daru が「樫の木」を、vid が「知識」をあらわすことから、「樫の木の賢者」とも言われていますが、ドルイドが行っていた多くの役割を見ると、賢者と呼ばれるのも納得できます。
それだけの知識があったためか、ドルイドは非常に強い権力を持っており、多くの人たちの憧れだったそうです。しかしながら、ドルイドになるためには最低でも 10年以上はかかる長い修行が必要なだけでなく、適正が無い者はすぐに家へ帰されたと言われていますので、とても狭き門だったのです。
ドルイドは森や植物を特に重要視しており、樫の木の下で儀式を行ったりしていたので、ドルイドの神殿は森自体だったという説もあるほどですが、以前にも紹介したようにヤドリギは、そんな植物の中でも特に重要なシンボルだと考えていました。
森や木々を重要視するというのは、日本人的な感覚に近く、その宗教観も魂が転生したり、因果応報があったりと、比較的馴染みやすいものが多いのですが、そんな森と調和した癒しに溢れた雰囲気のドルイドにも怖い面は存在しています。
それは生贄(いけにえ)の儀式。ドルイドはいくつかの儀式で生贄を捧げたり、敵の首を切り落としたりするなども行っていたといわれています。
ドルイドの生贄の儀式は、犠牲者をじわじわと殺していくようなものが多く、生贄が倒れたときの姿勢や、こぼれた血の量などで吉凶を判断したとされています。
ドルイドの生贄の儀式で最も有名なものが「ウィッカーマン」と呼ばれるもの。これは、木で作られた巨大な人形の檻の中に、多くの犠牲者を詰め込んだ上で火にかけるというもの。そのインパクトある姿は2度も映画の題材にされるほどでした。
すでにドルイドとその信仰はほとんど失われてしまっていますが、ケルトの神秘的な知識はスピリチュアルな人の間では多く伝えられ、森や木々といった大自然のエネルギーを扱うことから好まれていますが、その裏には、非常に原始的な儀式も行われていたことを忘れてはいけないと思います。
ケルトの聖地などを訪れた際はそういったことにも少し注意を向けてみると、新しい何かが見えてくるかも知れませんよ。
(転載ここまで)
はい。出ました。このように「ドルイド」とは、生贄儀式を行うカルト集団だったというわけです。ちなみに、「ウィッカーマン」とは以下のようなものです。
このように人間の形をした檻をつくり、その中に沢山の人を詰め込んで火をつけて焼き殺し、悪魔の生贄として捧げていたわけですね。とても人間のやることとは思えません。
さらに、「サムハイン祭」では「火」が大々的に使われるわけですが、その理由はやはり「ドルイド」たちが「火の神」を崇めていたからです。
(以下、こちらから転載)
ドルイド教には元々悪魔凶的要素があり、火の神エルフィンが大地から出てきて犠牲を欲しています。
ドルイド教の音楽を現代のロックなどの起源だとする人もいますが、これはあながち間違いではないでしょう。
トリートは要求ですがその真の姿は生贄になり、ニンゲンの脂肪で作られたジャックオーランタンを使用します。
ドルイド僧の要求が彼らの気に入ったものを要求するのは、サタニズムへの傾倒であり、ハロウィンの姿とは悪魔大感謝祭に他ならないんですよね・・・これは欧米の歴史と欧米人がなにをしてきたかを省みれば一目瞭然です♪。
(転載ここまで)
「火の神」が出てくる時点で、またしても拝火教の「ゾロアスター教」との接点が思い浮かびますね。で、「ゾロアスター教」といえば、「秦氏=ロスチャイルド」「聖徳太子」「空海」「密教」、そして日本の歴代首相……。
天皇もロスチャイルドも日本の歴代首相もみんな実はゾロアスター教徒です。
しかも、「ドルイド」なる悪魔崇拝者は、ご多分に漏れず、一神教ではなく、多神教を信じていました。なので、彼らはこの「火の神エルフィン」だけでなく、他の神々も崇めていました。
その神の一つに「ベル」という神がいます。現代でも「ドルイドベル」なんてものが売られていますが、その「ベル」のことです。
〈ドルイドベル〉
「鈴」だから「ベル」というわけではなく、「ベル」という神様の名前が、その後、「鈴」という意味を持つようになったと考えるべきでしょう。
(以下、こちらから転載)
5月1日は、古代ケルト人達が、女神とその子ベルを祝うベルテーンの祝祭日です。
この日には、村娘の中から一人、女王が選ばれます。それをメイクイーンと言います。イモの名前にもなっていますね。
★ベルテーンとは「ベルの火」という意味です。
ベルとは、カナン(フェニキア)人の信仰する最高神バアルの事です。
ユダヤ・キリスト教では悪魔とされ、ベルゼブブなどと呼ばれたりします。角を持つその像を拝む儀式は、キリスト教徒からは悪魔の儀式に見えたでしょう。
古代ローマ人によると、南仏のプロヴァンス、ブルゴーニュ、北イタリアに、ベル神を祭る社があった。
なぜ、中東の神バアルが西欧まで祭られていたかと言うと、カナン人達が、ギリシア・ローマが栄える以前に、地中海全域に植民地を持っていたからです。彼らはそこの土着民達に、バアルを信仰するように広めました。イギリスなどにも伝わったと思われる。
ベルテーン祭の、前夜の4/30から【ヴァルプルギスの夜】という前夜祭が行われます。これは秋に行われるハロウィンと同じく、春に行われる魔女のお祭り(サバト)です。
この夜は かがり火を焚き、一晩中(乱交など)乱痴気騒ぎをします。儀式の為に、子供をさらったり、それを殺して食らったりもしました。
印象悪いですが‥古代の習慣として、世界中に見られた事です。アステカ文明でも、生贄を捧げ、内臓を食らったりしていました。
(転載ここまで)
このように「ベル」というのは、実は「バアル」のことでした。ウィキペディアにもこうあります。
「バアルは、カナン地域を中心に各所で崇められた嵐と慈雨の神。その名はセム語で「主」を意味する。バールや、バビロニア式発音のベール、およびベルとも表記される。」(出典はこちら)
つまり、「ドルイド」もまた「バアル」を崇めていたというわけで、これまた「秦氏=ロスチャイルド」との接点が浮かびあがってきます。
さらに、以下のような記事も見付けました。やはりどこからどう考えても、「ドルイド教」と「ゾロアスター教」は全く同じ宗教のようです。
(以下、こちらから転載)
ドルイドとピュタゴラス派(ギリシャの哲学者集団。詳しくはこちら)には類似点が数多い。
(その類似点として)、霊魂不滅観、数学的知識に基づく幾何学文様の多用、人身御供でなく動物の供犠、天文学の知識、学問の体系化と教団的組織的教育、口伝による長期間教育、白衣の着用、政治家・司法家としての役割などがあげられる。
こうした宗教・知識・行政司法の三重の権威は強大で、おそらく古代メディア王国(ペルシャ前8~前6世紀)の「マギ=賢者」だけがこれに匹敵するだろうという。
《RAPT註:マギとは「ゾロアスター教」の神官のこと。詳しくはこちら》
「マギ」は英語などでの魔術・呪術(マジック)の語源だが、こうした博学が魔術と結びつくのは、後で見る“偽ドルイドとしての呪術者”の存在を考えても分かりやすい。
(転載ここまで)
この「ドルイド教」や「ゾロアスター教」を信じるプロの悪魔崇拝者たちが、その後「秦氏」と名乗って、この日本にも「バアル」などの悪魔を持ち込み、「スサノオ」などの日本名をつけて普及させていったというわけです。
さらに言うなら、「ハロウィン」が催される「10月31日」は「大正天皇」の誕生日です。
