聖書、解き明かし
日本人には、馴染みの深い神社仏閣。
日本の象徴とも言える、古くからの建築物。世界遺産になっているものも多々あります。そういった日本の宗教や文化遺産が、古代の悪魔崇拝者たちによって偽の神様とすり替えられて伝えられてきました。
そのようなことが、巧妙に何年もかけて日本に拡まっていったのです。
もう、ここまで時間をかけて先祖代々浸透してしまったら、現代の日本人のほとんどが八百万の神を拝んだことがあるでしょう。
聖書では、偶像崇拝は罪だとはっきり書いてあります。
まずは、こちらの記事をお読みください。
悪魔を拝んで人生を破壊する生き方から、神様を拝んで人生を幸福にする生き方へ。
我々がいかにして悪魔の支配体制を破壊していくか、その方法について具体的に考察してきました。
私としては特に「天皇制の廃止」は皆で祈るべき最大の課題ではないかと思っていますし、今後、皆さんがお祈りする際には、ぜひとも「天皇制の廃止」のためにもお祈りしてみてください。
もちろん、今まで何度も話してきましたように、天皇制が廃止され、天皇がこの世からいなくなったところで、「悪魔」どもはまた別の人間を使ってこの世を牛耳ろうとするに違いありませんが、とりあえず天皇が権力を失えば、一時的には悪魔崇拝者たちの間で何かしら混乱が起きるはずです。
そうすると、悪魔どものやろうとしていた様々な計画が頓挫し、我々のやろうとしている計画が少しは遂行しやすくなるかも知れません。
つまり、皆さんそれぞれが各分野の専門家となり、その分野を治めつつ、強力な情報発信者となる、という計画を、さして邪魔されることなく、スムーズに遂行していけるというわけです。
で、このような我々の計画がうまく完遂できれば、その後、誰が悪魔崇拝者のトップに立ち、この世を牛耳ろうとしても、そのときには我々の方が彼らよりも強い力を持っているかも知れません。
なので、ぜひとも「天皇制の廃止」を一つの項目として毎日お祈りしてみて下さい。
場合によっては、近いうちに「天皇制」の存続を脅かすような何らかの事件が起きるかも知れませんし。
はっきり言って、悪魔を拝むような人間がこの世のトップに君臨し、なおかつ国民にもそのトップ(天皇)を国家主導で神として崇めさせる、というのは余りにひどい異常事態としか言いようがありません。
これまで多くの人たちが、何が神様で、何が悪魔なのかも知らないまま、ただやみくもに周りの誰かが神様だと言ったものを拝んできたと思いますが、その結果、どれだけ多くの人たちが自分の人生を台無しにしてきたでしょうか。
実際、「天皇」を神のように拝んでいた戦前の人々も、とんでもない運命を辿ることになってしまいました。
いいえ。「天皇」だけではなく、「神社仏閣」とて同じことです。
霊的に敏感な人ならばおおよそ分かることだと思いますが、この世にある「神社仏閣」のほとんどには何かしら変な霊が住み着いています。
例えば、あなたの近所にある小さな潰れかけの神社、あるいは実際に潰れてしまった神社にも、変な霊がうようよとしているはずです。
偶像の周りは、いつもそのように変な霊の溜まり場となってしまうのです。
現在でも、多くの人々が神社仏閣に行って拝んでいますが、そんなことを何年も続けて、本当にあなたは幸せになれたでしょうか。
これは私の体験談ですが、私の地元に、賄賂をもらって町の役場を首になり、アルバイトを始めた元役人と、ちょっとしたきっかけで顔見知りとなったことがありました。
あるときその役人の家にお邪魔したことがあったのですが、その家のリビングには何十万としそうな立派な仏壇が飾られていて、線香の匂いもプンプンしていました。
しかしその人は、その仏壇を毎日拝みつづけた結果、賄賂をもらって役場をクビになり、時給数百円のアルバイトをして食いつなぐという生活に落ちぶれてしまったのです。
なのに、その人は本物の神様を知らなかったので、何が善で何が悪なのかも分からず、悪魔に誘惑されるままに悪を行って、自分の人生を台無しにしてしまったのです。
そして、そのような人がこの世には余りにも多い。それがこの世の現実です。
そんなことにならないためにも、我々は本物の「神様」を知って、本物の「神様」のみを拝むべきなのです。
ということで、今日はその本物の「神様」について、さらに具体的にお話ししようと思います。
この世の多くの人たちは、「神様」と聞いてどんな姿を思い浮かべるでしょうか。
やはり「神社仏閣」に飾られた偶像のような姿を思い浮かべるでしょうか。
それとも、「光」とか「エネルギー」とか、そんなものを思い浮かべるでしょうか。
聖書には「神様」についてはっきりとこう書かれてあります。
旧約聖書
創世記 1ー24
神は言われた。
「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」
そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
神は自分のかたちに人を創造された……つまり、「神様」も人間と同じ形をしているということですね。
しかも、神様は自分のことを「我々」と言っています。ということは、神様は一人だけではないということです。
まあ、これは分かり切ったことですね。神様は「三位一体」の神様である、とよく言われますが、神様は実は三人いるのです。
この三人とは当然、「神」と「聖霊」と「御子」のことです。
しかし、この世のクリスチャンたちの大半が「神」も「聖霊」も、人間と同じ形をしているとは思っていません。
一応、「御子」のことはイエス・キリストだと思っているので、「御子」と聞くとイエス・キリストという人間の姿を連想するでしょうが、「神」「聖霊」と聞いても、ほとんどのクリスチャンは人間の姿を思い浮かべません。
「光」「エネルギー」のような漠然としたものを思い浮かべます。それだけこの世のキリスト教の教理が、悪魔どもによってねじ曲げられてしまっているという証拠です。
普通に考えて、「御子」であるイエス・キリストが、神様のことを「父」と読んでいるわけですから、「神様」は男性のような姿をしているに違いありません。
この「父」である神様が、一人で「御子」を生めるわけがありませんから、当然「御子」には母がいるということです。
となると「聖霊」こそが母にあたるのではないでしょうか。つまり「聖霊」とは女性の神様だということです。この辺のことはクリスチャンよりも、悪魔崇拝者たちの方がきちんとよく分かっています。
悪魔崇拝者たちは、自分たちの作った神話の中に「父」「母」「子」の三位一体の神を必ず登場させます。以下の画像を見ての通り、エジプトの神話もやはりそうです。
エジプトの太陽信仰が悪魔教であることはもう既に分かりきったことですが、悪魔崇拝者たちは悪魔を拝んでいることを隠すために、このような聖書に似た「神話」を作り、自分たちがこの「神話」の神様を拝んでいる振りをしてきました。
「天皇家」が実際は悪魔を拝んでいながら、「天照大神」を拝んでいるかのように装ってきたのと同じことです。
しかし、私がこのように「聖霊」のことを「母」であり、女性の神様だと言うと、この世の多くのクリスチャンが私のことを「異端」だと言うでしょうね。
この世のクリスチャンは聖書をろくに読まずに、牧師から聞いた話だけを信じていますし、その肝心の牧師が「聖霊」のことを女性の神様だと思っていないからです。
しかし、聖書の中にはっきりと神様が「我々」に似せて人間を作ったと書かれているのですから、人間と同じように、神様にも「男」と「女」がいるはずなのです。
それに、もし「神様」が男だけだったら、この世の空気が固くなってしまいますよね。
家に帰っても父親しかいないと、空気が固くなってしまうのと同じことです。母親がいるからこそ、その家の空気も少しは和むわけです。(もちろん、家庭にもよると思いますが……。)
親が厳しいばかりでも、優しいばかりでも、子供は親の言うことを聞きませんからね。
それと同じく、「神様」は我々人間に対して厳しく接し、「聖霊」は我々人間に対して優しく接して下さるのです。
我々が祈ると「聖霊」が臨み、我々の心に安らぎが与えられ、希望と喜びが与えられます。それは「聖霊」が私たちのことを母のような優しい心で愛して下さっているからなのです。
「聖霊」には悪霊を追い払い、人の心を安らかにする力があります。
この癒しの力を一度体験してしまうと、その人はもう祈らずにはいられなくなるでしょう。 とはいえ、人というのは癒されてばかりいても何の進歩もないので、神様が「ああしなさい」「こうしない」と厳し戒めを与えてくるわけですね。ときに人が間違いを犯すと、厳しく裁いたりもします。
そのようにして「三位一体」は、この世の中の秩序が乱れないようにしてきたわけです。確かにこの世の中は、これまでずっと悪魔の支配を受け、どんどんおかしな方向に流されてきました。我々の精神も、環境も、政治も経済も学問もすべてが破壊されてきました。
しかし、それでも人類は少しずつ進歩し、この世の中も少しずつ良い方向に向かって進んでいます。例えば、三十年前の世の中にはパソコンもなければスマホもありませんでした。車だって我々庶民みんなが持っていたわけではありません。
ところが、今では一家に一台は車もパソコンもスマホもあるような便利な時代になりました。また、悪魔どもがありとあらゆる食品の中に添加物を混ぜて、我々の健康を害そうとしてきましたが、それでもなお我々は昔に比べて健康になっています。
実際、江戸時代と比べると、日本人の平均寿命はほぼ倍ですよね。それだけ神様が我々人類のことを見放すことなく、よい方向に導いてきて下さったという証拠です。
なので、あとは我々が神様に感謝して、恩返ししていくべきなのです。
