サナト・クマーラ 釈迦と仏教と輪廻転生と前世ビジネス、妙見信仰と創価学会の神の正体は悪魔だった

皆さんは、生まれ変わりを信じますか。

前世とは、本当にあるのでしょうか。大抵の日本人でしたら、仏教の教えである輪廻転生を聞いたことがあると思います。

スピリチュアルブームによって、霊視による前世が誰だったとか、前世療法なる退行催眠やチャネリング…。

また生まれ変われるとしたら、今を大切に生きようというより、次に生まれ変わってまたやり直せばいいなどと考えてしまうかも知れません。

まずは、こちらの記事をお読みください。

輪廻転生はあるのか。または「肉体」と「霊体」の仕組みについて。

私がかねてからこのブログで「聖書」を薦めてきたこともあってか、私に対して宗教的な質問をしてくる方が多々いらっしゃいます。

その質問の中でも、特に印象的だったのは、「聖書」には輪廻転生のことが全く書かれていないけれども、あなたも輪廻転生を信じてはいないのか、というものでした。

しかも、その人自身は「輪廻転生」を信じていて、「輪廻転生」があることは間違いないことだから「聖書」は嘘だとまで言ってきました。

何の根拠があって「輪廻転生」があると言っているのかはよく分かりません。

単に「聖書」を否定したくてそう言っているのか、それとも誰かが輪廻転生したのを実際に見たのか(まあ、そんなわけがないと思いますが)、それとも誰かから聞いた話をそのまま信じ込んでいるだけなのか。

確かにこの日本では、キリスト教的な概念よりも、仏教的な概念の方が広まっています。

つい最近も、金髪の同性愛者とちょっと太めの霊能力者が、仏教的な話をテレビであれこれと繰り広げていましたので、もしかしたら多くの国民が彼らの話を信じ、「輪廻転生」はあると洗脳されているのかも知れません。

もっとも、私は決して「輪廻転生」がないとは言いません。
 
ただし、「聖書」に「輪廻転生」という概念について全く書かれていないことは確たる事実です。

そして、私個人はこの「聖書」を読んで自分の人生のいろんな問題を解決してきましたし、この世のカラクリもこうしてほぼ完全に解明できるようになりました。
 
なので、「聖書」に「輪廻転生」という概念が書かれてない以上、「輪廻転生」を信じるのは難しいというのが本音ですね。

それに、私としては、「輪廻転生」して何度も生まれ変われるという考え方よりも、人生は一度きりという考え方の方がしっくりと来ます。

その考え方の方がより理路整然としていると思うからです。

その理由をご説明しましょう。

人間がこの世に生まれ出てくるまで、人間は母親の胎の中で成長します。
 
ある程度まで成長した後、母のお腹の中から出てきます。
 
しかし、子供が胎にいる間、母親がタバコを吸ったり、お酒を飲んだり、刺激の強い薬を飲んだりしたら、最悪、その子供は奇形児や障害児として生まれてきてしまいます。
 
なので、子供がお腹にいる間は、母親はできる限り食べ物に気を使い、お腹に圧迫を加えたり、衝撃を加えないように注意しなければなりません。
 
つまり妊娠期間中は、母親は徹底的に節制した生活をしなければならないわけです。
 
たった十ヶ月辛抱して、まともな子供を生むのと、十ヶ月間辛抱せずに、奇形児や障害児を生んで、その子を何年も育てていくのと、どちらがいいかという話ですからね。

当然のことながら、誰もが前者を選ぶはずです。

話は変わりますが、私はかねてから人間には「肉体」と「霊体」があるという話をしてきました。

では、どうして神様が私たち人間をこんな構造に作ったのかというと、人間の「肉体」は実は「霊体」にとっての母胎の役割をしているからです。
 
「肉体」がこの地上でどんな生き方をするかによって、「霊体」がどのように成長するかが決まり、その後の永遠の運命が変わってしまうというわけです。
 
さらに具体的に言うならば、「肉体」がこの世で善を行えば、「霊体」も天使のような美しい姿に成長して、天国に行くことができるけれども、「肉体」がこの世で悪ばかり行えば、「霊体」は悪魔のような醜い姿になって、地獄に堕ちるというわけですね。
 
この地上で生きる100年間、善を行うために苦労して生きるのと、その後、永遠にあの世で苦痛を受けながら生きるのと、どちらがいいかという話なのです。

これが聖書の基本的な考えです。聖書のある箇所にもはっきりとこう書かれてあります。

新約聖書

コリント人への第一の手紙 14ー16

だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
 
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
 
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。
 
見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

…………………

この外なる人である「肉体」が死んだ後、内なる人である「霊体」があの世に行くというわけですね。

…………………

「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。」

口語訳聖書・伝道の書12ー7、新共同訳聖書・コヘレトの言葉12ー7

もっとも、この世のクリスチャンたちがこのことをどれぐらい理解しているかは謎ですが、それぞれの教会の牧師さんの聖書の理解度にもよるでしょうね。

とはいえ、考えてみれば、これはある意味、とても恐ろしいことです。
 
たった一回の人生を自分がどう生きるかで、永遠の運命が左右されてしまうわけですから。
 
なので、「輪廻転生」があるという考えの方がまだ救いがあるようにも感じられます。
 
その方が、やり直しが何度でもきくわけですから。

しかし、私から言わせてもらえば、この100年という人生の間にまともに生きられない人が、いくら別人に生まれ変わったとしても、その後も同じような人生しか生きられないのではないか、という気がしてなりません。

その人の外見が変わり、生きていく環境が変わり、両親が変わったとしても、その人の中身は全く同じなのですから。
 
それに、100年という期間は短いようでいて、それでも長いといえば長い。
 
なので、自分の「霊体」をしっかりと成長させるには十分な期間と言えるのではないでしょうか。だからこそ、神様も人間の人生を100年と決めたのだと思いますし。

それに私は、何度もこの世で生まれ変わりたいとも思いません。
 
例え輪廻転生して、物凄いお金持ちになれたとしても、物凄い有名人になれたとしても、そこに何の魅力も感じません。

なぜなら、この地上の世界はどこもかしこも悪魔の支配下にあるからです。

悪魔の支配下にある以上、例えどんな人間に生まれ変わったとしても、悪魔から来る苦痛を逃れることはできません。

だから私は、できれば人生はたった一度きりであってほしいと思います。
 
そうすれば、100年生きた後は悪魔から完全に解放されるわけですから。
 
とはいえ、この地上で悪ばかり行って生きたら、結局、死んだ後も地獄に落ちて、「悪魔」どもに取り囲まれて永遠に苦しみの中で生きていかなければなりません。
 
なので、この地上でできる限り善を行って、天国に行きたいと願っているわけです。

もっとも、この世で善良に生きるというのは、それはそれで相当な努力が必要となりますし、ときに苦労も多いわけですが、この100年の間、苦労するのを惜しんで、永遠の地獄に堕ちる方がさらに大きな苦痛です。
 
なので、私はこの人生100年は修行の場だと思って、懸命に一日一日を生きています。

しかも、そのように生きることが、この地上での人生を幸せにすることにもなりますしね。それもそれで確固たる事実です。

ところが、そんな自分の人生をときどき政治家やら企業やらマスコミやらが脅かすようなことをしてくるし、私以外の多くの人たちも同じように彼らから苦しめられているので、このブログを通して、悪魔どもの嘘と悪行とを徹底的に暴き出してきたわけです。
 
一度きちんとそれらを暴き出してしまえば、もう二度と彼らに惑わされることもなく、騙されることもなく、悪の道に誘惑されることもありませんから。少なくとも、その危険性がずっと低くなります。
 
そして、彼らから受ける苦痛も少なくて済みます。

はっきり言って、この世の中、時代が経てば経つほど、嘘も罠も誘惑も何百倍、何千倍、何万倍と大きく膨らんでいます。

文明が発達してどんどん生活も便利になっているにもかかわらず、なぜか心は空しく寒々しく、どんどん窮屈になっていくばかりです。(もちろん、中には脳天気に生きている人もいますが……。)

我々の心をそうやって苦しめる黒幕が誰なのだろうと思って調べてみたら、実はそれが日本に古くから住まわれる「天皇」だと分かってきたわけです。
 
なので、私は今後もつづけて「天皇制の廃止」のために祈っていくつもりですが、いくら「天皇」が権力の座から下りたからといって、我々一人一人の人生が幸福になるというわけでもない。
 
悪魔どもを責めてばかりいるのではなく、一人一人が自分の人生をより良く変えていきましょうともお話しているわけですね。

人生をよりよく変えていく方法についても、ある程度、具体的にお話してきましたし、これからも続けて話していくつもりです。
 
この世には悪を叩き潰してこの世の中を変えようとする人たちがいますが、例えその悪なる政治家や企業や団体がつぶれたとしても、別の悪者がよそから出てきてしまったら、何の意味もありません。

私はそんないたちごっこを続けるのは嫌なので、最初から誰かを倒そうとか潰そうとばかり考えず、自分の人生をどう作っていくかにいつも神経を使っています。

その方がずっと生き甲斐のある、価値のある人生を生きられるようになりますしね。
 
その一方で、悪魔崇拝者たちは自ら悪を行うことに神経を使って、自ら地獄に行こうとしているわけですから、本当にお気の毒です。
 
はっきり言って、地獄は地獄。苦痛と苦しみの世界です。
 
地獄には悪魔たちがうようよしていて、その悪魔たちは神様と違って、愛も正義も何もない奴らなのです。
 
そんな世界にどうしてそんなに行きたがっているのか理解に苦しみますが、要するに彼らがそれだけ悪魔に深く洗脳されているということなのでしょう。
 
皆さんが地獄に堕ちることなく、天国に行けるよういつもお祈りしています。

「輪廻転生」の概念が悪魔から生まれた可能性について。または真に悟りを開いた人とはどんな人なのかについて。

「輪廻転生」という概念が聖書に書かれていないこと、そのため私も「輪廻転生」を信じられないとお話しましたが、それでも「輪廻転生」がないとまでは断言しませんでした。
 
このブログでは何の根拠も証拠もなく物事を結論づけたくないからです。
 
とはいえ、その後、ある読者の方からコメントをいただき、どうも「輪廻転生」という概念そのものが悪魔の作った概念なのではないかと疑わざるを得なくなってきました。
 
というのも、ウィキペディアの「輪廻転生」の記事にはこんなことが書かれてあったからです。
 
(以下、ウィキペディアより転載)
 
転生輪廻(てんしょうりんね)とも言い、死んであの世に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくることを言う。
 
ヒンドゥー教や仏教などインド哲学・東洋思想において顕著だが、古代のエジプトやギリシャ(オルペウス教、ピタゴラス教団、プラトン)など世界の各地に見られる。
 
輪廻転生観が存在しないイスラム教においても、アラウィー派やドゥルーズ派等は輪廻転生の考え方を持つ。
 
(転載ここまで)

太字にした宗教は、すべて悪魔教である可能性の高いものです。というか、悪魔教であると断定してもいいものでしょう。
 
つまり、悪魔の作った宗教の多くが「輪廻転生」という概念を取り入れているということです。

古代のエジプトに関してはもう言わずもがなですね。古代エジプトとは、ある意味、天皇家の第二のふるさととも言えるような場所ですから。

「オルペウス教」「ピタゴラス教団」「プラトン」といったギリシャ哲学(宗教)も悪魔崇拝者たちの作ったものです。聖書の中にも「哲学」についてこんな言及があります。
 
「あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。」(コロサイ人への手紙2章8節)
 
「世のもろもろの霊力」とは何なのかと言えば、もうお分かりですね。もちろん「悪魔」のことでしょう。
 
聖書が書かれた当時、流行していた「哲学」といえば「ギリシャ哲学」ですから、「ギリシャ哲学」は「悪魔」の作った学問だと言えるわけです。
 
また、イスラム教の「アラウィー派」も「天皇派」のアサドが信仰している宗派ですから、明らかな悪魔教ですね。(アサドとは「天皇派」の国家シリアの指導者です。)
 
アラウィー派–Wikipedia

イスラム教には「輪廻転生」という概念はないみたいですが、なぜかこの「アラウィー派」だけは「輪廻転生」という概念を取り入れているようです。これも全くの意味不明ですね。一つの宗派が勝手にそんなことをしてもいいのでしょうか。
 
また、イスラム教の「ドゥルーズ派」も、そのシンボルマークは完全に悪魔でした。以下のマークを「五色星」というそうです。
 
ドゥルーズ派–Wikipedia

このウィキペディアの記事を見てもお分かりの通り、この「ドゥルーズ派」もご多分に漏れず、紛争ばかりを繰り返しています。これではもう宗教とは呼べないですね。
 
「アラウィー派」では人間が動物に輪廻転生することもあると説いていて、「ドゥルーズ派」では人間にしか輪廻転生できないと説いているそうです。これもまた全くの意味不明です。
 
なぜこうも教派によって言うことが違うんでしょうか。それぞれの宗派がそれだけ勝手なことを言っているという証拠ではないでしょうか。
 
ちなみに、かの「ひかりの輪」も輪廻転生を信じているみたいです。詳しくは以下のリンクをご覧下さい。
 
第1章 輪廻転生の思想 / 輪廻転生 / 基礎的な法則の解説 // 上祐史浩オフィシャルサイト
 
「ひかりの輪」はオウム真理教から派生した宗教ですし、そのオウム真理教は「チベット仏教」から派生した宗教です。

なので、「ひかりの輪」も紛れもない悪魔教の一つの分派だと言えるわけですが、このように悪魔教の多くが「輪廻転生」という概念を取り入れているとなると、同じ「輪廻転生」という概念を取り入れている「仏教」や「インド哲学」もまたとても怪しくなってきましたね。
 
いいや、「釈迦」は悪魔ではないと仰る方、そう思いたい方もいらっしゃることでしょう。「釈迦」が悪魔なのではなく、「釈迦」の後から出てきた仏教徒の中に悪魔崇拝者たちが紛れ込んでいただけではないか、と……。
 
しかしながら、「釈迦」がこの輪廻転生という概念を仏教に取り入れたことは事実ですし、しかも「釈迦」は自分なりに新たな輪廻転生の理論まで組み立てています。詳しくは以下のリンクをご覧下さい。
 
六道輪廻

こうなってくると、「釈迦」もまた悪魔から何かの啓示を受けていたという可能性を捨てきれません。
 
いや。実際に前世の記憶を持った人がこの世にはいるのだから、輪廻転生は起こり得るのだ。だから、輪廻転生を唱えたからといって、「釈迦」を悪魔であるとは言えないのではないか。
 
そうコメントされた方もいらっしゃいましたし、実際、以下のようなサイトも見付かりました。
 
輪廻転生はあり得るのか?過去の記憶を持つという転生した10人のストーリー : カラパイア

しかし、前世の記憶があるからといって、それだけで輪廻転生をしたと考えるのは無理があります。ただ単に死者の霊がその人に臨んでいるだけとも考えられなくはないからです。
 
また、前世と同じ場所に母斑(皮膚の奇形)が現れたからと言って、輪廻転生をした証拠だという考えにもやはり無理があります。

輪廻転生は「肉体」が輪廻するわけではなく、「魂」のようなものが輪廻するわけですから、輪廻転生したからといって「肉体」に同じ母斑があらわれるわけがないからです。
 
もしこの「輪廻転生」が嘘ということになれば、「釈迦」も嘘をついたということになり、多くの人たちを騙したことになります。
 
もっとも、私は現時点ではっきりとそう断言することは控えましょう。
 
ただし、この「輪廻転生」の概念について、多くの宗教人たちがネットなどであれこれと説明をしているのを読んでも、私にはいまいちよく理解できませんでした。
 
例えば上で紹介した「上祐」のリンク記事も、読めば読むほど頭がごちゃごちゃしてきました。
 
いえ。もっとはっきりと言えば、彼の文章を読んでいて、吐き気を催すほど気分が悪くなりました。なんとなく悪魔の波長を感じ取ってしまうからです。

それに引き替え、「聖書」に書かれた概念はなんと単純明快でしょうか。人間の「肉体」は「霊体」にとっての母胎のようなものである、というわけですからね。

「肉体」という母胎があるからこそ「霊体」を育てていくことができる。だから、神様は人間の「霊体」だけを作らず、「肉体」も作ったということです。
 
人が「肉体」を持っている間に善行を積めば、その人の「霊体」は天使のように美しい姿に成長し、永遠に天国に住むことができる。
 
逆に、人がこの世で悪いことばかり行えば、その人の「霊体」は悪魔のように醜い姿になり、永遠に地獄に住む、というわけです。
 
「宗教」というものは本来、複雑で分かりにくいもの、ぼんやりとした漠然としたものを、分かりやすく明確に説明してくれるべきはずのものです。
 
なぜなら、「宗教」とはいわば人生の道しるべみたいなものだからです。

その道しるべが分かりにくいものであれば、当然、人がいくらその道しるべを見ても道に迷ってしまいます。
 
なので、分かりにくく複雑な教理を述べるような宗教は、もはや宗教とは呼べません。
 
この世の多くの人は、複雑で難解な話を聞くと、奥が深すぎるから自分には理解できないんだと思い込みがちですが、本当に悟りを開いた人というのは、どんな複雑で難解な物事も、凡人にも理解できるように分かりやすく説明できるはずです。
 
なぜなら、悟りとは複雑な物事をシンプルに単純明快に解き明かしていくという行為なのですから。
 
実際、私もこの世のカラクリを調べていくうちに、どんどんシンプルに単純明快に解き明かすようになりましたが、これもまた一種の悟りですよね。

この世のカラクリを一言で説明すればこういうことになります。

「この世は、悪魔を拝む悪魔崇拝者たちが支配していて、その悪魔崇拝者のトップは天皇である。しかし、その悪魔崇拝者が二つの勢力に分かれて古代から現代まで争いあってきた」
 
別の言葉で言うなら、悟りを開くということは「物事の核心を捉える」ということです。あるいは「物事の本質を捉える、見抜く」とも言えるでしょう。
 
そのように「核心」や「本質」を捉え、見抜くことによって、一見バラバラに見えていた100も200もの事象を一つの点と線で結んでいけるようになるわけですね。
 
なので、複雑な物事がどんどんシンプルに単純明快に見えてくるわけです。
 
私はこの作業を「政治」や「経済」や「国際情勢」の観点からやってきたわけですが、この作業を「人生」という観点からやっていくのが「宗教」なのです。

人間には生きている間に多くの悩みや苦しみが発生しますが、そのときにはいつも頭の中が複雑になります。ごちゃごちゃしてきます。で、その複雑になった頭を単純にしてくれるのが「宗教」というわけなのです。
 
ですから、「宗教」とは人生の「核心」や「本質」を教えてくれるものでなければいけません。
 
あなたの頭の中にある複雑な考え、複雑な思い、複雑な気持ちを、シンプルにまとめててくれるものでなければなりません。

なのに、「宗教」を学んだら余計に頭の中がこんがらがってきた、というのでは話になりません。そんな「宗教」はエセ宗教だとさえ言えるでしょう。

とはいえ、自分が理解できないものを何でもかんでもすぐにエセ宗教と決めつけてはいけません。「宗教」を信じる側もまた、それなりに悟る努力をしなければならないからです。

自分が何の努力もしないで、自分には理解できないからと言って、自分の能力のなさを棚に上げて、どんな「宗教」もエセ宗教と決めつけてしまっては、本当に大切なものを見逃してしまうことにもなりかねません。

また、ここで誤解してほしくないのは、物事をシンプルに考えなければならないからといって、「10」ある情報のうちの「9」を無理やり切り捨てて、「1」だけ残すようなことをしてはいけないということです。

「10」あるならば、その「10」の情報すべてを使ってシンプルな考えを組み立てなければなりません。
 
ただし、その「10」すべてを使って考えを組み立てているうちに、そのうちの「1」が嘘だったと分かれば、その「1」は切り捨てても構いません。
 
しかし、自分の勝手な判断で、嘘でもない「1」を切り捨てるようなことがあってはならないのです。
 
実際、この世にはどんな話もシンプルに単純明快に話して人を騙すような人がいます。
 
もっとも、そういう人の話には奥深さがないので、いずれ嘘だとばれる日が来ることは間違いないのですが、それでもそういう人から何かしら害を受ける人が後を絶ちません。
 
シンプルさと奥深さ。この二つの一見相反するようなものを兼ね備えた人こそが、真の天才であり、真に悟りを開いた人と言えるのです。
 
私はこれからもそのような人間になるべく精進を続けるつもりですし、このブログの読者の皆さんもそのような人たちになっていただきたいと思います。

「前世」はない。「輪廻転生」もない。その確固たる証拠。

ある読者の方から「前世」は存在しないという客観的、かつ確たる証拠を教えていただきました。

以下の記事を読んでいただけば、「前世」が存在しているとか「輪廻転生」があるとか、そんなことは口が裂けても言えなくなるでしょう。
 
もちろん、「前世を見てあげましょう」といって莫大な鑑定料をもらっているような霊能者、占い師、療法士などは、これからも屁理屈をこねながら「前世はある」と言い張りつづけるでしょうが、彼らの言うことが全く何の根拠もないことが、以下の記事を読めばはっきりとお分かりいただけると思います。
 
はっきりと言いますが、あなたの人生の問題を解決するのにお金は必要ありません。法外なお金を要求して、あなたの人生の問題を解決すると言ってくる人はみんな詐欺師と思えばいいのです。
 
彼らはあなたにあれこれとデタラメ話をして、あなたの抱えている問題をさらに複雑化し、あなたの頭を激しく混乱させます。

そうしておいて、あなたの問題をあなた一人ではとても解決できないように仕向けてしまうのです。
 
そうすると、あなたは目の前にいる霊能者、占い師、療法士にすがりつくしかありません。

詐欺師とはそうやってあなたから法外なお金をもぎ取ろうとするのです。

はっきり言って、「前世」など存在しないのですから、霊能者にも占い師にも療法士にもあなたの「前世」など分かるはずもありません。
 
彼らはただ単に法外な鑑定料をとるために、それらしく聞こえるデタラメな空想話をでっちあげているに過ぎないのです。

率直に言って、これほど悪質な商売はないと言っていいでしょう。

そんな商売をしている人からしてみれば、私のように「前世」を否定するような記事を書く人間は煙たくて煙たくて仕方がない。

なので、「輪廻転生」について懐疑的な記事を書いて以来、やたらと嫌がらせメールやコメントが殺到してきました。
 
悪いですが、このブログを読んでいる読者の皆さんは博識な方ばかりですので、必要とあれば、すぐに私に必要かつ重要な情報を送ってくださいます。
 
そういうこともあって、このブログは物凄い勢いでこの世のカラクリをすべて解き明かしてきたのです。
 
今回もまた読者の方からの情報によって「前世」も「輪廻転生」もないということをはっきりと証明する運びになりました。
 
悪いですが、人を騙してお金をぼったくるような商売はこの世から全て消え去るように、このブログではこれからも徹底追求していきます。

(以下、教えて!gooから転載)
 
前世療法の信憑性
 
■質問
質問者:rin7755質問日時:2009/01/03 21:45
 
イギリスなどでは、その昔から精神科のドクターによる前世療法が行われ人々を救ってきたと聞きます。
 
日本からも外国に渡り、前世療法を学んだ人もいるとは思うのですが、人間の魂が本当に1つなのか?
 
その魂が何百年も前から体を変えて宿り存在するのか?
 
その魂は何かしら前世と現在の橋渡しをしているものなのか?
 
私はあるきっかけで5年くらい前に前世療法というものを知りました。
 
自分には精神的にどうしてもクリアできないものがあり、それが以前から苦しくて苦しくてたまりません。

・・・前世療法・・・
 
本当に胸のつかえがとれるのなら受けてみたいような気がします。
 
ご存知の方もしくはこの療法にお詳しい方教えて下さい。
 
この療法は信憑性はありますか?
 
この療法の凄いところは何ですか? 
 
催眠療法ですよね?  
 
単なる暗示みたいなものですか?
 
受けるとすればどこに行けばいいのでしょう?
 
いかさまっぽいところでは意味がないのできちんとしたところはどのように調べたらいいんですか?

■ベストアンサー
回答者:kigurumi 回答日時:2009/01/04 01:13
 
よく、このサイトに広告が出ていますよ。
 
広告主があってこそ、このサイトが存続するので、あまり大きな声では言えないのですが。。。
 
1980年代にアメリカで大きな社会パニックが起こったそうです。
 
突如、子供の頃親に性的虐待を受けた記憶が蘇ったとして、裁判所の詰めかける人で、裁判所はごった返したそうです。
 
どうしていきなりそうなったのか?
 