といっても、「大正天皇」の本当の誕生日は「8月31日」。
しかし、なぜか夏休みを祝日にするのは相応しくないという話になったらしく、無理やり「10月31日」を祝日としたそうです。(もちろん、この日が祝日とされたのは大正時代だけです。)
天皇誕生日 – Wikipedia
なんだか意味がよく分かりませんね。なぜ夏休みに祝日を作ってはいけないのでしょうか。しかも、なぜ一ヶ月でなく、二ヶ月も後に移したのでしょうか。
きっと悪魔崇拝者どもが「サムハイン祭」の日にどうしても悪魔崇拝儀式を行いたかったので、「大正天皇」の誕生日を無理やり「8月31日」から「10月31日」に移したわけでしょう。
ちなみに、「大正天皇」が死んだのは「12月25日」のクリスマス。
これまた悪魔「ミトラス」の誕生日と言われる日です。実はクリスマスはイエス・キリストの誕生日なんかではないのです。詳しくは以下のリンクをご覧下さい。
FIFA幹部の逮捕劇は、「教皇派」から「天皇派」への反撃である可能性大。
このように「大正天皇」というのは余りにも怪しすぎます。このような点から見ても、天皇と悪魔崇拝には密接なつながりがあることは明らかです。
ということで、「ハロウィン」がアメリカからやってきた最近流行のお祭りだと思ったら大間違いです。「ハロウィン」とは古代から伝わる由緒正しき「悪魔崇拝儀式」なのです。
そして、そんな邪悪なお祭りを、彼ら悪魔崇拝者どもは我々庶民の間にまで広く滲透させようとしているわけですね。
転載ここまで
イルミナティという悪魔崇拝組織が、現実に存在しているという確固たる証拠。
この世の大半の人たちは「イルミナティ」という言葉すら知りませんし、知っていても「イルミナティ」の存在をほとんど信じていないと思います。
有名陰謀論者の中にも「イルミナティ」など存在しないなどとデマを言う人がいるぐらいです。例えばリチャード・コシミズなどがそうです。
しかしながら、「イルミナティ」は確実に存在しています。
「イルミナティ」に所属する人たちが、その存在を公に知られたくないがために、「イルミナティなど存在しない」と言ったり、「イルミナティなんてトンデモ」と言ったり、「陰謀論を信じる者は気違い」と言ったりして、我々庶民を攪乱しているわけです。
もっとも、ネット上に出回っている「イルミナティ」の情報は、どれもこれも突拍子もない話ばかりなので、普通の庶民の感覚からすると、それらの情報にはなかなか信憑性が感じられないかも知れません。
しかし、現実問題として、私がこれまで一年以上かけて調べてきた様々な事実が、ネット上に出回っている「イルミナティ」の情報とぴたりと一致しています。
余りにもぴたりと一致しているので、私自身も驚いてしまうぐらいです。
この記事の中で、「ハロウィン」が古代ケルトで信仰されていた「ドルイド教」の生贄儀式に由来していると書きました。(最上の画像はケルト十字。「ドルイド教」で用いられたものと考えられます。)
「ドルイド教」では、実にたくさんの神様が信仰されていて、その神様の中に「ベル」という神様がいました。
この神様がやがて「バアル」という名で世界各地に広まっていくのですが、日本でも「バアル」は「スサノオ」という名で信仰されるようになり、インドなどでも「シヴァ神」という名で信仰されるようになりました。
また、「シヴァ神」を信じる人たちも、未だに子供たちを生贄として捧げているようです。ついこの間もこのことがニュースで報じられていました。
魔術のいけにえで5歳男児を斬首したインドの事件は、我々日本人と全く縁のない事件ではありませんでした。
この「ベル」という神様は、本物の神様ではなく悪魔なので、人間の生贄を捧げることを要求します。
例えば、旧約聖書の中でも「バアル」を信じる人たちが「バアル」に生贄を捧げるシーンが出てきますし、「スサノオ」を信じる人たちもまた「スサノオ」に幼子の生贄を捧げていたことが分かりました。
さらに言うなら、この「ドルイド教」が後に「ゾロアスター教」となり、この「ゾロアスター教」の神官が「秦氏」となって日本にやってきました。
この「秦氏」がこの「ゾロアスター教」を「神道」として日本に広めたわけですが、後に「空海」もまたこの「ゾロアスター教」を「密教」として広めていきました。
つまり、日本にある「神道」も「密教」も、全ては名前を変えた「ドルイド教」に他ならないということです。
この「神道」も「密教」も明らかな悪魔教ですよね。これについてはこのブログでこれまで何度も書いてきました。
〈閲覧注意〉日本の密教もまた悪魔崇拝そのものです。
「神社」と「山」と「ピラミッド」と「空海」と「秦氏」と「ゾロアスター教」との切っても切れない関係。
なので、古代ケルトの「ドルイド教」もまた悪魔教であったことはどこからどう考えても間違いないわけですが、実は「イルミナティ」もこの「ドルイド教」を信仰するカルト集団なのです。
長くなりますが、以下の記事が世間一般に出回っている「イルミナティ」に関する情報です。
(以下、こちらから転載)
■高位階イルミナティ離脱者の証言
ハロウィーンがちょうどよい機会なのでお話ししておこう。
イルミナティを支配しているのは13名の魔術師からなる「大ドルイド評議会」であるが、彼らはハロウィーンを含めて年に8回集まり「魔術師のサバト」 を行なう。
このサバトでは何百万人ものオカルト実践者が乱交にふけり、ときには人間が生贅として捧げられる。
《RAPT註:サバトとは「悪魔崇拝」のこと。詳しくはこちら》
私の情報提供者は、過去にイルミナテイを離脱した人間のなかで最も高い位の魔術司祭長の称号を得ていた人物である。
彼は「13人評議会」のメンバーで、一七世紀に米国に魔術を持ち込んだコリンズ・イルミナティの血流に属している。
《RAPT註:イルミナティは13の血流から成り立っており、アスター家、バンディ家、コリンズ家、デュポン家、フリーマン家、ケネディ家、李家、オナシス家、ロックフェラー家、ロスチャイルド家、ラッセル家、ファン・ダイン家、ダビデ血流であると言われています。コリンズ家もこのうちの一つです。》
この人物によるとイルミナテイは強大な権力を持つ高度に組織化されたオカルト陰謀組織で人類を悪魔的頚廃行為にふけらせている。
イルミナティは「何千もの陰謀を並行して進めて」おり、魔術に関する宣誓と入会儀式はフリーメイソンを彷彿とさせるものだという。
《RAPT註:一般的に、フリーメーソンはイルミナティの下部組織であると言われています。フリーメーソンの最高幹部ですら、イルミナティの足下にも及ばないと。》
この情報提供者はジョン・トッドという人物だ(彼にはクリストファー・コリンズという名前もある)。彼は一九七二年に救済され、イルミナティの実態を暴露した。
トッドは米国で13州を統括し、5000のコヴエンと6万5000人の男女の司祭の頂点に立っていた。これはあくまで司祭の人数で、信者の数ではない。
人類のために立ち上がったトッドだが、二つのネットのサイトがなければ今でも無名だったかもしれない。
その二つのサイトとは、日本在住のアメリカ人「ジェームズ」と、かのウエス・ペンレが運営しているものだ。
懐疑的な人々は、イルミナテイが本当に実在するなら離脱者が出てくるはずだと主張する。しかし、離脱者は現にたくさん存在している。