少なくとも私はそう思います。
つまり、我々一人一人が悪から離れて、善良に生きていくこと、そしてこの世の中を善良な世界に作り替えていくのです。
そうすることで、自分自身もまた平和に幸福に暮らすことができるようになりますしね。神様のために生きると、その分、自分の人生にも良いことが起こるということです。
今までは、悪魔のために生きて、その分、自分の害になるという悪循環を繰り返してきました。
しかし、これからは神様のために生きて、自分を幸せにするという好循環を手に入れていくべきです。
皆さんの祝福をお祈りしています。
キリスト教最大のタブー。イエス・キリストの「肉体」が生き返ったという大嘘。
キリスト教に関する記事をいくつも書いてきましたので、この際ですから、今回はキリスト教最大のタブーに迫ってみたいと思います。
私のブログにはキリスト教のことが沢山書かれてありますので、もしかしたら多くのクリスチャンの方がこのブログを読みに来て下さっているかも知りません。
そして、そのクリスチャンのほとんど(というかほぼ全員)が、聖書に書かれてあるイエス・キリストの復活をそのまま信じているのではないかと思います。
つまり、イエス・キリストが死んだ後、三日後に生き返ったと信じているわけです。
さらにはそのイエス・キリストが、四十日後に天に昇っていったという話まで信じているのではないでしょうか。それを信じなければ、クリスチャンではないと言われてしまいますからね。
しかし、はっきりと言います。
死んだ肉体がどうして再び生き返ることができるでしょうか。
特にイエス・キリストは十字架に磔にされて衰弱死してしまったのです。
手のひらと足首とに大きな釘を打たれて十字架に磔にされましたので、当然、大量の出血があったことでしょう。ですから、出血多量で死んだとしてもおかしくはありません。
十字架刑というのはそのような残酷な刑なのです。
しかも、イエス・キリストは十字架に磔にされるまで、さんざん激しく鞭を打たれました。
その鞭には鉄製のカギのようなものが沢山ついていましたので、鞭打たれるたびに肉がむしり取られ、かつ大量の血が飛び散りました。
しかも、イエス・キリストの頭には茨で作った冠まで被せられましたので、頭からも大量の出血があったはずです。
詳しくはメル・ギブソン監督の「パッション」という映画をご覧になってみてください。
パッション (2004年の映画) – Wikipedia
この映画は、イエス・キリストが鞭打たれて十字架刑によって死ぬまでの過程をかなり具体的に映像化したもので、日本では余りヒットしませんでした(というか、相手にもされませんでした)が、アメリカなどのキリスト教国では空前の大ヒットを飛ばしました。
イエス・キリストは普通ではない悲惨な死に方をしました。
にもかかわらず、イエス・キリストの「肉体」がどうして生き返ることがあるでしょうか。
いえ、仮に生き返ったとしても、こんなボロボロの「肉体」がまともに機能を回復したりするでしょうか。
普通に考えれば、絶対にそんなことはあり得ません。
にもかかわらず、クリスチャンの多くが、イエス・キリストの「肉体」が三日後に生き返ったと信じています。
まあ、仕方がありません。確かに「聖書」にはイエス・キリストが死んだ後、イエス・キリストが弟子たちの前に再び現れたとはっきりと書かれてありますからね。
…………………
新約聖書
ルカによる福音書 復活する 24ー1〜12
そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちは、これらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
…………………
しかも、イエス・キリストが生き返った後、四十日後にイエスが昇天したとまで聖書には書かれてあります。
新約聖書
使徒言行録 イエス、天に上げられる 1ー6〜11
さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか。」と尋ねた。
イエスは言われた。
「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。
すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
…………………
しかし、果たして人間の「肉体」が空高くへと飛んでいくことができるでしょうか。
絶対にできませんよね。
では、「聖書」には嘘が書かれてあるのでしょうか。
まあ、そう思う人もいるでしょう。
しかし、聖書をすべてきちんと読んだ人は、聖書に書かれてあることが全て嘘だとは到底思えないはずです。
では、イエス・キリストは本当に生き返って、天に昇っていったのでしょうか。
この際ですので、はっきりと言いましょう。