退行催眠療法がブームになったから。

中でもジュディス・ハーマンという精神科の医者が、退行催眠療法により「あなたも、あなたも、あなたも、あなたも、子供の頃両親に犯されています。その記憶をすべて思い出さない限り、心の病は治りません!」とやった。

ブームなので、もてはやされたわけで、ある牧師はいい療法があるのなら、自分もそのやり方をやってみたいと調べたそうです。

実際 よくなった人。 0人。

療法を受ける前より精神状態が悪化した人、全員。

家庭崩壊した人、大学を中退しホームレスになってしまった人、自殺した人、そこまでいかない人でも、両親は加害者だと裁判所に訴えた。

《RAPT註:これこそ「前世」など存在しないという確たる証拠です。しかも、療法を受ける前より精神状態が悪化した人は「全員」!! なんなんですか、これは。詐欺以外の何物でもありません。》

国民全員が狂ってしまってはと、法曹界は解決に乗り出した。
 
そして、偽の記憶を作ってしまう恐れのある退行催眠を治療の際にやってはならないと、医者やカウンセラーなどメンタル系の職業の人に行為に法律によって制限を設けた。

その事により、やっと精神的錯乱を生み出していた人たちが行動できなくなり、誘導してクライアントに偽の記憶を作らせることができなくなったので、社会パニックは終息に向かった。
 
本人たちは、それは現実に起こったもので、偽の記憶じゃないし、退行催眠で思い出したものは、真実だと今も言っています。
 
逆に偽の記憶だとする側を攻撃しています。
 
そりゃそうですよね。
 
クライアントがやってこなくなったら、商売上がったりですものね。
 
クライアントは、精神が不安定だと感じており、その弱みにつけこみ、「それはあなたが記憶を抑圧しているからですよ。
 
そういう記憶を無理に閉じ込めて意識に上らせないようにしているのは、すごく嫌な記憶だからです。

そういう人の特徴は、子供の頃両親にレイプされているに決まっているんですよ。
 
あなたも親に犯されているんです。すべて思い出し親に犯されたことを認めなさい!!!」ってやっちゃったんですね。
 
この女史、なんでもかんでも「子供の頃 親に犯されていますね」とよっぽど親に犯されたいという願望が強すぎたのでしょうか。

一応 精神科医ですが、、、狂ってますね。
 
そして、とうとう自分も誰かに攻撃されていると、神経症になってしまって、普通に偶然に起こりうることも、誰かに攻撃されたと受け止め、警察を呼ぶようになった。
 
自分が作り出したもので、他人ばかりではなく自らも害を受けてしまった。
 
今でも日本でこの女史の言うことは正しいという信者は多いようです。
 
精神を病んだ人は、全員子供の頃両親に性的虐待を受けていると捉えるメンタル系の職業の人が日本に多いようです。
 
アメリカで起こったパニックを知らないようです。
 
30年前にアメリカで起こることは、日本ではその30年後に起こる。
 
だから今、スピリチュアルブームになっているんです。
 
30年前のアメリカと同じ道を日本も歩んでおり、30年前に起こったことを報道しないので、メンタル系の職業の人は、その弊害を知らないので、さかんに退行催眠を薦めるわけです。

ビジネスにつながるので。

《RAPT註:美輪明宏、江原啓之、等々をしきりとテレビに登場させ、脚光を浴びさせたのも、何かしら裏で大儲けを企んでいた連中がいたということでしょう。悪いですが、同性愛者という既に人の道から外れた人が、生きる道を説くこと自体、あり得ないことです。》

クライアントは先生、とすがるわけで、先生の言うことしか聞こうとしない。
 
他の助言に耳をふさぎ、自分を治してくれる人を神のように思う。

第三者からすれば、かなり悪化しているとわかる状態なのに、先生と捉える人から離れようとしない。
 
カルト宗教にはまって落ちていく人のようなもの。

アメリカで前世を覚えている人たちのことが書かれた本が出版され、すごいと興味を持った人が、実際 その本に書かれた人に会いに行きました。

ところが、本に書かれている村が実在しなかった。

ですが、そんなすごい人なので、有名だろうと、周りの人に聞いたが、

「前世の記憶を持つ人?そんな人、ここらじゃ聞いたことない」と誰も知らなかった。
 
アメリカでは超有名人だが、実際現地の人にとっては無名。
 
いや、実在しませんでした。

つまりノンフィクションではなくフィクション。
 
本に書いた人に「一体どういうことですか。あなたはホントに本人に会って本を書いたのですか」と聞いたところ、

他人からそういう話を聞いたものを、あたかも自分が本人と話しをして聞いたように書いたとのことでした。

《RAPT註:とか何とか言って、なんとかごまかしたわけでしょうね。》

その他人から聞いた話も、また他人から聞いた話で、辿れば、実在の人物にいきつくか?

エイリアンに誘拐されたという人を辿っていけば、エイリアンに会えるか?

ある人はエイリアンに誘拐され実験されたなどと嘘っぱちだと思っていた。

 その人に突如、エイリアンがやってきて誘拐して実験をした。

と、本人が記憶を蘇らせた。

全く信じなかった人だったが、恐ろしい体験だったので、記憶を閉じ込めてしまったのか?

その人に教授は「そしてエイリアンはこんなことをあなたにしたんですよね。次がこうですよね」と言うと、

本人、ぽかんとして「どうして知っているんですか!?」と聞いた。

「だってそれ私があなたに催眠をかけて塗りこんだ私が作ったストーリーだから。あなたはエイリアンに誘拐されてなどいません。催眠をかけているとき、私が催眠による誘拐されたという偽の話をしたんです。」

「私は催眠などかかっていません」
 
「催眠にかかった人は皆さんそういいます。ですが実際はかかっているんです。ビデオを見せましょう」

と催眠をかけているところ、催眠中に偽のエイリアンに誘拐された話を聞かせているところ、催眠から解いているところ、と映像を見せても、

本人ぽかーん。

催眠にかけられたという記憶が無い。

これが、カウンセリングの最中にも起こったわけです。
 
カウンセリングをする側の誘導で、偽の記憶を作り出した。
 
カウンセラーが好む性的虐待の記憶を自ら作り出し、神と崇める先生に気に入られようと、性的虐待のストーリーを作り出した。
 
カウンセラーに気に入られるために、それを真実の記憶と塗り替えた。
 
前世記憶の本、いくつかありますが、それが真実か検証された例も知っています。

何百年も前にイギリス方面の地方で話されていた言葉を、突如喋り出した人。

この人の前世は、その地方の人だったのか?
 
いいえ、何百年も前に話されなくなった言葉ではなく、現代の人も使っています。

そして、その昔の言葉を喋る人は子供の頃、そのイギリスの地方からやってきた住民と親しく、よくその家を訪れていたことも突き止めた。

ええ、そのイギリスからやってきた人は、現代の言葉として使っているわけで、何百年前の言葉じゃないんですね。

催眠下では、夢の中で自分の意思とは違う夢を見るように、子供の頃聞いた言葉を思い出して喋ってもおかしくない。

ちょっと変わった言葉だ。昔の言葉だと子供の頃に思っていたら、過去に戻るための催眠だといわれたら、当然、昔の言葉となれば、その子供の頃、古い言葉だと思った言葉が蘇ってもおかしくもなんとも無い。
 
上品な女性が、退行催眠をかけると、南部訛の男の言葉使いになってしまった。
 
というのも、上品であるべきだという脅迫観念から催眠により制限がゆるくなると「べらんめ ちくしょー」と今まで言ってみたかった荒い言葉を使ってみたくなるんじゃないでしょうか。
 
酒を飲むと、荒くなる人もいるように、社会的抑圧により上品な人格を演じていた人ほど、実際自分が望む生き方ができず、精神的に苦しい思いをするのではないかと。
 
それが、催眠をかけられ「自由に思いついたことを言っていいんですよ」となれば、「てやんでー」と言ってみたかった言葉を言うんじゃないか、と。
 
前世男だったからじゃあない。と思えます。

さて、中には胎児の頃の記憶があるという人もいる。
 
胎児の頃は、まだ記憶を保存する器官ができておりません。
 
おぎゃーと生まれてた時も、まだできておりません。
 
唯一耳だけは成人に近いレベルですが、そのほかの器官は何年もたたないとできあがらない。
 
記憶を保存する器官が無いのに、どうやって胎児の頃の記憶、そして言葉をまだ習得していないのに、母親がどういう歌を歌っていたとか、どういう言葉を腹の中にいる自分に言ったとかなるのでしょうか?
 
それは何年もたって、記憶する器官が出来上がったとき以降に聞いた歌であり言葉だからだと思えます。
 
それを胎児の時に聞いたと、記憶を塗り替えてしまっている。

《RAPT註:子供の魂が自ら親を選んで胎の中に入っていく、などという話もよく聞きますが、それもすべて嘘ということですね。やはり前世はないということです。》

(転載ここまで)

ということで、これだけ読めば、「前世」なんて存在しないということがはっきりとお分かりいただけたと思います。
 
はっきりと言いますが、人間の運命なんて生まれたときから決まっているわけではありません。カルマがどうこうとか、前世の因縁がどうこうとか、そんなことのためにあなたの人生が悪くなるわけではありません。
 
はっきり言って、人生、生きていれば良いことも悪いこともあります。というか、悪いことの方が多いんじゃないでしょうか。
 
なぜなら、この世の中は悪魔が支配しているわけですからね。
 
そんな中で毎日24時間幸せに楽しく生きる方が無理というものです。
 
なのに、その痛み苦しみに耐えられず、安易にお金でその問題を解決しようとなどするから、悪魔に付け込まれてしまうのです。
 
しかも、単にお金を奪い取られるだけでなく、精神や人生そのものまで完全に破壊されてしまうわけですから、ひとたまりもありません。

私はかつて「向精神薬」が精神病を治すどころか、むしろ悪化させるだけという記事を書いたことがありますが、この「前世療法」もそれに似たような、いえ、それを遙かに超える悪質な商売だと感じました。

とにかく「前世」は存在しません。「輪廻転生」もありません。これがこの世の真実です。

ですから、あなたは自分の人生や心の問題を、霊能者や占い師、療法士などに法外なお金を出して解決してもらう必要がありません。
 
私もこれまで数え切れないぐらいの艱難・苦難に見舞われ、何度も絶望の淵をさまよってきましたが、結局、お金ではなく、すべてを祈りと聖書の言葉で解決してきました。
 
その上、神様はこうしてこの世のカラクリまで私に全て教えてくださいました。

法外なお金を出しても、こんなことは絶対に成し得なかったでしょう。
 
むしろ、お金の力なんかに頼らずに、神様だけに頼ったので、ここまでできたと思っています。

結局、「前世」を信じたところで何もいいことはないし、むしろ余計な苦悩だけが増えてしまうということです。現世の生活を生きるだけでも大変なのに、「前世」のことにまで悩みたくはありませんよね。

しかも、存在しない「前世」のことを。

偶像崇拝を強要し、輪廻転生はあると嘘をついた「釈迦」は、悪魔崇拝者だったのか。

「前世」も「輪廻転生」もないという客観的、かつ確固たる証拠を皆さんにご提示しました。

つまり、「前世」や「輪廻転生」が何の根拠もないデタラメ話であることがはっきりと分かったわけです。

要するに、江原啓之とか美輪明宏といったような人物は「前世」ブームを作って、「前世」利権を生み出し、「前世」でボロ儲けする人たちのために活動していたということです。
 
彼らもまた詐欺師だったということですね。
 
口先ではあれこれと良いことを言って善人ぶり、聖人ぶっていましたが、結局のところ「あなたの前世はこうこう」と嘘をつくわけですから、これほど悪質な詐欺師はいません。

そもそも、美輪明宏のように「同性愛者」という既に人としての道を踏み外したような人が、人の道を説くということ自体、とてもおかしな話です。

「同性愛者」から人生について学んでいけば、学んだ人もいずれ「同性愛者」になってしまう可能性があります。
 
その一方、「聖人」から人生について学べば「聖人」になりますし、少なくともその可能性が高くなります。
 
ですから、私ならもちろん「聖人」から学ぶことを選びます。「同性愛者」なんかには絶対に学びたくもありません。「詐欺師」にもなりたくありませんので、「詐欺師」からも人生を学ぶつもりはありません。
 
ここで問題になってくるのは、果たしてこの世で「聖人」と呼ばれている人たちは皆、本当に「聖人」なのかということです。

「釈迦」は本当に「聖人」なのかということです。

しかし、釈迦の説いた「輪廻転生」が嘘だったということがはっきりと分かりました。

となると、彼は世紀の大嘘つきということになります。彼のせいでどれほど多くの人たちが「輪廻転生」を信じてきたか分かりませんから。
 
そして、嘘つきは決して「聖人」とは呼べません。むしろ「悪魔」と呼ぶべきです。
 
しかも、「釈迦」が生きていた当時、釈迦の生まれたインドではバラモン教(ヒンズー教)が流行していて、そのヒンズー教から「輪廻転生」の要素を仏教に取り入れたと言われています。
 
ヒンズー教は言わずと知れた悪魔教です。

その悪魔教の要素を自らの教えの中に取り入れたということは、「釈迦」もまた悪魔崇拝者だったのではないかという疑いが出てきてしまいます。

しかも、「仏教」と「偶像崇拝」は切っても切れない関係にあり、この「偶像崇拝」もまた悪魔崇拝そのものと言っても過言ではない行為です。これについてはこのブログで何度も書いてきましたね。

「聖書」でははっきりと「偶像礼拝」が禁じられているのに、バチカンでは正々堂々とイエスやマリアの偶像が飾られ、それを拝むようになっています。
 
これがなぜかといえば、バチカンにいるキリスト教徒たちは本物のクリスチャンではなく、悪魔崇拝者だからです。
 
このように悪魔崇拝者は、神様の禁じた「偶像崇拝」をわざと一般のクリスチャンに行わせることで、神様を冒涜するように仕向けてきたわけです。

このような悪魔教的な要素の強い「偶像崇拝」が「仏教」では当然のように行われているわけですから、この時点でもう既に「仏教」は悪魔教であると考えていいかも知れません。

その上、さらに「釈迦」の唱えていた「輪廻転生」まで嘘だったと分かったわけですから、もはや「釈迦」が悪魔崇拝者であったという疑いは強くなるばかりです。
 
ということで、今日は「釈迦」が悪魔崇拝者であると疑わざるを得ない理由を箇条書きにまとめることにしました。

1. 仏教は「偶像崇拝」を前提としている。

これについては、もう説明は不要でしょう。

2. 仏教には「釈迦」の書いた教典が存在しない。

「釈迦」は自分でも仏典を書き残さず、弟子たちにも書き残すことを許しませんでした。現在、残されている仏典はすべて、「釈迦」の死後、弟子たちが勝手に編纂したものです。

(以下、ウィキペディアより転載)

仏教の経典は、釈迦時代は釈迦が文書化を許さなかったため暗記によって保持されたと伝えられる。
 
この時代のインドでは、文字はすでに普及していたが、その使用は商用や法規の公布などに限られ、世俗の用件に用いるものではなかった。
 
ことに、書くことで自分を離れるから、聖典に対する敬虔さを失うと考えられて、文字に記すのではなく、体で覚えたわけである。
 
仏典が組織的に編まれたのは、釈迦の入滅後間もない時期である。
 
釈迦の入滅時に一人の比丘が「もう師からとやかくいわれることもなくなった」と放言したことがきっかけで、これを聞いた摩訶迦葉が、釈迦の教説(法と律)を正しく記録することの大切さを仲間の比丘たちに訴え、聖典を編纂した。

(転載ここまで)

本当に尊い教えを説き、その教えによって人々を救うことができると考えていたなら、「釈迦」もきちんと自分の教えを記録するなり、人に記録させるなりして、それを後世に残そうと考えるのが普通ではないでしょうか。
 
なのに、それをしなかったばかりか、それを禁じたわけです。しかも、「書くことで自分を離れるから、聖典に対する敬虔さを失う」というのも、「聖人」らしからぬ客観性、理論性に欠けた妄言にしか思えません。
 
皆さんも日頃から重要な情報はネットで拡散しようとされていると思います。
 
重要な情報は広めなければならない、多くの人々に知らしめなければならないと考えているからです。そして、そう考えるのが普通です。
 
あるいは、自分が本当にいいと思ったものは人にどんどん教えたくなりますよね。

そうやって良いものを人に伝えれば、多くの人を幸せにすることができるからです。そして、実際にそうすることができれば、自分も嬉しいですよね。
 
ところが、「釈迦」が自分の教えを広めようとするどころか、それを隠そうとしたわけです。私はここに疑問符を打たざるを得ません。
 
これはもはや世界最大の悪魔教である「ミトラ教」と同じです。「ミトラ教」にも正式な教典というものが存在していません。
 
いえ。もしかしたら本当はその「教典」がどこかに存在しているのかも知れませんが、少なくとも公には公表されていません。
 
恐らく「悪魔崇拝」の秘儀(淫乱邪悪な秘儀)がこれでもかと言わんばかりに書かれてあるので、とても我々庶民の目に触れさせるわけにはいかないのでしょう。

釈迦も自分の教えをきちんと書き残そうとしなかったのは、釈迦の教えの中に、人に知られてはマズイようなことがあったからではないかと疑わざるを得ないのです。

もしや「釈迦」も、「密教」を説いた空海と同じく、表向きは良い教えを説いていながら、陰では「余りにも奥深い」淫乱邪悪な教えを説いて実践していたため、その証拠を残さないように、弟子たちに自分の教えを文書化することを禁じていたのではないでしょうか。

「釈迦」のその裏の顔を知らない弟子たちが、「釈迦」の説いた良い教えを教典としてまとめた……ということかも知れません。
 
しかし、その弟子たちは「偶像崇拝」がまさか悪魔の教えであるとは分からなかったので、「偶像崇拝」の教えも正々堂々と書いて残してしまったというわけです。
 
まあ、あり得なくもない話ですね。

3.「釈迦」の説いた「輪廻転生」は嘘だった。

「釈迦」の説いた「輪廻転生」は嘘でした。となると、「釈迦」は大嘘つきだったということになり、それだけで「聖人」としては失格です。
 
「聖人」は「嘘」をついてはいけません。「嘘」をついたら「聖人」とは言えません。
 
あるいは「釈迦」は、「輪廻転生」があるのかないのかよく分からず、単にあるかも知れないと思って適当に「輪廻転生」を説いたのでしょうか。
 
だとしたら、それもそれで「聖人」としては失格ですね。
 
「聖人」とは、人に生きる道を説く人のことを言います。適当に人の生きる道を教えて、人を道に迷わせるようなことをしてはいけません。それでは、その辺のカルトと全く同じです。
 
もっとも、一部の僧侶や学者たちの間では、「釈迦」は「輪廻転生」を説いていなかったとの見解を述べている人もいるようです。

(以下、ウィキペディアより転載)
 
一方、現代の仏教者、僧侶、仏教研究者の中には、「釈迦は輪廻説を前提としておらず、インドに古代から信じられて半ば常識化していた輪廻を直接的に否定することをせず、方便として是認したに過ぎない」と主張する者も少なくない。
 
輪廻転生を理論的基盤として取り込んだインド社会のカースト差別に反発してインドにおける仏教復興を主導したビームラーオ・アンベードカルは、独自のパーリ仏典研究の結果、「ブッダは輪廻転生を否定した」という見解を得た。
 
この解釈はアンベードカルの死後、インド新仏教の指導者となった佐々井秀嶺にも受け継がれている。このように輪廻否定を積極的に主張する仏教徒グループを、断見派と呼ぶ。

(転載ここまで)

しかし、「輪廻転生」を「方便として是認したに過ぎない」というのも、それはそれで大きな問題ですね。
 
「聖人」が「方便」など使ってはいけません。「方便」を使うような人を「聖人」として認めてはいけません。
 
もっとも、この「断見派」の説はあくまで一部の例外的な考え方のようですので、「釈迦」が「輪廻転生」を唱えていなかったということはないのではないでしょうか。
 
ということは、やはり「釈迦」は大嘘つきだったということなり、「釈迦」は「聖人」として失格ということになります。
 
それに何より、この「輪廻転生」の概念は、インドのカースト制などの「差別」を生んでいるという確固たる現実があります。
 
これだけでも「輪廻転生」という概念が悪魔的であると考えざるを得ません。こんな記事を紹介して下さった方がいました。

(以下、こちらから転載)
 
私たちは、自分が気をつけていても大変なことが人生で起こってきます。それをカルマと説明されて納得できますか。
 
この考え方は極端にいくと、差別を生みます。
 
インドではこの前世についての考え方に基づいて、カースト制度が生まれました。
 
生まれながらに貧乏だったり、障がいを抱えている人は、「カルマ」があるからと説明して差別をするのです。徹底的に。
 
インドでは多くの貧しい人たちが見捨てられてきました。
 
世界で最も貧しい人たちが集まる場所のひとつのインドのスラム街があげられるのは、このカースト制度に基づく差別に起因しているといわれています。
 
前世という考え方は極論すると、世界にこのような悪影響を与えてしまうこともあるということを覚えていてください。

(転載ここまで)

4.「仏教」で唱える「お経」がどんな徳につながるのか理解不能。

これまでこのことに言及した人は余りいなかったかも知れません。

しかし、この際だからはっきりと言いますが、例え「お経」の中にどんな深い意味が込められていたとしても、それを何度も繰り返し暗唱することに何の意味があり、何の徳があるというのでしょうか。
 
そんなことをして、私たちに一体どんな人間的成長をもたらしてくれるというのでしょうか。
 
大の大人がこんなことを毎日やったところで、一体、どんな成長、発展があるというのでしょうか。

一方、「キリスト教」の場合、「お経」のようなものは一切存在しません。一応、イエスはこう「祈りなさい」とは教えました(マタイによる福音書6章9〜13節など)が、それを繰り返し暗唱しなさいと言ったわけではありません。

ですから、ある意味、どう祈るかは個人の自由です。どんな言葉で、どんな表現で、どんなことを祈るのかは基本的に自由です。
 
逆にそうでなければ、色々と困った問題が発生します。
 
なぜなら、聖書を読んで多くのことを悟れば悟るほど、自分の考えがどんどん深くなっていきますので、その祈りの内容も自ずと深くなっていきます。
 
それなのに、毎日同じことばかり祈るよう強要されるなら、わざと成長を止められてしまうようなものです。

また、人が一日一日生きていく中で、色々な事件や問題が起きます。ですから、我々はそれを全て神様に告げて、解決してもらわなければなりません。
 
それなのに、神様と対面した際、そういったことは何一つ告げることが許されず、ただいつもと同じ呪文ばかり唱えなければならないのなら、一体、その行為にどんな意味があるでしょうか。
 
人は自分の悩みを他人に打ち明けるだけでもすっきりとし、安心します。

まして、人が全知全能の神様に自分の問題を告げるならもっとすっきりとし、安心します。しかも、神様はその問題をいずれきちんと解決してくださいます。
 
ところが、仏教ではそんなことすらもできないわけですね。
 
また、神様に感謝したり、神様ご自身が望むことをお祈りして、神様の心を喜ばせるということも、キリスト教ではとても大事なことです。
 
要するに「祈り」とは神様との対話なのです。
 
対話とは、相手に気遣いつつ、相手を喜ばせたり、相手を慰めたり、自分の言うべきことを述べたり、自分の思いや気持ちを伝えたり、自分の悩みを告げたり、あるいは相手の悩みを聞いてあげたり……ということです。

神様は私たち人間にそのような対話をいつも求めています。神様は私たちのことを愛しているので、いつも私たちに話しかけてほしいと思っているのです。

ところが、仏教ではこういったことは一切なくて、ただ決まった文章を繰り返し暗唱するだけです。
 
はっきりと言いますが、誰かと対話するときに、どこかに書かれた文章を繰り返し暗唱するような人はいません。もしそんなことをしたら、ただの気違いだと思われてしまいます。
 
ところが、仏教では神様(仏様)に対して、そんな気違い沙汰をしなければならないわけです。
 
これではまるで神様(仏様)のことを人間以下の存在として扱うようなものです。

しかも、こんなことばかりやっていたら、人間の考える能力も低下し、いずれ思考停止状態になってしまいます。
 
現在、学校の勉強も単なる「詰め込み式」をやめるという方向で話が進んでいます。「詰め込み式」の勉強ばかりしていても、考える能力、発想する能力が身につかないからです。

ところが、人を「聖人」に育てるための宗教が、この詰め込み式をやらせるわけですから、私からしてみれば全くの意味不明です。
 
いやいや。「お経」には深い意味が隠されているのだ、その意味を噛みしめながら「お経」を唱えると、新たな悟りが生まれるのだ、と仰る方がいるかも知れません。
 
まあ、そう思うならご自由にそう思って「お経」を唱えていてください。あなたがそうしている間に、私は自分の言葉で神様に祈りますので。

率直に言って、人というのは知能が発達すればするほど、人に決められたことをやるより、自分で何かを発想し、構想し、表現することを楽しむようになります。

そして、そのような人は、人が決めた仕事をするということに極度の苦痛を感じるようになります。

そこには何の発展性もないし、ストレスが溜まるばかりだからです。

ところが、「仏教」はその何の発展性もない、ストレスが溜まるだけのことを要求してくるわけです。

ですから、私には「仏教」がどうしても悪魔的に見えてなりませんし、「釈迦」もまた悪魔崇拝者だったのではないかと疑わざるを得ないのです。
 
もっとも、「釈迦」はお経を唱えなかったという説もあるようですし、その説の方がどうやら有力なようです。もちろん、真偽の程は分かりません。

仏教に詳しい方、教えて下さい。釈迦はお経は唱えなかったんですよね?… – Yahoo!知恵袋
 
一応、私の見解としては、もし「釈迦」が本当に悪魔崇拝者であったならば、「お経」など全く唱えていなかったと思います。で、一般の信者たちには何の徳にもならない「お経」を唱えさせ、人々の時間とエネルギーをムダなところに投資させたということかも知れません。
 