CIAのマインドコントロールや悪魔的儀式の犠牲者を治療している施設は、彼らであふれている。
ただし、声を上げる者は消されてしまう。トッドは1987年に婦女暴行の容疑をでっち上げられ、30年の実刑判決を受けた。
フリッツ・スプリングマイヤーによると、トッドは1994年に釈放されたものの、「ヘリに連れ去られて」殺害された。
ただしジェームズのサイトでは、トッドはサウスカロライナ州の刑務所から2004年4月に釈放され、その後同州精神保健部の「行為障害治療所」に収容されたことになっている。
私は所長のチャド・ロミニクに問い合わせてみたが、回答はなかった。(トッドがもしここに収容されて生きているのなら、誰か教えてもらえないだろうか。少なくとも彼には消息を探るくらいの敬意を表してしかるべきだろう)
トッドは数多くの衝撃的な事実を暴露している。これらについてはフリッツ・スプリングマイヤーも、13人評議会のメンバーしか知るはずのない情報だと認めている。
イルミナティはユダヤ人を悪辣に利用している
1978年の前後、トッドはイルミナテイがユダヤ人をフロントにしていると述べている。
「イルミナティは、いずれ正体が明らかになることを認識している。最善の方法は、別のものに意識を向けさせ、それが真実だと認めることだ。
だから彼らはシオニズムに注意をそらすことにした。問題は、イルミナティのメンバーの大半がユダヤ人ではないという事実だ。
創設者は出自こそユダヤだが、ユダヤ教を信じていたわけではない。指導者の大半は、ロスチャイルドを例外としてすべてスコットランド系またはフランス系のゲール族だ。
《RAPT註:ゲール族とは「ケルト人」のことも含みます。詳しくはこちら》
ユダヤ人とは何のつながりもない。
私の一族を含めほとんどのメンバーは大ドルイドを信仰していて、家系をさかのぼるとローマやギリシアやイングランドの異教に仕えた神職にたどり着く。
なかにはエジプトやバビロンに起源を持つ一族もいる。ユダヤとはまったく別物だ」
《RAPT註:ローマもギリシャもイングランド(イギリス)もエジプトもバビロンも、全て悪魔崇拝の栄えた国々ですね。》
デヴイツド・リヴイングストンも次のように書いている。
「エリザベス・ハーシユマンとドナルド・イエーツの研究書『スコットランドがユダヤだったとき(When Scotland was Jewish)』によると、スコットランドの名家の多くはユダヤ起源で、シンクレアやスチェアートをはじめ、フオーブス、ブルース、キヤンベル、ゴードン、コールドウエル、フレイザー、レスリー、クリステイ、ケネディ、コーワン(コーエン)もそうした家系であるという」
《RAPT註:「ドルイド教」を信じていたケルト人の多くが、現在もスコットランドに住んでいます。》
トッドはイルミナテイの頂点に君臨しているのがユダヤ・カバラ家系のサバティアンであるロスチャイルド一族だと明言している。
《RAPT註:「秦氏」が「ロスチャイルド」であり、この「秦氏」はゾロアスター教(=ドルイド教)の祭祀一族でした。なので、「ロスチャイルド」が現在でも「ドルイド教団」のトップだったとしても不思議ではありません。ただし、この「ロスチャイルド」は「天皇」を世界のトップにしようとしていますので、イルミナティの本当のトップは「天皇」です。》
世界を支配しているのはイエズス会 (イルミナティ) であり、イエズス会のトップは天皇です。
「ロスチャイルド家がイルミナティの司令塔であり、彼らの一族はあらゆる国に散らばつて組織のトップになっている。
アメリカにはロックフエラー家がいる。デイヴイツド・ロックフェラーは外交問題評議会と三極委員会のトップだが、これらはアメリカにおけるイルミナチイの組織名にほかならない。
ピラミッド(階層組織)の頂上には、日のついた冠石がある。冠石はロスチャイルド家の象徴で、イルミナティを支配する審判者を意味する。
《RAPT註:この「日のついた冠石」とは「太陽神」のことであり、「太陽神」が人間となって現れたのが「天皇」です。なので、イルミナティを支配する審判者は「ロスチャイルド」ではなく「天皇」と考えた方がいいでしょう。詳しくは以下のリンクをご覧下さい。》
日本と古代エジプトと悪魔崇拝のつながりが一発で分かる幾つもの物的証拠。
彼らはイルミナティの創設者であり、目は彼らの神であり声であるルシファーの象徴だ。
すべての組織の頂上には三つの層がある。私は一番上の層まで行った。『大ドルイド評議会』という13人の組織だ。ここの人間はロスチャイルド家の指令だけで動く。彼らの私的な聖職者集団だ。
《RAPT註:「秦氏=ロスチャイルド」が祭祀氏族であったという話と見事にかぶりますね。》
その下に、世界のフリーメイソンの最高位会員33名で構成される『33人評議会』がある。
さらに、世界トップクラスの富豪や財閥で構成される『500人評議会』が続く。(ビルダーバーガーズやデユボン、ケネディ一族などがここに属している)
第四層には 『黄金の夜明け』という魔術者の組織がある。ロスチャイルド家の私的コヴエンだ。彼らは個人的にメンバーを引き抜いていく」
トッドによると、C・S・ルイスやJ・R・R・トールキンもこのメンバーだったという。
大ドルイドのアイザック・ボーンウイツツとACLU (米国自由人権協会)は、オカルトの名誉を傷つけたキリスト教信者を訴えるための組織も作っている。
彼によると、サイエントロジーや全米キリスト教会協議会もイルミナチイの組織だという。
《RAPT註:サイエントロジーと言えば、トム・クルーズやジョン・トラボルタなどもその会員であり、その教義は秘密とされており、アメリカでも大問題となった宗教団体です。》
■離脱者が証言した恐怖支配の諸相
トッドがイルミナティ組織を抜け出したのは、1972年の労働の日の前後に開かれた会合がきっかけだった。彼らのもとにはロンドンから六通の書簡が入った郵便袋が届けられた。
「(レイモンド・) バックランド博士が袋の封蝋を切り、イルミナテイのかぶと飾りの封蝋がほどこされた手紙六通を取り出した。
最初の四通は事務的なもので、こことここに金を払うようにといった内容だった。大ドルイド評議会といってもその実態は虚飾に満ちた銀行のようなもので、政界や宗教界の人々に毎月数百万ドルの小切手を送っていた。私に離脱を決意させたのは、その次の二通だった。
私は世界政府樹立の計画に関わっていたが、そんなことは起こらないだろうと心のどこかで馬鹿にしていた。くだらないゲームを真面目にやっていると冷めた目で見ていた。
ロスチャイルド家から計画の資金が出ているからその通りに金を使っていただけで、その二通が開けられるまでは本気にしていなかった。
一通目には表が収められていて、そこには1980年の12月に完了する予定の、世界支配に向けた八年越しの計画が記されていた。そして次の書簡にはこう書かれていた。
『我々はルシファーの息子だと思われる人間を見つけた。
彼の仕事と我々のサポートが組み合わされば、彼は世界の支配者になれる。すべての戦争を終わらせ、戦争に満ちたこの世界にようやく平和をもたらすことができるはずだ』
要するに、救世主は自分しかいないと人々に納得させられる強大なカを持った人間が見つかったということだ。
キリスト教の言葉で言えば、かつてない規模の悪魔憑きが見つかったことになる」
