賛美歌特集

皆さん、こんにちは。

神様に感謝を伝え、喜んでいただくことの一つに、賛美歌があります。

賛美歌を歌うことで、神様の愛を受けて満たされるのです。

誰しも、歌によってふと励まされたり、頑張ろうと思えたり、慰められたりした経験があるのではないでしょうか。

歌の力によって、神様と繋がることができるのです。

今回は、NANAさんの歌をご紹介したいと思います。

それから、こちらの記事を転載しますので、ぜひお読みください!

人間一人一人には大きな価値がある。

人間一人一人には大きな価値があります。  

単なるきれい事として話しているのではなく、実際に人間には誰しも大きな値打ちがあるのです。

しかし、どんなに高価なダイヤモンドも原石のままでは何の値打ちもないように、人間もまた磨かれ削られなければその真の価値を発揮することはできません。

かつて人々の多くは一部の権力者たちに奴隷のように扱われ、それこそモノや道具として利用されていました。しかし、文明の発展とともに人類は一人一人が自分の可能性を見出すようになり、ただ誰かに命じられるままにロボットのように働くのではなく、自分の頭で考えて自分の個性にあった生き方を見付けて生きるようになってきました。

しかし、社会全体がそのように変わったとしてても、一人一人が自覚をもってそのような生き方をしなければ、場合によっては相変わらず奴隷のように生きていくしかありません。誰かの言いなりになって、誰かに言われた通りにしかできないロボットのような人生を生きていくしかないのです。将来に夢や希望を持たずに生きるというのは、結局のところ、このようにロボットのように生きるのと何の変わりもないということです。

給料も沢山もらえて、自分の欲しいものが幾らでも手に入る時代には、誰かのいいなりになって働いたとしても、奴隷のように生きているという自覚はほとんど誰も持っていなかったと思います。しかし、現在のように景気が冷え込み、一人一人の給料も減り、どんなに働いても自分の欲しいものが手に入りにくいという時代になってくると、誰かのいいなりになって働いてばかりいるのは辛く感じられ、無理やり働かせているという感覚が強くなり、まるで奴隷のようだと自覚せざるを得なくなってきているのではないでしょうか。

ただし、団塊の世代にはこのような感覚をもった人はきわめて少なく、むしろ仕事そのものにやりがいを感じている人たちが多いように思います。彼らは仕事があって働けるということに喜びを感じ、生き甲斐を感じているのです。私も会社を経営しているので何人かの人たちを雇っていますが、団塊世代の人たちは何か仕事を任せられるととても嬉しそうに仕事をします。しかし、若い人たちは決してそうではありません。彼らは自分がやりたくない仕事はどんなに任されても常に嫌そうな顔をします。

最近の若者たちは仕事がないのに仕事を選びたがる、とよく言われますが、恐らく彼らは誰かの言いなりになって働くことに余り喜びを感じられないのだと思います。大人たちはそんな若者たちのことを一括りに怠け者だといって悪評したがりますが、考えようによっては、彼らは自分の人間性に目覚め、奴隷のように生きることなく、もっと価値ある生き方をしたいと無意識のうちに願っているのではないでしょうか。

ならば、本当に自らの価値性を高めるために、自分の将来に何らかの大きな夢を持ち、その夢を実現するために着実に努力してほしいと思うのですが、彼らの多くがなかなか重い腰が上がらないようです。

意欲が湧かない。モチベーションが続かない。努力の仕方が分からない。リスクをとるのが怖い。人それぞれ理由は違うのでしょうが、人間としての真の価値を発揮するためには、やはり各自が自分の能力を開発し、その能力を最大限に生かし、この世に還元していく、という生き方をするしかありません。そのような生き方をする若者たちが今後さらに増えていくことを強く願うばかりです。

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あなたが本当に知るべきことはあなたが知りたいと思っていることと異なっている。

私は今や新聞やテレビは全く見ません。 新聞もテレビも本当のことを報道しないからです。

情報は全てネットから得ています。そして、興味を持ったニュースや言説などがあれば、それについて詳しくネットを検索して調べていきます。分からないことがあれば、それもまたネットを検索して詳細に調べていきます。そうすると、自分が今まで見たことも聞いたこともない知識に触れたり、考え方に触れたりして、激しい衝撃や感銘を受けることがあります。そういう意味で、ネットはまさに知識の海のようなものだと私は思います。

とはいえ、ネットというのは新聞やテレビと違って、自ら検索して調べていかなければ、何の知識にも触れることができません。前もって自分がある程度の知識を持っていなければ、それ以上の知識を増やしていくことができないのです。

ですから、もとから余り知識を持っていない人にインターネットを与えても猫に小判みたいなもので、ネットという知の海を有効に活用することができません。まさに井の中の蛙のようなもので、自分の知っている範囲以上の知識をネットからすくいあげることができないのです。それに、もともと知識のない人というのは、何か新しいことを知る喜びというものを感じた経験がなく、知的好奇心があまり旺盛ではないのかも知れません。そういう人はネットを通して何かを知ろうという行動すら最初から起こさないかも知れません。

しかし、知的好奇心が旺盛で、ネットをうまく活用しているような人でも、その大半が無意味な情報ばかりをすくいとり、無意味な言説や言論の渦の中にはまりこんでいく場合がほとんどだと思います。どうでもいい知識を得て興奮したり感動したり、あるいは憤慨したり不安になったりして無駄な時間を過ごしてはいないでしょうか。さらには同じ知識をもった人たち同士で無駄な議論をかわして、不毛な結論を得て終わりになってはいないでしょうか。

例えばあなたは今、お金を稼ぎたいと思っているとします。そして、ネットをざっと検索し、お金持ちになれる方法が書かれたサイトをいくつも見付け出します。あなたはそのサイトを見て、次から次へと新たな知識に触れ、興奮し、驚き、希望を抱き、かつ自分にもできるかなと心配になり……という感じで時間を過ごします。ときには、自分と同じ悩みや考えをもった人とネット上で交流したりもするかも知れません。

そうこうしているうちに、あなたはなんとなく人生が充実していると感じるようになります。楽しい。ネットは素晴らしい。自分に素晴らしい知識を与えてくれる。そう思って、さらにネットの海に溺れていくようになります。しかし、そんなあなたのことをずっと傍で見ていた神様は、あるとき呆れたようにあなたにこう言います。

「あなたは今、癌を患っている。余命幾ばくもない。金を稼ごうとしても稼ぐ時間がないのだ。ならば、他にもっとやるべきことがあるのではないか」

あなたは自分が癌を患っており、本当にすべきことは先ずその癌を治療することだったのです。しかし、あなたはその事実を知らず、自分が長く生きられると思い込んだまま、お金を稼ぐことばかりに夢中になっていたということです。つまり、あなたは本当に知るべきことを知らず、知ろうとせず、無駄な時間を使っていたということです。

あなたがいま本当に知るべきこととは、あなたが知りたいと思っていることとは異なっている……かも知れない。今の自分がそのような状態に陥っていないかどうか客観的に分析し、今の自分が本当に知るべきことに時間を使うべきです。

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皆さんに、神様からの祝福がありますように。

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