あるいは、「お経」には何かヘンな霊物を呼び寄せる力があって、我々に伝えられている「お経」の意味の他に、もっと別の奥深い意味が隠されているという可能性もなきにしもあらずですね。

ということで、今日は「釈迦」が悪魔崇拝者だったのではないかと疑われる理由についてざっと簡単に述べてみました。

とにかく、このブログではこうして数々の状況証拠が集まってくると、いつも必ず決定的な証拠が見付かります。今までずっとそうでした。
 
「天皇」のことも然り、「プーチン」のことも然り、「小沢一郎」のことも然り、「地下の秘密施設」のことも然り、「UFO」のことも然り、「北朝鮮」や「核兵器」のことも然り……。

なので、いずれ近いうちに「釈迦」が悪魔崇拝者だったという決定的な証拠が見付かるのではないかという気がしないでもありません。
 
というか、いつか必ずその日が来るでしょうね。少なくとも、私はそう信じています。
 
皆さんもぜひ普段からお祈りしてみてください。
 
それだけでも、皆さん自身の人生、ひいてはこの世の中が大きく変わると思います。

やはり「釈迦」は紛れもない悪魔崇拝者でした。その確固たる証拠をお見せします。

いつか必ず「釈迦」を悪魔崇拝者と断定するだけの決定的な証拠が見付かるだろうと予測しましたが、早くもその証拠が見付かりました。
 
いやあ、本当に驚くべきスピードです。今回もまたある読者の方から情報を送っていただきました。本当にありがたいことです。
 
しかも、今回もあっけないほどその答えは単純明快なものでした。
 
とにかく、答えというものはいつも分かってみるととてもシンプル。ときに拍子抜けするほど単純明快です。
 
しかし、悪魔は我々にそのシンプルな答え(真実)を教えたくないので、わざと複雑で難解な話をして我々をずっと惑わしつづけてきたわけです。
 
この「釈迦」に関しても全く同じです。何しろ、仏教というのは、キリスト教と違ってこれといった正式な教典がない。
 
宗派によって別々の教典を使っているし、しかもその教典は「釈迦」本人が書いたものではなく、「釈迦」の弟子たちが書いたものなので、その教典がおかしいからといって「釈迦」までおかしいと断定することができませんでした。
 
例えば「密教」の教典は明らかに悪魔教そのものだということが分かりましたおが、それはあくまで「密教」を広めた「空海」や「最澄」がおかしいのであって、「釈迦」がおかしいわけではないという言い逃れの口実を作ることができました。

悪魔というのはそのようにして「情報」をいくつも分散して、これが間違っていても、あっちは正しいと言いながら、我々が常に誤った情報に振り回されるように仕向けてきたわけです。

しかしながら、仏教の創始者である「釈迦」が悪魔崇拝者だったとなれば、もう何も言い逃れはできません。仏教のどの宗派も間違いなく悪魔に毒されていると考えるべでしょう。

ですから、今まで仏教を信じていた人は、今日から即刻、仏壇を拝むのはやめた方がいいです。

ましてお経を唱えていた人は、絶対にもう二度とお経は唱えない方がいいでしょう。お経を唱えれば、間違いなく悪魔がやってきます。

「サナト・クマーラ」は紛れもない悪魔です。私は「サナト・クマーラ」は悪魔の頭であるルシファーではないかという疑いさえ抱きました。
 
しかし、この「サナト・クマーラ」はどうやらルシファーではなさそうです。というのも、この「サナト・クマーラ」は悪魔のトップではなさそうだからです。彼の上にはさらに別の悪魔が存在していたのです。
 
では、それが何者なのかというと、「ブラフマー」と呼ばれる悪魔だそうです。

(以下、ウィキペディアより転載)
 
サナット・クマラ、サナト・クマラ(Sanat Kumāra)は、ヒンドゥー教の神話・説話に登場する賢人にして、ブラフマーの精神から生まれた四人のクマーラ(チャトゥルサナ)の一人である。
 
(転載ここまで)

〈ブラフマー〉

見ての通り、「サナト・クマーラ」は「ブラフマー」から生まれたとのこと。ですから、「ブラフマー」の方が「サナト・クマーラ」よりも格上ということになります。
 
では、この「ブラフマー」とはどんな存在なのか。ウィキペディアから見てみましょう。

(以下、ウィキペディアより転載)
 
ブラフマー(Brahmā, 梵: ब्रह्मा )は、インド神話、ヒンドゥー教の神。仏教名「梵天」
 
三神一体論(トリムルティ)では、三最高神の一人で、世界の創造と次の破壊の後の再創造を担当している。 ヒンドゥー教の教典にのっとって苦行を行ったものにはブラフマーが恩恵を与える。
 
4つのヴェーダを象徴する4つの顔と4本の腕を持ち、水鳥ハンサに乗った赤い肌の男性(多くの場合老人)の姿で表される。手にはそれぞれ「数珠」、「聖典ヴェーダ」、「小壷」、「笏(しゃく)」を持つ。 配偶神は知恵と学問の女神サラスヴァティー(弁才天)である。
 
(転載ここまで)

いまいちよく分かりませんが、「4つの顔と4本の腕を持ち、水鳥ハンサに乗った赤い肌の男性」というのですから、言ってみれば、化け物みたいなものですね。悪魔らしい奇怪な姿をしているとも言えます。
 
しかも、この「サナト・クマーラ」には仏教名までちゃんとあるそうで、その名も「梵天」。

〈梵天〉

ヒンズー教の神様なのに、仏教の神様でもある……ここからしてもう既に怪しいですね。悪魔の匂いがプンプンしますね。
 
しかし、問題はこの後です。このウィキペディアの記事には、その後、このようなことも書かれてありました。

(以下、ウィキペディアより転載)
 
経典の説くところでは、釈迦牟尼仏が悟りを開いた時に、その悟りを人々に語るように説得したのが梵天であり、この事を梵天勧請と呼ぶ。
 
後に梵天は釈迦牟尼に帰依し仏法の守護神となる。
 
(転載ここまで)

なんと。悪魔であるはずの「梵天」が「釈迦」に自らの悟りを人々に伝えるように説得したとのこと。しかも、この「梵天」がなぜか「釈迦」に帰依して、仏教の「守護神」となったそうです。
 
「悪魔」が仏教の「守護神」になってしまったというのです。これはちょっとマズイですね。
 
まさかそんなはずがない。もしかしたらこの話は、一部の仏教徒の間でのみ広まっている話ではないか。
 
私も思わずそう疑ってしまったのですが、どうもこの話、仏教徒の間でしごく一般的に広まっている説話のようです。以下のような記事がありました。

(以下、こちらから転載)
 
ゴータマ・ブッダの初転法輪(最初の説法)には梵天が関わったと伝えられている。 
 
ブッダが最初に説法をしたのは開悟して実に5週間後であった。 彼はその間菩提樹などの樹下にいたのである。
 
開悟の後最初の一週間彼は菩提樹下で解脱の喜びと楽しみをかみしめながら座禅していた。
 
第2週目にはアジャパーラ榕樹(バンヤン)の下に移り7日間を過ごした。
 
第3週目にはムチャリンダ樹の下で7日間を過ごした。その時大雲が起こり7日間雨が降り寒風が吹いた。
 
第4週目には ラージャヤータナ樹の下で7日間を過ごした。
 
第5週目には アジャパーラ榕樹の下に移った。 この時、梵天勧請という現象(奇跡)が起こったと伝えられる。

即ち梵天(ブラフマー神)が出てきてこのまま静観したまま死のうとするブッダに三度も生きて説法をしてくれるよう懇願したというのである。
 
梵天(ブラフマー神)の三度にわたる熱心な懇願によって、ブッダはようやく説法を始める気になったというのである。

 
梵天(ブラフマー神)とは宇宙の創造神であり、ヴェーダ時代のインドの最高神である。 <梵天勧請>説話を記した原始仏典もある(「説法の要請」相応部経典6・1・1)。
 
この物語は大乗仏教でブッダが神格化される前に既にブッダを神格化しようとする動きがあったことを示唆している。

その経典にはブッダの悟りと説法躊躇の理由が簡潔に述べられているので興味深い。 経典の述べていることを見よう。

「わたしの悟り得たこの法は深遠で、理解しがたく、さとりがたい。 静寂であり、卓越していて思考の領域を越える。 微妙であって、ただ賢者のみよくそれを知ることができる。
 
ところが、世の人々は五つの感覚器官の対象を楽しみとし、それらを悦び、それらに気持ちを高ぶらせている。
 
それらを楽しみとし、それらを悦び、それらに気持ちを高ぶらせている人々にとって、実にこの道理、即ちこれを条件としてかれがあるという縁起の道理は理解しがたい。
 
また、すべての存在の静まること、すべての執着を捨てること、渇欲をなくすこと、欲情を離れること、煩悩の消滅すること、それが即ち涅槃であるというこの道理も理解しがたい。

もしわたしが法を説いたとしても、他の人々がわたしを理解してくれなかったらそれはわたしにとって疲労であるだけだ。 それはわたしにとって苦悩であるだけだ、と。

わたしが苦労して悟り得たものを、いま人に説いて何の得るところがあろうか。貪欲と憎悪とにうち負かされた人々にとって、この法をさとるのは容易ではない。

常識の流れに逆らい、精妙で、深遠で、理解しがたい。微妙なこの法を、貪欲に汚され、幾重にも無知の闇におおわれている人々はみることがない。」

ブッダはこのように考え、人々に説法はしないでそのまま涅槃に入る(死ぬ)か、このまま静観しようとした。
 
その時宇宙の最高神である梵天(ブラフマー神)が現れブッダにあなたがこのまま説法をしないでいると世界は闇になる。
 
世の中には優れた能力を持った人もいるからどうか説法を開始して下さいと懇願する。
 
ブッダはこの梵天の熱心な懇願を三度も受けて説法を開始する気になった、と言うのが梵天勧請説話である。
 
このドラマチックな梵天勧請説話は仏教徒に一般的に信じられている。
 
しかし、「三明経」という原始仏典ではブッダは梵天(ブラフマー神)の存在と信仰を明快に否定している。 この方がその後のブッダの一貫した思想と矛盾しない。
 
(転載ここまで)

この説話は「仏教徒に一般的に信じられている。」とのこと。

つまり、仏教徒の間ではこの話が定説として広く認められ、信じられているというわけです。
 
とはいえ、そのすぐ後に「『三明経』という原始仏典ではブッダは梵天(ブラフマー神)の存在と信仰を明快に否定している」とあります。
 
一部の仏教徒の間では「釈迦」と「梵天」とは無関係であると言われているわけですね。
 
なので、この「三明経」についてざっと調べてみたのですが、どうやらこの記事を書いた人はとんでもない勘違いをしているようです。
 
「三明経」においても釈迦は「梵天」の存在と信仰を明快に否定していません。むしろその逆で、「三明経」でも釈迦は「梵天」のことを神として扱っています。
 
以下、「三明経」のウィキペディアの記事です。

(以下、ウィキペディアより転載)
 
ある時、釈迦は500人の比丘と共にコーサラ国のマナサーカタに赴き、アチラヴァティー川に差し掛かった。
 
そこでは、バラモンであるポッカラサーティの弟子ヴァーセッタと、同じくバラモンであるタールッカの弟子バーラドヴァージャが、互いの師の梵行の優越性について口論していた。

決着がつかない2人は、釈迦に2人の師のどちらの梵行を行えば梵天へと至れるのか問う。
 
釈迦は、2人の師、ひいては「三明」(三ヴェーダ)に通じているとされる歴代のバラモン達の中で、存命中に梵天に至ったことがある者がいるのか問う。2人は否定する。

釈迦は存命中に梵天に至れない者は、死後に梵天に至ることもないと述べる。
 
そして梵天へと至る梵行として、十善戒、六根清浄、正念正智、三衣一鉢による満足、五蓋の除去(五禅支の生成)、四禅について述べ、これによって、色界までの有頂天である色究竟天へと至れると述べる。
 
2人は法悦し、三宝への帰依を誓う。
 
(転載ここまで)

このように「三明経」の中でも、釈迦は「梵天」のことを神として扱い、「梵天」に至ることを教え諭しています。

つまり、「釈迦」が「悪魔」と一つになるように説教したわけです。しかも、バラモン教という悪魔教を信じる信徒たちに。なんとも恐ろしいことです。(バラモン教とは古代ヒンズー教のこと。ヒンズー教が悪魔教であることは今まで何度も話してきました。)
 
バラモン教–Wikipedia

そのため仏教徒たちは、今でも仏像に向かって必死で「偶像崇拝」をして、さんざん神様を冒涜して「悪魔」を喜ばせなければならないわけでしょう。
 
この世の楽しみは全て捨てて、苦行をして、この世の中で地獄のような人生を生きて、あの世でも地獄に行け、というわけです。
 
これではその辺のカルトと同じですね。一見、とても良いことを説いておきながら、その実、最後に待っているのは地獄の生活と、地獄のあの世というわけですから。

やっぱり釈迦は「悪魔」の申し子だったようです。

私は、こんな疑いも記事に書きました。
 
「お経」には何かヘンな霊物を呼び寄せる力があって、我々に伝えられている「お経」の意味の他に、もっと別の奥深い意味が隠されているという可能性もなきにしもあらずですね……と。
 
どうやらこの疑いもあながち間違いではなかったようです。

次回の記事を読めば、この日本に住まう神々がみんな悪魔だったということが、さらにはっきりとお分かりいただけると思います。
 
あと、私が「聖書」を読むように奨めているのを見て、「聖書」を読んでも本当に大丈夫なのか、「聖書」も悪魔に改ざんされているのではないかと質問をしてくる人がよくいます。

「テレビ」や「アニメ」や「映画」のように悪魔に毒されている分かっているものを普段から平気で見ていながら、「聖書」だけは読むのにビクビクするというのは、相当、悪魔に洗脳されているとしか言いようがありませんね。

そんなに悪魔に洗脳されるのが怖いのなら、まずは「テレビ」や「アニメ」や「映画」を見るのを先にやめるべきでしょう。

それに、もし「聖書」が悪魔に改ざんされているのなら、どうして「聖書」を読んだ私がこんなに次々と悪魔の正体を暴くことができるのでしょうか。
 
私が「悪魔」から遣わされた工作員で、単に「悪魔」の正体を暴いている振りをしているだけ、と思う人はどうぞご自由にそう思っていて下さい。

そんな知能レベルしかない人はこちらも相手にしたくはありませんので。
 
そして、その人はその低い知能レベルによって本当に大切なことを見逃してしまうことになるでしょう。
 
私の言葉を信じて「聖書」を読んだ人は、これからの余生を幸せに送れるはずですし、もう既にそのような人がこのブログの読者の中から次々と現れていますね。
 
それについてはここ数日のコメント欄をご覧いただけばすぐに分かることですし、コメントを書いた人以外にも、聖書を読んで楽になった、不安がなくなった、涙が出た、感動した、とのメールを送ってくださる方が続出しています。
 
もっとも、信じるか信じないかはあなた次第ですけれども……。

仏教の「お経」や「真言」が悪魔を召喚するための呪文であり、仏教が悪魔教であるという確たる証拠。

要するに、「釈迦」はブラフマー(梵天)という悪魔から指示されて悟りを伝えはじめたというわけで、しかもこのブラフマーはその後、なぜか「釈迦」の守護神にまでなったとのこと。
 
「悪魔」を守護神とする人物がまさか「聖人」であるわけがありません。
 
なので、「釈迦」は紛れもなく悪魔に遣わされた人物、つまり悪魔崇拝者であると断定せざるを得ません。
 
では、この「ブラフマー」とは何者なのかというと、「サナト・クマーラ」という悪魔の生みの親です。
 
この「サナト・クマーラ」はヒンズー教などに登場する神様です。

ヒンズー教は言わずと知れた悪魔教ですので、悪魔教の神が本物の神であるわけがなく、この「サナト・クマーラ」は間違いなく悪魔です。

この「サナト・クマーラ」が悪魔である以上、その生みの親である「ブラフマー」も悪魔に違いないわけですが、この「ブラフマー」に守護された「釈迦」のことを、日本人はずっと「聖人」として崇めてきたわけですね。
 
その一方で、私がちょっとブログに「キリスト」のことを書いたり「聖書」を推薦したりしただけで、この国では悪口やら中傷などのメールが殺到します。
 
要するに、悪魔たちとしては「本物の神様を日本人に教えるな。日本人にはこのまま悪魔を信じさせておけ」と言いたいわけです。

しかも、日本に「聖書」が広く普及して、多くの日本人が「聖書」を読むようになれば、私のように「天皇」の権威がいかにインチキであるかを知ってしまう人がたくさん出てきてしまいます。

なので、悪魔崇拝者どもは躍起になって日本人をキリスト教以外の宗教に帰依させようとしてきたわけです。(詳しくは以下のリンクをご覧ください。)
 
天皇について触れたとたん、裏社会からの攪乱工作が激しくなってきました。やはりここが彼らにとって一番の急所のようです。
 
しかしながら、この日本でも神道はなかなか普及させにくかった。そのため、神仏習合を行い、仏教を大々的に広めてきたわけでしょう。そうすれば、日本人の多くが「聖書」には見向きもしなくなりますからね。
 
その上さらに、NHKは「行く年来る年」を毎年の大晦日に放送し、国民ぐるみで「偶像崇拝」を行わせ、神様を冒涜させるよう仕向けています。
 
多くの国民が、自分の行いによって神様を怒らせているとも知らず、むしろ新たな一年を無事に迎えられたといって安心し、今年もいい年になるだろうと期待を寄せているわけです。
 
毎年のように初詣に行っても、人生に何の変化もないことなど、もうそろそろ気付いてもよさそうなものですが……。

しかし、問題は初詣だけではありません。

「釈迦」が悪魔崇拝者であると分かった以上、仏教を信じること自体が「悪魔」を拝むことに他なりませんから。

しかも、仏教で唱える「お経」は、まさに悪魔をおびき寄せるための呪文に他ならないことが分かりました。

「お経」と聞くと、私が先ず思い浮かべるのは「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげいぎょう)」です。(私の家の近所に、熱心な創価信者の方がいて、毎日のように大声でこのお経を唱えていました。)

あと、有名なのが「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」ですね。マンガなどでお経を唱えるときには、おおよそみんなこの言葉を唱和します。
 
では、「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」との違いは何なのでしょうか。
 
先ず両方に共通しているのが「南無」という言葉です。これはサンスクリット語で「~に帰依する」という意味だそうです。
 
阿弥陀仏はもちろん「阿弥陀」という「仏様」のことで、「妙法蓮華経」というのは「法華経」のことです。
 
法華経–Wikipedia

なので、これらのお経の意味はそれぞれ「阿弥陀仏」と「法華経」をひたすら信じ、敬うから救ってほしい、ということになります。
 
ネットを調べてみると、「南無は感嘆詞と思えばいい」ともありましたので、「ああ、仏様。法華経」といってすがるような感じなのでしょう。
 
しかし、この「阿弥陀仏」や「法華経」が本物の神様であれば特に問題はないのですが、当然、これらは本物の神様ではありません。悪魔です。
 
先ず「阿弥陀」ですが、これは大乗仏教の如来の一つだそうで、「大乗仏教」といえば「密教」も含まれています。つまり、「密教」の神様でもあるわけですね。
 
大乗仏教–Wikipedia

悪魔教の神が本物の神であるわけがないので、当然、この「阿弥陀」は悪魔ということになります。

なので、「南無阿弥陀仏」と唱えると、「ああ、悪魔よ。あなたを敬います。あなたに帰依します。どうぞお救いください」と呼びかけるのと同じことになります。
 
果たしてあなたはこんな言葉を口にしたいですか。私としては、この言葉をここに書くだけでも気分が悪くなりました。
 
一方の「法華経」ですが、「法華経」には「上行菩薩」という菩薩が登場します。この「上行菩薩」が何者なのかというと、恐ろしいことにかの「サナト・クマーラ」なのです。ウィキペディアにこう書かれてありました。

(以下、ウィキペディアより転載)
 
神智学を日本に紹介した三浦関造はサナト・クマーラと法華経に登場する上行菩薩を同一視している。
 
(転載ここまで)

この「三浦関造」が何者なのか調べてみたところ、ウィキペディアではキリスト教の牧師となっていて、その宗派は「メソジスト派」。
 
三浦関造–Wikipedia

「メソジスト派」といえば、かの悪魔崇拝者ジェイ・ロックフェラーと同じ宗派ですね。
 
しかも、この三浦関造の書いた著書の中には「真理の太陽 綜合ヨガ (竜王文庫 1954年)」とか「聖シャンバラ (竜王文庫 1963年)」とか「マニ光明ヨガ (3版 竜王文庫 1974年7月)」なんてものがあります。

ヨガとかシャンバラにこうもこだわるということは、この人が悪魔崇拝者である可能性大です。つまり本物のクリスチャンではないということです。

まあ、当然といえば当然ですね。この人は「神智学」を日本に紹介したということですし、この「神智学」はまさに「悪魔学」みたいなものですから。
 
その証拠に「神智学協会」を設立した「ヘレナ・P・ブラヴァツキー」はまさに悪魔学の大家と言っても過言ではない人物です。それは以下のウィキペディアの記事を見れば分かります。
 
ヘレナ・P・ブラヴァツキー–Wikipedia

まあ、それはともかく、「法華経」に出てくる「上行菩薩」が「サナト・クマーラ」であり、しかもこの「法華経」ではこの「上行菩薩」を神様のように扱います。
 
なので、「法華経」が悪魔教の教典であることは疑いようがありません。
 
ということは、「南無妙法蓮華経」という言葉の意味もまた、「ああ、悪魔教の教典を敬います。これに帰依します。どうぞお救いください」ということになるわけですね。
 
この「法華経」は「創価学会」や「日蓮正宗」の教典とされているわけですから、「創価学会」や「日蓮正宗」の信者たちはこの言葉の真の意味も知らずに、悪魔を呼び寄せる呪文を毎日のように唱えているわけです。
 
しかも、「創価学会」や「日蓮正宗」では「釈迦」よりも「上行菩薩」のことを格上として扱っているとのこと。
 
上行菩薩が仏(釈迦)より偉いのは何故ですか? - Yahoo!知恵袋

つまり、彼らは「サナト・クマーラ」を神として崇めているということです。
 
もちろん、一般の信者の方たちはこんなことなど知る由もないでしょうが……。本当に恐ろしいことです。
 
はっきりと言いますが、悪魔を何度も呼べば、当然、悪魔はあなたの傍にやってきます。

昔、コックリさんなんてものが流行しましたよね。
 
本当にコックリさんが来たといって驚く人もいました。もちろん、実際に来たと感じなかった人からすれば、こいつは嘘をついているとか、頭がおかしいとか思ったかも知れません。

しかし、私から言わせてもらえば、霊物を呼べば、当然、その霊物はあなたの傍に寄ってきます。別にそれは不思議な現象でも何でもありません。

その一方、「キリスト教」では「神様」とか「主」とか「イエス様」とか「聖霊様」を呼びますので、そうすると、それら三位一体の神様があなたの傍に来て下さいます。

これらの聖なる清い霊が臨めば、あなたの心には清さと平安とが訪れます。喜びや希望も湧いてきます。
 
しかし、「悪魔」が臨めば、逆にあなたの心は苦悩と不安と邪念に満ちていきます。そして、確実に人生が破壊されていきます。

実際、私の実家のすぐ近くにあった二軒の「創価学会」の信者の家は、片方が火事になり、片方は見るも無惨なほど空き家のようなボロボロの有様になっています。
 
創価の上層部だけが大儲けして立派な家に住んでいるというわけですね。もっとも、彼らもいずれは悪魔の餌食になるでしょうが。
 
ですから、「創価学会」はもはや単なるカルトではありません。完全な「悪魔教」です。仏教を装った他の新興宗教もその中身はきっと似たようなものなのでしょう。

あと、「仏教」には「お経」の他にも「真言」というものがあるそうですね。「真言宗」の「真言」です。

「お経」と「真言」の違いが何かというと、「お経」は仏教思想を記したり、喩え話などで例示したりしている文章だとのこと。
 
一方、「真言」(マントラ)は、もともとは仏教以前の古代インドで、バラモン僧が唱えた神聖なまじないの言葉だそうです。

神に呼び掛ける言葉で、唱える声そのものに力があるとされていて、それが仏教、特に密教に取り入れられとのこと。

このウィキペディアの「真言」の記事を見てみると、例えばこんな風に悪魔を呼ぶそうです。
 
真言–Wikipedia

大日如来-オン・バサラ・ダトバン(Om vajra-dhatu vam)オーン。金剛界の主尊よ。ヴァン。

阿弥陀如来-オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン(Om amrta-teje hara hum)オーン。甘露の威光ある尊よ。運載したまえ。フーン。