《RAPT註:まあ、多分、この強大な力を持った人間が「天皇」ということになるのでしょう。詳しくは以下のリンクをご覧下さい。》
悪魔崇拝者は天皇を「救世主」に仕立てるつもりのようです。根拠のない希望にすがりつくのはやめましょう。
トッドによると、この世界支配計画にはイルミナティの会社も潰れるほどの徹底した経済破壊が盛り込まれていた。彼らにはそのような状況も乗り切る算段があるのだ。
トッドは、フイリップ・ド・ロスチャイルドが小説『肩をすくめたアトラス(Atlas Shrugged)』の参考にと、愛人の作家アイン・ランドにこの計画を教えたとも言っている。(この小説はCFRメンバーのアンジユリーナ・ジョリーの主演で映画化(Atlas Shruggedのyou-tubeプロモーションVTR)が進んでおり、そのあたりも興味深い)
《RAPT註:アンジェリーナ・ジョリーも「CFR」のメンバーです。詳しくは以下のリンクをご覧下さい。》
アンジェリーナ・ジョリー監督映画「アンブロークン」は人肉食信仰「クロ宗」を隠蔽するために上映中止にされた可能性大。
トッドの話では、イルミナティは経済の崩壊に乗じて米国を乗っ取るため、軍隊の訓練を進めているという。その軍隊には囚人も含まれているそうだ。
これは現在消息不明のもう一人のイルミナティ離脱者スヴアリの証言とも一致している。
その際にはポリシエヴイキ革命のときと同じように、恐怖支配の「混乱」の中で数百万人が殺されるだろうとトッドはみている。
この計画を阻止するには、アメリカ国民の多くが銃で武装するしかないと彼は主張する。
トッドは1980年代に、第三次世界大戦を起こして世界を壊滅させ、エルサレムだけを残してそこから統治する計画の存在についても明らかにしている。
《RAPT註:しかしながら、実際には1980年代に第三次世界大戦は起こらなかったので、彼らの計画は失敗したということですね。》
■「ブリティッシュ・イスラエル」が目指すエルサレム神殿の玉座
ユダヤ人との婚姻関係がなくとも、ヨーロッパ貴族の多くが自らを聖書のヘブライ人の子孫であると考えていた。
たとえばハプスブルク家は、ベンヤミン族の子孫を名乗るメログイング家と婚姻によって結びついている。
《RAPT註:ハプスブルク家も「ゾロアスター教徒」でしたね。詳しくはこちら》
加えて、多くの貴族が「ブリティッシュ・イスラエル」運動に加わっている。
この運動は、英国元首をイスラエルにおけるアングロ・サクソン系の「失われた種族」の頭領とし、世の終末とともに大英帝国が完全に復活すると主張する動きだ。
バーバラ・アホによれば、薔薇十字会とフリーメイソンはブリティッシュ・イスラエル主義を支持しており、自分たちの血統を再建されたエルサレム神殿の玉座に据えようとしている。
《RAPT註:エルサレムを世界の中心にしようとしたのは「教皇派」だろうと思われます。詳しくは以下のリンクをご覧下さい。しかし、この計画も失敗していますよね。》
満州国へのユダヤ人移民計画が失敗し、パレスチナにイスラエルが建国されるまで。または「河豚計画」が声を大にして語られない理由。
このように偽の救世主を登場させ、キリストとして世界中から信仰させようとする計画は何百年も前から画策され、実行されてきたのだ。
バリー・チャミッシュは次のように記している。「イギリスのフリーメイソンなしに、現代のイスラエル国家はあり得なかった。
ブリティッシュ・イスラエル運動は、1860年代にフリーメイソン内部から興った。彼らの目標は、パレスチナのトルコ領にユダヤ=フリーメイソン国家を建設することだった。
当初は、ロスチャイルド家やモンテフイオーレ家といったイギリスのユダヤ=フリーメイソン・ファミリーが大量の移民流入を想定し、インフラ整備のための資金を提供した。
しかしユダヤ人は思ったほどイスラエルに集まらなかった。彼らはヨーロッパの生活を好み、大陸を去る気にならなかったのだ。
そこで彼らは、ヨーロッパをユダヤ人にとって悪夢の地に変えたのだ」(『イスラエルを切望するイギリスのフリーメイソン(British Freemasonry Covet Israel)』インターネット)
《RAPT註:もちろん、この「悪夢」とはヒトラーによるユダヤ人迫害のことを言っているのでしょう。》
結果的に、ユダヤ系イギリス人エリートたちの世界支配のもくろみはイギリスとアメリカの帝国主義という形をとり、のちにシオニズムと新世界秩序NWOへと姿を変えたのである。
《RAPT註:イギリスとアメリカの帝国主義、シオニズムもまた「教皇派」の企みですね。そして、これまた失敗しました。
なぜユダヤ人は全世界で差別されながらも、一部では好待遇を受けているのか。「天皇派」と「教皇派」によるユダヤ人獲得競争のなれの果て。
■ロックからポルノまでが裔廃手段として利用されている
ここまでの話からもわかるように、イルミナテイは人々の買収に多くの金を費やしている。とりわけキリスト教の伝道者や牧師の買収にカを入れているそうだ。
《RAPT註:これについては、宮城ジョージさんとの対談の中で詳しくお話しています。以下がその対談になります。》
RAPT×読者対談〈第四弾〉日本とブラジルにおける悪魔崇拝。
「教会が自由主義になつたように見えるのも、ほとんどは買収の結果にすぎない。聖職者であっても、目の前に積まれた50万ドルは、賄賂だとわかっていても断りにくい。
もっと大きな額のこともある。私の知っているある教会は二年間に800万ドルを受け取った。別のところは一年で1000万ドルもらっている。教会も金になびくということだ」
トッドによると、ロックは聴く者に悪魔の呪文をかける目的で作られた音楽だという。そんな馬鹿なと思う人が多いことは承知している。
しかし、ネットで視聴できる彼の「ロックンロールの魔術(Witchcraft of Rock and Roll)」という動画をご覧いただきたい。
ジーザスロックはイルミナテイがメッセージをコントロールするために始めたもので、KISSというグループ名は「Kings in Satanic Service(悪魔の儀式の諸王)」の略語だという。
トッドの講演録を読めば、彼が実際に悪魔主義の教えを受けており、この分野に関して深い知識を持っているということがよくわかる。
同じように投獄されたフリッツ・スプリングマイヤーは、トッドが語っているのは自分が何年もかかって理解するに至った知識だと述べている。
トッドの話は一見現実離れしていて、にわかには信じがたいかもしれない。
しかし、捏造された9・11のテロ攻撃や見せかけのテロとの戦い、米国憲法無視の常態化、警察国家の台頭、議会とメディアの機能停止、愚民化と同性愛の蔓延、セックスの低年齢化、あからさまな悪魔主義、「娯楽」産業にあふれる須廃やポルノなどの現状を見る限り、トッドの言っていることは的を射ていると言わざるを得ない。
人類は想像を絶するスケールで進められている巨大な陰謀の犠牲になりつつある。
そのようなことから私たちを守るために報酬をもらっているはずの政治指導者たちは、彼らの仲間か、利用されているかのどちらかだ。
人類には神が望む通りに進歩するための知恵と手段が与えられているが、現在は地上に現われた悪魔の化身によって寮落に引き戻されようとしている。
私たちに何ができるのだろう。答えはあなた自身の中にある。彼らが目的を遂げるには、大衆を欺きつづけなければならない。今のうちに真実を広めることに、ぜひ力を貸してほしい。