イエス・キリストが死んでから三日後に蘇り、さらに四十日後に昇天したということは、つまりイエス・キリストの「肉体」が復活したのではなく、イエス・キリストの「霊体」が復活したということではないでしょうか。
そう考えると、全てがすんなりと理解でき、納得できるのではありませんか。(もっとも、この世のクリスチャンはこんな話をする私のことを「異端」と呼ぶでしょうが。)
しかし、この世のクリスチャンたちは、人間に「霊」と「肉」があることを知らないので、このイエス・キリストの復活を無理やり「肉体」の復活だと思い込み、信じ込んでいるわけです。
今まで何度も言ってきましたが、聖書にはっきりとこう書かれてあります。
新約聖書
テサロニケの信徒への手紙 結びの言葉 5ー23〜25
どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。
兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。
このように聖書には、人間には「肉」と「心」と「霊」があるとはっきり書かれてあります。
なので、もしクリスチャンたち全員がこの聖書の言葉をちゃんと理解して、人間に「霊」と「肉」があると分かっていれば、イエス・キリストの復活を「肉体」の復活とは考えず、「霊体」の復活だと考えていたのではないでしょうか。
そもそも聖書には、イエス・キリストの復活が「霊体」の復活であることを仄めかすような記述もあります。
新約聖書
ヨハネによる福音書 イエスとトマス 20ー24〜29
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしは主を見た」と言うと、トマスは言った。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて、八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。
戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように。」と言われた。それから、トマスに言われた。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ。」と言った。イエスはトマスに言われた。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」
このようにイエス・キリストはドアから入らず、いきなり部屋の中に現れたのです。これは明らかにイエス・キリストの「肉体」ではなく「霊体」が現れたということではありませんか。
とはいえ、イエス・キリストの「霊体」は「肉体」と同じぐらいはっきりと見えたのでしょう。少なくとも、聖書の記述を見ると、どの弟子たちもイエス・キリストの「肉体」が蘇ったと勘違いしているかのように見受けられます。
そして、そう勘違いしたまま「聖書」を記述したような箇所も見受けられます。例えば以下のように……。
新約聖書
ルカによる福音書 弟子たちに現れる 24ー36〜43
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように。」と言われた。
彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか。」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
ここまで書かれると、確かにイエス・キリストの「肉体」が復活したのではないかと思ってしまいます。
しかし、よく考えてみてください。
「新約聖書」が書かれたのは今から二千年も前のことです。そして、二千年前には今のような科学的な知識はありませんでした。
「聖書」を書いた人たちは、現代のような科学的な知識もないまま、ただ見たまま聞いたままを書いたわけです。となると、我々現代人はきちんとそのことを念頭に置いた上で「聖書」を読み、解釈しなければなりません。
二千年前の人たちの考えていたことを、我々現代人がそのまま受け入れてはいけないのです。そうでなければ、それは「信仰」ではなく「妄想」になってしまいます。
ところが、例の如く、悪魔どもがこの教理をねじ曲げてしまいました。
イエスのこの復活は「肉体」の復活であり、イエスを信じた人も死んだ後はその「肉体」が復活するのだと、クリスチャンたちに無理やり信じ込ませてきたのです。
キリスト教国の多くが、「火葬」ではなく「土葬」を行うのも、実は死んだ人の「肉体」がいずれ復活すると信じているからです。
しかしながら、死んだ人がゾンビのように復活したという話を、今まで一度でも聞いたことがあるでしょうか。