阿閦如来-オン・アキシュビヤ・ウン(Om aksobhya hum)オーン。阿閦尊よ。フーン。

不空成就如来-オン・アボキャシッデイ・アク (Om amoghasiddhi ah)オーン。不空成就尊よ。アハ。

宝生如来-オン・アラタンナウサンバンバ・タラク (Om ratnasambhava trah)オーン。宝生尊よ。トゥラーハ。

仏教に出てくる如来や仏様の名前は、すべて悪魔の固有名詞と考えて間違いないでしょう。それらを召喚するのが「お経」であり「真言」であるということです。

我々はどんな宗教を信じる際にも、きちんと教理を理解し、教理の意味を分かった上で信じなければなりません。何の説明も聞かないまま、何の根拠も示されていないものにすがりついてはいけません。
 
でなければ、こうして知らず知らずのうちに「悪魔」などを帰依し、召喚することになってしまうのです。そうして、人生が破壊されてしまうことになのです。

もっとも、「仏教」には「キリスト教」のように確固たる一つの教典がないわけですから、それももうほぼ不可能でしょう。悪魔どもが人々を惑わすために、わざと教典を作らず、教義を曖昧なものにしてしまったのです。
 
何度も言いますが、この世には確実に「霊界」が存在し、「神様」も「悪魔」も存在します。
 
「悪魔」を呼べば「悪魔」がやってくるし、「神様」を呼べば「神様」がやってきます。それがこの世の真実です。
 
あなたの友人を呼べば友人がやってきて、恋人を呼べば恋人がやってくるのと同じことです。あなたの友人を呼んでも恋人は来ないし、恋人を呼んでも友人は来ませんよね。
 
果たして「神様」が来るのと「悪魔」が来るのと、どちらがいいでしょうか。選択するのはあなた自身です。

池田大作と上行菩薩と日蓮聖人と法華経とサナト・クマーラと鞍馬山の関係。創価学会が悪魔教であるという歴然たる証拠。

ここ数日に渡って、「仏教」が悪魔教に過ぎないという事実をはっきりと立証してきました。

そもそも、私から言わせてもらえば、仏教の創始者である「釈迦」の書いた教典がなく、教派によって別々の教典を使っていること、しかも信者たちの多くがその教典をほとんど読んでおらず、その意味を把握していないこと。
 
また、教典の中には文語訳のものしかなく、現代人の理解できないものが沢山あること……などからして、それだけでも仏教が大きな欺瞞と危険性を孕んでいるとしか考えられません。
 
宗教とは人生の道しるべです。そして、人間の人生には険しい山や谷が幾つもあります。

にもかかわらず、いざというときにその道しるべを読み取ることができない、はっきりと分からないということになれば、その人はその険しい山や谷の中で迷子になり、永遠に抜け出せない危険性すらあります。

そして実際に、仏教を信じている人にはそういう人が余りにも多い。
 
特に創価学会などのように熱心に仏教を信じている人ほど、人格に問題がある人、精神的に病んでいる人、精神的に歪んでいる人が多いという現実があります。
 
しかも、彼ら自身はそれを全く自覚していません。むしろ、自分たちの方が他人よりも上だと思い込んでいたりもします。
 
私の近所に住んでいる創価信者も、やはり普通ではない言動をとる人が多いです。

また、このブログに嫌がらせコメントを書く創価信者とおぼしき人たちも皆、どこか精神異常を思わせる人たちばかりです。
 
(なぜ嫌がらせコメントを書く人の多くが創価信者であると分かるかというと、創価の批判コメントを書いた人の悪口を言ったり、「日蓮」や「法華経」を意味もなく持ち上げたりするからです。)

彼ら自身はすっかり洗脳されているので、自分の言っていること、やっていることがどれだけ異常で低レベルなのか全く分かっていないうようですが、こちらからすると、彼らの言うことなすこと、全てが異常で低レベルなので、最初から相手にする気にもなりません。
 
なので、創価とおぼしき人のコメントはおおよそ削除することになるのですが、そうすると、「お前は自分にとって都合の悪いコメントは削除するのだな」といって私に悪口を言ってきます。
 
すみませんが、私にとって都合が悪いから削除しているわけではなく、あなたのコメントが異常で低レベルだから削除しているだけなのです。それも分からないぐらい、彼らの頭と精神がおかしくなっているわけです。
 
はっきりと言いますが、この世の中から創価学会が消えてなくなるだけでも、この世の中にはかなり良い変化があるに違いありません。

私は今まで「天皇制の廃止」を皆で一緒に祈りましょうと呼びかけてきましたが、これからは「創価学会の解体」についても皆で一緒に祈りましょうと呼びかけたいと思います。

創価信者たちがお経を唱えるのをやめるだけでも、この世に召喚される悪魔の数が減るでしょうし、悪魔に取り憑かれて奇行を行う人の数も減るでしょうから。
 
創価が崇める「上行菩薩」は「サナト・クマーラ」という悪魔です。
 
つまり、創価学会は「悪魔教」に他ならないわけです。
 
この「サナト・クマーラ」という悪魔は、ほとんどの日本人には余り馴染みがないでしょうが、実はこの「サナト・クマーラ」が「上行菩薩」とか「日蓮聖人」とかに名前を変えて、日本中の多くの人々に信仰されています。
 
悪魔崇拝者である池田大作が「仏教」の仮面をかぶせて「創価学会」という宗教団体を作り、多くの日本人にわざと「悪魔」を拝ませてきたわけですね。

この池田大作(または日蓮)は「法華経」を唱えれば、全てのどんな罪でも許されると言っているようですが、これまた非常に危険な教えであると言わざるを得ません。

今日、創価とおぼしき人からこんなメールが届きました。

…………………

法華経に帰依すれば、見た目がどんな化け物でも、悪魔のような極悪非道な行いをしてきても、過去の行いを悔い改め、改心することができます。
 
大梵天王も改心して、法華経を信仰する者を守護する諸天善神の役割りを持っています。
 
どんな極悪人でも悔い改め、法華経、末法の現在においては日蓮大聖人がはじめて唱えいだされた「南無妙法蓮華経」に帰依すれば、命が綺麗になっていきます。過去の悪い行いの報いは耐えられる程度で受けますけどね。
 
したがって、世界中のどんな人でも救い、善人にすることができます。

…………………

私はこのメールを最初に読んだとき、創価を皮肉るメールが来たのかと思いましたが、このメールは最後まで「法華経」を褒めそやしていました。

「法華経に帰依したら罪が許され、罪が許されたらみんな善人になる」というこの考えがどれほど危険なことか、この人には分からないのでしょうか。だとしたら、本当に気が狂っているとしか言いようがありません。
 
こんな話がまかり通るなら、この世でどんな悪事を働いても、法華経にさえ帰依すれば何でも許される、ということになってしまうからです。
 
それに、罪が許されたからといって、人が「善人」になるわけではありません。
 
その人の心の中から全ての悪が消え去り、善だけがその心に満ちて、現実に善を行うようになって初めて「善人」になったと言えるのです。
 
キリストもまた多くの人々に罪の許しを与えましたが、それと同時に「もう二度と罪を犯すな」と厳しく教えました。せっかく罪を許してあげても、その人がまた同じ罪を犯すなら何の意味もないからです。

例えば、聖書にはこんな場面があります。

新約聖書

ヨハネによる福音書 8ー1

イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。

「先生、この女は姦通しているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せ、とモーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。

しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。

これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。

「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

しかも、人が「善人」になることはそんなに優しいことではありません。むしろ、この世のどんなことよりも難しいことだとさえ言えます。
 
なので、人が「善人」になるためには限りない努力が必要なのですが、そんな努力もしないで、自分の罪はすべて許されたと思って、他人のブログにやってきては嫌がらせコメントを書き、それで自分は良いことをした、善人になった、と言うのであれば、もはやその人は気違いと同じです。

もっとも、彼らの拝んでいる神様は「サナト・クマーラ」という悪魔なのですから、悪魔を拝んでいる以上、彼らが悪魔ような所業を繰り返すのは当然のことと言えるでしょう。
 
そもそも、この「サナト・クマーラ」。
 
今から1850万年前に日本の「鞍馬山」に降り立ったと言われており、この「鞍馬山」には「奥の院魔王殿」と呼ばれる「サナト・クマーラ」を祀った神殿があります。
 
「魔王殿」の「魔王」とは「サナト・クマーラ」のことです。「サナト・クマーラ」は「魔王尊」とか「尊天」などとも呼ばれているそうです。
 
この「魔王尊」について、こんな記事がありました。

(以下、こちらから転載)
 
奥の院魔王殿は、累々たる奇岩の上にある。
 
この岩が水成岩でサンゴやウミユリなどの化石を含んでおり、海底にあったものが2億6000万年前の太古に隆起したことがわかる。
 
そしてこの一帯が実は磐座(いわくら)であり磐境(いわさか)なのである。
 
この磐座に、金星から魔王尊が天下ったというのである。

魔王尊と書くと、悪魔の首領のように誤解されかねないので説明するが、あらゆる魔障を征服し、屈従させて、善魔に転向させる大王だから、「魔王尊」と申し上げるのである。

《RAPT註:いいえ。本当に悪魔の首領だからこそ「魔王尊」と呼ばれているのです。》

つまり、転迷開悟・破邪顕正のお力を授けてくださる守護神と思っていただければよかろう。

 ■魔王尊は地下空洞の支配者でもある。
 
地下空洞には大都会があり、北欧とヒマラヤと南米と日本の4か所に、地表へ通ずる出入り口を持ち、日本の通路は鞍馬山であると言われている。

《RAPT註:この地下空洞がいわゆるシャンバラのことですね。で、鞍馬山にシャンバラに通じる通路があるとのこと。》

魔王尊は、地上に大破壊力と大創造力をふるい、国家の興廃を司る。 意志と勇気と創造と進化の神であり、人類の父である。
 
地球の霊王であり、地球全体の進化を支配する。
 
人類の進化だけではなく、神々や自然霊の進化、そして一切生類の進化をも促す。
 
だから、魔王尊の経綸と協調するものは厚い守護と祝福を受けるが、魔王尊の正義の理念に反するものは破壊されてしまう。
 
魔王尊は、地球の霊王であり、力の象徴である。

「火の霧の子」とも呼ばれ、人類とは違った進化過程を辿る。
 
その姿かたちは人間と同じだが、その身体元素は人間のものと違って、永久に変化しない。
 
食物もとらず、何千年、何万年たっても変化しないのである。
 
永遠に16歳の若さをたもち、人類が遠い未来において水星に移住するとき、人類を誘導してくれるという。

《RAPT註:霊物だからこそ姿形が変化しないわけでしょう。》

■魔王尊は真我を通じて人類を感化する。
 
人間の自我は、魔王尊に直接触れることはできない。
 
しかし熱烈に慕い敬うものには、時がくるとそのお姿を拝ましてくれる。
 
そのときこそは、どのような罪と悲しみに苦しんでいるものでも、たちどころにして善に向かい、人生最大の幸福へと導かれてゆく。

■魔王尊のはっきりしたお姿は誰にも分からない。
 
太古の金星から降臨したまま、16歳の若さをもって地球の霊王として活動しながら、変幻自在さまざまな姿態を現わすからである。
 
以前は長い間極秘のうちに奉修されてきた密教儀式の「五月満月祭」が、昭和29年に公開された。
 
人類を救済するために、釈尊やイエスキリストたちを世に送り出したのは、尊天(地球の霊王である魔王尊)に他ならないと、鞍馬山では確信する。

《RAPT註:釈迦をこの世に送り出したのはブラフマーですし、キリストをこの世に送り出したのは神様ヤハウェなので、この説話が何の根拠もないものであることが分かります。要するに、一部の人たちが勝手にこの「魔王尊」こそ世界を支配する神だと思い込んで、こんな愚にもつかない話をしているわけです。》

そして「五月満月祭」の宵は天界と地上の間の通路が開けるので、この宵を期して魔王尊讃仰の祈りを捧げ、釈尊の生誕と成道と涅槃とを祝いながら、救世主の再現を願う。

それが「五月満月祭」なのである。
 
この夜は全山に万灯をともして満月に聖水を供え、参加者一同は心の灯を高くかかげて大祈願を唱和する。
 
心中の善願の一願のみは必ずかなえられるという「五月満月祭」は、また「ウエサク祭」とも呼ばれ、国際的な神秘の祭典である。
 
緑と自然に恵まれた鞍馬山は、よこしまを許さぬ父の厳しさをもちながら、人間の心を温かく包んでくれる母のふところでもある。
 
ここを訪れて静かに瞑想し深呼吸して、宇宙の大霊である尊天の愛と光と力とを心身の奥深くいただき、明るく正しく生き抜く明日への活力としてくださるよう、心から願っている。
 
(転載ここまで)

あれこれとややこしいことが書かれてありますが、要するにこの「サナト・クマーラ」が大昔に日本の鞍馬山に降り立ち、この世界を支配するようになった、ということですね。
 
しかも、この「サナト・クマーラ」は霊的な存在なので、人間一人一人がそれぞれ瞑想してチャクラを開くなら、どんな場所にいても「サナト・クマーラ」と通じることができると考えられているようです。
 
悪魔崇拝者たちが悪魔崇拝の儀式を行っているのも、チャクラを開いて悪魔と通じるためなのでしょう。ウィキペディアにもこう書かれてあります。
 
(以下、ウィキペディアより転載)
 
サナット・クマラは、モンゴルのゴビ砂漠上空の、エーテル界の上位亜界に、地球のエネルギー・センター(中心)、人間における頭頂チャクラに相応する「シャンバラ」を発生させ、そこに住む。
 
(転載ここまで)

「サナト・クマーラ」が肉体をもった存在だと考えると、このウィキペディアの記事は意味不明ということになりますが、「サナト・クマーラ」が霊的な存在であると考えると、少しは筋が通って見えてきます。
 
人によってはこの「サナト・クマーラ」が悪魔の頭・ルシファーではないかと疑っているようですが、ルシファーであろうとなかろうと、「悪魔」であることには変わりがありません。(私個人としては、現段階では「サナト・クマーラ」のことをルシファーであるとは断定できません。)
 
この「サナト・クマーラ」という名前なのですが、実は「サナト・クマーラ」の英語の綴りは「SANAT KUMARA」となり、この六文字を入れ替えると、「SATAN KURAMA」、すなわち「サタン・鞍馬」となります。
 
完全なアナグラムになっているわけですね。悪魔崇拝者たちはこういった言葉遊びが大好きなのです。

この「サナト・クマーラ」をこの世に広く知らしめたのが「神智学協会」の「ヴラバァツキー夫人」のようですから、恐らく「神智学協会」の中の誰かが、「サナト・クマーラ」という名前を考えついたに違いありません。

つまり、「神智学協会」の人たちは、鞍馬山に降り立った「サナト・クマーラ」が「悪魔」であるということをはっきりと分かっていたわけです。その上で、我々にこの「サナト・クマーラ」を神様だと教え、拝ませてきたわけですね。本当にとてつもない悪人どもです。

しかも、「日蓮聖人」や日蓮宗のお坊さんたちもこの「サナト・クマーラ」を「上行菩薩」という名前に変えて、人々に神様として拝ませてきました。
 
さらには池田大作が、この「サナト・クマーラ」を「釈迦」より格上として扱い、創価信者たちに「サナト・クマーラ」を神様として拝ませ、毎日のようにお経を唱えさせては、この「サナト・クマーラ」を各家庭に召喚させ、人々の人生を粉々に破壊しようとしてきたわけです。
 
そうとも知らず、創価信者の皆さんは未だに池田大作を崇め、日蓮聖人を崇め、上行菩薩を崇め、法華経を崇めているわけですね。なんと哀れな話でしょうか。

彼ら創価信者たちは、自分の人生がうまくいかないのを池田大作のせいにはせず、我々他人のせいにして、いつも他人のブログにやってきては嫌がらせコメントを書いて、憂さ晴らしをしてくるわけです。本当にはた迷惑も良いところです。
 
とにかくどんな宗教を信じるにしても、その宗教の教典を徹底的に読破し、理解しなければなりません。でなければ、自分が何を拝んでいるのかも分からないまま「悪魔」を拝んで、自分の人生を台無しにしてしまうことになりかねません。
 
私は今まで「聖書」を四十回通読し、新約聖書を何百回と読みましたが、そのようにキリスト教の教典を詳しく読むことで、キリスト教の教える神様こそが本物の神様だとはっきりと分かるようになりました。
 
私とて適当に「聖書」の言葉を信じているわけではないのです。
 
その上、私はこの世が悪魔に支配されているということをはっきりと理解し、この世のカラクリをほぼ完全に解明するに至りました。
 
そういう努力もしないで、ただ周りの人がこう言うから、この本にこう書かれてあるからと言って、安易にその辺に転がった宗教を信じるのがいかに愚かで危険な行為でしょうか。

しかも、創価信者たちは自分たちを悪く言う人たちのことを一方的に悪魔と決めつけて、その人たちをやっつけることが善だと信じ込んでいます。
 
そして、そのような悪事を繰り返し行うことで、自分の頭上にさらに激しい神様の怒りを溜め込んでいます。

にもかかわらず、彼ら自身は「法華経」によって全ての自分の罪が許されていると盲信し、後になって途方もなく酷い裁きを受けるハメになるわけです。
 
とにかく、先程も言いましたように、これから私は「天皇制の廃止」を祈ると同時に「創価学会の解体」も本気で祈ります。

しかも、私の祈りは今までほとんど全て叶えられてきましたので、これからもきっと叶えられることでしょう。

こんなことを言うと、創価信者の方たちはきっとお怒りになるでしょうが、創価学会が解体された方がよほど自分のためになるということを分かった方がいいと思います。
 
目の前の現世利益にばかりしがみついていたら、本当に大事なことを見逃すことになりますから。
 
ちなみに、「サナト・クマーラ」が降り立った「鞍馬」は、別名「暗い魔」とも呼ばれているそうです。
 
一体どこまで闇なんでしょうね。
 
こんなことも知らずに(あるいは知った上でのことなのか)、「サナト・クマーラ」の降臨をお祝いする「ウエサク祭」は毎年、大盛況のようです。
 
ウエサク祭 京都鞍馬寺 五月満月祭
 
本当にこの世の改革が必要ですね。

 「天皇派」の中で代々続いた内輪争いは「出雲族」と「大和族」の争いだった可能性大。「サナト・クマーラ」は「出雲族」の神様なのか。

悪名高い「創価学会」が単なるカルトではなく、完全なる「悪魔教」であるという歴然たる証拠を皆さんにお見せしました。

なぜ創価信者たちがこれほどまでこの世で悪さをして多くの人々を困らせてきたのか、その根本的な原因がこれでようやく解けたように思います。
 
彼らは平素から悪魔を拝み、召喚しているため、その心にはいつも悪魔が宿っているわけです。その心の中にいつも悩みと不安と心配と邪念と雑念が溢れているので、憂さ晴らしのために悪さばかりしなければ気が済まないわけですね。
 
ひとたび創価の批判している人を見付ければ、これみよがしに叩き潰そうとするわけです。彼らはそれを正義だと思っているからです。
 
池田大作など、創価幹部からしてみても、平信者たちがそうやって勝手に創価の敵をやっつけてくれるのですから、有り難いことこの上なしでしょう。

しかも創価学会は、天皇の権力を支える下部組織でもあるので、世界の悪の頂点である天皇としても都合がいいわけです。

それだけでなく、本物の「悪魔」からしてみても、自分の敵とするキリスト教を創価信者たちが勝手に叩きつぶしてくれるわけですから、まさに左うちわでしょうね。
 
私が「キリスト」や「聖書」の記事を書くたびに悪口コメントを書いてきたのも、そのほとんどが創価信者の皆さんだったというわけですね。
 
「電通」や「博報堂」に雇われた工作員にしては、なぜかやたらと宗教に詳しいので、ずっと変だなとは思っていたのです。ごく普通の日本人は、そんなに宗教的な知識など持っていませんからね。
 
だから、なぜこの人たちはアンチ・キリストの知識にこんなに精通しているのだろうとずっと不思議に思っていたのですが、これで全ての謎が解けました。

彼らはきっと「仏教」や「法華経」や「日蓮聖人」や「上行菩薩」を正統とし、他のすべての宗教を異端とする宗教書ばかり読まされているわけでしょう。
 
いつしか「サナト・クマーラ」のことを知らず知らずのうちに神として崇め、この日本を「サナト・クマーラ」の国にするお手伝いをしてきたわけです。
 
もちろん、彼ら自身はまさか自分がそんなことをしているとは夢にも思っていないのでしょうが……。
 
ということで、今日もまた「サナト・クマーラ」の話の続きです。
 
この「サナト・クマーラ」は、1850万年前に日本に降臨しただけのことはあって、この日本の根幹の部分にしっかりと食い込んでいます。
 
しかしながら、この「サナト・クマーラ」は日本人に余り馴染みがなかった。日蓮聖人にしても、池田大作にしても、「サナト・クマーラ」の名前を隠しつつ、密かに日本人に拝ませてきたからです。

では、なぜ彼らは密かに「サナト・クマーラ」を拝ませなければならなかったのか。

「サナト・クマーラ」が悪魔だからでしょうか。
 
もちろんそれも一つの理由ではあるでしょう。しかし、どうやらそれだけではなさそうです。
 
実はここに日本史の大きな謎を解くカギがあることが分かってきました。
 
実はこの「サナト・クマーラ」。日本神話に最初に登場する神様「国常立尊」と同一の存在である、とイルミナティ内部では囁かれているようなのです。
 
イルミナティ関係者が言うからには、多分、この話に間違いはないでしょう。

(以下、こちらから転載)
 
このサナート・クマラ様の秘密を打ち明けますと…
 
「クマラ」は「クメラ」、そして、「クメラ」は「スメラ」から来ているのです!!!!?
 
金星からやってきたサナート・クマラ様及び、クマラ族は、万世一系システムにおける真の太陽の一族になるのです。。。

《RAPT註:つまり「天皇家」と深い関わりがあるということです。》

このサナート・クマラ様率いるクマラ族の霊団が、650万年前、この地球へ来たのです。

《RAPT註:1850万年前と言う人もいます。ウィキペディアでは1850万年前となっています。》

そして、そのサナート・クマラ様が地球霊王たる天命を果たすため、地球と人類の進化のサポートをされているのです。

彼らは「光もたらす者」として、この地球へとやってきたのです。

この「光もたらす者」こそ、真のイルミナティ、天孫降臨の正統派イルミナティと言われる者たちなのです。
 
そして、闇の支配者たち、、、それがブラック・イルミナティと言われる者たちなのです。
 
現在、「イルミナティ」は情報操作で正悪混同されてしまっていますが、
 
サナート・クマラ様は、正真正銘、地球と人類のアセンションをサポートするために降臨してきた地球霊王なのです。。。

《RAPT註:高山長房と同じことを言っています。(詳しくはこちら)つまり、彼らは「教皇派」のみを悪として、「天皇派」を正義としているわけです。しかし、実際のところは両方とも悪魔崇拝者です。》

サナート・クマラ様は、よく天狗に喩えられますが、

《RAPT註:鞍馬天狗のことを言っているのでしょう。》

サナート・クマラ様は、次元、役割に応じて、時には、

国常立尊様であり、大天使ルシファー様であり、スサノオ様であり、猿田彦大神様であり、ニギハヤヒ様であり、
 
役行者(役小角)様であり、空海様であり、出口王仁三郎様であり、(レイキの創始者・臼井甕男先生も、サナート・クマラの分御霊だと感じます。クマラ族のメンバーであることは間違いなさそう)、、、、

《RAPT註:問題はここなのです。詳しくは後に譲ります。》

そして今、●●●●氏が、その役割を担っているのです。(これ以上は書けない~笑)

《RAPT註:もしやこの人が裏天皇……ということでしょうかね。》

「金星から来た」というキーワードは、空海とつながり、
 
畏れ多い神様という意味では(情報操作ですが)、国常立尊様、スサノオ様とつながり、
 
大天使ルシファー様は、正統派イルミナティと同様、情報操作によって「堕天使」、「悪魔」のような存在にされていますが、

本当の姿は、全天使のトップでありますが、その力故、「堕天使」として封印されてきたのです。

それはまるで、国常立尊様、スサノオ様と同じですね。。。

《RAPT註:まあ、みんな「悪魔」ですからね。でも、彼らにとってはこの「悪魔」が神様なのです。嫌になりますね。》

先日、節分祭で行った天河大弁財天社(天河と鞍馬は陰陽の関係だそうです)の「鬼の宿」という秘儀がありましたが、
 
そこには、一般的には「悪」とされる「鬼」が居て、天河では「鬼はうち、福はうち」と唱えているよう、「鬼」は「神」とされています。
 
「魔王尊」の「魔」も同様ですね。。。
 
3月17日、鞍馬、そして、18日、世界のレイキマスター(光もたらす者たち)が集結!
 
まるで、クマラ族の霊団が集結するみたい!京都に光の御柱立つ!
 