(転載ここまで)
ということで、ありとあらゆることがRAPT理論とぴたりと一致しています。
もしこの転載記事を何の予備知識もなく読んだら、単なるインチキ、デタラメにしか思えないでしょうが、ある程度、RAPT理論を知った人が読めば、かなりこの世の核心をついた話であることが分かります。
要するに、「イルミナティ」というのは空想の産物でも何でもないということです。「イルミナティ」とは現実に存在している組織なのです。
で、この「イルミナイティ」というカルト集団が、「ドルイド教」という名の悪魔教を、色んな宗教を装いつつこの世に広めてきたわけです。
しかしながら、この転載記事を見てもお分かりの通り、彼らの立ててきた計画はどれもこれも、ことごとくうまくいっていません。
陰謀論をかじった多くの人たちが、「イルミナティ」のことをとても巨大な組織であるかのように思い込み、恐れていますが、「イルミナティ」は神ではないし、むしろ神に反抗している集団なので、神に呪われ、裁かれているわけです。
恐らくこれからも続けて彼らは神の裁きを受けることでしょう。彼らの滅亡は本当にもう間近かも知れません。
転載ここまで
イルミナティが天皇中心の世界統一政府を樹立しようとしていることを裏付ける幾つかの客観的事実。
ネット上に流れている「イルミナティ」に関する情報と、RAPT理論との奇妙な符合について簡単にご説明しました。
このブログを長く読んでくださっている方であれば、私が特に「イルミナティ」について調べようと思ってこのブログを書いてきたわけではなく、ただ単にこの世のカラクリを詳しく調べ上げてきたに過ぎないことをお分かりいただけるはずです。
にもかかわらず、ネット上で溢れている「イルミナティ」に関する情報と、私の調べてきたこととが余りにもぴたりと一致している……という事実に、私自身も驚きを禁じ得ませんでした。
ということで、今日もまた「イルミナティ」についてのお話をしたいと思います。
私が生まれて初めて「イルミナティ」の存在を知るきっかけとなったのは、「フリッツ・スプリングマイヤー」という人の書いた「イルミナティ悪魔の13血流」という本でした。その本が以下になります。
イルミナティ 悪魔の13血流―世界を収奪支配する巨大名家の素顔
この本には、どんな人物たちが「イルミナティ」に中心的に関わっているのか、かなり具体的に書かれています。
(以下、こちらから転載)
『イルミナティ悪魔の13血流』の著者フリッツ・スプリングマイヤーによれば、イルミナティの中枢は特定のファミリーによって構成されているという。
このファミリーは黒魔術を実践することで、そのパワーを得ている。彼らの思想は基本的にグノーシスであり、バビロニア的カバラ(古代神秘思想)である。
《RAPT註:カバラというと、一般的にはユダヤ思想と考えられていますが、実は日本の「密教」とも類似性のあることが指摘されています。なぜ類似しているのか、今さら説明するまでもないと思いますが、詳細を知りたい方はこちら》
グノーシスは、すでにいろいろなサイトで紹介されているので、それを参考にしてもらいたい。簡潔にいえば、グノーシスは古代神秘思想全般を指し、その多くがオカルト魔術である。
《RAPT註:グノーシスについては後に重要なお話をします。》
例えば、カバラ、ミトラ教、マニ教、錬金術、スーフィ、ヘルメス哲学、ドゥルイド魔術、ルーン魔術などがあるが、西欧キリスト教思想からすれば、これらは異端の部類に入り、すべてグノーシスとして扱われる。ちなみにルシファー信仰もグノーシスの範疇である。
イルミナティに君臨する特定のファミリーの系譜を遡ると中世イタリアのベニスに辿りつく。ベニスはフェニキア人の町であり、彼らはベニスで「黒い貴族」として栄えた。
《RAPT註:フェニキア人とはアルファベットの原型をつくった民族であり、旧約聖書の民・カナン人の子孫です。詳しくはこちら》
以後、彼らはベニスからスイス、ロシア、ロンドン、アムステルダムへと移っていった。ベニスの黒い貴族たちはいくつも枝分れしていき、無数のファミリーを形成した。一部が現在の英国王室にも繋がっている。
《RAPT註:「ベニスの黒い貴族」が何者なのかは諸説紛々としていますが、結局のところ、記事にも書きました通り、「ドルイド教」を信じるカルト集団ということになるでしょう。一応、表向きには以下のリンクような解釈がされています。》
1776年にはドイツのアダム・ヴァイスハウプトが、ロスチャイルドの支援を受けてババリア・イルミナティを結成した。このババリア・イルミナティであるが、彼らはNWO=新世界秩序を目指した。
(アダム・ヴァイスハウプト)
「教団の真の目的は世界を支配することである。これを達成するため、教団はあらゆる宗教を破壊し、すべての政府を打倒し、私有財産制を撤廃しなければならない。」
《RAPT註:「アダム・ヴァイスハウプト」についての詳細は以下のリンクをご覧ください。》
イルミナティに関する幾つかの考察。
ババリア・イルミナティは結成後間もなく、彼らの秘密計画がババリア政府にバレてしまい、弾圧を受けた。そのため、イルミニストは追われる身となったが、ヨーロッパのファミリーの庇護を受け、その後、地下に潜り、活動を続ける。
イルミナティは今でも存在しており、その会員は各国の要人、富豪、貴族、学者などによって構成されているという。イルミナティは9位階に分類され、その最高位階「王」(king)であり、この「王」の位には特定のファミリーが君臨している。
(ウィンストン・チャーチル)
「ヴァイスハウプトの時代からカール・マルクスその他まで・・・・この世界的な陰謀(文明を破壊し、発達の抑圧と悪意の妬み、実現不可能な平等を基礎に社会を再構築しようとする陰謀)は着実に大きくなっている」
共産主義はイルミナティが作ったものであるが、チャーチルは、イルミナティが作った共産主義が文明を破壊する危険な思想であることを警告している。
共産主義はイルミナティの思想を具現化したものであり、決して我々が知る「平等で安心して暮らせる社会=共産主義」ではない。イルミナティが目指す共産主義とは、平等という名の「奴隷社会」である。
《RAPT註:共産主義を作ったのは「天皇派」の悪魔崇拝者たちです。詳しくは以下のリンクをご覧下さい。》
そもそも左翼の本源が何処から来ているのか。それはイルミナティの思想から来ているわけで、イルミナティ結成日が、どんな日なのかを考えればすぐにわかる。イルミナティ結成日は5月1日であり、この日は現在、メーデーであり、労働運動の日である。
《RAPT註:5月1日は、古代ケルト人のベルテーンの祝祭日です。この祝祭日に、彼らは「バアル」に栄光を捧げました。》
さて、話を元に戻す。スプリングマイヤーによればイルミナティの頂点に君臨しているファミリーは、イルミナティ13血流と呼ばれており、13家族存在する。
13家族の各ファミリーは、アスター家、バンディ家、コリンズ家、デュポン家、フリーマン家、ケネディ家、李家、オナシス家、ロックフェラー家、ロスチャイルド家、ラッセル家、ファン・ダイン家、ダビデ血流である。
この13家族がイルミナティの頂点に君臨している。さらに13家族に従属する形で、影の世界政府が存在しており、影の世界政府は、行政、司法、立法に分類できるという。
(影の世界政府)