一応、仮死状態になっていた人が棺桶の中で生き返ったという話なら聞いたことはありますが、死んでから何日も経った人が墓から生き返ったという話など一度も聞いたことがありません。
ですから、このイエスの復活は「肉体」の復活ではなく「霊体」の復活だと解釈するべきなのです。
実を言うと、私が「聖書の解説書」を読むなと言ったのも、ここに大きな理由があります。
「聖書の解説書」を書いた人たちの多くは、「聖書」が何千年も前に書かれた書物であることを考えず、「聖書」に書かれたことを全てそのまま鵜呑みにしています。
そのため、科学的知識と噛み合わないことを平気で信じて、それを我々にまで信じるように押しつけてくるのです。
科学的知識と「聖書」の記述とが噛み合わなければ、その場合は「聖書」の記述を正しいと考えろとまで言ったりもします。
しかし、そんな無茶な話をするからこそ、多くの人が「聖書」を敬遠してしまうのです。
まさに悪魔の計らいとしか言いようがありません。
わざと誰にでも分かる嘘を混ぜることによって、誰もが聖書を信じないように仕向けてきたのでしょう。
このため、私のブログを読んで試しに「聖書」を読み、「聖書」を読んでも意味が分からないと思って、「聖書の解説書」を読んだ人の中には、もう既に「聖書」はインチキだと思って読むのをやめてしまった人もいるかも知れません。
「聖書」に書かれてあることの意味を理解することも重要ですが、まずは一通り「聖書」を読み、おおよその概要を掴んでみてください。
そうすると、仄かに浮かび上がってくる「悟り」みたいなものがあるはずです。
さらに「聖書」を読み続けることによって、その仄かな「悟り」がいずれはっきりとした「悟り」になっていきます。
それだけでも心に深い感動が湧いてきますが、そのような「悟り」をさらに幾つも積み重ねていくことで、自分の人生に何らかの答えを見出し、心に大きな希望や喜びが湧いてくるようになるのです。
それは他のどんな本を読んでも得られない幸福な体験です。
ぜひとも私は皆さんにそのような体験をしてほしいと思います。
キリスト教最大のタブーその二。聖書に書かれた奇跡はほとんど奇跡ではない。
前回はキリスト教最大のタブーである「イエス・キリストの復活」についてのお話をしました。
一言で言うと、イエス・キリストの復活は「肉体」の復活ではなく「霊体」の復活だったということです。
しかし、「天皇派」の悪魔崇拝者たちは、私がこうしてブログの中で「聖書」のことを書くのをとても嫌がっているので、私が少しでも「聖書」の話題を持ち出すと、必ずといっていいほど嫌がらせのメールやコメントを送りつけてきます。
しかも、私が「聖書の解説書」なんか読むなと言った矢先に、何人もの人たちが聖書の「解説書」や「解説者」について、どう思いますかとか、自分はこう思いますとかいった、つまらないコメントやメールを書いて送ってきました。
もっとも、その「解説書」によって聖書がよく分かるようになったとか、聖書に興味を持つようになったかと言うのならまだ分かるのですが、その「解説書」に「聖書」は間違いだと書かれている、その「解説書」の方が「聖書」より正しい、みたいことを書いてくる人がいるのですから、呆れてものも言えません。
つまり、私が記事にした内容を全く理解していないわけです。
はっきり言いますが、私は「聖書」を読むことでこの世界のカラクリをほぼ完全に解き明かすことができました。
しかし、あなたが「聖書」よりも正しいとするその書物を読んで、この世界のカラクリを解けたでしょうか。
まあ、百年かけても無理でしょうね。ということで、今日もまた彼らが書いてほしくない「聖書」のネタを書きます。
日本人は宗教嫌いとよく言われますが、決してそんなことはないということです。
とはいえ、前回の記事は、クリスチャンにとってはかなりぎょっとするような内容だったと思いますし、中には私のことを「異端」もしくは「危険人物」と思ったクリスチャンもいたかも知れません。
何しろ「キリストの復活」をある意味で否定したわけですからね。
その一方で、クリスチャンでない人にとっては、前回の記事は胸がすっきりするような内容だったのではないでしょうか。
聖書に書かれてある通り、イエス・キリストの「肉体」が生き返ったと信じるのは、いくら何でも無理がありますからね。
これは「キリストの復活」だけに限らず、聖書に書かれた他の奇跡についても同じことが言えます。
聖書には絶対に起こり得ないような奇跡がたくさん書かれてありますが、当然、現代人にはそれらの奇跡を心から信じることはできないと思います。
「聖書」をたくさん読んできた私にさえそれはできません。
こんなことを言うと、多くのクリスチャンたちから「いや。イエスは神の子だったから奇跡を起こせたのだ」と言われそうですが、私から言わせてもらうと、そんな現実味のない信仰を持っているから、教会の信者の数もどんどん減っているのです。