とても楽しみです~☆

《RAPT註:恐ろしいですね。レイキマスターとかいう人たちが集まってツアーを敢行するみたいですが、参加したとたん悪魔に取り憑かれてしまいそうです。》

(転載ここまで)

日本神話をよく知らない人がこの文章を読んでも、全くのちんぷんかんぷんだろうと思います。
 
しかし、日本神話を少し囓ったことのある人なら、ここに書かれていることにある疑問を抱くと思います。というのも、ここには万世一系の話が出ていながら、なぜか「天照大神」の名前が一つも出ていないからです。
 
しかも、「サナト・クマーラ」と「国常立尊」と「ルシファー」と「スサノオ」と「猿田彦大神」と「ニギハヤヒ」と「空海」と「出口王仁三郎」とが同じ存在であるかのように書かれています。
 
普通に考えれば、こんな話は全くの理解不能です。なぜこれらが全て同じものだと言えるのか、誰にも説明がつけられないからです。
 
しかし、私がここでふと気が付いたのは、この系列はみんな「出雲族」の神様、または人物ではないかということです。
 
「出雲族」のことを知らない方も多いと思いますので、簡単にご説明します。

古代の日本には「大和族」と「出雲族」が住み着いていました。彼らはともにメソポタミアから渡ってきた悪魔崇拝者だったと考えられます。

「大和族」は「天照大神」を神様とし、「出雲族」は「スサノオ」を神様としていました。

彼らはともに縄文人を駆逐しつつ、日本の領土を支配していきました。
 
ところが、「大和族」と「出雲族」の間で激しい争いが起きてしまった。
 
その戦いの末、「大和族」が勝利して「出雲族」を駆逐し、「大和朝廷」を開いた。
 
そのときに「古事記」と「日本書紀」とが書かれて、「天照大神」が日本の神様になったわけです。で、「出雲族」の神様「スサノオ」は日本の神様としての地位を失ってしまったわけですね。
 
この辺のことは諸説紛々としていて、人によって言うことがまちまちですが、私が調べたところでは、この説が最も筋が通っているように思います。

この説の出所は以下のリンク記事です。私はこのリンク記事こそが、天皇家の歴史を最も正確に伝えてくれているのではないかと思います。
 
出雲族と大和族の話(パート1) | 天の王朝 – 楽天ブログ

しかしながら、「出雲族」が戦いに敗れたからと言って、「出雲族」が消えてなくなったというわけではありません。
 
彼らは「大和朝廷」と血縁関係を結び、皇室の中にしっかりと入り込みました。

つまり、同じ天皇家の中に「大和族」と「出雲族」の両方が混じっているわけです。つまり、「天照大神」を神とする人たちと「スサノオ」を神とする人たちが混在しているわけですね。

しかしながら、表向きはあくまで「天照大神」こそがこの日本の神様ということになってしまいました。
 
それを不服とする人たちがこの日本には大勢いて、「空海」や「出口王仁三郞」もその一部だったのでしょう。
 
彼らは密かに「スサノオ」を神として崇め、この日本に「スサノオ」を神として広めてきました。
 
「出口王仁三郎」の「大本教」が天皇によって弾圧されたのも、ここに理由があったのではないでしょうか。(大本教の弾圧事件についての詳細は以下のリンクをご覧下さい。)
 
大本事件–Wikipedia

しかしながら、ここで一つ問題が出てきます。「スサノオ」と「国常立尊」とが同じであるという考えには、やはり若干、無理があるからです。
 
というのも、「スサノオ」は「天照大神」の弟です。
 
一方、「国常立尊」は日本神話に最初に登場した神様です。ウィキペディアにもこう書かれてあります。

(以下、ウィキペディアより転載)
 
■国之常立神(国常立尊)
 
天地開闢の際に出現した神である。『日本書紀』本文では、国常立尊を最初に現れた神としており、「純男(陽気のみを受けて生まれた神で、全く陰気を受けない純粋な男性)」の神であると記している。
 
他の一書においても、最初か2番目に現れた神となっている。
 
『古事記』においては神世七代の最初に現れた神で、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)と対を為し、独神(性別のない神)であり、姿を現さなかったと記される。
 
『記紀』ともに、それ以降の具体的な説話はない。
 
『日本書紀』では最初、『古事記』でも神代七代の最初に現れた神とされることから、始源神、根源神として神道理論家の間で重視されてきた。
 
(転載ここまで)

ですから、「スサノオ」と「国常立尊」が同一であるということは先ず考えられません。
 
それなのに、なぜか一部のイルミナティの人の間では「スサノオ」と「国常立尊」が同一視されているわけです。
 
それは一体なぜなのでしょうか。
 
まあ、その答えは簡単です。
 
「スサノオ」を神として信じる人たちは、「スサノオ」を最高の神としたいのです。だからこそ、「スサノオ」と「国常立尊」とを同一視しているわけです。
 
また、彼らが「スサノオ」と「ルシファー」を同一視しているのも、これと同じ理由でしょうね。何しろ、「ルシファー」は悪魔の頭ですからね。「スサノオ」こそが最高の悪魔であると思いたいわけです。
 
もっとも、彼らは「ルシファー」のことを神様だと思っているので、「スサノオ」こそが最高神であると信じているわけです。
 
ということは、「空海」や「出口王仁三郎」もまた「出雲族」の血筋なのかも知れません。
 
また、「サナト・クマーラ」を神とした池田大作や日蓮聖人も「出雲族」なのかも知れません。

あと、安倍晋三もそうかも知れませんね。彼は「空海」の開いた「高野山」の僧侶、池口恵観に帰依していますから。

〈池口恵観〉

現在の天皇は恐らくは「大和族」なのでしょう。そのため、つい最近、天皇と安倍晋三との間でバチバチと争いが起こって、解散総選挙という運びになったのではないでしょうか。
 
ということは、「出雲族」と「大和族」とはそれぞれ「月派=教皇派」と「太陽派=天皇派」ということになるのか……とも考えたのですが、多分、それは違うのではないかと今の私は見ています。
 
「大和族」も「出雲族」も同じ「太陽派=天皇派」だろうと思います。
 
なぜなら、安倍晋三は「神社本庁」の懇談会の会長を務めるほどのバリバリの「天皇派」ですからね。

つまり、天皇家には「大和族」と「出雲族」の二つの勢力が混在しているということです。
 
天皇派の中でこれまで代々続いてきた争い、例えば南北朝の争いにしろ、源氏と平家の戦いにしろ、日本海軍と陸軍の戦いにしろ、すべては「出雲族」と「大和族」との戦いだったのではないかと考えられるわけです。
 
我々はこの争いばかりに気を取られていたので、それよりも遙かに大規模な争い「天皇派」と「教皇派」の争いになかなか気が付かなかった……ということではないでしょうか。

もっとも、「出雲族」が「大和族」に怒って「教皇派」につく、ということも場合によってはあったかも知れません。

徳川家康が「教皇派」と手を組んだのも、彼が「出雲族」だったからではないでしょうか。

第一、彼は「天皇」から征夷大将軍という称号をもらっています。最初から彼らが敵同士だったなら、天皇もこんな称号を与えることはなかったのではないでしょうか。
 
また、第二次大戦の際に日本軍が敗戦に追い込まれたのも、「出雲族」による裏切りがあったのかも知れません。
 
つまり、「出雲族」が日本軍を無理やりアメリカを攻めさせて、アメリカを第二次大戦に参加させ、日本を敗戦へと追い込んでしまったという可能性が考えられるわけです。
 
(アメリカは日本などの枢軸国に攻撃されるまで、第二次大戦には参戦できないことになっていました。そのアメリカを参戦させて、日本を敗戦へと追い込むために「出雲族」が一肌脱いだと考えられるわけです。)
 
まあ、これからはこの辺のことも詳しく精査していくつもりです。
 
いずれにせよ、これでまた日本史の新たな謎が解明できそうな気がしてきましたね。

空海も最澄も日蓮聖人も出口王仁三郎も深見東州も池田大作も同じ悪魔「サナト・クマーラ」を崇める妙見信仰者でした。

1850万年前に鞍馬山に降り立ったとされる悪魔「サナト・クマーラ」が、大和朝廷と対立していた「出雲族」の神様ではないかとのお話をしました。

今日はさらに深く掘り下げてお話します。
 
先ず、紀元前3世紀頃、メソポタミアから「大和族」と「出雲族」が日本に渡ってきました。
 
その当時、日本には縄文人が住んでいましたが、「大和族」と「出雲族」はともに縄文人を駆逐していき、日本の領土を占領していきました。
 
このように書くと、まるで「大和族」と「出雲族」が悪者で、縄文人が哀れな民衆、という風に見えてしまいますが、実は縄文人もれっきとした悪魔崇拝者たちでした。
 
それは彼らの残した文化を見ればすぐに分かります。彼らは「蛇」と「生殖器」を神のように崇めていたからです。詳しくは以下のリンクをご覧ください。
 
宗教に見る性の変遷 ~第1回 古代蛇信仰と性~ – 思考の墓場 サルガッソ

縄文人の芸術の都、長野県諏訪地方で体感!

これは縄文人が紛れもない悪魔崇拝者だったという証拠です。「蛇」とは悪魔のことですし、悪魔崇拝者は淫乱邪悪な儀式を行いますから。
 
ならば、縄文人は「太陽派」なのか「月派」なのかと思って調べてみると、どうやら縄文人は「月」を信仰していたようです。以下のような記事が見付かりました。
 
114号・縄文人は月を信仰していた? | さらしな堂
 
このように、縄文人とは「太陽派」ではなく「月派」の人々だったと考えられるわけです。
 
では、なぜこの日本に「月派」の人たちが住んでいたのでしょうか。
 
有史以前の日本にはもともと「レムリア文明」とか「ムー文明」という文明が栄えていました。
 
この話は多くの人たちからトンデモ話と思われていますが、このトンデモ話こそが実はこの世の真実です。

ところが、今から1万2000年前、このレムリア文明(ムー文明)が滅亡し、「太陽派」はみんなエジプトへと逃げていきました。
 
この文明がなぜ滅亡したのかについては、諸説紛々としていますが、私の見解としては、やはりこの当時「太陽派=ヒイズルクニ」と「月派=ヨモツクニ」の間で激しい戦争があったのだろうと思います。
 
イルミナティ関係者の中には、この戦いを「ドラコニアン=天皇派」と「レプタリアン=教皇派」との戦いだったと言う人もいます。
 
多くの人がこの「ドラコニアン」や「レプタリアン」のことを宇宙人だと思ってきたわけですが、彼らは宇宙人ではなく「悪魔」です。

この戦いの末にレムリア文明(ムー文明)が滅亡し、「太陽派」の人々はエジプトへと逃げていった。
 
しかし、彼らの辿り着いた地域にはただ大きな砂漠が広がっているのみ。そのため、彼らはその地域に長く住み着くことはできないと判断し、再び日本に戻ることにした。

これは「正統竹内文書」で伝えられている歴史です。
 
出雲族と大和族の話(パート1) | 天の王朝 – 楽天ブログ

ところが、日本に戻ってみたところ、そこには「月派」の人々が住み着いていた。いつのまにか彼らが日本を乗っ取っていたわけです。
 
もちろん、太古に栄えた高度な文明はほとんど残されておらず、「月派」の人々はそこで原始的な生活をしていたのでしょう。
 
しかし、縄文人たちは以前と同じように悪魔崇拝だけは行っていた。
 
彼らが作った縄文式土器も、生活のための土器ではなく、悪魔崇拝に使うために使う土器だったに違いありません。でなければ、あんな派手な装飾をする必要がありませんからね。
 
それに、縄文式土器のあの派手さも、「月派=教皇派」ならではの派手さとも言えますね。
 
ローマ教皇にしろエリザベス女王にしろ、アメリカなどの欧米文化にしろ、「教皇派」はやたらと派手で煌びやかなものを好みます。

その一方、日本の文化は、煌びやかさよりも慎ましさが重視されるところがあります。「千利休」なんかはこのシンプルな美をとことんまで追求した人物です。
 
「大和族」と「出雲族」が冷徹に縄文人を追い払ったのは、縄文人が「月派」の悪魔崇拝者だったからでしょう。
 
しかも、彼らが日本を滅亡させた当人だったので、「太陽派」の人々は恨み辛みを爆発させて、縄文人を徹底的に駆逐していったわけです。

ところが、いざ縄文人を駆逐し終えたとき、「大和族」と「出雲族」の間で、どちらがこの国のトップに就くかでモメてしまった。
 
その争いの末、「大和族」が勝って「大和朝廷」が開かれた。
 
しかしながら、「出雲族」も「大和族」と血縁関係を結んでうまく「大和朝廷」に入り込んだ。
 
と同時に、「月派」の人たちも「大和朝廷」の中にうまく入り込んだのではないかと思います。

というのも、日本神話の中では「イザナギ」がみそぎをした際、「大和族」の神「天照大神」と、「出雲族」の神「スサノオ」が生まれましたが、このとき「月読命(ツクヨミ)」という神も一緒に生まれているからです。

「月読命(ツクヨミ)」とは読んで字のごとく、「月派」の神様に違いありませんよね。
 
この三人の神様がこうして「古事記」と「日本書紀」に天津神(高天原の神。その反対が「土着の神」を意味する国津神。)として登場しているということは、「大和族」と「出雲族」と「月派」みんなが「大和朝廷」に入り込んだということを意味するのではないでしょうか。
 
そもそも、彼らが一つになってこそNWOが成就できるわけですからね。
 
今の今まで、なぜ日本神話には「アマテラス」と「スサノオ」と「ツクヨミ」の三人の神様が出てくるのか、いまいちその意味がよく分かりませんでしたが、こう考えると全てに筋が通ります。
 
また、私が調べてみたところ、「大和朝廷」が開かれるまでの間、日本には「白山信仰」が広く根付いていたことが分かりました。

天照太御神以前の白山信仰。 – おひさまありがとうございます。

この白山信仰とは「妙見信仰」のことで、「妙味信仰」とは、北極星(または北斗七星)を崇める信仰です。
 
妙見信仰とは

しかし、「大和朝廷」はシリウス信仰のはずです。少なくとも、現在の「天皇家」はシリウスを崇めています。

なのに、「妙見信仰」が広く普及していたということは、「大和朝廷」が開かれるまで、この日本は「大和族」以外の人たちが支配していたということになります。
 
私は今までずっとこの「妙見信仰」を「月派」の信仰だと考えていたのですが、ここでその考えを訂正しようと思います。
 
「妙見信仰」をしていたのは「月派」ではなく、「出雲族」だったのだと思います。

なぜそう言えるのか、その根拠をご説明しましょう。
 
「出雲族」は「サナト・クマーラ」という悪魔を崇めています。少なくともその可能性が高いです。
 
この「サナト・クマーラ」を日本に広めたのが空海であり、日蓮聖人であり、出口王仁三郎であり、池田大作であるともお話しました。
 
ですから、彼らはみんな「出雲族」である可能性が高いわけですが、驚くべきことに、彼らはみんな「妙見信仰」なのです!!
 
先ず「空海」と「日蓮聖人」ですが、以下のような記事がありました。

(以下、こちらより転載)
 
妙見信仰を最初に流行らせたのは修験道の役小角だという。当時の北辰祭は、796年に風紀の乱れを理由に禁止された。

《RAPT註:役小角とは飛鳥から奈良時代に実在した呪術師です。詳しくはこちら

つづいて806年に唐から帰国した空海が、真言密教の仏に妙見大菩薩を迎えいれる。
 
密教と修験道のむすびつきにより、妙見信仰は日本独自の色を重ねつつひろまっていく。
 
空海は高知県の室戸岬での修行中に、「あけの明星」が口にとびこむ体験をしている。四国の星信仰は、讃岐からひろがった真言系じゃないかと思う。
 
おなじ星体験をしたのが日蓮で、天から明星のような大星がおりてきて梅の木にかかったという。
 
彼は北辰妙見菩薩の示現をうけ、法華経護持の誓いを得ている。

 
この「星」と「梅」のとりあわせは、千葉神社の摂社・千葉天神(1182年創祀)を思い出させる。千葉妙見宮(千葉神社)と日蓮は、ゆかりが深い。
 
(転載ここまで)

はい。これで空海と日蓮が「妙見信仰」であることが分かりましたね。

しかも、「明けの明星」が空海の口に飛び込んだとか、梅の木にかかったとか書かれてありますが、「聖書」ではルシファーのことを「明けの明星」と表現されています。
 
「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。」(イザヤ書14章12節)
 
ということは、やはリ「サナト・クマーラ」は本当にルシファーなのでしょうか。
 
それとも、単に妙見信仰をしている人たちが「サナト・クマーラ」のことをルシファー(悪魔のトップ)だと思いたくて、勝手にこんな逸話を作っただけなのでしょうか。
 
また、「出口王仁三郞」についても、「ワールドメイト」という新興宗教の2003年のメルマガに、こんな記事が書かれていたそうです。

(以下、こちらより転載)
 
また、空海、最澄の築いた宗教構造を世界規模でやるのがワールドメイト会員の役割だが、その空海がソロモン王の王仁三郎となり、その師匠の恵果阿闍梨がダビデ王、深見東州だとも言っている。
 
(転載ここまで)

はい。これで全てがつながりましたね。「空海」と「最澄」は「密教」の開祖。
 
その「空海」が輪廻転生して「出口王仁三郞」となり、「最澄」が同じく輪廻転生して「深見東州」になったということのようです。
 
一応、輪廻転生は絶対にないと分かったのですけれども、彼らは頑なにそう信じているわけでしょう。
 
(ちなみに、空海は後に「大日如来=天照大神」とされたので、太陽派寄りの「出雲族」だったということかも知れません。)

肝心かなめの「池田大作」ですが、創価学会は「日蓮聖人」を崇めていて、その「日蓮聖人」が妙見信仰なのですから、当然、「池田大作」も妙見信仰だったに違いありません。

「密教」と「日蓮系」がなぜか同じ妙見信仰だということは、一部の人たちの間では有名な話だったと思います。
 
では、なぜ「日蓮」と「密教」が同じ妙見信仰なのか、はっきりと説明できる人は今まで誰もいなかったと思います。
 
しかし、今はっきりとその答えが分かりましたね。
 
彼らはみんな同じ「サナト・クマーラ」という悪魔を拝んでいるから、同じ「妙見信仰」なのです。
 
ということは、妙見菩薩というのは「サナト・クマーラ」のことなのかも知れません。

ということで、現段階で考えられる結論はこのようになります。

大和族=アマテラス=太陽信仰=シリウス信仰
 
出雲族=スサノオ=妙見信仰=(月? 太陽?)
 
縄文人=ツクヨミ=月信仰

「出雲族」が「太陽派」なのか「月派」なのかはよく分かりませんが、「大和族」に実権を奪われたわけですから、彼らにとってみれば「天照大神」は天敵みたいなものです。
 
なので、どちらかというと「月派」に与するようになったのかも知れませんが、やはりこの辺のことはその時々の状況によって変わるのではないでしょうか。
 
「太陽派」が優勢になれば「太陽派」に、「月派」が優勢になれば「月派」に……という感じでしょうかね、きっと。空海も「大日如来」になったわけですし。
 
ちなみに、「出雲族」は「大和族」によって東北に追われましたが、東北にはかの小沢一郎がいて、小沢一郎も「創価学会」と深いつながりがあります。

ですから、小沢一郎ももしかしたら「出雲族」なのかも知れません。
 
なんか色んなものが一つにつながってきましたね。これでこの世の中がまたさらにシンプルに見えてきました。

現首相・安倍晋三のルーツが陰陽師「安倍晴明」であり、「出雲族」である可能性について。

日本神話に登場する「アマテラス」「スサノオ」「ツクヨミ」がそれぞれ「大和族」「出雲族」「縄文人」であり、そのうちの「出雲族」が悪魔「サナト・クマーラ」を崇める妙見信仰者であるというお話をしました。

「大和朝廷」が開かれた際には、「大和族」も「出雲族」も「縄文人」もみんな皇室に入り込んだ可能性が高いわけですが、「日本書紀」と「古事記」には「ツクヨミ」の関する記述はほとんどありません。最初の誕生のシーン以外、彼はほとんど登場しません。

ツクヨミ−Wikipedia

「スサノオ」も岩戸開きのシーンと、八岐大蛇を退治したシーン以外、これといった見せ場はありませんよね。
 
「大和族」はこのように彼らの記述を削りに削って、「天照大神」だけをさも偉大な神であるかのように記述し、自分たちの権威の正当性を誇示しようとしたわけでしょう。

出口王仁三郎(大本教)や竹内巨磨(竹内文書)などが「天照大神」の正当性を疑うような書物を書いたとたん、激しい弾圧を行ってきたわけです。
 
竹内巨麿(たけうちきよまろ)の不敬罪について、概略を知りたい 

しかしながら、「大和朝廷」が開かれるまでの間、この日本は明らかに「出雲族」が支配していました。
 
なぜなら、その当時の日本には「白山信仰」が広く根付いていて、この「白山信仰」は「出雲族」の信仰と考えられるからです。
 
つまり、初代の天皇・神武天皇が即位した紀元前660年から、大和朝廷が開かれた三世紀頃まで、ずっと「出雲族」がこの国の実権を握っていたと考えられるわけですね。
 
なので、本来ならば「スサノオ」こそが日本の最高神とするべきなのですが、「大和族」は「スサノオ」ではなく「アマテラス」を最高神として信じていたので、記紀の中で「アマテラス」を最高神としてでっち上げたわけです。

では、皇室から追い払われた「出雲族」がその後どうなったのかというと、どうやら彼らは「エタ」と呼ばれる被差別民として日本各地に住み着くようになったようです。
 
要するに「エタ」の始まりは、落ちぶれた「出雲族」にあったというわけです。
 
なぜそんなことが言えるかというと、被差別部落には「出雲族」の信仰する「白山神社」が数多く建立されているからです。
 
実際、被差別部落は「出雲族」の集落であるとの記事もありました。
 
被差別民の真実-彼らは出雲族だった!! – livedoor Blog(ブログ)
 
とはいえ、「エタ」のすべてが「出雲族」というわけではありませんし、「出雲族」みんなが「エタ」になったというわけでもありません。
 
実際、「出雲族」の末裔は今でもこの日本の政財界で大きな力を振るっています。
 
東京にお住まいの方なら分かると思いますが、皇居から北に向かって「白山通り」という大きな国道が伸びていますよね。

皇居はもともとは江戸城のあった場所ですが、その江戸城は「妙見信仰」をしていた徳川家康が建てたものです。
 
なので、江戸城の周りには「妙見信仰」と関わりのある人たち、つまり「白山信仰」をしていた人たちが多く住み着いていた可能性が高いわけです。
 
そのため、東京のほぼど真ん中に「白山通り」なんて名前の大通りができたわけでしょう。
 
今でもこの「白山」にゆかりのある人たちが巨大なネットワークを作って、日本の政財界を陰で動かしているようです。

ですから、「出雲族」みんなが「エタ」になったわけではありませんし、また逆に「エタ」と呼ばれる人たちみんなが「出雲族」だというわけでもありません。

まあ、これは当然のことですね。

「大和族」が天皇に即位すれば、そのときには「出雲族」が落ちぶれますが、「出雲族」が天皇に即位すれば、そのときには「大和族」が落ちぶれてしまうわけですから。
 
要するに、「大和続」であれ「出雲族」であれ、皇族や公家の身分から転落した人は誰でも「エタ」となってしまう可能性があるわけです。

(以下、こちらから転載)
 
日本には、「同和問題」というのが存在します。
 
実態がすごく奇妙で、誰も、ふれたがらない。
 
誰もがタブー視する。謎の階層の話。
 
因みに、「同和」「同和」と騒いでいるのは、実は、「非人」のことで、ただの犯罪者の家系です。(所謂、同和ヤクザ)
 
しかし、同じ賤民でも、「穢多」とは、実は、これと、まったく異なるんですね。

彼等「穢多」は、その昔、政治的に没落して行った人々の子孫で、元々は、「神官」であったんです。

神官というと、「天皇」は、神道の最高位の神官であるが、彼等と、関係があるのか...?
 