行政部門:13人評議会(新世界秩序を指揮)
司法部門:サンヘドリン(古代ユダヤ最高会議、70名が在籍)
立法部門:300人委員会(13人評議会のすぐ下に位置、13人評議会を助ける機関)
これら3部門の下に、ビルダーバーグ会議、円卓会議、王立国際問題研究所、ローマクラブ、外交問題評議会、三極委員会といった数々の国際機関が存在している。
次にイルミナティ13血流に関して、『イルミナティ悪魔の13血流』から転載する。
(アスター家)
南ドイツで特異な魔術能力者の一族として知られていた同家は、18世紀に渡米し、300人委員会の命を受けたジェファーソン大統領ら政府中枢から、海上輸送・毛皮取引・麻薬取引の独占的特権を授与され、突如として全米一の富豪にのしあがる。 フェビアン協会や共産主義の育成、禁酒運動の肩入れ、ヒトラーへの支援、ローズ奨学金への関与、ピルグリム・ソサエティ創設など精力的にイルミナティ活動をこなしてきた。チェース・マンハッタン銀行を核に、H・G・ウェルズ、オールダス・ハスクリー、バーナード・ショー、フランシス・ベーコン、ベンジャミン・フランクリンなど秘密結社のイデオローグたちの関連も深い。アスター家を一躍巨大財閥にしたのが、悪名高きジョン・ジェイコブ・アスターである。
(バンディ家)
アメリカ東部のエスタブリッシュメント。「本当の権力の在処を知りたければ横から助言している者を見ること」・・・グラント、ガーフィールド、チェスター・A・アーサー、ルーズベルト、ケネディ、ジョンソン・・・各大統領府の要職を占めてきたのが、バンディ家のメンバー。そして、スカル&ボーンズ、MJ12、薔薇十字会などの重鎮も兼ねてきた。
(コリンズ家)
知名度は低いが、オカルト界では最高峰に位置する血族であり、イルミナティ13家族の中でも危険なファミリー。コリンズ家から代々「闇のグランドマザー」が出ている。不気味な黒魔術の家系である。ただし、コリンズ家の中から裏切り者が出て、その者がスプリングマイヤーに情報を提供。これがイルミナティ13家族の正体を暴く重要なソースとなった。
《RAPT註:この裏切り者とは、「ジョン・トッド」のことですね。》
(デュポン家)
アメリカでは有名な一族。フランス革命時のフランスにおいて、デュポン家はイルミナティの仲間入りし、スイスの寡頭ファミリーに気に入られる。彼らの支援もあってアメリカへ移住。火薬産業で成功する。以後、同家はGMを傘下に収め、化学業界も独占した。
(フリーマン家)
フリーマンの一族からは、シオン修道会のトップ、OTOの共同創設者、スカル&ボーンズのメンバー、ADLの有力メンバー、悪魔派魔女集団のメンバーなどがおり、オカルトと非常に関係が深い。
(ケネディ家)
アイルランド出自のケネディ家は優秀なイルミナティ一族と見なされている。麻薬や禁酒法時代に酒密輸入などマフィア犯罪で財を成す。英国王室とも深く関与し、歴代大統領の私設顧問も勤めて世界統一計画を推進してきた。ケネディ家にはアメリカ大統領ジョン・F・ケネディがいる。ケネディはホワイトハウスで不特定多数の魔女たちとプールでのヌード・パーティーなどを催し、情事・密会を重ねていた。ケネディ家の先祖を辿ると初代はブライアン・ケネディ(スコットランド貴族)である。
(李家)
億万長者で香港を仕切る李嘉誠、中国前首相の李鵬、元首相の李先念、シンガポール元首相の李光耀など。李一族はイルミナティと密接な連携のもと、世界最強の犯罪同盟である秘密結社「三合会」を従え、新世界秩序構築に貢献している。孫文や毛沢東の中国革命や共産中国経営も、権力中枢部に巣食う李一族の協力なしではありえなかった。ちなみに李家は日本の最大の敵として位置づけられる家族である。
(オナシス家)
海運王やケネディ未亡人ジャクリーヌとの再婚で知られているアリストテレス・ソクラテス・オナシスとは、「イルミナティの王」とされ、麻薬・ポルノ・政治・事業経営部の担当だった。「秘教のメッカ」トルコのユダヤ人の影濃厚なスミルナ、サロニカに出てニクソンを陰で操った成金王ハワード・ヒューズ謀殺、JFK暗殺、身内の殺人事件などオナシス家には血なまぐささがつきまとっている。
(ロックフェラー家)
初代石油王ジョン・D・ロックフェラー1世により、瞬く間に財を成したアメリカ・ドリームを体現した一族。現当主のデビット・ロックフェラーは、アメリカの影の政府といわれる「CFR」のトップに君臨している。また、多数の名家がロックフェラーと手を組んでおり、ロックフェラーに仕えることで富を得ている。その中には、ジョン・D・アーチボルト、ハークネス家、ベッドフォード家、チーズブロー家、カトラー家、フラグラー家、フォルジャー家、ペイン家、ピアス家、ロジャース家などがある。ところで、ロックフェラー家の中からは多数の上院議員も輩出している。特に有名なのが元副大統領のネルソン・ロックフェラーである。
(ロスチャイルド家)
イルミナティの中でも最強の一族。「世界の富を半分支配している」「ユダヤの王」など、いろいろな噂が飛び交っている。ロスチャイルド財閥の傘下には、シフ家、オッペンハイマー家、モルガン家など巨大財閥がいる。政治、経済、マスコミとあらゆる分野を牛耳るユダヤ巨大財閥。
(ラッセル家)
エノク魔術やピラミッド学、プレアデス崇拝、薔薇十字思想などを盛り込んだオカルト教団「ものみの塔」の創始者が、同家のチャールズ・ティズ・ラッセルである。また、ウィリアム・ハンティントン・ラッセルはスカル&ボーンズを創設。ラッセル家の出自は、ドイツから始まり、スコットランドを経てアメリカへ渡っている。ラッセル家はユダヤ財閥とも深い交流があり、ブナイブリスを通して国際金融資本から膨大な資金援助をされてきた。熱烈なシオニスト一家でもある。また、モルモン教とも繋がっている。
(ファン・ダイン家)
15世紀半ばにオランダからニューヨークに移り住んだオランダ代表のイルミナティ一族。しかし、謎に包まれており、情報も少ない。この家族の中に米国家族計画連盟創設者、大地主、秘密情報将校がいることが判明している。中でもエドワード・S・ファン・ダインは1933年「米国家族計画連盟」を発足しており、この連盟は、イルミナティ系各種財団から多額の寄付金を得ながら、出生率の調整管理を行うことを目的に、避妊、妊娠中絶、断種、不妊化などを推進している。
(ダビデの血流)
イエスと堕天使ルシファーの血が流れていると自称するのが、13番目の「聖なる」ダビデの血流である(イルミナティのリーダーたちは、ルシファーとキリストは兄弟と考えている)。ユダヤのダン族を源流とするバビロン的カラバ魔術とドルイドに行き着く「全てを見通す目」のエジプト魔術を駆使する。英国王室を中心にすべてのヨーロッパ王室に貫流するオカルトの血筋メロビング王朝(ハップスブルグ家)の系譜でもある。この血族から、ワシントン、クリントン、ブッシュなど幾人かの歴代米大統領を輩出している。
以上がイルミナティ13血流であるが、13血流以外にも、その周辺血族として2家存在する。
(レイノルズ家)
レイノルズ家は婚戚のデューク家とともに全米資産トップ13に入り、煙草・麻薬コネクションとオカルトを介し、他の13血流と結ぶ。
(クルップ家)
ドイツ最大の工業帝国をもってヒトラーを支援し、第1次・第2次両大戦の陰の主役として世界を動乱させた。
(補足)
スプリングマイヤーはイルミナティ13血流に関して興味深いことを述べている。