もっとも、祈りによって病気が治ったという程度の話であれば、現代でも実際にあちこちで起きていることなので、全く信じられない話でもありません。
もちろん、そういった奇跡を体験する人は稀ですが、それでも祈りによって自分や身近な人の病が治ったという話はよく耳にします。
しかしながら、以下のような話を聞いて、皆さんは素直に信じることができるでしょうか。
新約聖書
マタイによる福音書 五千人に食べ物を与える 14ー14〜21
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。
群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。
「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい。」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。
弟子たちは、そのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。
「パン五つと魚二ひき」を五千人の人たちに配って食べさせたら、皆が満腹した上、食べきれずに残飯まで出たそうです。
果たしてこんなことがあり得るでしょうか。
まあ、あり得ないでしょうね。というか、いくら神様であっても、科学の法則に反して奇跡を起こすことなどできないはずです。なぜなら、その科学の法則を作ったのも神様なのですから。
ならば、この上の文章をどう読み解けばいいのか。
普通の人なら、この文章を解読するために、またしても「解説書」を手に取るかも知れません。
しかし、何度も言いますが、そんなことをしても全くの無駄です。むしろ、その「解説書」を読めば読むほど頭が混乱してくるだけでしょう。
では、どうすればいいのか。
「聖書」を読んでいて何かしら疑問が生じたら、同じ「聖書」を使って解き明かせばいいのです。
実際、聖書にはこう書かれてあります。
…………………
旧約聖書
イザヤ書 エドムの審判 34ー16
主の書に尋ね求め、読んでみよ。
これらのものに、ひとつも欠けるものはない。
雌も雄も、それぞれ対を見いださぬことはない。
それは、主の口が命じ主の霊が集めたものだからである。
…………………
神の言葉である「聖書」には、必ず「つれあい」があると書かれてあります。
つまり、聖書を読んでいて何か疑問が生じたら、その答えとなる言葉が聖書のどこかに必ず書かれてあるということですね。だから、聖書を詳しく読みなさいと言っているわけです。
実際、「キリストの復活」についても、私はあくまで聖書だけを使って解き明かしました。「人間には霊と肉がある」という聖書の言葉から解き明かしました。
また、つい先日も、聖書にはアダムとエバを「へび」が騙すシーンがあり、この「へび」は「悪魔」のことだと書きました(その記事がこちら)が、なぜこの「へび」が「悪魔」と言えるのかというと、聖書にこう書かれてあるからです。
「この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。」(ヨハネによる黙示録12章9節)
このように聖書には必ず「つれあい」となる言葉が出てきます。一つの言葉に対して、必ずその答えとなる言葉がどこかに書かれてあるのです。
その「つれあい」となる言葉をきちんと見つけ出すことができれば、聖書を矛盾なく、理路整然と、そして科学の法則にも反することなく解き明かすことができるということなのです。
それでは、実際にこの法則を使って、イエスが五千人にパンを分け与えたという文章の謎を解き明かしてみましょう。
実は聖書の別の箇所にはこのようなことが書かれてあります。
「イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」(ヨハネによる福音書6章35節)
ここでイエス・キリストは自分のことを「パン」と喩えています。しかし、実際にイエスのことを食べられるわけがありませんから、恐らくこれはイエス・キリストの語る「神の言葉」のことを言っているのでしょう。
つまりここに出てくる「パン」とは「神の言葉」だということです。実際、聖書にはこうあります。
「イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。 」(マタイによる福音書4章4節)
人は「パン」だけで生きるのではなく、「神の言葉」によって生きる、とあります。これをさらに正確に言うなら、人は「パン」によって「肉体」を生かし、「神の言葉」によって「霊体」を生かすということでしょう。
したがって、イエス・キリストが五千人に「パン」を与えたという奇跡も、実際に「パン」を与えたのではなく、「神の言葉」を与えたと解釈できるわけです。