大いにあります。
 
親戚関係にあるし、「穢多」自体が、皇族と同等か、あるいは、それに次ぐ高貴な役職を担った一族です。
 
しかも、現在の皇室は、この「穢多」出身です。
 
「穢多」について、少し詳しく述べますと、神道には、昔、生贄をささげる風習が存在したのです。
 
“奴さん”って、アルでしョ . . . 人の身代わりになって、災いや罪を引受ける”人形”。あれは、この”生贄の儀式”の名残です。
 
実際に動物を捧げるんですけど、神様にそれを許された者だけが行える儀式なわけで、神が許すほどの高潔な人間でなければ執り行えないんですね。

《RAPT註:多分、これは悪魔崇拝のことを言っているのでしょうから、動物のみならず、子供たちも犠牲になったのではないでしょうか。》

神官の中でも、かなり高位の者です。
 
神社の朱色の鳥居。あの朱色は、生贄の血の色です。実際に、血を塗って、神様に其処が”結界”である事の目印としたものの名残です。
 
ところが、仏教が入って来ると、殺生が禁止されて、この儀式も禁止。すると、これに抵抗して、彼等の弾圧→没落が、はじまったワケです。
 
. . . もっと言うと、”仏教の普及”自体が、こういう人達を貶める為の政治的な戦略だったワケです。

《RAPT註:明治維新後、廃仏毀釈を行ったのも、仏教に対する憎しみからなのでしょうか。詳しくはこちら。とはいえ、仏教も同じ悪魔教なので、その後、仏教もすぐに公認の宗教となったわけでしょう。》

弾圧を逃れた彼等は、全国に散り散りバラバラ、日本全国に「穢多部落」が、点在するのは、その為です。
 
(転載ここまで)

このように、「エタ」には天皇と親戚だったり、皇族だったりした元「神官」が大勢混じっているということです。

その天皇も「神官」のトップとしてちゃっかり「悪魔崇拝」を行っています。

では、「エタ」出身である田布施一族もみんな「神官」だったのかというと、やはり彼らのうちの何人かは明らかに「神官」だったようです。
 
なぜそんなことが言えるのかというと、実は皆さんもご存知の安倍晋三。驚いたことに、そのルーツは陰陽師「安倍晴明」なのだそうです。
 
要するに、安倍晋三の先祖は呪術師だったわけですね。紛れもない悪魔崇拝者だったということです。皆さんはご存知でしたか。

(以下、こちらから転載)
 
だが北村家に頼らずとも、安倍家じたいが、もともと霊能師の血筋を引いているという話もある。安倍家は映画「陰陽師」で有名な、あの呪術師の安倍晴明とルーツが同じというのである。
 
奈良県桜井市に「安倍文殊院」という寺院がある。大化の改新(645年)創建という由緒ある寺院だ。
 
この寺院の一角に「安倍晴明堂」と安倍晴明に関係する資料の展示スペースがあって、平安時代に亡くなった安倍晴明を偲ぶ法要が定期的に行われているのだが、実は、この寺院には「第90代内閣総理大臣」と書かれた安倍氏の献灯碑もある。

寺院の説明によると「2010年頃に安倍氏がお参りになって寄進していただいた」という。

「日本書紀に出てくる大彦命が安倍氏の祖で、その後、大化の改新で初代の左大臣になった阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ)が当寺院の前身・安倍寺を建立しました。

この倉梯麻呂が全国の安倍氏(阿部、安部などすべての『アベ』氏)の太祖で、安倍晴明も安倍首相の安倍家のルーツも倉梯麻呂です。

遣唐使の阿倍仲麻呂も一族。当寺院にはかつて阿倍仲麻呂の屋敷もありました」(同寺院の説明)
 
安倍文殊院は「御祈祷の寺」として知られ、陰陽師の安倍晴明はとくに大事にされている。
 
また同寺院で行われた法要に安倍首相の母の洋子さんが訪れ、「安倍晴明公を誇りに思います」と挨拶したこともある。
 
ちなみに阿倍倉梯麻呂の子孫に平安時代中期の東北の武将、安倍貞任、宗任の兄弟がいる。2人は前9年の役で朝廷軍と戦って敗北。
 
貞任は死んだが、生きのびた宗任の子孫のうち、山口県に落ち延びた一族が安倍家の直接のルーツとされる。
 
《RAPT註:落ち延びて「エタ」になったということなのでしょうかね。》
 
13年7月の参院選で岩手県入りした安倍首相は演説の中で「安倍貞任の末裔が私になっている。ルーツは岩手県」と話した。
 
(転載ここまで)

安倍自身、「ルーツは岩手県」と言っていますが、これは「蝦夷(えみし)」と縁の深い「奥州」のことです。で、この「蝦夷」とは何なのかというと、諸説紛々としていますが、やはり「出雲族」である可能性が高いです。
 
なので、安倍晋三もやはり「出雲族」の血統ではないかとの疑いが出てくるわけですが、実際、「安倍晴明」のような陰陽師たちは「北斗七星」を重視していました。

(以下、こちらから転載)
 
「つまり、陰陽道でも北斗七星を基準にして天文観測をしていたのじゃな。
 
安倍晴明の師は、賀茂忠行(かものただゆき)といって、賀茂氏系の陰陽師じゃ。
 
秦氏も賀茂氏も、大和盆地に入植して山城の国を開拓した帰化人の系統じゃな。どちらも大和盆地を流れる川の氾濫には悩まされたのじゃよ。」
 
(転載ここまで)

このように、「安倍晴明」もまた妙見信仰の「出雲族」だった可能性が高いわけです。
 
もし上の記事に書かれてあるとおり、本当に安倍晋三のルーツが「安倍晴明」ならば、安倍晋三もまた妙見信仰の「出雲族」の末裔ということになります。
 
実際、彼は同じ妙見信仰である「密教・真言宗」の僧侶・池田恵観に帰依していますから、その可能性はやはりどこからどう見ても高いですね。

要するに、彼もまた悪魔「サナト・クマーラ」を神として信じているというわけです。この日本はどこもかしこも悪魔だらけですね。本当に嫌になります。
 
せめて私たちだけでも、本物の神様を呼び求めて、日本各地を「聖霊」で満たしていきましょう。

いずれにせよ、この辺の話はとても奥が深くて、とても一日で語りきれるような話ではありません。
 
なので、これから日を分けて、少しずつお話ししていくことになろうかと思います。

「天照大神」と「スサノオ」の正体。またはルシファーの正体。彼らこそが悪魔の三位一体です。

「サナト・クマーラ」を拝む人たちがみんな妙見信仰の持ち主であり、「出雲族」の血統であるというお話をしてきました。

このように、現首相である安倍晋三までもが妙見信仰であり、「出雲族」である可能性が出てきたわけですが、こうなってくると、今や「出雲族」の力は「大和族」よりも強くなっているのではないか、と考えざるを得ません。
 
この日本には「白山人脈」という「出雲族」の一大ネットワークが作られていて、彼らがこの日本の経済や政治を陰から大きく動かしています。それだけ「出雲族」の力が強くなってきているということです。
 
しかし、「出雲族」の力が強くなったからといって、「大和族」が弱体化しているというわけではないでしょう。「大和族」と「出雲族」が一つとなって天皇中心のNWOを推進しようとしていることは間違いありませんから。
 
場合によっては、「大和族」と「出雲族」の両方の血をもった天皇を即位させることで、彼らの争いを終息させようとしているとも考えられなくはありません。

実際、秋篠宮の「悠仁親王(皇位継承順位第3位)」は北朝と南朝の血がともに流れていて、彼が天皇に即位することで、北朝と南朝の争いに決着がつくなどとも噂されています。

そもそも、単純に考えて、こういうことになりますからね。
 
■大和族 = シリウス信仰 = 南の星 = 南朝
 
■出雲族 = 妙見(北極星)信仰 = 北の星 = 北朝
 
まあ、それはそれとして、これだけ妙見信仰が日本に大きく広がった背景には、やはり「出雲族」の神「サナト・クマーラ」がそれだけ強大な力を持っているという証拠だと思います。
 
実際、「サナト・クマーラ」を拝む人たちは、「サナト・クマーラ」のことを「ルシファー・悪魔の頭」だとまで思い込んでいるようですし……。
 
とはいえ、一部には「サナト・クマーラ」をルシファーではないとする声もあります。
 
私としても、「サナト・クマーラ」はやはりルシファーではないと思います。
 
なぜそう言えるのか……。
 
(以下、ウィキペディアより)

この三人の悪魔が、悪魔の中でも最上位の悪魔です。で、この三人の悪魔の下に以下のような悪魔たちがいます。

このうち、「ルキフェゲ・ロフォカレ」がロスチャイルドの召喚できる悪魔で、「サタナキア」が「教皇派=月派」の召喚できる悪魔ではないか、と私は推測していますし、恐らくこの推測に間違いはないと思います。

この悪魔の一覧表を見てみると、ここには「サナト・クマーラ」という名前はありません。当然です。「サナト・クマーラ」は「サタン・鞍馬」のアナグラムであり、正式名称ではないからです。
 
■「SANAT KUMARA」サナト・クマーラ
 
■「SATAN KURAMA」サタン・鞍馬

 
しかし、「サナト・クマーラ」がこれほど強力な悪魔である以上、この上位の悪魔のうちのどれかであることは間違いありません。
 
では、一体どれなのでしょうか。
 
結論から言うと、「ベルゼビュート(ベルゼブブ)」ということになります。その理由をご説明しましょう。
 
ベルゼブブ–Wikipedia
 
先ず、「サナト・クマーラ」は「スサノオ」と同一視されていますが、「スサノオ」はかねてからシュメール話の神「バアル」と同じであると言われてきました。その姿形が同じであり、やることなすことも全く同じだからです。

(以下、こちらから転載)
 
■日本の神話 = 素盞嗚尊(スサノオ)の別名は牛頭天王と呼ばれ、同じように牛の角を生やしている。素盞嗚尊(スサノオ)が人身御供で人間を食らう、頭が八つもあるヤマタオロチに酒を飲ませて酔わせてから退治する。その時にオロチの尻尾から、鉄の剣(草薙の剣)を手に入れる。
                       
■シュメール神話 = 古代シュメールの伝える神の一つ、バール神は牛の角を生やしており、天候(暴風雨)の神といわれていた。太古シュメールの神話には、ヒッタイトの守護神である、7つの頭を持つ龍が人間を生け贄としていた。そこでバール神が、龍を酒に酔わせて退治する。すると龍の中から、ヒッタイトの鉄を手に入れる。
 
(転載ここまで)

旧約聖書を読んだ方ならば、「バアル」という名前は何度も目にしたはずでず。旧約聖書には「バアル」という名前が100回以上も登場しますからね。
 
旧約聖書の時代(つまり紀元前)、イスラエル民族はみんな神様「ヤハウェ」を拝んでいましたが、イスラエルの周辺地域に住んでいた別の民族たちは「バアル」という神様を拝んでいました。
 
それだけ「バアル信仰」が当時のメソポタミア地域に広く浸透していたということです。
 
では、この「バアル」が何者なのかといえば、上の表に出てくる「ベルゼビュート(ベルゼブブ)」のことなのです。

(以下、ウィキペディアより転載)
 
バアルは旧約聖書の著者達から嫌われており、もともと「バアル・ゼブル」(崇高なるバアル)と呼ばれていたのを「バアル・ゼブブ」(蝿のバアル)と呼んで嘲笑した。
 
この呼称が定着し、後世にはベールゼブブと呼ばれる悪魔の1柱に位置づけられている。
 
(転載ここまで)

このように「スサノオ」が「バアル」である以上、「サナト・クマーラ」も「バアル」ということになります。「スサノオ」と「サナト・クマーラ」は同一神ですから。
 
実際、以下のような記事も見付かりました。ちょっと長いですが、非常に重要な内容です。

(以下、こちらから転載)
 
さらに吉田敦彦の『神話の考古学』においてはデメテル神話(ギリシャ神話)とアマテラス神話の驚くほどの類似をあげている。
 
では日本神話とギリシァ神話のこうした類似はいったい何を意味しているのか?
 
こうした神話の類似はすなわち日本神話とギリシァ神話が同じ源をもっていることを示しているのである。
 
その源とはメソポタミヤ文明の神話であり、その神話が地中海地方やギリシァまで広範囲に伝播し拡散したの である。そして時代と場所によって少しずつ話の内容を変えながら伝わったのであろう。

■メソポタミヤの神話とギリシァ神話
 
紀元前5000年頃メソポタミヤに文明を築いたシュメール人はたくさんの神々を崇拝していた。

《RAPT註:現在の天皇家はもともとシュメール人だと考えられます。シュメールがスメルとなり、これに帝(みかど)という意味の「ミコト」を足してスメラミコト=天皇と呼ばれるようになったのです。》

天の神アヌ、その妻アントム、 性愛と闘いの神イナンナ、アヌの息子エンリル、その妻ミリッタとムリルトウ、魔法の知識の主エンキ、その息子マルドウク、 月の神シン、太陽神ウトウ、牧神ドウムジ、雷神アダト,冥界の神アヌンナキなど八百万の神々がいた。
 
これらの神々はその後、 フェニキア地方やバビロニア地方に少しずつ神話の形を変えて継承されたのであった。
 
性愛の神イナンナはその後イシュタルとも呼ばれ、 フェニキアではアシタロテと呼ばれ、さらにギリシァ ではアフロディテ、地中海地方ではビーナスと呼ばれた。

《RAPT註:ミロのビーナスのことです。つまり、ミロのビーナスも悪魔ということですね。》

21世紀の今日にいたって もセックス・シンボル的女性をビーナスと呼ぶのは、そこからきている。

■バアル神話の展開
 
どこの国の神々もそうなのだが、ある地方ではこんなストーリーでも別の地域では少し違ったり、他の神の話が吸収されていたり、 イロイロである。しかしその神の基本的な性質は変わらない。
 
イナンナは小悪魔的浮気者であり、それは多少神話の異なるアシタロテもアフロディーテも同じであり、小悪魔的浮気者である。
 
性愛の神イナンナの恋人、夫の神は120もいるが、その中でも配偶神とされたのがタンムズとドウムジであり、これらの神話が折り重なっ て後のフェニキアのバアル神話となったのである。
 
そしてバアルはギリシァではアドニスと呼ばれた。
 
バアルはアシュタロテの配偶神であり、 アドニスはアフロディーテの配偶神である。
 
ドウムジ、タンムズ、バアル、アドニスと言う名前はそれぞれ、その地域の言葉で 「土地の主」と言う意味である。
 
そしてこのアドニス神話が日本のオオクニヌシの神話とよく似ており、両者が同源であると言う事は、日本のオホクニヌシはバアルである事を示している。日本のオホヌニヌシの名前も又「大国主」であり、「土地の主」と言う意味である。
 
(転載ここまで)

「大国主」とは「スサノオ」の息子のことです。
 
大国主–Wikipedia

ですから、「スサノオ」はやはり「バアル」であり、「ルシファー」ではないということです。したがって、「サナト・クマーラ」も「ルシファー」ではありません。
 
では、「天照大神」が「ルシファー」なのでしょうか。
 
私もずっとそう思っていましたが、この記事を見た限りでは、どうもそうではなさそうです。
 
というのも、この記事の中に「バアルはアシュタロテの配偶神」とありますが、「アシュタロテ」とは上の悪魔の表に出てくる「アスタロト」のことです。
 
この「アスタロト」は女神です。

(以下、こちらより転載)

■アスタロトの起源
 
悪魔アスタロトの源流は旧約聖書「士師記」「列王記」などに登場する女神アシュトレトとされる。
 
「士師記」の冒頭で、カナンに侵攻したイスラエルの民は時がたつごとに本来信仰すべきはずだったヤハウェを忘れ、現地のバアルやアシュトレト信仰に傾くようになりヤハウェの怒りを買い、民に災難をもたらす。
 
「列王記」では老いたソロモン王が外国出身の妻に誘われて異教の神アシュトレト、ミルコム、ケモシを信仰し、ヤハウェを怒らせて最終的に王国分裂に繋がる
 
アシュトレトはオリエント全域で崇拝された女神アスタルテであり、さらに遡ればメソポタミア神話のイシュタルにいきつくという。
 
イシュタルはウルクの豊穣神イナンナの信仰を核として、王権授与、王権を守る戦神と変遷し、ウルクが没落した後は“諸国の神”という都市国家の枠にはまらない破格の地位についている。

特に豊穣、戦神の神性は様々な王の信仰を獲得し、イシュタルは各都市国家の女神を吸収してオリエント世界における女神の普遍的名称として使われるようになった。
 
アスタルテはウガリット・カナンに起源をもつ女神だが、エジプトなどの外国に信仰が伝わるにつれ戦争の女神、王権の守護者というイシュタルに似通った神性を獲得し、シュメール・アッカドにおいて両者は習合、大いなる地母神としてギリシア・ローマにまでその勢力を拡大させている。
 
(転載ここまで)

「日本書紀」と「古事記」の中に出てくる女神は「アマテラス」ですし、人によっては「スサノオ」と「アマテラス」が婚姻関係を結んだという説を唱えています。先日ご紹介した記事にもそう書かれてありましたね。
 
出雲族と大和族の話(パート1) | 天の王朝 – 楽天ブログ
 
したがって、「バアルはアシュタロテの配偶神」という一文を、そっくりそのまま「スサノオはアマテラスの配偶神」と言い換えることができます。
 
ということは、「アマテラス」は「アスタロト」と同一神ということになります。「ルシファー」ではないということです。
 
となると、最後に残った三貴神のうちの一人、「ツクヨミ」こそが「ルシファー」なのでしょうか。

確かにそう考えると筋が通るような気もしますが、先ほども言いましたように、「月派」の神様はあくまで「サタナキア」です。「ルシファー」ではありません。

ですから、現段階での私の見解としては、「ルシファー」は「大和族」も「出雲族」も「月派」もすべてを支配しているということになります。
 
つまり、「ルシファー」はどれか特定の部族の神ではない、ということですね。だからこそ、悪魔の頭と呼ばれているのではないでしょうか。
 
ということで、現段階での結論はこうなります。
 
1.大和族の神 = アシュタロト
 
2.出雲族の神 = バアル
 
3.月派(教皇派)の神 = サタナキア
 
4.ロスチャイルドの神 = ルキフェゲ・ロフォカレ
 
5.ルシファーは彼ら全員の神。
 
6.ルシファーとバアル(スサノオ)とアシュタロト(天照大神)は悪魔の三位一体。

 「平家」とはロスチャイルド家だった。または明治維新にロスチャイルドが関わった最大の理由。

「天照大神」と「スサノオ」がそれぞれ「アシュタロト」と「バアル」という名前の悪魔であると解き明かしました。

「バアル」と「アシュタロト」は、聖書の中では「異教の神」として頻繁に登場し、神様ヤハウェから激しい怒りを買い、数多くの裁きを受けています。
 
「バアル」と「アシュタロト」が悪魔だったので、それを拝む人たちのことを神様は敵と見なしたわけですね。
 
しかし、日本人の多くは「アシュタロト」「バアル」という名前すら知らないはずですし、日本の神社に祀られている「天照大神」や「スサノオ」が、まさか「アシュタロト」「バアル」という名の悪魔であろうとは夢にも思っていないことでしょう。

〈ルーブル美術館蔵、アスタルト、バアル〉

だからこそ、多くの日本人が何か事ある度に、神社にお参りに行って祈願するわけでしょうが、そんなことをしても何の効き目もなく、むしろ自分の人生を台無しにしてしまう、ということに日本人もそろそろ気付いた方がいいと思います。
 
そんなにお祈りしたいことがあるなら、家の中で目に見えない本物の神様に祈ればいいのです。その方がよほど効果がありますからね。

ということで、出雲系、または妙見系の宗教はみんな「バアル」という名の悪魔を拝む宗教であることが分かりました。
 
ですから、白山系、出雲系、大国主系、密教、日蓮正宗、創価学会、大本教系、ワールドメイトなどには要注意です。
 
ということで、今日もまた「スサノオ」の話の続きです。
 
皆さんもご存知の通り、「スサノオ」は日本神話の中で「八岐大蛇」を退治します。
 
その一方、「バアル」もシュメール神話の中で、似たような怪物「七つの角をもった龍」を退治します。


〈牛頭天王〉

http://generalgingerxxx.doorblog/archives/51864494.html

(以下、こちらから転載)
 
■日本の神話 = 素盞嗚尊(スサノオ)の別名は牛頭天王と呼ばれ、同じように牛の角を生やしている。素盞嗚尊(スサノオ)が人身御供で人間を食らう、頭が八つもあるヤマタオロチに酒を飲ませて酔わせてから退治する。その時にオロチの尻尾から、鉄の剣(草薙の剣)を手に入れる。

■シュメール神話 = 古代シュメールの伝える神の一つ、バール神は牛の角を生やしており、天候(暴風雨)の神といわれていた。太古シュメールの神話には、ヒッタイトの守護神である、7つの頭を持つ龍が人間を生け贄としていた。そこでバール神が、龍を酒に酔わせて退治する。すると龍の中から、ヒッタイトの鉄を手に入れる。
 
(転載ここまで)

私はこのシュメール神話を見て、聖書のとある箇所を思い出しました。こちらです。

また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、大きな、赤い龍がいた。それに七つの頭と十の角とがあり、その頭に七つの冠をかぶっていた。
 
その尾は天の星の三分の一を掃き寄せ、それらを地に投げ落した。龍は子を産もうとしている女の前に立ち、生れたなら、その子を食い尽そうとかまえていた。
 
女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた。
 
女は荒野へ逃げて行った。そこには、彼女が千二百六十日のあいだ養われるように、神の用意された場所があった。
 
さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、 勝てなかった。
 
そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。
 
この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。
 
(ヨハネの黙示録12章3〜9節)

このように聖書にも「七つの頭をもつ龍」が登場します。しかも、この龍は「赤い龍」です。
 
「赤い龍」とはまさに悪魔を召喚する「大魔術書」の名前と同じです。
 
大奥義書–Wikipedia
 
さらに「赤い龍」と聞いてもう一つ思い出すのが、そうです。ロスチャイルドですね。

ロスチャイルドの名前は「赤い楯」を意味していて、彼らは自分たちのシンボルカラーを「赤」としていますから。しかも、彼らは悪魔(龍)を拝む悪魔崇拝者ですし。
 
ですから、こういうことが言えるわけです。
 
八岐大蛇 = 七つの頭をもつ龍 = 赤い龍 = ルキフェゲ・ロフォカレ = ロスチャイルド

「スサノオ」とは「出雲族」の神様です。

ということは、「スサノオ」が「八岐大蛇」を退治したという話は、「出雲族」が「ロスチャイルド」を退治したという話ではないかとも考えられるわけです。
 
よくよく考えてみると、江戸幕府を倒したのはロスチャイルドです。
 
ロスチャイルドが田布施一族とタッグを組んで、徳川家に対するクーデターを起こしましたからね。

江戸幕府のトップは徳川家であり、徳川家は「出雲族」でした。徳川家は妙見信仰でしたので、「出雲族」である可能性が高いのです。
 
ということは、もしやロスチャイルドが徳川家を倒そうとしたのは、過去に「出雲族」に退治された怨念を晴らすためだったのではないか、と考えられるわけです。
 
ロスチャイルドとしては、日本のトップに「出雲族」が君臨することがどうしても許せないわけですね。

ここでさらに私の頭に思い浮かんだのが「源平合戦」です。

実を言うと「源氏」も「平家」もどちらも「妙見信仰」です。

(以下、こちらから転載)
 
平氏、源氏の妙見信仰には篤いものがあった。
 
北辰と言えば北辰妙見で、天御中主尊に繋がり、北極星(北辰)を神格化したもので、仏教でいう北辰菩薩、妙見、天王とみなす信仰です。
 
この「天王」が牛頭天王(=素戔嗚尊)とされるから、妙見社に素戔嗚尊が祀られることも多い。
 
(転載ここまで)

「妙見信仰」と言えば、「白山信仰」がその始まりと言われています。
 
天照太御神以前の白山信仰。 – おひさまありがとうございます。

ということは、「妙見信仰」のシンボルカラーは「白」ということになりますね。

実際に「源氏」のシンボルカラーは「白」でした。

しかし、対する「平家」はなぜか「赤」でした。これは一体どういうことなのでしょうか。なぜ同じ妙見信仰の「平家」が自らのシンボルカラーを「赤」としたのでしょうか。
 
源氏が「白」だったから分かりやすく区別しようとしたのでしょうか。しかし、それなら別に「黒」や「青」でも良かったはずではありませんか。
 
それに何より、同じ妙見信仰どうしである「源氏」と「平家」がどうしてあれだけ激しく争い合わなければならなかったのか……これも大きな謎です。
 
一応、「源平合戦」の起きた原因をネットでいろいろと調べてはみましたが、どの説明も今ひとつ腑に落ちないものばかりです。例えば、ヤフーの知恵袋などを見ても、いまひとつしっくりきませんでした。
 
源平合戦について質問です。源平合戦が起こった理由は平氏政権に対する… – Yahoo!知恵袋

そこで、私はふと思いました。もしや「源氏」と「平家」の戦いも、「出雲族(白)」と「ロスチャイルド(赤)」の戦いだったのではないか、と。

こんなことを言うと、人によってはこう思うはずです。「まさかそんなわけがない。平家は日本人で、ロスチャイルドは西洋人ではないか。なのに、平家がロスチャイルドであるはずがない」と。
 
しかしながら、この指摘は正しくありません。というのも、一説によると、「平家」はペルシア人であり、西洋人の風貌をしていたらしいのです。

日本の皇族はみんなメソポタミア地方から来た人たちなので、天皇家の臣下である「平家」がペルシア人だったとしても何ら不思議ではありません。(ペルシャとはまさにメソポタミアにあたります。)

その風貌が西洋人だったと言われると、さすがに多くの人が信じられないでしょう。

しかし、「平家」のシンボルカラーは「赤」であり、「赤」はロスチャイルドであり、ロスチャイルドは西洋人であり……と考えると、あながち間違いではないことが分かります。
 