「13血流のならわしとして、重要な子は派手な祝いなどせず、秘密裏に目立たぬように産み落とされて、別の家へ養子に出される。こうしてその子は別の姓を名乗り、血流を隠す。
他方、オカルト儀式では実の親が進み出る。例えば、闇のマザーになろうとする娘を実の父親が孕ませなければならない。
彼女の最初の子は実の父親の子でなければならず、彼女自身の手で、その子を悪魔の生贄として捧げなければならないのである。
イルミナティの子は、その多くが養子に出される(事実、合衆国のクリントン大統領もそうである)。
イルミナティの系図をたどろうとすることほど難しいことはない。
つまり私が何をいいたいかというと、さまざまな理由により、多くの人物が私のあげてきた上位十二姓(および私がイルミナティ13血流としてあげたいくつもの姓)とは違う姓を持ってはいるが、彼らもまたイルミナティ13血流に属している、ということなのである。」
(転載ここまで)
この記事の冒頭に、「イルミナティ」の根底には「グノーシス」の思想が流れている、と書かれてありますが、この「グノーシス」を表すシンボルマークは以下になります。(出典はこちら)
このマークはまさに「ケルト十字」ですが、このマークを「太陽十字」と呼んだりもします。
彼らが「太陽神」を崇めているため「太陽十字」と呼ぶわけですが、ちなみに「十字」には「二匹の蛇」や「男女の性交」を意味するそうです。詳細は以下のリンクをご覧下さい。
FIFA幹部の逮捕劇は、「教皇派」から「天皇派」への反撃である可能性大。
この日本にはこの「太陽十字」を家紋としている家系があります。
その家系とは、「秦氏」の末裔である「島津氏(椎宗氏)」です。詳しくは以下のリンクをご覧下さい。
武将の家紋-鎌倉編●6-
「イルミナティ悪魔の13血流」を読むと、まるで「イルミナティ」が西洋の組織であり、日本とは関係のない組織であるかのような錯覚を受けてしまいますが、決してそんなことはありません。
なぜなら、「イルミナティ」を組織したのはロスチャイルドであり、日本の「秦氏」もまたロスチャイルドの一派だからです。
だからこそ「秦氏」の末裔が、「イルミナティ」の思想を表す「グノーシス」のシンボルマークを家紋としていたりするわけです。
秦氏の正体はロスチャイルドでした。
さらに、現在のネット上にはこんな怪情報が流れています。
(以下、こちらから転載)
◆秘密結社イルミナティ13人最高評議会最高責任者にして、極東左翼組織世界最高責任者の柴田政人氏は安倍一族か?
頻繁に「内閣府」と名乗る者が書いてるのだが、柴田氏とは、いったい何者なのだろう?
●「竹内文書は極東左翼組織世界最高責任者にして秘密結社illuminati13人最高長老会議最高責任者、柴田政人氏の生まれ故郷 」から引用
●この二つが重なり合う事は偶然なのか?
柴田政人氏が幼き日の杉の子幼稚園の隣が竹内文書の発祥地なのである。
柴田政人氏の手元には竹内文書の闇の文書と呼ばれるものが存在している。
場所は茨城県北茨城市磯原町磯原が竹内文書の発祥地で茨城県北茨城市磯原町木皿1123番地が柴田政人氏が育った場所なのです。
偶然にしては竹内文書の裏の裏まで柴田政人氏が知り過ぎていると言う点で有る。
柴田政人氏は茨城県勝田市の出世で、その後、幼稚園から中学2年生迄は茨城県北茨城市磯原町で過ごして。
●茨城県北茨城市磯原町の初代町長が柴田政人氏の祖祖父、貴族院議員、そして戦後の初代参議院議長を歴任している。
●現在の極東左翼組織世界最高責任者にして秘密結社illuminati13人最高長老会議最高責任者、柴田政人氏が日本の極道社会を何の傷一つ無く永田町の政財界の裏のドンとまで呼ばれる。
●現在の衆議院議長公邸、参議院議長公邸、現在の帝国ホテル、日比谷公園は柴田政人氏の祖祖父が日本国に寄贈された物なのです。
●その真実は永田町の国会図書館で閲覧出来ます。
昨日(註: 2014年9月21日)から大韓民国との局長クラスの会談に日本国政府は真剣に取り組んでいるが、大韓民国・朴大統領は、相変わらず、
●極東左翼組織世界最高責任者の柴田政人氏の同席無しに首脳会議は無いと大韓民国大使館にも伝えられている。
●その極東左翼組織世界最高責任者の柴田政人氏は日本国に興味が無いと話されてマレーシア王室からの招待に出向き、東南アジア諸国連合の日本介入に対しても、考える時間を持って検討された方が良いとの言葉でした。
その言葉の結果は既に出ていると柴田政人氏は話す。
戦後からの首相が馬鹿ばかりだと話されたとマレーシア王室報道陣の言葉でした。
日本国に於いて、内閣総理大臣という者が、真面目な言葉で国民を誘導していると柴田政人氏は話されています。
現在の日本のマスメディアも馬鹿な政治家と一緒と、
●良かったのは田中角栄内閣総理大臣ただ1人だけと話されました。
自分でも金を使ったが国民に対して、その何百倍物資金が流れ景気が安定していたと言葉を濁していたと言う。
●アベノミクスは崩壊しているとも東南アジア諸国連合王室に対して話されたと報道があった。
来年度の消費税アップ前には、イギリス・フランスのロスチャイルド一族からの日本銀行買収もささやかれている。
●現在の日本銀行は株式会社日本銀行で全株の97%をロスチャイルド一族と秘密結社illuminati13人最高長老会議が全てを握っており、資金の全回収をilluminatiの最高長老会議最高責任者、柴田政人氏が口にした。
日本国民はilluminatiとフリーメーソンが同等の立場に存在すると誤解されていると最高長老会議の全てが話す。
フリーメーソンの最高位では13人の中には入れないという。
illuminati13人最高長老会議の下に33評議会があり、また、その下に300委員会が実在する中、フリーメーソンの最高位では100番以下のNOしかフリーメーソン・グランドマスターには与えられないと伝えられている。
●33評議会以上に名前が存在する方々の総資産額は最低でも3000億円を超える。
13人最高長老会議では最低でも50兆円を遥かに上回る。次元が違う。
柴田政人氏は写真を掲載していない理由に、必要な者が現れたら、東京都千代田区内を普段着の茶髪姿の柴田政人氏を発見出来るはずだから必要は無いと話されています。
《RAPT註:グーグルなどで「柴田政人」と検索すると、騎手の「柴田政人」が出てきますが、この二人は全く関係のない人物だと思われます。》
柴田政人氏は最近は短髪が多いと感じます。昨年度はかなりロングヘアでした。
変わらない所は茶髪か金髪かと言った所です。
話は変わりますが最近、2週間前と記憶に有りますが、柴田政人氏は喧嘩が強いです。
●というより凶暴ということの方が似合っていると私は思います。
それは暴力団に対してのみですが、7.8人の暴力団を経った2分程で下半身不随にしていたのを霞ヶ関の方々は比較的に見学していたと思います。
空手四段、柔道初段、合気道二段、それ以外は喧嘩慣れだと思います。
私達の仲間も柴田政人氏に暴力団から助けて頂いた事が有ると話していた事が有りますが、警視庁の肉体派中堅クラスでは7.8人居ても同じ結果と思われますが、柴田氏は決して自分から先に手を出すことは無いとも噂されている。
◆秘密結社イルミナティ13人最高評議会最高責任者,柴田政人氏48歳の権力と素顔の暗黒組織666 (彼の現在の年齢は不明!)