なんとも単純な話ですよね。拍子抜けするほど単純な話です。
しかし、この世のクリスチャンの多くがこんな簡単なことも分からず、本当に五千人にパンを配ったと信じたり、この箇所を哲学的かつ難解に解釈したりしています。
聖書にはさらにこんなことも書かれてあります。
新約聖書
マタイによる福音書 ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種 16ー5〜12
弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい。」と言われた。弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ。」と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。
「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持ってこないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派のパン種に注意しなさい。」
そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。
イエス・キリストはこのように「パリサイ人とサドカイ人との教え」のことを「パリサイ人とサドカイ人とのパン種」と喩えています。「誰かの教え」を「パン種」と喩えたわけですね。
ですから、どこからどう見ても、イエス・キリストが五千人に「パン」を分け与えたという奇跡は、「パン」を分け与えたのではなく「神の教え」を分け与えたのだと考えられるわけです。
そして、聖書に書かれてある奇跡は、これと同じく、そのほとんどが「喩え話」であると考えるべきでしょう。
実際、イエス・キリストは別の箇所でこう語っています。
「わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう。」(ヨハネによる福音書16章25節)
このように、イエス・キリストは全てのことを「比喩」で語ったと言っています。ということは、イエス・キリストの弟子たちも「聖書」を書く際には、イエス・キリストに倣って「比喩」を用いたに違いありません。ですから、「聖書」のほとんど全てが「比喩」で書かれてあると考えるべきなのです。
ある意味、これは「神の言葉」を分かる人にしか分からないように封印しておいたとも言えます。
つまり、日頃から神様にお祈りして、善良に生きている人でなければ、「聖書」の言葉を悟れず、「聖書」の封印を解くことができないようにしておいたということです。
したがって、聖書を読んでアンチ・キリストになるような人は、普段から悪魔に近い生活をしているということを自ら立証しているようなものだということですね。
聖書を読んだのに何も悟れず、何の感動も受けられず、イエス・キリストや聖書の悪口を言うような人は、例えその人が工作員であろうとなかろうと、その人たちはみんな悪魔のような心を持っているということです。
なので、そういう人がいくらこのブログに来て「陰謀論」を学んだとしても、ただ政治家の悪口、財閥家の悪口を言って終わりになるだけでしょう。
そういう人がこの世の中を変えていくことは絶対にできませんし、むしろ彼らが何か行動を起こせば起こすほど、逆に世の中がおかしくなってしまうかも知れません。
その人が悪魔崇拝者でなかろうと、悪魔と同じ心を持っているわけですからね。というか、そういう人は最初からこの世を変えようという気すら持っていないのではないでしょうか。
しかし、逆に言うと、聖書を読んで深い悟りを得られる人は、普段からそれだけ神様に近い心を持っているという証拠だと言えます。
いずれにせよ、「聖書」の中に何かしら非現実的な話が出てきたら、「聖書」を使って解釈しなければいけないということを肝に銘じておいてください。安易に「解説書」など手に取ってはいけません。
そうしてこそ、我々は悪魔から騙されることなく「聖書」を正しく解釈し、「聖書」から多くの悟りを得て、人生を平和に幸せに生きられるようになるのです。
いかがでしたでしょうか。
聖書の真実を知ることで、神様が遺してきた大切な言葉への理解が、より深まりますね。聖書を読みますと、ほとんどが比喩で語られていることがわかります。キリスト教にあまりふれてこなかった人は、聖書は難しいもの、縁のないものと思って手に取ることがなかったでしょう。
しかし、少しずつ読みすすめますと、気付くことがあります。
大げさかもしれませんが、悟りが得られていく機会が増えるのです。
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神様の御言葉に、ふれてみませんか。