「源平合戦」の果てに自殺したとされていた「安徳天皇」が実は生きていて、「平家」の兵士たちとともに高知に逃げ込んだとか。

高知といえば「土佐」。「土佐」といえば坂本龍馬……。坂本龍馬といえば明治維新……。明治維新といえばロスチャイルド……。

なんかつながってきましたね。
 
「平家」は安徳天皇の死後、京都に戻って「南朝」の天皇に仕えたと……。
 
明治天皇としてロスチャイルドが担ぎ出した「大室寅之祐」も南朝ですよね。

こうして見てみると、どうやら「ロスチャイルド」は妙見信仰でありながら、同じ妙見信仰の「出雲族」と古代からずっと争い合ってきたようです。

その「出雲族」が日本のトップとして君臨しないように、ロスチャイルドは古代からずっと「大和族」を天皇として担ぎ上げようとしてきたのではないでしょうか。
 
だとしたら、「大和朝廷」が開かれたのも、全てはロスチャイルドの力添えによるものだったのかも知れません。
 
そもそも、江戸の倒幕のときに、どうして急にロスチャイルドという西洋人がひょっこりと横から出てきたのか、これまでずっと謎でした。
 
しかし、ロスチャイルドが古代から「出雲族」と戦っていて、大和朝廷の確立にも関わっていて、さらには平家として天皇家に仕えていた……となれば、その謎も氷解します。

平清盛が平家をロスチャイルド家にしてしまった可能性。または「密教」と「日の丸」に隠された意味。

「平家」が実はロスチャイルド家で、このロスチャイルド家が「出雲族」と古代からずっと対立してきたというお話をしました。

そのため、ロスチャイルドは「出雲族」とおぼしき源氏と戦い、さらには「出雲族」とおぼしき徳川家を倒すために明治維新を行ったと考えられるわけです。
 
こうして新たに「大和族」と「出雲族」といったキーワードが出てきたために、読者の方の中にはいささか頭が混乱してしまっている方もいらっしゃるかも知れません。
 
しかし、今現在ではもう「大和族」と「出雲族」の戦いも収束し、かつ「出雲族」と「ロスチャイルド」の戦いも収束していると思われますので、現在の日本や世界の情勢を分析する際には、これまで通り、「天皇派」と「教皇派」の視点だけを持っていれば十分ではないかという気がします。
 
その視点だけではどうしても解明できないという場合にのみ、「大和族」と「出雲族」という視点を加えればいいと思います。
 
そもそも、私が「大和族」と「出雲族」というキーワードを使うようになったのも、「教皇派」と「天皇派」の視点だけではどうしても解けない謎があったからです。
 
特に日本史については数多くの謎を解くことができませんでした。
 
あれこれと調べていった結果、「大和族」と「出雲族」というキーワードを加えることで、日本史の謎がすらすらと解けるようになったわけです。
 
まさか「平家」がロスチャイルド家だったとは思ってもいませんでしたが……。

しかし、こうして見てみると、日本の国旗がなぜ今のようなデザインになったのか、なんとなく分かってきましたね。

きっと赤は「大和族=ロスチャイルド」を表し、白は「出雲族」を表しているのでしょう。で、「大和族」こそが日本の中心であるという意味も込めて「赤」を真ん中に配置したのでしょうね。
 
と同時に、この「赤い丸」を「日の丸」として「アマテラス=太陽」を表現したわけです。
 
しかし、なぜか日本政府も天皇もこんな単純なことを、これまでずっと我々に教えてくれませんでした。なぜかこのことをずっとひた隠しにしてきました。
 
要するに、それだけ「大和族」の心に疚しさがあるという証拠なのでしょう。何しろ、彼らは「出雲族」から無理やり実権を奪い取ったわけですから。
 
この「大和族」と「出雲族」と「ロスチャイルド」の相関関係が分かることで、さらに分かってきたのが「密教」の謎です。
 
「密教」の開祖である「空海」は妙見信仰でありながらも、なぜか「大日如来」を最高神として拝んでいました。(「大日如来」とは「天照大神」のことです)

というのも、「密教」では以下の順番で経典が扱われているからです。
 
1.大日経(大日如来経)
2.華厳経
3.法華経

「密教」は妙見信仰で、妙見信仰は「スサノオ」を拝む信仰のはずなのに、「天照大神」も一緒に拝む、しかも最高神として拝む……というのが、私にはいまいちよく理解できませんでした。
 
しかし、「ロスチャイルド」は妙見信仰でありながらも、「天照大神」を神とする「大和族」に与し、「大和族」が日本の実権をとるよう画策してきました。

つまり、「密教」とはロスチャイルドのために作られた宗教だったのかも知れないということです。空海がわざわざロスチャイルドのために「密教」を作ったということではないでしょうか。

だとしたら、「密教」に帰依している安倍晋三もまたロスチャイルド系の妙見信仰ということになるのでしょうか。

まあ、そういうことなのでしょう。安倍晋三も田布施の一味なのですから、ロスチャイルドと関係があることは間違いありませんからね。

その一方、日蓮は「密教」が「法華経」を三番目の経典として扱ったということで、「密教」をボロクソに言っているそうです。
 
この「法華経」では「上行菩薩」を崇めていて、「上行菩薩」とは「サナト・クマーラ」のことです。で、「サナト・クマーラ」とは「スサノオ」のことです。
 
なので、日連系の宗教、つまり日蓮正宗や創価学会は、「スサノオ」のみを崇める「出雲族」のための宗教ということになりそうです。
 
あと、広島の「厳島神社」などのように赤く塗られた神社は、恐らくはロスチャイルド系の神社ということになるのでしょう。

実際、「厳島神社」は平家(ロスチャイルド)から崇敬を受けていますし、現在の厳島神社を設計したのも平清盛だそうです。
 
どうやら「平家」がロスチャイルド家になったのは「平清盛」あたりからではないかと考えられます。それまでの平家は「ロスチャイルド」ではなく、普通の日本人だったのかも知れません。

このように、平清盛は「平家」の血を引いてはおらず、「白河天皇」と祇園女御の妹の間に生まれた子供だったとのこと。

とすると、この祇園女御の妹こそがロスチャイルドの血を引いた女性だったのかも知れません。
 
祇園女御の正体が全く分からないという点から見ても、「白河天皇」にはこの女性の素性を隠さなければならなかった何らかの理由があったということは間違いありません。
 
「白河天皇」は見ての通り、「白」という文字がつきますから、明らかに「出雲族」でしょう。

その「出雲族」が天敵であるロスチャイルドの女性との間に子供を産んでしまったとなれば、これは確かに一大事です。「白河天皇」からしてみれば、こんなことは絶対に世間には知られたくはなかったはずです。
 
下手をすれば、同じ「出雲族」からその子を殺されかねませんからね。

なので、慌てて平忠盛にその子を預けて、平家の子供ということにしてしまったのではないでしょうか。

しかも、こんな禁断の関係を結ぶぐらいですから、「白河天皇」は相当に祇園女御の妹のことを愛していたのでしょうし、平清盛のことをとても大切にしていたに違いありません。
 
だからこそ、「白河天皇」は「平清盛」に異例の出世を遂げさせたのではないでしょうか。
 
源氏がこの平清盛の出生の秘密を知って、「平家」と激しく争い合うようになったのかも知れません。

また、「平家」が拠点とした「六波羅密寺」もまた赤い色をしていますね。これもまた明らかにロスチャイルド系のお寺だということでしょう。

あと、件の「サナト・クマーラ」が祀られている「鞍馬寺」にも随所に赤がペイントされていますね。ということは、「鞍馬寺」もロスチャイルドに関係があるということではないでしょうか。

しかも、この「鞍馬寺」で毎年催されているウエサク祭は、「釈迦」の誕生と悟りと入滅の日に行われているのだそうです。

(以下、こちらから転載)
 
ウエサク祭の起源は、釈迦の降誕、悟りを開いた日、入滅の日が、全てヴァイシャーカ (Visakha)月(インド暦第二月)の第一満月の夜であったという伝承から来ており、占星のカレンダーに従って、ウエサク祭の期日は決定されます。
 
ヴァイシャーカ(Visakha)月の満月は、太陽が雄牛座から登る日(4/21~5/21頃)であり、旧暦では四月十五日になります。
 
我々が使用している太陽暦(グレゴリオ暦)では四月から五月頃の満月にあたるということから、結果的に概ね五月の満月に当たることになります。
 
また、ウエサク(Vesak/Wesak)という言葉は、ヴァイシャーカ(Visakha)が変化したものです。
 
ウエサク祭は仏教がインドから広まったとき、アジア各地(チベット、タイ、ミャンマー、スリランカほか)など多くの国の文化に伝播し、それぞれの文化特有の方法で行われています。
 
(転載ここまで)

つまり「釈迦」と「サナト・クマーラ」にはとても深い関係があるというわけです。
 
まさに「釈迦」が悪魔であったということを証明しているようなものですね。もしかしたら釈迦も「サナト・クマーラ = バアル」を拝んでいたのかも知れません。
 
確かによく考えてみると、「サナト・クマーラ」はブラフマーの精神から生まれたとされていますし、その一方、釈迦はブラフマーによって自らの悟りを人々に伝えるように説得されました。

したがって、釈迦もブラフマーの精神から生まれたとも言えるわけです。「サナト・クマーラ = バアル = 釈迦」という図式も十分に成り立ちますよね。
 
それにしても、この世の中、どこもかしこも悪魔だらけで本当に嫌になってしまいます。
 
せめてこのブログの読者の皆さんだけでも、悪魔を拝まず、本物の神様だけを拝んでくださることを願います。
 
それだけでもこの世の中にはびこる悪魔どもが恥をかいて退いていくでしょうから。

秦氏の正体はロスチャイルドでした。

「天皇派」が実は「大和族」と「出雲族」と「ロスチャイルド」の三つの勢力に分かれていて、「出雲族」と「ロスチャイルド」が古代から対立しあってきたこと、「ロスチャイルド」が「大和族」を日本のトップに擁立しようとしてきたことを解明してきました。

その対立が表面化したのものが、「源平合戦」と「明治維新」だったともお話してきたわけですが、今日はこの考察をもとにさらなる日本史の謎を解き明かします。
 
今日のテーマは「秦氏の正体」です。
 
「秦氏」というと、日本の建国に大きく関わったとされる重要人物ですが、実に謎多き人物です。
 
これまで数多くの人たちが「秦氏」をテーマに様々な論説を展開してきましたが、では一体「秦氏の正体」が何なのかというと、人によって言うことがバラバラだからです。
 
ウィキペディアを見てみても、やはり諸説紛々としています。

(以下、ウィキペディアより転載)
 
秦氏
『日本書紀』において、応神14年(283年)、天皇に仕えた弓月君を祖とし、百済より百二十県の人を率いて帰化したと記されている。(別名は融通王)を祖とする。
 
『新撰姓氏録』によれば弓月君は秦の始皇帝の末裔とされるが、その氏族伝承は9世紀後半に盛んになったものであって、その真実性には疑問が呈せられており、その出自は明らかでなく以下の諸説がある。
 
秦の遺民が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)の系統。(太田亮)
 
百済系渡来氏族。弓月の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音である。また『日本書紀』における弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝もこの説を補強する。(笠井倭人・佐伯有清)
 
弓月君は中国五胡十六国時代の羌族が興した後秦に由来する。また、羌族がチベット・ビルマ語派に属するチベット系民族であって、同言語においてハタは辺鄙の土地、ウズは第一、キは長官を意味することから、ハタのウズキとは「地方を統治する第一の長官」を意味する。同様に、マは助詞「の」、サは都を意味することから、ウズマサは「第一の都市」を指す。(田辺尚雄)
 
景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人とする。(日ユ同祖論)(佐伯好郎)
 
『隋書』には、風俗が華夏(中国)と同じである秦王国なる土地が日本にあったことが紹介されており、これを秦氏と結び付ける説もある。
 
(転載ここまで)

このように、韓国人であるとか、チベット系民族だとか、ユダヤ人であるとか、景教徒であるとか、秦の始皇帝の末裔だとか、色々なことが書かれてあります。これでは、何が何だかよく分かりませんね。
 
しかし今日、私がその正体をはっきりと明かしましょう。「秦氏」とはズバリ、ロスチャイルドのことなのです。
 
なぜそんなことが言えるのか、その根拠をご説明します。
 
私は「密教」がロスチャイルドのために作られた宗教であるというお話しました。ロスチャイルドは「スサノオ」と「アマテラス」の両方を信じていて、「アマテラス」を最高神としていますが、これは「密教」の考え方と全く同じだからです。
 
この「密教」は「景教」の影響を大きく受けて作られたと言われています。
 
「景教」とはネストリウス派のキリスト教のことですが、もちろんこれは本物のキリスト教ではありません。いわゆる悪魔教です。一応、表向きにも異端とされています。
 
ネストリウス–Wikipedia

空海は「景教」の教えを「密教」の中にふんだんに取り入れました。

日本の歴史-空海と景教
 
「秦氏」もまた景教の信者であったという話は有名です。上のウィキペディアにも書かれていますね。つまり「秦氏」は純粋なクリスチャンではなく、悪魔崇拝者だったというわけです。
 
と、ここで早くもロスチャイルドと秦氏のつながりが見えてきました。
 
秦氏は「景教」を信じていて、その「景教」の要素を空海が「密教」の中に取り入れ、その「密教」をロスチャイルドが信じている……というわけですから。
 
しかし、問題はここからです。
 
「秦氏」は「八幡神社」と「稲荷神社」の建立に深く関わったとされています。これは俗説ではなく、定説です。

(以下、こちらから転載)
 
秦氏は広隆寺をはじめ、八幡神社や稲荷神社等、多くの寺社の建立に長年関わってきたことが知られています。

(転載ここまで)

「八幡神社」も「稲荷神社」もどちらも「赤」にペイントされています。「赤」というとロスチャイルドのシンボルカラーですよね。

これだけでも「秦氏」をロスチャイルドと断定してもいいぐらいですが、さらに話を続けます。
 
八幡神社の「八幡」は「ヤハタ」と読みます。
 
「幡(ハタ)」が「秦(ハタ)」から来ていることは間違いないでしょう。では、「八」は一体どこから来たのか。

ネットをあれこれと調べてみましたが、納得のできるような説明はどこにも見当たりませんでした。
 
しかし、私はこの「八」を見て、すぐに「八岐大蛇」のことを思い出しました。
 
「八岐大蛇」とはロスチャイルドのことです。これについてはお話した通りです。

ということは、もしや「八幡」の「幡」は「大蛇」のことを意味しているのではないか。私はそう思って、「幡」について調べてみました。
 
すると、「幡」が仏教などで使われる以下のような用具のことを意味していることが分かりました。
 
幡–Wikipedia

どこからどう見ても、この「幡」は「大蛇」を表しているとしか思えませんね。
 
ですから、「幡」とはやはり「大蛇」のことだったのです。「八幡」とはまさに「八岐大蛇」のことなのです。
 
先程も言いましたように、「八岐大蛇」はロスチャイルドのことであり、「八幡神社」はロスチャイルドのシンボルカラー「赤」でペイントされている。これはもう単なる偶然ではないでしょう。
 
「八幡神社」を建てた「秦氏」はロスチャイルドだったのです。
 
また、「八幡神社」に祭られている神様のことを調べてみたら、ウィキペディアに「応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神、応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神として祀っている。」とありました。
 
八幡神–Wikipedia

応神天皇は、実在が確認されている最古の天皇です。この応神天皇によって「大和朝廷」が大きく栄えることになりました。
 
ロスチャイルドも「大和族」に与していますので、「大和族」である「応神天皇」を神として祀り上げたとしても何ら不思議ではありません。
 
また、「比売神」はアマテラスとスサノオの間に生まれた三人の女神のことだそうです。

(以下、ウキペディアから転載)
 
比売神
 
アマテラスとスサノオとの誓いで誕生した宗像三女神、すなわち多岐津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・多紀理姫命(たぎりひめのみこと)の三柱とされ、筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降られたと伝えられている。
 
(転載ここまで)

ロスチャイルドは「アマテラス」も「スサノオ」も両方を神として崇めています。これはロスチャイルドならではの特徴でしたよね。
 
なので、「アマテラス」と「スサノオ」から生まれたとされる「比売神」を祀っている時点で、「八幡神社」とロスチャイルドが深く関わっていることは明白なのです。
 
さて、もう一方の「稲荷神社」ですが、この「稲荷信仰」の要素を、空海はこれまた「密教」の中にふんだんに取り入れています。詳しくは以下のリンクをご覧下さい。
 
古代日本のキリスト教徒たち

(一部転載します。)

イナリ信仰の起源

さて、イエス・メシヤ(イシュ・マシャ)が、ウズ・マサという言葉になったとすれば、「JNRI」また「INRI」という言葉は、何になったのか。どうもそれは、「イナリ」という言葉であったようである。「INRIがイナリとなった?

――まさか。稲荷神社のイナリと、景教と一体何の関係があるのか」という人もあるであろう。確かに現在の稲荷神社を見ると、キツネがすわっていたり、赤い鳥居があったりで、質の悪い宗教という感じである。景教とは何の関係もないように見える。

しかしこうした姿は、じつはどうも、イナリ信仰が変質してしまった、なれの果ての姿のようである。もとのイナリ信仰は、もっと別のものであった。イナリ信仰の変質は、空海がイナリ信仰を詔勅(しょうちょく)したときに始まった。空海がイナリ信仰を受け入れて、習合させたことはよく知られている。空海はこのとき、それまでのイナリ信仰を変質させてしまった。

あの稲荷神社の「白キツネ」も、空海が中国から持ち込んだものである。空海は、中国の唐で学んで日本に帰ってから、密教を広めた。このとき、彼は日本でイナリ信仰をも習合した。なぜイナリ信仰なのかというと、それは空海が中国で景教にふれたことに関係がある。

彼は中国で景教の僧と長々と議論をしていて、景教に関する相当な知識を得た。空海の伝えた密教にも、景教の影響が指摘されている。彼は表向きには仏教徒であったが、部分的には、景教の教えにも魅力を感じていたのであろう。その空海が日本に帰ってからイナリ信仰を取り入れたのは、イナリ信仰とは当時、日本における景教の一種だったからである。

イナリは、現在はふつう「稲荷」と書くが、元来は「伊奈利」と書いた。学者は、空海が「伊奈利」を「稲荷」と書くように変えた、と述べている。じつは、もとの字である「伊奈利」は、「いなり」という音に対して当てはめられた”万葉がな”に過ぎない。

つまり「伊奈利」という漢字自体に意味はない。「いなり」という音に万葉がなが当てはめられたのは、それはこの言葉が、もともとは外来語だったからである。INRIという言葉から、「いなり」となったのであろう。

実際、先の秦氏の「木島坐天照御魂神社」(俗名・蚕の社)には、岩屋の中にイナリが祭られている。このように、イナリとはもともと景教のものではないか。

この近くにある、やはり秦氏系の「天塚古墳」にも、前方後円墳の石室にイナリ神が祭られている。長野県の諏訪大社の東北の奥にも、イナリがあり、その入り口には、あの蚕の社と同じ三柱鳥居が立っている。このようにイナリとは、もともとは三位一体の神を信じる秦氏系のものであり、”ユダヤの王ナザレのイエス”――INRIではなかったか。

しかし、景教に親しみを覚えていた空海が、のちにイナリ信仰を密教に習合させてしまったとき、イナリ信仰は本来の景教的特徴を失ってしまった。そしてその後、あの白キツネと、赤い鳥居の、異教的礼拝所に堕してしまったのである。

(転載ここまで)

この記事をよく見てみると、「稲荷」とは「INRI」から来ているとのこと。「INRI」とは「ユダヤ人の王ナザレのイエス」という意味のラテン語です。
 
この「ユダヤ人の王ナザレのイエス」という言葉は、別にイエス・キリストを讃えて言った言葉ではありません。
 
むしろ、その逆です。イエスを処刑したユダヤ人が、イエスを冒涜するためにつけたあだ名です。人を皮肉るためにわざと大袈裟に褒めそやしたりしますよね。それと同じことです。ここに悪魔教の要素がはっきりと見てとれますね。
 
つまり「稲荷神社」とはイエス・キリストを冒涜するための神社だということです。

さらに、「稲荷神社」に祀られている神は、ヒンズー教のダキニ天という女神のことだそうです。
 
稲荷神–Wikipedia
 
ダキニ天というのは、別名ダーキニーとも呼ばれています。
 
荼枳尼天–Wikipedia
 
ダーキニーと聞くと、オウム真理教の教祖・麻原彰昇が囲っていた愛人のことを思い出す方もいると思います。
 
ダーキニー (オウム真理教)–Wikipedia

「オウム真理教」はチベット仏教の左道と言われるものですが、チベット仏教の儀式では、教祖と女性たちとが性行為をします。
 
その性行為のために必要な女性たちのことをダーキニーと呼んでいるのです。こんな淫乱邪悪なものを神として祀り上げているのが、「稲荷神社」というわけですね。

このように「稲荷神社」は悪魔的な要素で充ち満ちています。これは間違いなく悪魔崇拝のための神社だと言えるでしょう。
 
しかもその神社の色が「赤」と来れば、「稲荷神社」にロスチャイルドが深く関わっていることはもう間違いありません。
 
ですから、「稲荷神社」の建設に関わったとされる「秦氏」は、やはりロスチャイルドだったとしか考えようがないのです。
 
さらに、「秦氏」は広隆寺の建設にも関わったとされていますが、「広隆寺」もまた「真言宗」のお寺です。「真言宗」と言えば「空海」ですよね。嫌になるぐらい「空海」ばかり出てきますね。
 
広隆寺–Wikipedia

しかも、この「広隆寺」は聖徳太子信仰のお寺でもあるようですが、「聖徳太子」も実はペルシャ人であり、「妙見信仰」と「シリウス信仰」の両方を持っていたようです。

「妙見信仰」とは「スサノオ信仰」。「シリウス信仰」とは「アマテラス信仰」。この両方を信仰しているのはロスチャイルド。
 
ということで、「広隆寺」にもロスチャイルドが深く関わっていることは間違いありません。
 
このように「秦氏」の建てた建物にはことごとくロスチャイルドが関わっています。こうなってくると、「秦氏」とはロスチャイルドのことだとしか考えようがないですね。
 
ええ、そうです。「秦氏」とは間違いなくロスチャイルドのことなのです。
 
この世には「秦氏」を褒めちぎる有名陰謀論者をよく見かけますが、彼らの言説に惑わされないように注意してください。ロスチャイルドを褒めそやしても何もいいことはありませんからね。

織田信長と豊臣秀吉が日本を「大和族」の天下にし、徳川家康が「出雲族」の天下へとひっくり返しました。

日本の建国に大きく関わった「秦氏」が実はロスチャイルドだったというお話をしました。

「秦氏」というと、これまたとある有名陰謀論者がスーパーヒーローであるかのように大々的に宣伝してきた人物ですが、要するにその陰謀論者また裏社会のエージェントだったというわけですね。

「秦氏」が建てた広隆寺は、聖徳太子信仰のお寺で、聖徳太子といえば「飛鳥時代」。と来れば、「飛鳥」と名のつく人はみんなロスチャイルド系かも知れないということです。

「ということは、ASKAも?」と思ってしまいますが、あり得なくもないですね。

ロックフェラーがロスチャイルドを叩き潰すためにASKAを麻薬所持容疑で逮捕させ、「仁風林」のことを暴露してパソナを叩き潰し、「天皇派」壊滅を狙った可能性は高いです。パソナの社長は南部靖之。南部氏は「創価学会」。「創価学会」は天皇の下部組織ですから。
 
あと、「秦氏」がロスチャイルドだったという記事を読んで、「ロスチャイルドが財閥家になったのはワーテルローの戦いの後なのに、なぜ古代の日本にロスチャイルド家がいたのか。」と質問してきた方がいました。
 
確かにロスチャイルドが現在のような巨大な財閥家になったのは、ワーテルローの戦いの後からです。しかし、ロスチャイルド家がそれ以前から存在していなかったかというと、決してそんなことはないはずです。

そもそも、19世紀にいきなり現れた一財閥家が、悪魔崇拝者のトップ・天皇の臣下になれるわけがありません。天皇家がそんなことを許すはずがありません。

これまで何度か、有史以前にこの世界には天皇を中心としたNWOがあったというお話してきました。恐らく有史以前からロスチャイルド家は天皇の臣下として仕えていたのだろうと思います。

しかし、その日本が12000年前に滅亡し、天皇家もロスチャイルド家もエジプトへと逃げていった。
 
天皇家はその後メソポタミアに移り、すぐに日本に戻っていったわけですが、ロスチャイルド家は世界のあちこちに散らばっていったのでしょう。そして、西洋の王族たちと政略結婚を繰り返しながら、大財閥家へとのし上がっていったわけです。
 