(*゜Q゜*)
秘密結社イルミナティ13人最高評議会最高責任者,柴田政人氏48歳は日本国現在の天皇家は在日韓国人の天皇であると漏らした。
日本人の天皇に在らずと。明治天皇の影武者の血統一族が現在の日本国天皇家であると漏らした。
《RAPT註:要するに現在の天皇が「田布施一族」だということでしょうね。詳しくはこちら》
●この内容は国際連合に対しても伝えられている。即ち、日本人とは馬鹿な国民と言う事なのです。
●日本国政府,そして全ての政治家に騙されているという事なのです。
●柴田政人氏48歳は、もう一度日本が潰れても構わないと報じた。
日本国民の意識レベルが非常に引く、海外から己自身で日本国を見ると日本人程、手のひらを返す民族は存在しないと見たらしい。言われてみれば、内閣府としても同然と言葉が出ない。
●現在、日本国には特定秘密保護法が在りますが、敢えて日本国政府が極秘情報を流した者には10年以上の懲役に処すると在りますが、秘密結社イルミナティ13人最高評議会最高責任者に対しては、この日本国の法律では柴田政人氏48歳を裁く事は出来ない。
この書き込みに対しての内閣府に対しても柴田政人氏48歳の権力に守られている。
(転載ここまで)
一見すると、眉に唾をつけたくなるような内容ですが、私はこの記事にかなり強い信憑性を感じました。
単なるデタラメを書くような人が、「イルミナティ」と「竹内文書」とに何らかの関連性があることを指摘できるわけがないからです。
そこに関連性があると分かるような人物は、この世の裏側にかなり精通している人物だとしか言いようがありません。
もしこの怪情報が真実であるなら、イルミナティの最高幹部のポストに「竹内文書」と深い縁のある人物が在任していることになります。
そして、この「竹内文書」は有史以前に天皇中心のNWO(世界統一政府)があったということを書いた古文書でしたよね。
「竹内文書」は悪魔崇拝者によって書かれた天皇礼賛に導くための古代プロパガンダの書です。
ということは、世界支配を目論む「イルミナティ」のトップに、天皇中心のNWOを樹立しようと目論んでいる人物が就いているということになります。
なので、このブログでさんざん書いてきました通り、悪魔崇拝者たちが今でも天皇中心のNWOを樹立しようと計画していることは間違いない事実だと言えるでしょう。
さらに補足するなら、「竹内文書」を伝承してきた「竹内家」も、実は「秦氏」であるとのこと。詳しくは以下のリンクをご覧下さい。
秘密結社「竹内神道」と出雲族のエイリアン・クラフトの謎: 神仙組Ⅰ【ハルマゲドン編】光と闇の黙示録
ということは、「竹内文書」と縁の深い「柴田政人」も、「秦氏」である可能性が高いということになります。
その「秦氏」が「イルミナティ」のトップに就いているということは、「イルミナティ」がロスチャイルドによって結成され、ロスチャイルドを頂点とするカルト集団である、という記事もやはり正しかった、ということになります。
逆に言うと、「秦氏はロスチャイルドである」という私の説も、これではっきりとその正しさが立証されたことになります。
この世のカラクリがますます明確になってきました。
転載ここまで
いかがでしたでしょうか。
生贄という行為が、悪魔によって当たり前になってしまっていた時代。あからさまではなくとも、今も尚悪魔崇拝者たちは、人を生贄にしています。
現世利益を求める強欲な人間たちは、悪魔に魂を売ってでもこの世で成功したいのでしょう。
しかし、成功したと周りから見えたとしても、悪魔に魂を売った人間の心は闇の中にあるのです。不安や恐怖から逃れることは出来ません。
そんなことをした人間は、必ず後悔することになります。
生贄を求める神とは、サタンのことです。そんな存在を崇めてきたのだと、日本人にも世界中の人にも、これから伝えていきたいですね。
本当の神様を崇めたら、その人は祝福を受けて心が救われます。本当の意味で、その人は救われるのです。
旧約聖書
申命記 祝福と呪い 11ー13~31
もしわたしが今日あなたたちに命じる戒めに、あなたたちがひたすら聞き従い、あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば、わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。
あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある。わたしはまた、あなたの家畜のために野に草を生えさせる。あなたは食べて満足する。
あなたたちは、心変わりして主を離れ、他の神々に仕えてそれにひれ伏さぬよう、注意しなさい。
さもないと、主の怒りがあなたたちに向かって燃え上がり、天を閉ざされるであろう。雨は降らず、大地は実りをもたらさず、あなたたちは主が与えられる良い土地から直ちに滅びさる。
あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額につけ、子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
こうして、主が先祖に与えると誓われた土地にあって、あなたたちとあなたたちの子孫の日数は天が地を覆う日数と同様、いつまでも続くであろう。
もし、わたしがあなたたちに行うようにと命じるこのすべての戒めをよく守り、あなたたちの神、主を愛してそのすべての道に従って歩み、主につき従うならば、主はあなたたちの前からこれらの国々をすべて追い払われ、あなたたちは自分よりも大きく強い国々を追い払うことができる。
あなたたちが足の裏で踏み込む所は、すべて、あなたたちのものとなり、荒れ野からレバノン山まで、ユーフラテス川から西の海まであなたたちの領地となる。あなたたちに立ち向かいうる者は一人もいない。
あなたたちが言われたように足を踏み入れる土地の至るところに、あなたたちの神、主は、あなたたちに対する脅威とおののきを起こされる。
見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。
あなたが入って得ようとしている土地に、あなたの神、主が導き入れられるとき、ゲジリム山に祝福を、エバル山に呪いを置きなさい。
この二つの山は、ヨルダン川の西アラバに住むカナン人の領内を貫く街道の、更に西方にあって、ギルガルの前方、モレの樫の木の近くにある。
あなたたちはヨルダン川を渡って、あなたたちの神、主が与えられる土地に入って、それを得ようとしているが、それを得て、そこに住むときには、今日、わたしがあなたたちに授けるすべての掟と法を忠実に守らねばならない。
一人でも多くの人が、悪魔の惑わしから救われますように。