恐らく彼らは、天皇家を世界のトップに担ぎ上げるために、その軍資金を必死で稼ごうとしたのだろうと思います。

実際、彼らはその稼いだ軍資金を使って、田布施一族とともに明治維新を起こし、出雲族の「徳川家」に乗っ取られた日本を「大和族」の天下としたわけです。

恐らくこれが歴史の真実なのでしょう。まあ、なんとも壮大なストーリーです。

ということは、ロスチャイルド家はもともとは西洋人ではなく、日本人であった可能性が非常に高いということになります。
 
つまり「秦氏」は、ロスチャイルドであるといえども、西洋人の風貌をしていたわけではなく、東洋人の風貌をしていたかも知れないということです。
 
実際、「秦氏」が西洋人の風貌をしていたという記録はありませんし、だからこそ我々は「秦氏」がロスチャイルドであることに気付かなかったのではないでしょうか。

私は「平清盛」の母と噂される祇園女御の妹がロスチャイルドではないかというお話をしましたが、この祇園女御も西洋人の風貌ではなく、日本人らしい風貌をしていたのではないかと思います。

やはりロスチャイルド家はもともとは純粋な日本人だったのです。しかも、彼らの姓は古代から「秦」だったのかも知れません。

また、「秦氏」は秦の始皇帝の末裔であるとも言われていますが(詳しくはこちら)、やはりこれも歴史の真実ではないでしょうか。

1万2000年前に日本が滅亡した際、エジプトに渡ったロスチャイルド家の一部が、メソポタミアから中国へと渡っていったということです。
 
秦–Wikipedia

秦の「始皇帝」のあの残虐性から見てみても、彼が悪魔崇拝者であった可能性は高いと言えます。というか、悪魔崇拝者でもなければ、あんな残虐な統治の仕方はしなかったのではないでしょうか。彼はもはや人を人とも思っていない感じですからね。

ですから、「始皇帝」が「秦氏=ロスチャイルド」という推論もあながち間違いではないということです。

さらに「ウィキペディア」を見てみると、「秦氏」のことを「秦の遺民が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)の系統」とする説もあると書かれてありますが、もしかしたらこれも歴史の真実なのかも知れません。

秦の権力者たちが「劉邦」に敗れ、その手から逃れるために韓国へと渡り、その後、日本へ渡っていったということです。

ということは、「劉邦」は「月派=教皇派」だったのかも知れませんが、この辺のことはまだはっきりとは断定できません。今後、詳しく調査していくつもりです。
 
このように「秦氏」がロスチャイルドだったと分かると、歴史の謎がスラスラと解けていきます。
 
そこで今日は、「秦氏 = ロスチャイルド」がこの日本の歴史にどう関わってきたのかを探りつつ、日本史の謎を解き明かしてみたいと思います。
 
先ず、ウィキペディアには「秦氏」の末裔として、以下の氏族があると書かれてありました。

(以下、こちらから転載)
 
秦氏の末裔とされる氏族
 
末裔・枝氏は60ほどあるとされる
 
秦首、秦公、秦人、秦子、秦冠、秦姓
 
勝氏、忌寸氏、部氏
 
朴市秦氏(えちはた) – 近江国愛知(えち)郡
 
内蔵氏、大蔵氏、(漢氏と共通)
 
朝原氏、太秦氏、長蔵氏、長田氏
 
惟宗氏

薩摩島津氏−惟宗氏からの派生氏族、島津氏自体は当初は藤原氏末裔、後に源氏末裔を自称
 
宗氏–惟宗氏からの派生氏族、宗氏自体は桓武平氏末裔を自称
 
執印氏 (鹿児島氏)–薩摩国−宮新田八幡宮社家
 
神保氏、安芸氏、市来氏、川原氏、河俣氏なども惟宗氏の出とされる
 
長宗我部氏−信濃秦氏の秦能俊が土佐国長岡郡宗部郷の地頭となったため改姓
 
川勝氏
 
赤松氏
 
東儀家
 
松下氏−松下氏自体は近江源氏流六角氏の末裔を自称、庶家に花井氏がある
 
(転載ここまで)

今日はこの中の「宗氏」について見てみたいと思います。なぜ「宗氏」なのかというと、「宗氏」こそが日本史の謎を解く大きなカギを握っているからです。
 
まず、「宗氏」のウィキペディアの記事を見てみると、その冒頭にこう書かれてあります。
 
宗氏–Wikipedia

「宗氏(そうし)は、かつて対馬国を支配した守護・戦国大名。惟宗氏の支族だが、室町時代中期頃より平知盛を祖とする桓武平氏を名乗るようになった。」

はい。出ましたね。「宗氏」は「平知盛」から「平氏」を名乗るようになったとあります。
 
「平知盛」とは「平清盛」の息子のことです。私は「平清盛」のことをロスチャイルドではないかと推測しました。

どうやら私のこの推測は間違いではなかったようです。

ということで、早くも「秦氏 = ロスチャイルド = 平家」のつながりが見えてきました。
 
さらに「宗氏」は「対馬国」の戦国大名となり、「九州征伐では豊臣秀吉に臣従して本領を安堵された。」とウィキペディアには書かれてあります。
 
分かりにくい表現ですが、要するに「宗氏が豊臣秀吉を助けて九州を征伐し、その土地を与えてもらった」ということですね。
 
ロスチャイルド系の「宗氏」が「豊臣秀吉」を助けたということは、「豊臣秀吉」もまたロスチャイルド系だったということです。
 
つまり「豊臣秀吉」は「大和族」に与していたということです。(ロスチャイルドは「大和族」の臣下ですから。)

さらに「宗氏」は、「関ヶ原の戦いで西軍に属した」とあります。西軍と言えば、「徳川家」の敵ですね。つまり、「宗氏」は「徳川家」の敵だったわけです。

ということは、これまた私の推測通り、「徳川家」はロスチャイルド系ではない。つまり「大和族」ではなく「出雲族」だったということになります。
 
だからこそ「徳川家康」は関ヶ原の戦いの際、「教皇派=月派」とおぼしきエリザベス一世から武器を提供してもらうことができたわけでしょう。

「出雲族」も「月派」も、「大和朝廷」が開かれた際、日本の実権を奪い取られてしまった者どうし。だからこそ、彼らはこうして互いにタッグを組んで、「大和族」を押さえ込もうとしたわけでしょう。
 
こうして見てみると、ロスチャイルドとエリザベス女王は、同じイギリスを拠点としながらも、実は敵同士だったということが分かります。
 
そのため、ロスチャイルド家の拠点の一つである「シティ・オブ・ロンドン」は、イギリス国内にありながらも独自の法律で守られているわけですね。

(以下、こちらから転載)
 
現在、ロンドンの金融街(City of London)は、世界の財力の中心地であり、世界最大の富が集積された場所となっています。
 
そこにはロスチャイルドのイングランド銀行、世界の保険市場、ロンドン証券取引所、イギリスの各銀行、アメリカの各銀行、そして外資系銀行があります。

また、ここには独自の裁判所、法律、旗があり、また独自の警察部隊まで存在します。
 
この場所は、ロンドン市でも、イングランドでも、英連邦でもありません。従って、政府に税金を納めていません。

 
ここには、出版社や新聞社を支配する独占企業が存在します。また、世界のフリーメーソンの本部もあります。
 
(転載ここまで)

ちなみに、豊臣秀吉の前に天下統一しようとした織田信長が「大和族」と「出雲族」のどちらだったのかというと、明らかに「大和族」ですね。
 
というのも、「秦氏」の末裔である「神保氏」が織田信長にちゃっかり仕えているからです。(「宗氏」も「神保氏」も同じ「惟宗氏」の出。)
 
神保氏–Wikipedia

このリンク記事にはっきりと「神保氏」が「越中を出奔して京に上り織田信長に仕え、越中帰還の機会を待った」とあります。
 
ですから、結論としてはこういうことが言えるでしょう。

織田信長と豊臣秀吉によって日本は「大和族」の天下になったが、「徳川家康」がそれをひっくり返して「出雲族」の天下にした。しかし、田布施一族が再び「大和族」の天下にした……。

ロスチャイルドの謎が解けると、日本史の謎が面白いほどスラスラと解けていきますね。もうこれは歯止めが利きそうもありません。
 
誠に申し訳ありませんが、これで天皇家とロスチャイルド家はますます何も隠し事ができなくなるでしょう。
 
ちなみに、なぜ同じ「大和族」の織田信長が「イエズス会(天皇派)」とグルになり、豊臣秀吉は「イエズス会」を処刑したのか。その謎はいずれお話したいと思います。

「神」も「悪魔」も「あの世」もないという無知蒙昧な人たち。人は自分の理解を超えたものを「異端」としたがります。

はっきり言って、「霊界の存在」を信じられないという人は、今の私には単なるB層にしか見えません。

なぜなら、この世の支配者たちは既に「霊界」について物理学のレベルで研究しているからです。しかも、大金をはたいて以下のような研究施設まで作っています。

ILC PROJECT[国際リニアコライダー計画]

国際リニアコライダー–Wikipedia

この研究施設が何を目的にして作られたものなのかを調べれば、彼らが「霊界」について物理学レベルで研究していることがはっきりと分かるはずです。

なぜそう言えるのか知りたいなら、自分で調べてください。調べたら分かります。調べても分からないというなら、それはあなたの頭が悪いという証拠です。

はっきり言って、私は「量子力学」について学んだとき、物理学者たちは「霊界」の存在を認めているのだなとはっきりと確信しました。

量子力学−Wikipedia

何しろ、「量子」は目に見えないし、壁をするすると通り抜けるし、ワープするような速いスピードで瞬間移動することができるからです。

これはどこからどう考えても「幽霊」の性質と全く同じです。

しかし、はっきりと「幽霊」と言ってしまうとバカにされるので、科学者たちは敢えて「光子」とか「陽子」とか「電子」とか小難しい言葉を使って話をしているだけです。

「いいや、それは違う」という人は、単に自分が何か物事を知っている、と思って悦に入っているだけの人です。(詳しくは以下の本など読んでみてください。)

量子力学のからくり―「幽霊波」の正体 (ブルーバックス)

実際、こういった物理学を詳しく調査した結果、「立花隆」というジャーナリストは、「死後の世界」について「あの世」について研究せざるを得なくなってしまいました。

「立花隆」氏は、「田中角栄」を失脚に追い込むきっかけを作ったジャーナリストです。しかし、彼は政治のことだけでなく、物理学、科学、生物学などの分野についても詳しく調査した人気ジャーナリストです。

立花隆–Wikipedia

私も一時期、彼の本を大量に読みあさったことがあります。

この「立花隆」氏が、物理や科学について深く研究していった結果、「あの世」について深く研究することになりました。果たして「臨死体験」が単なる脳の働きなのか、それとも本当にあの世が存在しているのか、厳密に調査しようとしたのです。

その結果、彼は「あの世がないとは断定できない」という結論に到達しました。科学的な見地から詳しく調べてみた結果、そのような結論に到達せざるを得なかったのです。

その結果をまとめたのが以下の本になります。

臨死体験〈上〉 (文春文庫)

臨死体験〈下〉 (文春文庫)

もしあなたが「霊界はない」「あの世はない」「悪魔はいない」と言うなら、先ずはこの本を読んでからにしてください。

でなければ、私はそんな人のことは最初から相手にしません。

また、この本を読んでも、自分の感情と偏見だけでこの本の内容を好き勝手に判断し、「こんな本はインチキだ」と言う人も私は相手にしたくはありせん。

きちんと客観的な立場に立って物事を語れる人だけをこれからは相手にしようと思います。私もそのような立場を貫いてこのブログを書きつづけてきたからです。

「源義経」がロスチャイルドの傀儡となり、その孫のフビライ・ハンが元寇を起こしました。

「物理学」の世界においても「霊界」の存在は既に認められていて、物理学者たちはあくまでそれを認めない振りをしているだけだというお話をしました。

要するに、今さら「霊界」や「神」や「悪魔」とか否定する方が実はおかしいというわけで、この世の支配者たちは「霊界」の存在について物理学のレベルで認知し、研究しているにもかかわらず、我々庶民にはそれを一切教えないわけです。
 
相変わらず「霊界」うんぬんと言う人のことをオカルト扱いして弾圧するわけですね。小保方さんにやったみたいに。
 
美輪明宏とか江原啓之のように「輪廻転生」というデタラメを混ぜて「霊界」の話をする人だけが大絶賛されるわけです。そうやって「前世」という嘘で儲けようとする人たちのバックアップをしているわけです。

「占い師」とは本来、未来のことを言い当てるのが仕事だったはずですが、「輪廻転生」という概念が流行してからは、過去のことを言い当てることが仕事となりました。
 
そうすると、彼らがどんな適当なことを言っても、誰にもインチキだとばれません。誰も「前世」のことなんか分かるわけがありませんから。(ないものは分かりませんからね。)
 
そのため、裏社会の連中は何が何でも「前世」ブームを捏造しなければならなかったわけでしょう。
 
しかし、「輪廻転生」はなくても「霊界」は存在します。そして、その「霊界」には「悪魔」が存在していて、その「悪魔」を拝んでいるのが天皇であり、ロスチャイルドです。
 
この世で「霊界」について正しく書かれてある書物は「聖書」のみなので、「聖書」を読んだことのない日本人には絶対にこの世のカラクリが分からないようになっているのですが、例え外国人が「聖書」をたくさん読んでいたとしても、今度は逆に彼らには「神道」や「仏教」のことが分からない。

なので、「天皇がこの世の悪の頂点である」という事実は誰にも暴けないようになっていたのです。
 
ところが、私がたまたま日本人として生まれて、たまたま「聖書」を読み、たまたま陰謀論について調べたため、この世のカラクリをほぼ完全に解明してしまいました。

今日はまたしても日本史の新たな謎を解き明かします。
 
今日のテーマは「源義経」です。
 
これまた謎の多き人物ですが、皆さんもご存知の通り、彼は「源頼朝」の異母弟であり、彼とともに「平家」を倒した人物です。

この「源頼朝」と「源義経」は兄弟でありながらやがて敵対するようになり、「義経」はその戦いの末に自害したとされています。
 
しかしながら、「義経」というのは実は死んでいなかった、実は北海道に逃げていた、モンゴルに渡ってチンギス・ハンになっていた……等々、様々な噂が流れています。

このように謎多き人物というのは、おおよそ誰かがその人物についての真相を捏造している可能性が大です。
 
「秦氏」にしても、そもそも何者なのかも分かりませんでしたし、「平清盛」にしても、天皇の臣下がなぜあんな異例の大出世をしたのか、誰にもその理由が分かりませんでした。しかし、よくよく調べてみると、実は彼らはどちらもロスチャイルド。
 
連中が彼らの真相を隠したがるのも当然というものです。
 
「源義経」もまた謎多き人物ですので、やはりロスチャイルドと何か関わりがある可能性が大なのですが、結論から先に言うと、やはり「源義経」は明らかにロスチャイルドの傀儡です。
 
その根拠をご説明します。
 
先ず、彼は幼い頃に「鞍馬寺」に預けられ、「鞍馬天狗」から剣術を習ったとされています。

「鞍馬寺」とは「サナト・クマーラ」という悪魔が祀られたお寺であり、「サナト・クマーラ」は「スサノオ」のことです。そして、「スサノオ」はもともと「バアル」という名の悪魔でした。

この「バアル」を拝んでいるのは「出雲族」と「ロスチャイルド」です。
 
ただし、「出雲族」は「スサノオ」を最高神としていますが、「ロスチャイルド」は「スサノオ」を拝みつつも「アマテラス」を最高神としています。それが両者の大きな違いです。

とはいえ、ロスチャイルドも「スサノオ」を拝んでいる以上、「スサノオ」を祀る鞍馬寺とはやはり何かしら深い関係があったはずです。実際、鞍馬寺にはロスチャイルドを象徴する「赤」があちこちにペイントされています。

この鞍馬寺には「鞍馬天狗」がいて、その天狗から「源義経」は剣術を習ったと言われているわけですが、人によってはこの話をただの伝説、おとぎ話と思っているかも知れません。

しかし、このブログを長く読まれた方で、勘のいい方なら、これが伝説ではなく、本当の話であることがすぐに分かるはずです。
 
何しろ天狗は「赤」い顔をしていますからね。「赤」と来ればロスチャイルドですよね。つまり、「鞍馬天狗」がロスチャイルドであった可能性が高いわけです。
 
しかも、このロスチャイルドは「秦氏」や「平清盛」のように日本人の風貌をしていたのではなく、きっと西洋人の風貌をしていたと思います。

ユダヤ人は、「天狗」のような巨大な鼻をしています。メイクでもしているんじゃないかというぐらい巨大な鼻ですよね。
 
「天狗」が頭につけた黒いしるし。これはユダヤ教徒の「しるし」ではありません。本物のユダヤ教徒はこんなものはつけません。これは悪魔教徒たちが付ける「しるし」です。以下のリンクをご覧いただけば、それがすぐに分かります。
 
オカルト象徴主義:サターン崇拝 By Vigilant

「トーラー」とはモーセ五書のことですが、一方の「タルムード」はいわゆる偽ユダヤ教徒たちが用いる悪魔教の教典です。詳しくは以下のリンクをご覧下さい。

「天狗」というのは西洋人のように鼻の大きな「偽ユダヤ教徒」だったというわけです。その容姿が「赤い」とされているのは、「天狗」がロスチャイルドだったという証拠でしょう。
 
そのロスチャイルドから訓練を受けた「源義経」が、ロスチャイルドの傀儡にならないわけがない。
 
いやいや。「義経」は壇ノ浦の戦いで「平家」を討伐したじゃないか。「平家」もロスチャイルドで、「義経」もロスチャイルドなら、彼らが争い合うわけがない。
 
そう思う方もいるかも知れませんが、以前もお話しました通り、「壇ノ浦の戦い」で自害したとされる「安徳天皇」は実は死んではおらず、「平家」の兵士たちとともに高知に逃げていました。

恐らく「義経」はわざと「安徳天皇」や平家たちを取り逃し、「頼朝」には彼らを討伐したと嘘をついたのでしょう。ロスチャイルドからそうしろと命令されていたに違いありません。

「頼朝」がその嘘に気付いて「義経」と対立するようになったのではないでしょうか。そう考えると筋が通ります。
 
その後、「義経」は「頼朝」に追われて自害した、ということになっていますが、これもまた実に怪しいところです。どうも「義経」は生きていて、北海道に逃げ込んだ可能性が高いです。

「義経」はその後、ユーラシア大陸へと渡っている可能性があるというわけですが、実は彼こそがチンギス・ハンであり、モンゴル帝国を築いたという説もあるのです。
 
義経=ジンギスカン説–Wikipedia

もっとも、この説は多くの人たちから俗説と言われていますが、果たして本当のところはどうなんでしょうか。
 
大体において、俗説とされる話こそ真実である可能性が高い……。このブログの読者の皆さんなら、そんなことはもう十分にお分かりのはずです。
 
私自身もこの話は大いにあり得ることだと思っています。というのも、モンゴル帝国はその後、「頼朝」の作った鎌倉幕府を攻めてきましたからね。かの有名な「元寇」です。
 
元寇–Wikipedia
 
どうしてこのときモンゴルが急に日本を攻めてきたのか、色んな人が色んな理由をあれこれとこじつけてきましたが、やはりこれは「義経=ロスチャイルド」による「鎌倉幕府=出雲族」潰しだったのではないでしょうか。
 
その証拠に、「元寇」があった際、「元」の兵士たちはこんな旗を持っていました。

赤字に白い「日の丸」。まさに「日の丸」と正反対の旗です。
 
どうして日本と全く縁のないはずのモンゴルの兵士たちが、こんな「日の丸」そっくりの旗を持っていたのでしょうか。彼らがもともと日本と何か関係があったということではないでしょうか。
 
恐らくこの旗の意味するところはこうなのでしょう。世界の中心である日本が「出雲族=白」に乗っ取られ、その周辺国のモンゴルが「ロスチャイルド=赤」になった……。
 
「元寇」を行ったのはフビライ・ハンです。で、このフビライ・ハンはチンギス・ハンの孫。
 
チンギス・ハンが「義経」だったから、その孫のフビライ・ハンがこんな旗を持っていたのではないでしょうか。天敵である「鎌倉幕府=出雲族」に戦いを仕掛け、日本を再び「大和族」のものにしようとしたわけです。そう考えると、全てに辻褄が合います。

もっとも、「元寇」があったときの幕府のトップは「北条時宗」ですが、北条氏は実のところ「桓武平家」の血筋だと言われています。源氏の血筋ではないのです。
 
北条氏はもともと桓武平氏の出であったのにも関わらず、源氏を助けたの… – Yahoo!知恵袋
 
とすると、「モンゴル=ロスチャイルド」が「平家=ロスチャイルド」を攻めたということになり、これでは辻褄が合いません。ロスチャイルドがロスチャイルドを攻めるわけがないからです。
 
しかし、「桓武平家」には本流と分流があり、「北条氏」は本流。「平清盛」は分流になります。
 
つまり、「平家」はもともと「出雲族」であり、彼らが本流となった。

「平清盛」から出た分流のみがロスチャイルドになったというわけです。

ですから、おおまかな話の流れはこうなります。

1. 出雲族であった「義経」が鞍馬寺に預けられる。
 
2. 鞍馬寺にいたロスチャイルドが、「義経」を自分の傀儡として育成する。
 
3. 「義経」はロスチャイルドのスパイとして源氏に潜伏。
 
4. 「義経」は壇ノ浦の戦いで「安徳天皇」や平家の武士たちをわざと取り逃し、平家を討伐したと嘘をつく。(実際に討伐していないという話もありますしね。)
 
5. 「頼朝」は「義経」がスパイであることに気付き、討伐を企てる。
 
6. 「義経」は日本から逃れ、チンギス・ハンと名乗ってモンゴル帝国を建国。
 
7. その孫フビライ・ハンが「元寇」を起こし、日本を「大和族」のものにしようとして失敗する。

こう考えると、謎だらけだった日本史の謎がスラスラと解けていきます。全てが理路整然とつながります。なので、「チンギス・ハン=義経」説はやはり本当ではないかという気がしますね。
 
ちなみに、「源義経」の幼名は「牛若丸」ですが、この名前がどこから来たかと言えば、恐らく「バアル」から来ているのでしょう。「バアル」とは「牛頭神」のことですから。
 
要するに、日本の歴史上のヒーローはそのほとんどが悪魔ということです。何しろ、日本の歴史を作り、書き残しているのが悪魔なのですから。

いかがでしたでしょうか。

まさか、そんな、という連続だったかも知れません。私も今回の内容に関しましては、飲み込むことに時間を要しました。神仏に対して、しっかりとした信仰心をお持ちの方ほど、衝撃が大きかったかと思います。

しかし、rapt氏によって解明された歴史について、納得せざるを得ませんでした。悪魔がさんざん私たちを騙してきた長い年月。なんという悪魔の卑劣さ。その存在を崇めているのがこの世界のトップたちですので、本当に恐ろしいことです。

悪魔は悪魔の力によって魔除けとなっているに過ぎません。

ただ、強い悪魔が弱い悪魔を退治しているだけなのです。

悪魔を拝み続けても、本当の幸福は得られません。悪魔に願いを叶えて貰っても、その後の人生は破滅の道へと進んでいきます。

これを機に本当に心が救われるように、rapt理論を紹介しています。神様は、常日頃から真面目に生きている人たちを悪魔の手から救いたいのです。

旧約聖書

エレミヤ書 51ー1〜14

主はこう言われる。

「わたしはバビロンに対しレブ・カマイの住民に向かって滅びの風を巻き起こす。わたしはバビロンに外敵を送る。彼らはバビロンをふるいにかけ、その国土を裸にする。災いの日に、彼らは四方からバビロンに迫る。」

弓を射る者に弓を張らせ、鎧を着けて身構えさせよ。バビロンの若者たちを惜しんではならない。その軍を全て滅ぼし尽くせ。カルデア人の国には、殺された者が、路上には刺された者が倒れる。

イスラエルとユダはその神、万軍の主に見捨てられてはいない。カルデア人の国には罪が満ちている、イスラエルの聖なる方に背いた罪が。

お前たちはバビロンの中から逃げおのおの自分の命を救え。バビロンの悪のゆえに滅びるな。

今こそ、主が復讐される時、主はバビロンに仇を返される。

バビロンは主の手にある金の杯、これが全世界を酔わせた。国々はその酒を飲み、そのゆえに、国々は狂った。にわかに、バビロンは倒れ、砕かれた。バビロンのために嘆け。その傷に乳香を塗れ。いえるかもしれない。

我々はバビロンを癒そうとした。しかし、癒されはしなかった。バビロンを捨てて、おのおの自分の国へ帰ろう。バビロンの審判は天に達し、雲にまで届いた。

主は、我々の正しさを明らかにされた。さあ、我々はシオンで我らの神、主の御業を語り告げよう。

矢を研ぎ澄まし、盾を用意せよ。主はメディアの王たちの霊を奮い起こさせる。バビロンに対する主の定めは滅ぼすこと。これこそ主の復讐、主の神殿の復讐だ。

バビロンの城壁に向かって旗を立て、見張りを強化せよ。見張りの者を立て、伏兵を置け。主は思い定め、それを実行される。バビロンの住民に告げられたことを。

豊かな水の傍らに住み、財宝に富む者よ。お前の終わりが来た。命の糸は断たれる。万軍の主は、御自分にかけて誓われた。

「わたしは必ず、いなごの大軍のような人々でお前を満たす。彼らはお前を攻め、叫び声をあげる。」

万軍の主は、唯一無二の存在なのです。

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